第十話「掃除」
次の日の朝、シエルは日の出とともに目を覚ました。。
フランベルク卿に案内された部屋は広くはないが、ベッドと暖かな布団が置かれており、旅の疲れを癒すことができた。もっとも埃があちこちに溜まっていたので、軽く掃除は必要だったが。
部屋を出て顔を洗うために水場を目指す。たしか、中庭に井戸があったはずだ。昨夜も雪が降ったようで庭を歩くと、しゃりしゃりと音がした。その感触を楽しみながら中庭を進むと、テントの横で赤毛の青年が、素振りをしていた。
抜き身の剣が朝日に照らされて鈍く光っている。その剣はあまりに速く、シエルには目で追うことができなかった。剣を振りかぶったかと思ったら、次の瞬間には別の場所にいる。いつ踏み込んだのか。雪に残る足跡だけが、彼がどこを通ったのかをシエルに教えてくれた。
「ああ。おはようございます。シエルさん。」
青年、いやフランベルク卿が、シエルに気づいてそう言った。我に返る。思わず見惚れてしまったみたいだ。
「おはようございます、フランベルク卿。井戸をお借りしたいのですが、よろしいでしょうか?」
丁寧に頭を下げたシエルに、フランベルク卿は少しくすぐったそうな顔をした。
「館の物は自由に使ってもらっていいですよ。貴女は客人ですから。」
「いえ、そういう理由には……」
シエルがそう言いかけたところで、蹄の音が遠くから聞こえてきた。それはどんどんと近づいてくる。
ゆらっと。フランベルク卿が一回り大きくなったように見えた。あどけない青年ではない。たぶんそれは、騎士としての姿。
「シエルさん、すみません。どうやら仕事みたいです。」
「え、それは?」
館の前に馬が止まったようだ。馬のいななきが聞こえた。フランベルク卿はテントから、荷物を取り出す。剣帯を締めて黒い外套を羽織った。
「近隣に魔物が出たのだと思います。たぶん帰るのは遅くなると思いますので、先ほども言った通り、館の物は自由に使ってください。」
それだけ告げると、フランベルク卿は疾風のように門の方に駆け出した。
◇
フランベルク家の館は大きく3つに分かれていた。2階建ての中央棟には1階に食堂と応接室があり、2階はおそらく領主の部屋だろう。そして平屋の西棟には厨房と部屋が1つ。亡くなったという家令の部屋にみえた。中央棟を挟んで反対側の東棟には3つの部屋が並ぶ。こちらは客間だろうか?最も中央棟に近い部屋は、シエルが昨晩泊まった部屋だ。
「よし。」
シエルはメイド服に身を包み、気合を入れた。足元にはバケツと雑巾、そして箒だ。何はなくとも掃除だった。この2か月の間、館はほとんど手入れされていなかったみたいだ。埃があちこちに溜まり、部屋によっては蜘蛛の巣が張っていた。
道具は西棟の物置にすべて揃っていた。井戸から水を汲むと西棟の厨房から掃除を始めた。
まずは竈から古い灰をかき出す。これは掃除や肥料にも使えるから捨てずに壺に移した。
次に水瓶の古い水を捨て、新しいものに取り換える。幸いひび等は入っていない。そのまま使える。
床や壁を拭き上げた後は、棚の中を確認した。塩壺や香辛料は問題ない。そのまま使える。食材はほとんどが駄目になっていた。塩漬け肉は食べられそうな気がしないでもなかったが、念のため処分した。テオから悪くなった食材の怖さは何度も教えられていた。フランベルク卿が帰って来たら、理由をしっかりと説明しよう。
次は鍋や食器だ。亡くなった家令は几帳面な人だったようだ。洗い残しなどはなく、どれも綺麗だ。一度軽く洗えばすぐに使えるだろう。
結局、厨房の片付けには午前中いっぱいかかった。だが、おかげで調理できる環境は整った。旅の間保存食として持ち歩いていた豆と干し肉でスープを作る。本当は葉物が欲しかったが、贅沢はいえない。明日、余裕があったら探しに行ってみよう。フランベルク卿がそろそろ帰ってくるかと思ったがその気配はなかった。自分の分だけよそって食べる。温かなスープと適度な塩味は身体に活力を与えてくれる。残りは鍋に残した。この寒さだ、今日一日くらいは悪くならないだろう。
午後からは自分が泊まった客室と、食堂、応接室を掃除する。2階はさすがに足を踏み入れるには気が引けた。まずは箒で埃を払い、あとは丁寧に水拭きした。経験したことのない、刺すような冷たい水に肌が赤くなる。だが、これくらいのことで負けてはいられなかった。我慢強さと実直さが自分の唯一の取り柄だ。ここでそれを活かさなくてどうする。
メイド服が埃だらけになる度に、館は綺麗になっていった。少しずつ、本来の姿が取り戻されていく。達成感に胸が満たされていく。久しく、忘れていた感覚だ。
(ああ、私は今、メイドとして生きている)
最後に応接室の掃除を終えると、シエルはほっと一息ついた。室内には暖炉があり、木彫りの人形が並べられていた。暖炉に火を入れる。心地よい疲労感がシエルを襲う。耐えきれずシエルはソファーに腰を下ろした。
あれは何が彫られているのだろう?兎?猪?
(次はどこを掃除しよう)
人形を見ながらそんなことを考えているうちに、シエルの意識は少しずつ遠くなっていった。
◇
「シエルさん。シエルさん。」
肩が揺さぶられていた。この声は誰だろう?どこかで聞いたことがあるような……。
テオの野太い声でもない。リコの穏やかな声とも違う。
「んっ……」
身体を起こし、目を開けると目の前には、特徴的な赤毛が見えた。
「あ、私。」
急速に意識が覚醒した。どうやら居眠りをしていたらしい。目の前にはフランベルク卿の慌てたような顔があった。その近さに、少しどきりとする。シエルは慌てて立ち上がった。
「ごめんなさい。フランベルク卿、私、寝てしまったみたいで。」
こんなことは初めての経験だ。ラフォンテーヌ家では到底許されないことだ。卿はさぞかし怒っているだろう。そう思い彼を見る。
「いや、疲れていたのでしょう。それはいいのですが、あの……貴女は何をしたのです?」
質問の意味が分からず、目をぱちくりさせた。何かまずいことをしただろうか。もしかして、勝手に食材を処分したことだろうか?
「部屋が綺麗になっている。いったい、どんな魔法を使ったんです!?」
「はい?」
「俺が朝家を出てから、半日ちょっとしか経っていないのですよ。それなのに、厨房も、食堂も、この応接室も、爺やが生きていた時のようにピカピカになっている。貴女はもしかして、魔法使いなのですか?」
フランベルク卿の話す内容をシエルはぽかんとして聞いていた。やがて、意味が分かると、くすくすと、笑いが込み上げてきた。それは発作のようにシエルを襲った。
「あははははははっ。」
「シエルさん?」
「あははっ。ごめんなさい。フランベルク卿。だけど、おかしくって。あはははっ。」
一度ツボに入った笑いはなかなか収まらなかった。呆気にとられたフランベルク卿の顔がさらにそれを加速させた。こんなに笑ったのはいつぶりだろうか?いやきっと、生まれて初めてだ。
「ごめん、なさい。こんなに笑ってしまって。あの……。」
眼鏡を外して涙をぬぐいながら、シエルは言った。
「厨房にスープもありますけど、召し上がりますか?」
赤毛の青年はそれを聞いて目を見開いて驚いた。シエルの笑いが止まるのは、もう少し先になりそうだった。




