第三章 12:報告書
自身が記した調査報告書に目を通していたエイシャが、険しい顔付きで眉間を摘まみながら顔を上げた。
カーテンを深く下ろした暗い彼女の部屋で、机に置かれた燭台の灯が手元を照らす。その赤黄色の灯火だけが、この部屋の唯一の明かりだった。
エイシャは宮廷魔術師に籍を置いてはいるが、第一王子アレクシス直轄の外事専門の部署に所属する。こうして長期間、王都パール・シティに滞在するのも久々だ。
――魔物化現象について。
エイシャは自身が講師として、鐘楼の街ベルフェルにある寄宿学校の教壇に立っていたときのことを回想する。
ベルフェル聖堂が運営する寄宿学校、アウレリア学院。
複数の家族や施設から、子供の行方が知れなくなっているという報告が情報部に入り、密偵としてエイシャが派遣されることとなった。折りしも、学院が魔法学の臨時講師を募集していたということもあって、潜入は容易かった。
――症状。
現状、二つの現象が確認されている。
一つは、屍鬼となって、狂暴化して周囲に被害を及ぼす。なお一部、会話が成立し、命令などの指揮系統を遵守する個体も見られることから、理性や意思の喪失が伴わない場合もあると思われる。
稀少な例として、肉体の特質的な変貌も確認されている。(後述、症例4「マルセラ」、症例5「クラリッサ」を参照)
一つは、生物としての形態を保持できずに、肉体崩壊を起こす。意思疎通できないため、意識があるかどうかは不明。
ただこの場合も、外界からの刺激には反応を見せるため、肉体自体は死亡していないと推測される。
エイシャは報告書の束を手にして、椅子から立ち上がった。燭台を手にして、ドアに向かう。
ドアノブに手を掛けようとした、ちょうどその時。目の前で、扉がノックされた。
構わずにドアを開けると、驚いた表情の侍女がそこにいた。
自分を無表情で見つめるエイシャに、侍女は目を伏せながら頭を垂れた。
「エイシャ様…。アンディネス副大臣がお呼びです」
エイシャは冷ややかに、侍女を見据える。
「申し訳ありませんが、アレクシス様を通してくださるようお伝え申し上げてください。私の一存では、お会いすることはできません」
「では」と、丁寧にお辞儀をして、エイシャは侍女の反応を待たずに横を素通りした。
魔物によって王城が襲撃されたことを聞いたときは、エイシャも驚いた。魔物化現象の要因となった薬品の製造に関与していたテオドラを連れ帰ったエイシャは、この一連の事件の正式な担当者として任命された。
それからというもの、エイシャに対して接近を試みる権力者が後を絶たない。情報を求めてなのか、ひょっとすると他にも魂胆があるのかも知れない。エイシャにとっては、面倒臭いことこの上ない。
――原因と感染経路。
特殊な薬品を自身の血管内に取り込むことで、魔物化現象に感染する。
潜伏期間は、数秒から数時間。かなりの個人差が見られる。理由は、現段階では不明。後述する薬品の製造方法から鑑みるに、薬品と投与対象者との相性の影響が大きいと予想される。
王城の通路を、エイシャが早足で進む。
すれ違った文官が彼女に声を掛けるが、エイシャはそれを無視する。そのまま通路を進んで、とある部屋の前で立ち止まった。
軽くドアをノックすると、ドアノブを回して押し開ける。
部屋の中では、金髪の女性が診察を受けていた。女性と、彼女を診ていた若い医者、そしてその傍らに立つ軍医のエドモンドが一斉に振り返って、部屋に入って来た黒髪のエイシャを見た。
「テオドラ、調子はどう?」
エイシャは疲れたように、部屋の端にある丸テーブルの椅子に腰を下ろした。
「…ええ」と、テオドラはわずかに戸惑ったような表情を見せる。
「先生のおかげで、食欲も戻ってきました」
答えるテオドラの顔色は、以前とは比べものにならないほど血色が良くなっていた。やつれていた頬も、すっかりと柔らかな膨らみを取り戻している。
「そう、なによりね」
不愛想にエイシャは応じたが、テオドラの回復ぶりを見るたびに、内心ではほっと胸を撫で下ろしていた。
潜入していたアウレリア学院では、シスター・クラリッサの元でエイシャは多くの生徒たちを傷付けた。テオドラも、そのうちの一人だ。
いや、傷付けたという表現は軽過ぎる。彼ら彼女らを、見殺しにした。
職務だからという言い訳で、その事実から逃げない。この罪は、一生背負っていくつもりだ。
エイシャは報告書を丸テーブルに無造作に置いた。
「ちょうど良かった。エドモンド様、これをアレクシス様にお届けをお願いします」
「エイシャ様がご自身で届けられては?」
白髪のエドモンドが怪訝そうな視線を向けるが、エイシャは息をゆっくりと吐きながら片手で顔を覆った。右目の瞼を押さえる。
「疲れてるの。少しここで仮眠を取らせてちょうだい」
そう言いながら、エイシャは丸テーブルに突っ伏した。すぐに静かな寝息が聞こえてきた。
――薬品の製造方法。
主材料は、一人の女性の血液である。魔物の血液であると考えられる。
それに少量の別の血液を投じ、時間をかけて煮詰めながら、カンナビエルリーフから抽出した魔薬成分を溶け込ませる。
カンナビエルリーフ以外の材料は入手が出来ないため、製造は不可能。
だが、複数の標本を得ることが出来ているため、魔物化現象の再現は可能と思われる。標本は厳重に保管中である。保管場所は、この報告書では明示しない。再現実験も、危険性を考慮して、現在のところ予定はしていない。
困ったように眉尻を下げてエイシャを見下ろすエドモンドの側で、テオドラがすっと立ち上がる。
彼女はエドモンドの前を無表情で通り過ぎると、丸テーブルに顔を埋めるエイシャの背後に音もなく近付いた。若い医者が何かを察して、立ち上がろうと慌てて腰を浮かした。
禁制品であるカンナビエルリーフに手を出して、テオドラはその中毒症患者となっていた。治療は順調に進んでいるように見えるが、まだその依存から抜けきってはいない。完治にはかなりの期間を要する。
時折、異常行動も見られるし、フラッシュバックによる被害妄想も引き起こす。
特にエイシャに対しては、王都での治療が始まった当初より警戒反応が強い。
テオドラの細い指が、エイシャの首の後ろに触れる。
「あっ」と、若い医者が声を上げて、手を伸ばした。
寝息が途絶えて、エイシャがわずかに片目を開く。
次の瞬間、エイシャの肩にふわりと衣服が掛けられた。
脱いだ自身の上着をエイシャの肩に掛けたテオドラが、しばらくの間、無言で彼女の後ろ姿を見据える。そして、おもむろに若い医者の方へと振り向いた。
「まだ赦すことはできません。でも――」
一旦、言葉を切ってから、テオドラは続けた。
「エイシャ先生を――、彼女を受け入れることが、私には必要なこと。ですよね、先生」
微笑んで言うテオドラを見て、若い医者は安心したように頷いた。
「今日の診察は終わりましょうか。エイシャ様は、しばらくそっとしておいてあげましょう」
「…はい」と、テオドラは静かに首を縦に振った。
丸テーブルで眠るエイシャの前に置かれた報告書を、エドモンドが仕方なしといった仕草で取り上げた。
「私は、これで失礼します」
テオドラと若い医者に見送られて、エドモンドは報告書を手にして部屋を後にした。
少しの間、テオドラは複雑な表情でエイシャの寝姿を眺めていた。そして、小さく息を吐きながら目を伏せると、再び顔を上げてお辞儀をしてから部屋を出て行った。
彼女を見送った若い医者が顎に手を当てて、手元のカルテに何やら書き込む。
彼は途中で手を止めて、寝入っているエイシャの方へと視線を向けた。すやすやと規則正しい寝息を上げて眠る彼女を眺めて、優し気なため息を漏らした。
若き宮廷魔術師であり、外事専門調査官として特務に当たるエイシャだが、実際の彼女は繊細な心を持った二十二歳の女性だ。
「…あなたは、働き過ぎですよ」
若い医者は視線を手元に戻しながら、独り言ちた。




