第355話「鐘の後の拠点」
夜。
拠点地上部。
影が動いたという鐘が鳴った後、拠点の空気は変わっていた。
パニックではない。ただ、緊張が薄く広がっている。補修班が手を止めた。見張り班が態勢を整えた。配給班が動きを遅くした。それだけだった。誰も叫ばない。誰も走らない。この区域が三か月かけて積み上げてきた、静かな落ち着きがそこにあった。鐘一回の意味を、ここの人間は皆知っている。影が動いた。だが近づいていない。だから今すぐ逃げる必要はない。それを理解したうえで、それぞれが自分の判断で動いていた。誰に命じられるわけでもなく、自然にそうなっていた。
黒崎恒一が各班を回っていた。補修班。見張り班。配給班。医療班。一か所ずつ顔を出して、状況を確認する。「変わりないか」と聞く。それだけだった。各班は既に動いている。外から命令されなくても、自分たちで判断して動ける。それがこの区域の人間たちだった。恒一はそれを確かめながら歩いていた。
美月は子どもたちの区画にいた。
鐘が鳴ったとき、子どもたちは不安そうな顔をした。
美月は順番に顔を見て言った。
「大丈夫だよ」
静かな声で。
言いながら、自分自身にも言い聞かせていた。
老人が話し始める。いつもの話だった。何年も前の、何度も聞いた話だった。だが子どもたちは聞く。笑い声が上がる。美月は窓を見る。白影はまだある。悠真たちはまだ地下にいる。だがこの笑い声は続いていた。世界の重さとは別のところで、生活は息をしていた。それで今夜は十分だと思った。




