第三章 29:ソラヤという少女
顔に青い痣を拵えた店主を見て、ソラヤは息を呑んだ。
昨夜、シュタインたちとソラヤが遭遇した酒場。開店前の店内には客の姿は見えない。椅子に座った店主は、片腕をぶらりと下げて、ソラヤを見上げながら力無く笑って見せた。
「…安心してください。何も喋ってはいません」
ソラヤは痛ましげに目を伏せる。何も応えられない。
彼女の背後で、シュタインとウィルが顔を見合わせる。ウィルの眉は怒りで歪んでいた。
しばらくの沈黙の後で、店主が続けた。
「ジェシカは街の外に逃がしました」
店主は唇を吊り上げて、無理に歯を覗かせた。前歯が一本、無くなっていた。
「あの子なら大丈夫。ほとぼりが冷めた頃には帰ってきますよ」
ソラヤが唇を噛む。こぶしを握り締めた彼女の肩が、小刻みに震えていた。
三人は無言で酒場を後にする。ソラヤのこぶしは、まだ小さく震えたままだった。
「僕たちのせいでしょうか」
ウィルが小声で、シュタインに問う。
遠目にソラヤを眺めながら、シュタインは自身の首の後ろに手を当てる。
「尾けられていたのに、店に逃げ込んだんだ。可哀想だとは思うがな」
「そうですが…」と、ウィルはまだ煮え切らない表情だ。
ソラヤは酒場の入り口を背にして、佇んだままだった。深く俯いて、その表情は窺い知れない。
「さて、お嬢さんはどうするつもりかな」
腕組みするシュタインの隣で、ウィルはそわそわと辺りを見回した。
「シュタインさん…」
「ああ、分かってる」と、シュタインも通りの一角にちらりと視線を送った。
人影が、さっと路地に隠れる。一瞬見えたその人影は、ありふれた簡素な服装だった。しかし、ただの町民でないことはすぐに見て取れた。
「ジェシカというのは、あの店員のことでしょうか」
「だろうな。無事だと良いが」
答えながら、シュタインは自身の口元を隠すように手を当てた。そして、目を伏せて、考え込む素振りで足元の一点を見つめた。
未だ佇んでいるソラヤを、ウィルはじっと見守る。彼女の思想は理解できない。やろうとしていることが正しいことなのかどうかも分からない。
だが、胸の中で生まれた、このもやもやした気持ちは何なのか。
「――ウィル、ちょっと任せてもいいか」
振り向いたウィルの左肩に、シュタインがぽんと手を乗せる。
「嬢ちゃんが無茶しないように見張っていてくれ」
「…はい。それは良いですけど、シュタインさんは?」
「俺は――」と、シュタインは首を伸ばして辺りを探るように見回す。
「少し街の様子を見てくる。なあに、夕方までには戻るさ」
軽くウィルの肩を押し退けると、わずかに口の端を歪めて見せる。そして、酒場の前から離れる。彼の姿はすぐに人混みに紛れて見えなくなった。
シュタインを見送ったウィルは、視線をソラヤへ戻した。
「――ッ!」
思わず、ウィルは体を仰け反らせる。目の前には、間近に迫ったソラヤの顔があった。
「もう一人は、どこに行ったの」
ソラヤが眉間に皺を寄せて、周囲を見回す。
「い、いや。少し、この辺りを調べてまわるって…」
「そう」と、ソラヤが鋭い目付きで、ウィルを正面から見据える。ふと、ウィルは気付いた。彼女の、その大きな緑色の瞳が、微かに揺れていることに。
自分を見つめるウィルの視線から、ソラヤは慌てて顔を背ける。
「な、何よ…」
自分に言い聞かせるように、ソラヤが呟く。唇が微かに震えていた。
「次の当てがあるんですか?」
「い、今、考えているところよ…」
ウィルの問いかけに、ソラヤは顔を背けたままで答える。
「だったら、その辺を少し歩きませんか。父が、よく言ってたんです。立ち止まったまま考えるなって。
無駄なことだと思えることでもいい。何かを考えながら、前に進むんだ、って」
そう言って、ウィルは微笑む。
「おれはこの街は初めてだし。案内してもらえると嬉しいです」
「…馬鹿じゃないの」
ソラヤは言い捨てると、視線を上げる。
「まあ、ちょうど時間を持て余しちゃったし。いいわ、付いて来なさい」
ソラヤが振り返る。彼女の動きに合わせて、濃紺の長い髪がふわっと広がった。
ウィルはほっと肩を落として安堵の息を吐くと、通りを早足で先へ進む彼女の後を追った。
ガチャガチャと物騒な音を上げて、重装備の兵士たちが街の外へ向かう。
それを自宅の三階の窓から見下ろしながら、金色の髪の少年が大きく欠伸をした。
「ベルル様――」と、少年の後ろに立つ銀色の髪の男性が声を掛ける。
「あの者を、放っておいてもよろしいのでしょうか」
ベルルと呼ばれた少年は、面倒臭そうに振り返る。
「あの者――ああ、さっき聞いた<管理者>のことか。放っておくも何も、どうしようもないだろ。彼は、彼のやりたいようにやるだけだ」
そして、ベルルはまるで大人のような仕草で肩を竦める。
「止められんよ。彼が、僕を止められないようにね」
何が可笑しいのか、ベルルはくすくすと笑う。
「クロエをやったのは、彼かな」
「はい。おそらくは」と、男性が答える。
ベルルはゆっくりと首を横に振った。そして、視線を再び窓の外へ向けた。
「彼も、よく分からないな。わざわざ力を誇示する必要もないだろうに」
上空を吹く強い風が雲を流して、陽光を遮る。室内がわずかに陰った。
「――ヴァラドゥリウス」
ベルルが外を向いたままで、銀髪の男性の名前を呼ぶ。
「君も、人が悪いな。二人居たんだね」
ヴァラドゥリウスは答えない。直立不動のまま、じっとベルルの後ろ姿を見つめる。
しばらくして、ベルルが小さく息を吐く音が聞こえてきた。
「まあ、君は嘘を吐いたわけではないし。約束を違えたわけでもない」
ヴァラドゥリウスは目を伏せると、畏まって頭を下げる。
「いいよ。大した問題ではない。それどころか――」
ベルルが振り返った。にやりと不気味に微笑む。その唇の端が、耳に届くほど裂けていた。
「二人も居るんだ。これは面白くなりそうだ」
そう言ってけたけたと笑うベルルを、ヴァラドゥリウスは冷たく見据えていた。




