第三章 11:雨はまだ…
雨は、嫌いだ。
湿気で、肌に纏わりつく髪の毛も鬱陶しい。濡れるのも、いちいち面倒くさい。
それに雨は、いろいろなものを流していく。記憶、後悔、赤い血、そして大切な人の命。
あの日も、今日のような雨だった。倉庫の壁に背中を預けながら、ルナは遠目で、肩を濡らして荷の積み下ろしに追われる男たちをぼんやりと眺めていた。
彼らの中に、帳簿を持ったメルリネスもいた。手元の数字と在庫を見比べながら指示を出す彼の姿は、やはり商人だなと思わせた。
雨は、ノイズを隠す。人の五感を鈍らせる。
白い髪と、黒い影。遮られる視界。――フードから覗いた、リディアの優しい笑み。
バシャバシャとぬかるみを踏んで、メルリネスの部下の一人が駆けてくる。ルナはふと顔を上げて、彼の方へと視線を向けた。
彼は慌てた様子でメルリネスの元へと駆け寄ると、胸を押さえて荒い呼吸を整える。そして、怪訝そうに見るメルリネスに、何やら小声で報告する。
彼の話を聞いていたメルリネスの表情が、みるみると曇る。
倉庫の中から、クラウスと談笑しながらパティアが姿を現した。沈んだ面持ちのメルリネスに気付いて、彼の方へと首を傾げながら歩み寄った。
「どうかしましたか?」
「それが――」と、眉を顰めてメルリネスが帳簿でこめかみを押さえた。
「問題が生じまして。少し、お話をよろしいでしょうか」
そのやり取りを、やや離れた場所で聞いていたルナは嘆息する。
やはり、雨は嫌いだ。
倉庫の中に移ったメルリネスが、険しい顔付きで帳簿を振る。
革の表紙に付いていた水滴が跳ねて、数滴がルナの頬に降り掛かる。片目を瞑って頬を拭うルナに、メルリネスが慌てて謝罪した。
「す、すみません」
「平気よ」と、ルナは乱れた銀髪を指で直した。
そんなルナを一瞥してから、パティアが静かに目線をメルリネスに移した。
「何かあったのですか」
「明日、国境の近くのウィヴロス渓谷を通りますが、その付近で異常があったようです」
メルリネスは険しい表情のままだ。
「渓谷を避けるとなると、だいぶ遠回りをしなければなりません。どうしたものか」
「異常、とは?」
冷静に問いただすパティアの口調に、ほんのりと好奇心が覗いて見える。
「ギルドからの取り急ぎの情報なので、詳しいことはまだ分からないのですが、――魔物か、野盗か、同業者や旅人が襲われたそうです」
国境の近くは、大規模な警備兵の動員がしづらい。必然と治安が悪くなる。
ウィヴロス渓谷は、マリオール王国の領内だ。海路で抜けるという手もあるが、船を用意するのにも時間がかかる。前回のように、軍船を動かすのも難しい。何より、シリルにバレて連れ戻される。
パティアは腕組みをすると、左手で口元を押さえて考える。メルリネスの言うとおり、陸路で渓谷を避けてドゥルメリア都市国家に向かうとなると、南回りなら、到着までひと月は余計に掛かる。追いかけてくるウィルたちとの合流にも影響がある。
「行くしかねえよなあ」
クラウスが不躾に声を上げた。
「俺たちをもっと信用してくれ。危険と利益は、表裏一体だろ。ヴァルターさんの口癖だ」
考え込んでいたメルリネスが、困ったように眉根を寄せてクラウスを見やる。
「伯父は無謀なだけです」
仕方なしといった仕草でゆっくりと首を横に振った。
「…そうですね。近くの街から調査隊がすでに向かっているかも知れません。ひとまず、このまま進みましょう。パティア様、それでよろしいでしょうか」
パティアは、大きく頷いた。
「ええ。それに、ウィルたちが追い付いてくるかも知れない。予定どおりに向かいましょう」
そして、ルナの方へと振り返った。
「ルナも、それでいいわね」
「別にいいわ」と、ルナは愛想無く答える。
「自分の身は、自分で守れるから」
「そう」と、パティアは鼻筋に皺を寄せる。
倉庫の外から、積み荷の準備を終えた旨がメルリネスに知らされた。小さく馬の嘶きが聞こえてくる。
まだ雨は降り続いているが、やや小降りになってきたようだ。薄くなった雲の向こう側から日差しが漏れてきて、周囲が次第に明るくなる。
メルリネスがこの街の支店の責任者と打ち合わせる姿を横目に、ルナたちは馬車に乗り込んだ。
すでに他の私兵やルーファスが車内で出発を待っていた。パティアは座席に着くと、濡れた膝のあたりをぱんぱんと叩いた。
ルナはまたいつものように、空席を隔てて端に座る。
そんなルナを、パティアが横目で見ながら、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。そっと腰を浮かすと、座席を滑るようにしてルナとの距離を詰める。
腰が触れそうなほど近寄って来たパティアに、ルナが面倒臭そうな視線を向けた。
「私は、パティア・セレスティア・マリオール。この国の第二王女です」
改めて名乗るパティアの意図を図りかねて、ルナは警戒を滲ませる。
「…知ってるけど」
「ほら、あなたも名乗りなさいよ。経緯はどうであれ、こうして同じ船に乗ってるんだから」
パティアが身を乗り出して、ルナに顔を近付ける。
「――ルナ、あなたのことを教えて。これまでに非礼があったなら、謝るわ」
ベルフェルで襲われた、あの銀髪の魔物が今でも脳裏を過る。
あの魔物と、目の前の銀髪の少女が別人だということは、頭では理解している。だからこそ、もっと知る必要がある。彼女が味方だと、信じるために。
奇妙な緊張感が、場に広がる。車内の誰もが二人の様子を不安げに見守る。
馬車の揺れる音だけが、しばらく車内に響いた。
張り詰めた緊張の糸を切ったのは、ルナの嘆息だった。
ルナはゆっくりと息を吐くと、少しだけ肩を下げた。
「そんな名乗るほどの家名でもないわ。――ルナ・ピアルシュド。シュタ、…シュタインに付いて、彼が追ってる事件を手伝っているだけ」
パティアが眉を顰める。
「この期に及んで、偽名じゃないでしょうね」
疑わし気な目付きの奥に、わずかに失望が覗く。
「ピアルシュドだなんて、また大きく出たものね」
「よく言われるわ」と、ルナは大きく息を吐きながら肩を竦めた。
「どのピアルシュドのことを言っているのかは知らないけど、本名なんだから仕方ないじゃない」
しばらく探るように見ていたパティアだったが、大きく頷いて見せた。
「分かった。名前は信じるわ。一応、その目的も」
しかし、パティアの視線はまだルナを捉えて離さない。
「どこの命を受けて動いてるの。少なくとも私は、あなたたちのことを聞いたことがないわ」
「シュタに聞いて」と、ルナは視線を外して、窓から外の景色を眺める。
馬車は街を出て、街道を東へと進む。雨が、天井を叩く乾いた音が響く。少し霧が出てきたために、遠くの森が霞んで見えた。
「依頼も情報も、すべてシュタが持ってくるのよ。私はただ、彼に力を貸してあげてるだけ」
外を眺めたままで、ルナが答える。
「シュタインだろ。ほら、あの都市伝説の」と、クラウスがにやけながら自身の無精髭を擦る。
「世界が危機に陥ったときに忽然と現れて、さくっと世界を救うってやつ。まあ、その名前を騙ってるってことなんだろうが」
「初耳ね」
パティアが興味深げに聞き返す。
「都市伝説ねえ。確かに、私も怪しいと思っていたのよ」
おかしな点は、幾つかあった。パティアは思い出しながら続けた。
「以前、兄の書簡を持っていたことがあったの。でも、シリルもエイシャも、そんな人物は聞いたことがないって言ってたわ。それに――」
ベルフェルに滞在したときに、アギュスールが話していた彼の過去。
「聞いた話によれば、少なくとも六十歳を超えているはず。あんな六十歳、見たことある?」
「マジで、都市伝説かよ…」と、クラウスの顔が引き攣る。
車輪が地面の起伏を踏んで、がたんと跳ねる。
靄のかかった遠くの連山を眺めて無視を決め込んでいたルナに、パティアが尖った視線を向けた。
「ルナは、何か知っているんでしょ」
一呼吸おいて、ルナは面倒臭そうに答えた。
「母の知り合いかもってだけで、何も考えたことはないわ」
そして、投げやりにぽつりと言い放つ。
「私も、普通じゃないから」
「…そうね」と、パティアは腕組みをしながら心得顔で頷いた。
「確かに、あなたの力は普通じゃない。エイシャも言ってたわ。野放しにするのは、あまりにも危険過ぎるって。可能ならば王宮で囲うべきだ、とも」
ルナは相変わらず、窓の外を眺めたままだ。
「悪いけど、そんな気はないわ」
「そう言うと思ってたわよ」
愛想のないルナの言葉にも、パティアに機嫌を損ねたような素振りはまったくなかった。何やら考え込んで、唇を尖らせる。
小刻みに揺れる車内で、ルナはふと視線を感じて目線だけをそちらに向けた。
一連の会話を笑顔で聞いていたルーファスが、値踏みするような目付きでルナを見ていた。その不快な表情に、ルナは既視感を覚えた。背筋に一瞬、針のような寒気が駆け抜ける。
ルナは向き直ると、露骨に不機嫌な態度で眉間に皺を寄せた。
「…なにか、言いたいことでも?」
ルーファスが可笑しそうに口の端を歪める。
「なんでもありません。あなたたちと一緒なら、退屈しなさそうだ」
彼の発する一言ひとことが、何故かキンと耳に刺さる。
ルナはルーファスを一瞥すると、眉を顰めて視線を逸らした。
まだ雨は降り続いている。




