第141話 「蒼月撤退線」
北海道。
蒼月区域。
吹雪の中を、人影が走っていた。
逃げている。
いや。
“下がらされている”。
「急いで!」
雪那が叫ぶ。
前。
横。
後ろ。
どこから来るか分からない。
黒い群れ。
未分類個体とは違う。
位置変動じゃない。
“侵食してくる”。
空間ごと。
距離感が狂う。
「右!!」
誰かが叫ぶ。
その瞬間。
一人の兵士が消えた。
悲鳴もない。
血もない。
ただ。
“存在だけ”が抜け落ちる。
沈黙。
誰も振り返れない。
その余裕がない。
「……なんなんだよ!」
若い兵士が叫ぶ。
恐怖で声が裏返っている。
無理もない。
銃が効かない。
壁も意味がない。
数だけが増えていく。
その時。
雪那が気づく。
「……囲われてる」
短く。
その一言で空気が変わる。
進行方向。
逃げ道。
全部。
“誘導されている”。
「……まずい」
完全に理解した。
これは追撃じゃない。
“追い込み”。
その時。
前方の雪面が揺れる。
黒い裂け目。
地面の下から、また群れが出る。
「っ……!」
全員が止まる。
前後を塞がれる。
逃げ道がない。
その時。
一人の兵士が前へ出た。
震えている。
だが。
銃を構える。
「……時間稼ぐ!」
叫ぶ。
その声に、誰かが言う。
「無理だ!」
だが。
兵士は下がらない。
その瞬間。
黒い群れが動く。
速い。
次の瞬間には、目の前。
兵士が撃つ。
銃声。
だが。
抜ける。
効かない。
その時。
雪那が動く。
「下がって!」
横から引き飛ばす。
直後。
兵士がいた場所が消える。
雪ごと。
空気ごと。
何も残らない。
「……っ」
全員の呼吸が止まる。
今のは。
“触れた”だけだ。
その時。
通信が鳴る。
ノイズ混じり。
『――こちら神城』
『生存者数を報告しろ』
冷静な声。
雪那が即答する。
「減少中!」
「撤退継続!」
短く。
その時。
通信の向こうが静かになる。
そして。
『……了解』
『生存優先へ変更』
その言葉。
全員が止まる。
つまり。
“地域放棄”。
蒼月区域の一部を切る。
その判断。
重い。
「……マジかよ」
誰かが呟く。
だが。
雪那は理解していた。
仕方ない。
今は勝てない。
その時。
遠く。
吹雪の奥。
また巨大な影が見える。
人型。
だが。
大きすぎる。
輪郭が崩れている。
そして。
見ている。
こちらを。
その瞬間。
全員の背筋が凍る。
「あれ……」
誰かが震えた声で言う。
「……魔王か?」
答えられる者はいない。
だが。
雪那だけは分かっていた。
違う。
まだ違う。
これは。
“前段階”。
その時。
巨大な影の周囲で。
黒い群れが静かに膝をつく。
まるで。
王を見るように。
その光景。
誰も言葉を出せない。
そして。
巨大な影が。
ほんの少しだけ動く。
その瞬間。
空間全体が揺れた。
雪。
地面。
空。
全部。
「走って!!」
雪那が叫ぶ。
全員が再び走り出す。
逃げる。
生きるために。
その背後で。
北海道が少しずつ飲まれていく。
静かに。
確実に。
まるで。
世界そのものが侵食されるように。
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