第三話「テオ」
「どういうことだ、シエル!」
シエルの小さな部屋に野太い声が響き渡る。入ってきたのは身長2mに近い大男だった。白いエプロンが赤く汚れている。きっと夕食に使う魚をさばいていたのだろう。もうあのエプロンを洗うこともないのだな。そう考えるとそれすらも、寂しく思えた。
「落ち着いて、テオ。」
「これが落ち着いていられるか!なんでお前がクビになるんだ!旦那様や奥様は何を……」
そこまで言って、シエルの横にいるのがエレーヌだとようやく気づいたようだ。はっとした表情で言葉を止める。
「奥様、テオと話をさせてもらえないでしょうか?」
固まってしまったテオの代わりにシエルがそう言うと、エレーヌはもちろんですと頷いた。リネットの背中を優しく抱きながら、廊下に出ていく。
扉がゆっくりと閉められた。部屋に沈黙が満ちる。
シエルはテオを見た。大きな背丈。太い腕。黒い髪は短く刈り込まれており、その威圧的な風貌とは裏腹に、瞳は不安げに揺れていた。
テオドールことテオは、初めてシエルが仕事を習った相手だ。
テオは元々北の大都市ベルンシュタイン出身の料理人だった。料理の腕を認められてラフォンテーヌ家に雇われ、この王都カナールにやってきたらしい。だが、不器用で仕事に厳しいテオはすぐに屋敷で孤立した。ジャガイモの皮の剥き方が粗いだの、洗い物が遅いだの。テオの下についたメイドはことごとく怒鳴られ、やがて腫れ物に触るように彼を扱うようになった。
そこでテオの下につけられたのが、13歳になったばかりのシエルだった。
「なんで俺がこんなガキのお守りをしないといけない。」
最初に会った時、テオはシエルにそう言い放った。その大声に肩がすくんだのを今でも覚えている。
それでも寄る辺のないシエルにとって、仕事を教えてもらえるかどうかは死活問題だった。シエルは母の教えを思い出した。どんな些細な仕事でも手を抜かず、丁寧に取り組んだ。朝早くから水を汲み、厨房を掃除した。野菜の皮むきは一つ一つ集中して、だけど遅すぎてもいけない。どんなに疲れていても洗い物は残さなかった。次の日にはすべきことがある。そんなシエルを見て、テオの対応も少しずつ変わっていった。
「これからはテオドールさんではなく、テオと呼べ。」
そう言われた時は、嬉しかった。初めて人に認められたと思った。
仕事の合間に、テオと世間話をするようになった。テオが「俺は字が読めない」と言うと、「私が代わりに読んであげます。」と胸を張った。イリスは生前、シエルに読み書きや算術を教えてくれていた。それが功を奏した。
あの頃は若かったな。十代だった自分を思い出す。テオに代わって厨房の帳簿を記帳するようになった。今考えると、家令に報告してからするべき案件だ。だけど、結局それがうまくいった。帳簿がたびたび合わずに、テオはラフォンテーヌ家の家令と揉めていたらしい。しかし、シエルが記帳を手伝いだしたことで、帳簿のずれが解消された。問題が解決してテオは、気兼ねなく料理ができるようになった。元々腕は確かだったのだ。彼の料理はすぐに貴族の間で評判になり、気がつけばラフォンテーヌ家に欠かせない人物になっていた。
だからだろう、テオがこんなにも怒っているのは。
「おまえが俺に居場所を与えてくれた。おまえが居なければ、きっと俺は解雇されていただろう。」
大真面目な顔をしてそんなことを言う。テオはシエルより12歳も年上だが、少し頑固で家族思いの、弟のように感じた。だから、シエルは思った。テオをなだめるのは、私の役割だと。
「テオ。私のために怒ってくれてありがとうございます。貴方には本当に感謝しています。魚のさばき方。お肉の焼き方。スープの作り方。貴方が教えてくれたことは、これから私の助けになると思います。」
「料理人にでもなる気か?」
テオの言葉にくすりと笑う。
「それもいいかもしれませんね。どこかの宿屋に雇われて、夕食を担当するんです。私が作った料理を食べてみんなが笑顔になる。それを見るのは、きっと素敵なことだと思います。」
「お前のような細腕で、宿屋の料理人が務まるものか。ああいった仕事は体力がいるんだ。1日で根を上げるに決まってる。」
「あら、私、これでも我慢強いんですよ。」
「知っているさ!」
そう、テオが叫んだ。大きな声だ。何度この声にどやされたか分からない。だけど今となっては、とても頼りになる声だ。
「なあシエル。本当にどうにもならないのか?俺から旦那様に頭を下げてもいい。この間の宴でも多くの貴族にお褒めの言葉をもらったんだ。俺が頼めば……」
「やめてください。」
シエルは悲しげに首を振った。
たぶんテオには、いくら説明しても納得してもらえないだろう。既に状況はそういうところにはない。ここ数年、シエルはエレーヌのお供をすることが増えていた。貴族の社会がそんなに単純ではないことは身に染みていた。シエルは悟っていた。
自分はこの屋敷にはもう、いてはいけないのだと。
「大丈夫ですよ。テオ。」
シエルはわざと明るい口調で言った。
「この屋敷をやめたからといって、別に死ぬわけではありません。奥様から当座の生活費も頂きましたし、すぐに新しい働き口も見つけます。住む場所が決まったら手紙も書きましょう。そうなれば、また会えます。」
「俺は手紙を書けない。」
その言葉にくすりと笑う。
「じゃあ、読み書きの練習もしてください。リネットに引き継ぎは頼みましたが、あんまり彼女を困らせないように。」
どちらが年上なのか分からないような口調で、シエルはそう言った。
テオは頭を左右に振った。大きな身体がそれに合わせて揺れる。
シエルはそれを黙って見つめた。
やがて、テオが諦めたかのように声を上げた。
「シエル。俺はカナール一の料理人になるよ。おまえが俺の料理を、食べに来たくなるような。」
テオはきっとまだ納得していないのだろう。彼の瞳がそう言っていた。どうして出ていくのか理解できない。だけどそれでも、彼は全てを飲み込んで、シエルを送り出そうとしてくれていた。シエルが決めたのならば、もう仕方がないと。
「それは、楽しみですね。」
そう言って二人は笑い合った。
その姿は、仲のいい兄妹のようであった。
【名前について】
北部はドイツ語風、中央はフランス語風、南部はイタリア語風の名前をつけていますが、これはあくまで、異世界の言葉を翻訳するとそのように聞こえるもの、とお考えください。




