第三章 15:戻れない、戻りたくない
――薬品と接種者との相性の影響が大きいと予想される。
被験者が女性である場合には、自我や形態が維持される症例が多い。
逆に、被験者が男性の場合は、ほぼ例外なく、自我の喪失や、肉体崩壊を引き起こす。
「酷い有様ですね」
民家の屋根の上から眼下の惨状を眺めながら、ルーファスが呆れたように言う。
首筋から噴き出す鮮血を押さえながら、男性は虚ろな目を宙へ向けていた。数歩、彼はよろめきながら足を進めたが、そのまま力無く前のめりに倒れ込んだ。
倒れた彼の体を、自身の血が赤く染め上げる。首元には、喰い千切られたような傷跡が残されていた。
「うわあああああ…!」
闇雲に剣を振り回す私兵の周囲を、牙を剥き出しにした数人の村人が取り囲む。
一斉に飛びかかって来た彼女らの一人を、彼は剣で斬り裂いた。しかし次の瞬間、多勢に激しく押し倒されて、悲鳴を響かせながら体の至る所を噛み千切られて、――絶命した。
臓物を口からぶら下げて立ち上がった村人が、辺りを窺うようにきょろきょろと見回す。
私兵の一人が、民家の壁を背に剣を構えた。
ハァハァと肩で大きく呼吸を繰り返す。
彼の剣は、既に何人かの村人を斬った。だが、致命傷と思われる傷を負っても、彼女らの執拗な襲撃の手が止まることはなかった。
彼は救いを求めるように頭上の、屋根の上に立つルーファスを見る。
ルーファスは眼下を覗き込んで、困ったような苦笑いで返した。
村人たちの間を割って、一人の異形がゆっくりと歩み出る。
淡い栗色の髪の色はそのままだが、後ろでまとめていた留め具は外されて、まるで生き物のようにゆらりと蠢く。その体は、元の面影を残したまま、異様に膨れ上がっていた。
それだけではない。彼女の背中からは、猛禽類を思わせる一対の羽が伸びていた。
異形――クロエは、金色の瞳で私兵を見据えると、嘲るように口元を吊り上げる。
クロエの合図で、村人たちが一斉に彼に飛びかかった。
ぐちゃり。
白い壁に、鮮血が飛び散った。
くぐもった悲鳴が途絶えて、しばしの静寂が訪れる。
「…全滅ですか」
ルーファスは村の中を見渡す。
ブロム家の使用人や私兵たちの痛ましい死体が、あちらこちらに転がっていた。どれも鋭利な爪に切り刻まれ、喰い千切られ、原型を留めているものの方が少ない。
クロエの金色の瞳がゆっくりと持ち上げられて、屋根の上のルーファスを見据える。
「逃げ足の速い奴が、一人いたか」
羽を、大きく広げる。ばさりと羽ばたくと、その巨躯が空中に舞い上がった。
屋根の上に、村人たちも這い上がって来る。
「まだ、この体に慣れてないんですよ」
ルーファスが、左足で軽くステップを踏んだ。
飛びかかってきた村人の腕を、ルーファスが寸でのところで躱す。背後に回り込むと、背中を蹴り飛ばして彼女を屋根の上から突き落とした。
「…お、っと」と、バランスを崩してよろめいたルーファスに、村人たちがさらに襲い掛かった。
ルーファスが、左足を強く踏み込んだ。
――ドンッ!
バキバキと激しい音を立てて、屋根を踏み抜いて村人もろとも落下した。
粉塵が舞い上がり、クロエの視界が塞がれる。
しばらくして、鷹揚にゆったりと羽をはためかせながら見守るクロエの視界が、民家から出て来る人影を捉えた。
ルーファスが、無表情で歩み寄って来る。――その両手には、牙が覗く口から舌をだらりと垂らした村人の生首が掴まれていた。
右腕を振るって、生首をクロエに向かって投げつける。
クロエはそれを、腕を薙いで弾き飛ばした。
「何者かは知らぬが――」
金色の瞳が、射抜くようにルーファスに向けられた。
「人間風情が、魔族に敵うわけがなかろうて」
広げた羽が、毛羽立つ。クロエの周囲の空気が震えて、波動で歪んだ。
「――魔族?」
ルーファスが、不敵に口元を歪めた。
「面白いことを言いますね」
背後から、村人が彼を襲う。
鋭利な牙が、ルーファスの首元に突き刺さる。そのまま村人は力任せに、その首を喰い千切った。
ルーファスの頭が、支えを失ってがくりと傾いて垂れ下がる。
クロエは思わず、言葉を失った。
首を半分ほど喰い千切られたルーファスが、村人の頭をがしりと掴んだのだ。
そして、いとも容易く引き千切った。まるで果実を摘み取るかのように。
「特別サービスですよ」
頭をだらりと垂れ下げたままのルーファスの口元が、器用に動いた。
「本当の魔族がどんなものなのか、見せてあげます」
――その言葉を聞いたのが、彼女の最期となった。
次の瞬間、クロエの視界が暗転する。
張り詰めていた糸が切れるように、ぷつりと彼女の意識は消失した。
目線の高さの邪魔な枝を手で払い退けながら、パティアは先へと進む。
獣道は避けて、大勢の人数が歩けそうな場所を探した。そして実際に、何者かが通ったであろう痕跡も直ぐに見つかった。
地面に落ちた小枝や葉が、踏み荒らされている。
それを手掛かりにして、森の中をさらに先へと進んで行った。
どれほど歩いただろうか。パティアは聞こえてくる音に気付いた。水の流れ落ちる音が、だんだんと大きくなってくる。
不意に、視界が拓けた。
なだらかな階段状の滝が見えた。思わず、パティアは足を止める。
川幅は広く、大量の水が幾段にも分かれて流れ落ちて、白い飛沫を上げている。
周囲の切り立った崖が、この一帯だけ低くなっていた。轟々と鳴り響く滝の音を聞きながら、パティアは水辺へと近付いた。
ルビナ川水系の澄んだ、透明な水を、パティアは両手で掬った。
水を口に含んで、乾いた喉を潤す。
討伐隊も、この水場を利用したはずだ。
口元を袖で拭いながら、パティアは改めて周囲を見回した。
その時。岩陰に、さっと何かが隠れる。
「誰か、そこにいるの?」
パティアが体を起こして、岩陰に向かって声を掛けた。
返事はない。
警戒しながら、パティアがゆっくりと大岩に近付く。向こう側から、微かに衣擦れのような掠れた音が聞こえてきた。
大岩を回り込むと、そこには怯えた表情でパティアを見上げる少年の姿があった。
年の頃は、十七か十八か。ウィルと同じぐらいだろう。
自身の体を抱えるようにして、岩陰で身を小さく屈めている。パティアの動きを上目遣いで窺いながら、小刻みに震える彼の姿は、捕食される寸前の小動物のようだった。
「…討伐隊の…ひと?」
伸ばしかけたパティアの腕が、ふと止まる。
抱きかかえた彼の左肩の、その先がなかった。だが、血の滲んだ痕は見えない。失ったのは、ずっと以前のことなのだろう。
本隊とはぐれたのか、それとも置いて行かれたのか。
「ねえ、何があったの…?」
近付こうとするパティアを、彼は泣きそうな目で見つめる。
「――来ないで」
少年が、パティアから遠ざかるように身を引いた。
「大丈夫。何もしないわ。私たちは、助けに来たの」
パティアは彼に手のひらを見せながら、両方の腕を自身の顔の横に上げた。
彼の様子を窺いながら、ゆっくりと歩み寄る。
改めて伸ばされたパティアの腕が、彼の右肩に触れた。
少年がびくりと大きく震える。パティアはそのまま、そっと彼の頭を抱き締めた。
「怖がらないで。大丈夫よ」
彼の震えが治まるまで、パティアは抱き締め続けた。
轟々と流れ落ちる、滝の音だけが聞こえてくる。
しばらくして、少年は落ち着いてきたようだった。強張った肩から力がふっと抜けるのを、パティアは感じ取った。
パティアは力を緩めて、そっと彼の頭を放す。
そして、彼の瞳を覗き込んだ。
「…ここで、何があったの」
少年がぽつりと呟いた。
「――もう、あそこには戻りたくない」
「あそこ?」と、パティアが聞き返したが、少年はそれ以上を語らなかった。
パティアは彼の右手を引いて、立ち上がった。
「行きましょう。あなたのお仲間も探さなきゃ」
パティアは彼に笑いかけたが、少年は複雑な表情を返しただけだった。




