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黒髪メイドは裏切らない【第一部完結】  作者: きのつかさ
第一部「フランベルク編」
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第五話「リコ」

「3年前とは逆の立場になりましたね。」


 銀髪の青年がシエルに優しく微笑みかけた。

 ここはマルティーニ商会の一室だ。

 辻馬車に轢かれかけたシエルは、この商会の主、リコ・マルティーニに助けられたのだ。リコは南部出身の商人で、シエルとは3年前からの知り合いだった。当時は無一文の彼だったが、今ではカナールでも有数の商人で、その端正な顔立ちとあいまって、多くの女性の憧れの的となっている。

 だがシエルにとって彼は、あくまでラフォンテーヌ家の大切な取引相手だった。昔から親切にしてもらってはいるが、特別な感情を持つには立場が違いすぎた。


「ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません。」


 顔を上げることもできないまま、シエルは膝に置いた眼鏡を見ていた。レンズにヒビが入っている。エレーヌ様に頂いた大切な品だったのに。修理するのにどれだけ銀貨がかかるだろうか?

 悲嘆に暮れるシエルに、リコが大仰に声をかけた。


「迷惑だなんてとんでもない。貴女は僕の命の恩人なのですよ?3年前商売に失敗し、僕はエルヌ川に身を投げ入れた。それを命がけで助けてくれたのは、貴女ではないですか?」


 そんなこともあったな。シエルはぼんやりと思い出した。

 だが、勢い込んで飛び込んではみたものの、シエルの一人の力では成人男性を助けるのは無理だった。大声で「死なないでください」と叫んでいるうちに、二人を助けてくれたのは、通りがかった船乗り達だ。屋敷に帰ってからはエレーヌに、無茶をしたことを大層怒られた。


「しかも貴女はその後、僕に人生をやり直す機会まで与えてくれた。今僕がこんな商館を構えられているのは、全部貴女のおかげなんですよ、シエル。」


「あれは、アルマン様のお力です。私はお話をしただけで、何も……」


 王都カナールでの商売はいつも厳しい競争に晒されている。新参者が商売を始めるのは困難だ。だがあの時は、北部の交易を任せていた商人が魔物に襲われて亡くなっていた。代わりを探していたアルマンにリコを紹介したのはたしかにシエルだ。アルマンはリコと少し話すと、彼に商才を試すと言った。


 だから、そこからはリコの力だ。

 リコが目をつけたのは北に向かう泥炭船だった。北部からカナール湖に流れ込むエルヌ川は運送の要だった。しかし、上流である北に向かうには馬で船を引かないといけない。当然、馬車での移動より遅くなる。だがリコはそんな泥炭船を中心に、旅人や商人を集めて隊商(キャラバン)を組むことを提案した。

 最初は皆に笑われた。好き好んで時間のかかる泥炭船に同行する者など居るわけがないと。

 だが、始めてみると予想に反して需要は大きかった。カナールからベルンシュタインまでの街道は、東の三日月から魔物が出る。キャラバンを組むことで、魔物に襲われる危険を減らし、さらに馬を交代させながら船を引くことで、泥炭船をずっと早く上流に進めることができた。

 やがて商人だけではなく、護衛を雇うことができない旅人もキャラバンに同行するようになった。今では北へ大勢で移動する泥炭船のキャラバンは、この時期の風物詩となっている。


「おまえたち商人は何よりも時間を大切にすると思っていたが、何故このようなことを思いついた。」


 正式にリコと契約を結ぶ時にアルマンがそう問うと、リコは微笑んで答えたという。


「確かに時は金なりといいます。だけど命は、金よりも大切ですから。僕はそれを、ある女性に教わったんです。」


 懐かしい話だ。

 アルマンはいつもの無愛想な顔で「よい商人を紹介してくれた」と、シエルに礼を言った。


「ねえ、シエル。提案があります。」


 思い出に耽っていると、リコが向かいのソファーに腰を下ろす気配がした。提案とはなんだろう?

 彼は自分がラフォンテーヌ家を解雇になったことを知っているのだろうか?いや、あんな噂が広まっているくらいだ。情報通の彼が知らない訳がない。

 身体がぶるりと震えた。リコにも、いやらしい女だと思われてしまったのかもしれない。


「僕と、結婚してくれませんか?」


(え?)


 驚いてリコを見た。思考が追いつかない。

 

「やっと、顔を上げてくれましたね」


 そうリコは微笑んだ。

 綺麗な顔だ。リネットが見たら黄色い悲鳴を上げていただろう。南国特有の銀髪は長く後ろに流され、一つに束ねられている。 その表情は穏やかで、シエルは張りつめていた糸がゆっくりと緩んでいくのを感じた。


「貴女が今どんな目に遭っているか、僕は想像でしか語れません。だからそれを貴女に話せとは言いません。でも、我慢強い貴女がそんな顔をするほどだ。それはきっと、とても辛いことだったのでしょう?」


 瞳からすっと、何かが流れ頬を伝うのが分かった。

 膝にぽたぽたと、液体が落ちる。


(そうか。私は辛かったんだ)


 いわれのない罪を着せられ。不条理に職を失い。

 それでも誰にも迷惑をかけないように手を尽くした。

 それが母に教えられた忠義だから。

 皆、シエルを惜しんでくれた。怒ってくれた。泣いてくれた。

 しかし、彼らは今ここにいない。

 シエルはずっと誰かのために生きてきた。誰かの幸せを一番に考えてきた。だけど、自分の幸せについては考えてこなかった。だから……。

 

 一度流れ出した感情は、堰を切ったように止まらなかった。涙がとめどなく流れる。嗚咽が溢れる。リコが優しく肩に手を置いてくれた。シエルを怖がらせないように、だけど一人にはしないように。ありがたかった。頼りにしたかった。

 しかし、投げつけられた悪意の言葉がシエルを縛る。


「マルティーニ様、駄目です。私は貴方様とは一緒になれません。」


「何故?」


 そこに咎めるような響きはなかった。だから、シエルは正直に話した。


「私は、貴族を誘惑した女だと噂されています。この上、マルティーニ様と結婚すれば、それ見たことか、そう言われるでしょう。そうなれば貴方様の名誉にも傷がつきます。」


 リコが顎に指を当てた。考えごとをする時の癖だ。それが分かるくらいには、彼との付き合いは長かった。リコはなんと言うだろうか。

 

『そんなことは気にしません。噂なんて、長くは続きませんよ』


 彼なら言いかねない。そう思った。だけどそれに甘えては駄目なのだ。「恩を受けた方に仇を返してはいならない」それが母の教えだ。

 だが、リコはシエルが予想もしないことを言い出した。


「それなら、別人になってしまっては、どうです?」


「別……人?」


 シエルは目を白黒させた。眼鏡のないぼやけた視界では、リコの表情は読み取れない。


「貴女の本当の髪の色は金でしたよね。太陽のような黄金色(こがねいろ)。」


 彼を助けに川に飛び込んだ時に、シエルの髪の色はリコに知られていた。


「眼鏡を外して髪をほどいて、金髪になってしまえば、貴女がシエルだと分かる者はほとんどいないでしょう。もちろん名前は変えないといけませんが……そうですね。アリアという名前はどうでしょう?アリア・マルティーニ。素敵な名前だと、思いませんか?」


 ……それなら。


(確かにそれなら、私はやり直せる)


 新しい名前。新しい家。隣には優しく見目麗しい夫。

 家で洗濯や掃除をしてリコを待つ。買い物をして、食事を作る。彼は私の料理を褒めてくれるだろうか?やがて子供ができ、家族として幸せを育んでいく。皆で過ごす、団欒の時間。

 それは幼い頃に夢見た憧れだった。まだ母に、髪を染めることを命じられる前。自分がどこかのお姫様かもしれないと、夢想していた頃の幻想。

 だけど、だけどだ。

 シエルはスカートをギュッと掴んだ。ラフォンテーヌ家から持ち出した、もうどこの家のものでもないメイド服。今のシエルに残された唯一の拠り所。

 

(私は、これを)


 シエルはリコを見た。リコは真剣な顔で、だけど穏やかな顔でシエルの返事を待っている。

 自分の気持ちを、偽りなく伝えなければならない。


「マルティーニ様、申し訳ありません。やはり、ご一緒にはなれません。私は、シエルであることを、捨てられません。」


 頑固なやつだ。

 頭の中のテオに笑われた気がした。

 人の見た目は簡単に変えることができる。あるいは名前や仕事だって。

 だけど生き方は、簡単には変えられなかった。

 その幸せを夢想したのは10歳のシエルだ。21歳のシエルが望んでいるものではなかった。リコはゆっくりとシエルに背を向けた。


「どうやらフラれてしまったみたいですね。結構自信はあったのですが。」


 芝居がかった調子でリコが言う。「今のは貴女を励ますためのお芝居だったんです。信じましたか?」今にもそう言い出しそうな雰囲気だ。

 だが、シエルは気づいてしまった。後ろから見える肩とその声が、少し震えていることに。


「それで、どうするつもりですか?」


 それを悟られまいとするかのようにリコが少し大きな声で聞いてくる。シエルは頭の中で謝罪しながら口を開いた。


「北に、ベルンシュタインに行こうかと思います。」


 そんなことを言ってしまったのはテオの顔を思い出したからだろうか?

 ベルンシュタインは、テオの故郷である北部最大の都市だ。物流が集まる土地であり、琥珀酒という酒の産地でもある。


「なるほど。確かにあの街なら、貴女の噂も届かないでしょう。仕事にも事欠かない。」


 リコが振り返った。


「分かりました。それでは二つだけお願いをさせてください。言っておきますが貴女に拒否権はありません。何せ貴女は私に、恥をかかせた。」


 まったく怒りの感じられない口調でリコがそう言う。しかし、お願いとは、どこかで聞いた台詞だ。


「一つ。ベルンシュタインへは、マルティーニ商会の隊商(キャラバン)にご同行ください。私は行けませんが、道中の安全は保証します。」


 願ってもないことだ。リコは求婚を断ったシエルに、まだ心を尽くしてくれる。

 シエルは、お願いします、と素直に頷いた。


「そして、もう一つは……」


 リコがすっと歩み寄ってきた。しゃがみこみ、顔が寄せられる。近い。吐息が感じられるほどだ。眼鏡のないシエルでも、彼の長い睫毛が見て取れる。胸がどきりとする。


(いったい、何を?)


 リコはシエルの耳に口を寄せて、囁いた。


「この眼鏡は、僕に修理させてください。」


 シエルの手元から、するりと壊れた眼鏡が抜き取られる。

 リコはにこりと微笑んだ。


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