第三章 17:赤眼の魔族
楔状に突き出た大地の隆起が、一瞬で砕け散った。
飛び散る土砂の向こう側から飛び出したルナが、一気に片腕の少年に迫る。
彼女の行く手を、何本もの隆起が塞ぐ。ルナはステップを踏み替えながら、それを軽やかに躱す。正面から鋭く伸びてきた大地の楔を、体を捻って寸でのところで避けながら、確実に距離を詰めていく。
「――来るな…ッ!」
片腕の少年が吠えた。
突き出した楔が、騎士を背中から貫く。自身の腹部から飛び出したものを唖然と眺めながら、騎士は口から泡立った血を吐き出した。
「どうし…ちゃった…のよ!」
パティアが少年に近付こうとするが、膨れ上がる魔力に阻まれて近寄ることができない。進もうとしても、圧力で押し戻されてしまう。
騎士たちも、既に隊を成してはいなかった。隊長格の騎士の姿はもう見えない。何人もの騎士の死体が転がっているが、その中にも彼の姿はなかった。
――ォオオオォォォォ…!
少年が上空を見上げて、雄叫びを上げた。
右腕が漆黒の結晶で覆われ、顔面も硬質化して鋼色へと染まっていく。落ち窪んだ眼孔の真ん中で、燃えるような真っ赤な瞳が輝いた。
左右から同時に迫って来た楔を、ルナは背後の隆起を蹴って背面跳びで躱した。
「パティア、下がって! 魔族よ!」
着地して、パティアに駆け寄ろうとしたルナの足元が震える。
「――ッ!」
息を呑むルナの目の前で、隆起した巨大な楔が天高くまで聳え立った。
「きゃああああ…!」
パティアの悲鳴が響く。楔がパティアの体を、凄まじい勢いで上空へと持ち上げた。
「戻らない…。僕は…もう、あそこには、戻りたくない…ッ!」
赤眼の魔族が叫んだのと同時に、ルナの足元が消失した。
突然の浮遊感とともに、ルナの体が落下する。
「…ぃッ!」
地面に打ち付けた尻を擦りながら、ルナは見上げる。大地が陥没して、背丈の倍ほどの高さを落ちてしまったらしい。
「なるほど。こんなこともできるのね」
ルナは左右の土壁を交互に蹴って、穴の縁に飛び付いた。すぐに腕の力で体を引き上げると、前転して上体を起こす。
「パティア、どこ!」
周囲を見回すルナを、間髪入れずに楔が襲う。
体を反らして躱したルナの胸元を楔が掠めて、外套を斬り裂いた。
後方に回転して体を起こしたルナと、赤眼の魔族の目が合う。
「…こっちをなんとかしなきゃいけないか」
ルナは詠唱を始める。
状況の理解がいまいち追い付かないが、目の前の危険を放っておくわけにはいかない。少なくとも、渓谷に住み着いたという魔物が、こいつであるということだけは間違いない。
突き出したルナの腕の先の空間が歪む。
地鳴りとともに、正面から幾本もの楔が迫って来た。
ルナの伸ばした腕の先から、光の筋が放たれる。
空気を焼き切るような甲高い音を響かせて、光線は迫る楔を次々と貫通しながら、そのまま赤眼の魔族へと突き進む。
魔族が右腕を伸ばした。
二人の間に、鉱石の結晶が巨大な壁となってそそり立った。
激しい衝突音が轟き、爆風のような衝撃が周囲へと広がった。光線は結晶の壁に深く突き刺さり、放射状にひび割れを走らせる。
しかし、壁を貫くまでには至らなかった。
ルナは間を置かず、続けざまに二発目を放つ。
光線は寸分違わず壁の同じ場所に命中して、今度こそ完全に粉砕した。激しく結晶の破片が舞った。
だが、壁の向こう側に、赤眼の魔族の姿はなかった。
周囲を見回すルナの足首を、何者かが掴む。
驚きの表情で足元に視線を向けようとしたルナの体が浮いた。
「――ッ!」
視界が反転する。
足首を掴んでいたのは、赤眼の魔族だった。地面から浮かび上がった魔族は、そのままルナを振り回す。
抵抗しようとしたルナの体を、魔族が軽々と放り投げた。
隆起した岩盤へ背中から叩き付けられて、ルナは思わずくぐもった呻き声を漏らした。
地面に落ちたルナが、頭から血を垂らしながら魔族を睨む。
「ディアナ…」
赤眼の魔族が、地面に沈み込みながら呟く。金属を擦り合わせたような、不快な声で。
「君を殺して、僕は自由になるんだ…」
完全に地面に没して、魔族の姿が見えなくなった。
「さっきから、ディアナディアナって――」
ルナは小石を幾つか拾い上げると、一つずつ投げ始めた。
一定のリズムで、近いところから始めて、だんだんと遠くの方に。
十個目の小石が地面に落ちた瞬間、その場所に何本もの楔が集中的に撃ち込まれた。
ゆっくりと、赤眼の魔族が地面から浮かび上がって来る。
「よほど悪い奴なのね。その、ディアナってのは」
ルナはその場から、一歩も動いてはいない。
顔を上げる魔族に向かって、ルナは短く詠唱して腕を伸ばす。
刹那、空気を裂いて真っ直ぐに伸びた光の筋が、赤眼の魔族の脇腹を射抜いた。
どす黒い、光沢のある体液を迸らせながら、魔族が雄叫びを上げる。唯一の右腕で傷口を押さえながら、がくりとその場に膝を付いた。
「何か、言い残したことはある?」
ルナは右腕を魔族に向けたまま、静かに言い放つ。
地面がゆっくりと隆起して、楔がルナに向かって撃ち込まれる。しかし、先ほどまでの速さはない。ルナは魔力を込めた左腕で、簡単にそれを払い退けた。
楔はただの土塊となって、ばらばらと砕け散った。
「そんな体じゃ、もうまともに魔力も操れないでしょ」
右腕は、魔族に狙いを定めたまま。ルナは視線を外さない。
「…僕は」と、金属質な声で赤眼の魔族が言う。
「もう誰も、殺したくない…」
「…たった今、私のことを殺そうとしたくせに」
ルナが小声で言うが、魔族には聞こえなかったようだ。
「お願い。もう嫌なんだ…。ディアナ…」
魔族の真っ赤な瞳が、わずかに陰る。揺れているように見えた。
眉間を寄せて、ルナは魔族を見据えた。
「その、ディアナって何なのよ。何度も言うけど、私はルナ。ディアナじゃないわ」
赤眼の魔族が立ち上がろうとする。
ルナは、口早に詠唱を始めた。彼女の伸ばした腕の先の空間が歪む。
――コォオオォォォォ…!
赤眼の魔族が上空に向かって吠えた。
ルナは詠唱を紡いで、重なり合う別の世界の力をこの世界に顕在化させる。一時的に空間の質量が増大して、空間がびりびりと震える。質量の変化に伴って、光が複雑に屈折して、腕の先がさらに歪んで見えた。
魔族の真っ赤な目が、ルナを睨んだ。
圧縮された高密度の力に、ルナは方向性を与えた。力は光となって、一直線に解放される。
放たれた光線は、真っ直ぐに魔族に迫った――。




