第三章 33:おいで?
頬に押し付けた地面の固さを感じて、パティアは目を覚ました。
焚き木の燻ったような匂いがわずかに漂う。もう火が消えて、だいぶ経ったようだ。パティアは両腕でぎゅっと、自身の体を抱き締めた。
そこには、先ほどまで腕の中に感じていた、か細い体の感覚が仄かに残っていた。ちょっとした喪失感に気付いて、彼女ははっと体を起こす。
「…ルナ?」
パティアは銀色の髪の少女の名前を呟く。
周囲はすでに明るかった。木々の合間から差し込んでくる陽光が眩しい。
その時、何処からか草を踏む足音がした。パティアは咄嗟に、音のする方向へ振り向いた。
何かが目の前に飛んでくる。反射的に、それを受け取った。
それは、皮の水筒だった。
「やっと目が覚めたの」
ルナが顎を上げて、パティアを見やる。パティアが手にした水筒から、ひんやりとした冷気が伝わってくる。
「喉乾いてるでしょ」
陽光を避けるように、ルナは木の幹を背凭れにしてその木陰に腰を下ろす。
「いつも寝坊してるのに、今朝は早いのね」
そう言いながら、パティアが水筒の栓を抜く。たっぷりと満たされた水筒からわずかに水が零れる。
「これが、痛いのよ」
ルナは背後を親指で指す。
パティアはふとそちらに視線を向けた。差し込む陽光の眩しさに、思わず栓を持ったままの手で顔を覆った。
何かを思いついたように、パティアは唇の端を吊り上げる。そして、ルナを見つめながら、座ったままで自身の太腿をぱんぱんと叩いた。
「…何?」と、訝しげな視線を向けるルナに、パティアはにこりと笑みを浮かべる。
「おいで?」
「ばっ、馬鹿じゃないの」
顔を背けるルナを見て、パティアは声を出して笑った。
パティアはひとしきり笑った後で、もらった水筒を口に付ける。冷たい水が喉を通って体内に染み渡っていく。その心地良さに、彼女はうっとりと目を細めた。
ウィヴロス渓谷を歩く二人を、二頭の騎馬兵が追い越す。
身構えていたルナが、小さく息を吐いて緊張を解いた。騎馬兵も二人を気にした風もなく、街道を先へと駆け抜けて行った。
「あーあ」と、パティアがため息を吐いた。
「やっぱりメルリネスに馬を借りれば良かった」
小さくなっていく騎馬兵の背中を、パティアが羨ましそうに見送る。
「断ったのは、パティアでしょ」
ルナが冷たく突き放すが、パティアはそれを聞こえない振りをする。
「今の騎馬兵のマントの刺繍、あれはアインフェルト辺境伯の紋章だったわ。マイヤー卿の使いね」
ルナはそんなパティアを一瞥すると、ため息混じりにフードを目深に被り直した。
つい先日まで、魔物騒ぎで国境は封鎖されていた。しばらくすれば、その魔物騒ぎも解決したことが知れ渡るだろうが、まだそれを知っているのはパティアたちとクランドゥ・マイヤーだけだ。
「聞いてもいいかしら」
歩きながら、ルナが問う。
「ん?」と、パティアは首を傾げた。
「あの騎士たちは、マリオール王国の者ではなかったの?」
国境を封鎖して、魔物――ロミを探していた、謎の騎士たち。隊商や旅人たちが、彼らの被害者なのか、ロミの被害者なのかは分からない。おそらく、どちらもなのだろう。
パティアが論外だとばかりに、眉を顰める。
「私が、王国の騎士団を見間違うと思う? 近衛騎士団の副長はシリルだし、団長はシリルのお兄さんのレオンよ。全員の顔は覚えてるわ」
「それに――」と、唇の端を吊り上げて振り向く。
「そもそもの話、騎士団が私の顔を知らないわけがないじゃない。無礼にもほどがあるわ」
「確かにそうね」
それならば、あの騎士たちは――。
ルナは腕を組んで、指の背で唇を撫でる。村で起こった事件も含めて、それも新世界が絡んでいるということか。
「そうだ――」と、ルナは不意に立ち止まった。
数歩遅れて、パティアが怪訝そうに振り返る。
「どうしたの」
その呼びかけには答えずに、ルナは街道の脇に視線を向けた。
彼女の視線を追って、パティアも道端を見つめる。森を抜けて、この辺りは岩肌が多く目立つ。もう国境も近い頃だ。
「ねえ、出て来たら?」
ルナは何もない場所に声を掛けた。
「昨夜から気付いてるわ」
暫しの無音。
パティアが視線を外そうとした、その時。道端にあった大きな岩から、染み出すように人影が浮かび上がってきた。
銀色の肌。赤い目をした、片腕の少年だった。
「ロミ!」
パティアが目を見開いて、少年の名前を呼んだ。
赤眼の少年は恥ずかしそうにその場に佇んでいる。その姿に、ルナの口元も思わず緩む。
「ずっと妙な気配は感じていたけれど、やっぱりロミだったのね」
「す、すみません」と、ロミが深々と頭を下げた。
「お二人を見かけて、つい嬉しくなってしまって…」
「いいのよ。元気そうで良かった」
パティアも満面の笑みを向ける。しかし、俯いたままのロミの表情は何故か険しい。
それを見て、パティアが怪訝そうに前屈みでロミを覗き込んだ。
「お願いが――。お二人に、お願いしたいことがあって…」
ロミが顔を上げる。決心したように表情は引き締められている。だが、ルナは気付いた。その瞳がわずかに揺れていることに。
「国境を越えるんですよね…」
「ええ」と、ロミの問いかけにパティアは頷いた。
「だったら、僕も連れて行ってもらえませんか」
パティアが不安そうに振り返って、ルナを見た。ルナは腕組みして、じっとロミを見つめる。
「あなたには聞きたいこともあったのよ」
ルナの表情は意外にも冷たい。
恐る恐る視線を返すロミに、ルナは静かに続けた。
「逃げ出してきたのよね。新世界から」
「…新世界?」と、ロミが聞き返す。
「言い方を変えるわ」
ルナは少し考えて、再びロミに視線を向けた。
「シスター・クラリッサ、マルセラ、…マザー・リオティネ――」
最後の名前に、ロミがわずかに反応した。
「ロミ、マザー・リオティネを知ってるのね」
「マザー…」と呟くロミの体が震える。
温和な笑みを張り付かせた白髪の修道女の姿が、ルナの脳裏を過ぎる。アウレリア学院の講壇で、愛について高らかに語っていた、あの姿が。そして、ルナの糾弾を淡々と受け流す、あの余裕じみた笑顔。
「マザーが、僕たちをこんな風にしたんだ」
ロミの表情は複雑だ。恐れと、親しみが、同居している。
「マザーは優しかった…。でも、僕たちをこんな体にしたのは、あの優しかったマザーだ」
パティアが眉を顰めて、ルナを見つめる。
「ルナ、どういうこと。マザー・リオティネ様がどうしてロミに関係があるの」
パティアも、マザー・リオティネには会ったことがある。まだ幼い頃だったが、父の背中に隠れて覗き見た彼女のことを、妙に怖く思えたような記憶がある。
「新世界の黒幕よ。おそらくね」
冷たく言い放つルナの言葉に、パティアは驚きを隠せない。
マザー・リオティネと言えば、大陸では聖人としても数えられるほどの人物だ。マリセア信仰を超えて、彼女個人を崇め奉る民衆も多い。
パティアは目を閉じる。ゆっくりと深呼吸して目を開けると、再びロミを見据えた。
「確かに、そう考えれば腑に落ちるわね」
鐘楼都市ベルフェルの実質的な支配者である彼女は、自身が運営する寄宿学校に全国から問題を抱えた生徒を集めていた。そして、彼女の部下でもあるシスター・クラリッサによって、生徒たちを使った薬品の製造と実験がおこなわれていた。
ルナに対しては一切の関わりを否定したと聞いている。しかし、事件の後、マザー・リオティネ自身もいずこかへ姿をくらました。
「…僕、あれから考えたんです。森に戻ってから、一人きりで」
ロミの肩が震えている。
「まだ僕の友達が、あそこに閉じ込められている。僕だけが運良く逃げ出すことができた。もしかすると、友達をあそこから出してあげることができるのは、僕しかいないんじゃないかって」
そして、真っ直ぐにパティアとルナを交互に見た。
「二人の力を貸してもらえませんか。みんなを助けたいんです」
パティアが、振り向いてルナを見る。ルナも、パティアを見つめていた。
ルナがゆっくりと頷いた。パティアはロミの方へ視線を戻すと、優しげに微笑んで見せた。
「勿論よ、ロミ。一緒に来なさい」
「は、はいっ」と、ロミが嬉しそうに目を輝かせた。ルナも微かな笑みで応える。
ロミを加えた三人は、国境へ向かってウィヴロス渓谷を先へと進む。
高原の風は涼しいが、遮るものがない街道を容赦なく陽光が照らし付ける。ルナはフードの隙間から汗を拭うと、忌々しそうに空を睨み付けた。




