第三章 34:ファルク・ナディール
無人の国境検問所を、一行は通り抜ける。
国境に隣接する都市国家エルザハは、マリオール王国とは友好関係を結んでいる。それがたとえ市民感情を反映していない、表面的なことであってもだ。魔物騒ぎ以前から、検問所には兵士は常駐していない。
「不思議ね。空気の匂いまで変わった気がするわ」
街道の先を眺めながら、感慨深くパティアが呟いた。
ウィヴロス渓谷を抜けて、平原が広がる。見渡す限り、高い建物は見当たらない。
「街までは遠いの?」
問うルナに、パティアはわざとらしく肩を竦めて見せた。
「徒歩で国境を越えたことがないから。まあ、ここから見える限りは遠そうね」
「随分、いい加減だこと」
ルナはため息を吐きながら、目を細くして遠くの方を見やった。
平原をしばらく進むと、次第に草原から剥き出しの大地へと変わる。他に何も見えない。北に延びる、踏み鳴らされた街道だけが目印だ。太陽も、だいぶ西の方角へ傾きはじめていた。
日差しも柔らかくなってきた頃、街道を横切る川が見えてきた。架けられた木製の橋を渡ると、周辺の景色が一変した。
遠くに、果樹園や田畑が見える。ようやく人間の生活感が辺りに現れてきた。
人の姿も見えた。パティアが小走りで駆け寄る。
二言三言、会話を交わすと、パティアはまた同じように小走りで戻って来た。
「こっちよ。もう近いって」
日が沈みかけて、辺りが橙色に染まりはじめた頃に、ようやく街が見えてきた。城壁は見えないが、周囲をぐるりと植林された木々で囲んだ、大きな街だ。街の西側には、海岸線も見える。
緊張した面持ちで、ロミが街の方向を見つめる。
「大丈夫。急ぎましょう。日が暮れる前に」
ルナは隣のロミに声を掛けると、そっと彼の肩に触れた。
パティアが市民に声を掛けて回るが、皆が首を横に振る。
何人目だろうか、髭面の男性がにこりと口角を優しく吊り上げた。
「ブロム商会? ああ、分かるよ。この通りの先だ」
ようやくパティアはほっと胸を撫で下ろして、ルナたちの方に手を振った。
男性に礼を言って、言われたように通りを先へ進んだ。とある建物の二階の軒先に、見知った意匠が刻まれた看板が吊るされているのを見つける。膨らんだ革袋に弓が重ねられた、ブロム商会の意匠だ。
「あ、あれね」と、パティアが看板を指さした。
建物の前には、複数の人の姿があった。
ひと際、目を惹くのが、赤髪の女性だった。軽装だが鎧を身に着けて、金色の糸で刺繍が施された真っ赤なマントを羽織っている。背丈はそれほど大きくないが、薄暗い街通りの中で、異様な存在感を放っていた。
見送りなのか、彼女に相対している小太りの中年男性が、へこへこと何度も頭を下げていた。赤髪の女性は従えた三人の兵士と共に、建物を後にする。
ブロム商会へと向かうパティアたち三人と、赤髪の女性たちの一行とがすれ違う。
女性が、ちらりと三人を一瞥する。その視線がパティアに向けられた時に、一瞬だけ戸惑ったように揺れた。しかし、彼女は小さく首を横に振ると、視線を真正面に戻した。
「ねえ、ちょっと」
建物の中に戻ろうとしていた小太りの男性に、パティアが声を掛けた。
男性は手を止めて、怪訝そうに振り返る。
「…なんでしょうか」
「あなた、ブロム商会の人?」
問うパティアに、男性は面倒臭そうな視線を向けた。
「そうですが。何か御用でも?」
パティアは取り出した封書を、男性に向かって差し出す。
「メルリネス・ブロムからよ」
「メルリネス…?」
男性は封書を受け取ると、人差し指を突っ込んで器用に封を剥がす。
手紙を読み始めた男性の目が、みるみるうちに見開かれた。そして、改めて目の前の金髪の女性を、驚愕の面持ちで凝視した。
「ま、まさか、パティア様…!」
思わず発してしまった自らの大声に、男性は慌てて口を押さえた。
男性の戸惑ったような目が、パティアの肩越しに、その背後へと向けられた。その視線の先では、振り返った赤髪の女性が、パティアたちの方を凝視していた。
女性が早足で、建物の方へ引き返してくる。
男性の視線が、赤髪の女性とパティアとの間で激しく動く。パティアもそれに気付いて、おもむろに振り返った。
女性は真っ直ぐにパティアに向かって来る。そして、パティアの前で立ち止まると、見定めるように足元から視線を這わせる。
「パティア――。パティア・マリオールか」
身構えようとするルナを、パティアが手で制する。
「そうです。私は、パティア・セレスティア・マリオール。――あなたは?」
パティアの名乗りを聞いて、女性の口元が笑みで歪む。
一歩、彼女は下がると、深紅のマントを払って深々と頭を下げた。
「アインフェルト辺境伯から聞いて、お待ち申しておりました」
そして、顔を上げると、女性は自身の胸元に手を当てる。目を伏せながら、小さく頭を下げた。
「ご挨拶が遅くなりました。ファルク・ナディールと申します」
顔を上げた彼女は、長いまつ毛の奥の茶色の瞳でパティアを見据えた。




