第三章 9:魔族とは
出立の日。
ルナは遅くに起きると、勧められた朝食を断って街に出た。
空腹を覚えていないわけではなかったが、今朝は何かを口にする気にはなれなかった。内容は忘れてしまったが、また嫌な夢を見たような気がする。
フードを目深に被り、倉庫群へと向かう。
ブロム商会所有の倉庫は大通り沿い、街の出入り口に近いところにある。使用人の話によれば、パティアはとうの昔に倉庫へと向かったらしい。
連日、天気の良い日が続いている。今日も、まだ午前中だというのに日差しがちくちくと痛い。
商業都市エルドヴァルの目抜き通りは、大勢の人々が行き交っていた。ルナは彼らの間をすり抜けて、大通りを先へと進んだ。
立ち並ぶ幾つもの露店や、香ばしい匂いを漂わせる大衆食堂の前を素通りする。
繁華街を通り過ぎると、視界の向こう側に倉庫群が見えてきた。
石畳が途切れる。舗装をしていない地面には、幾つもの轍が走っている。
それぞれの倉庫には、所有者の意匠が施されていた。記憶にあるブロム商会の意匠を探しながら、ルナは幾つかの倉庫の前を通り過ぎる。
書類を手に積み荷を検品していた男性が、眼鏡をずらしてルナを怪訝そうに見る。ルナはその視線を無視して歩き続けた。
ブロム商会の意匠を見つけるよりも先に、ルナは視界が見知った金色の髪の女性を捉えた。その傍らには、ヴァルター・ブロムの姿もあった。
ルナは嘆息混じりに唇の端を歪めると、彼女らの方へと歩を向けた。
近付いてくるルナに、パティアも気付いたようだ。彼女はルナを見ると、鼻の付け根に皺を寄せる。
「遅いわね。もう出発の準備はとっくにできているのに、いつまで待たせるつもり」
「出発は正午のはずだけど」と言いながら、ルナはヴァルターを一瞥する。
ヴァルターは申し訳なさそうな表情で、ルナに視線を返した。
「予定は、あくまでも予定よ」
パティアはさも当然のことのように言い放つ。
「準備できているんだから、すぐに出発してもいいじゃない。時間は待ってくれないのよ」
倉庫の脇には、数台の馬車が並んでいた。パティアの言うとおり、既に荷の積載は終わっているようだ。ヴァルターの部下たちが積み荷とルートの最終確認をしながら、時折、談笑も聞こえてくる。
彼らのうちの一人に、ヴァルターが声を掛けた。年の頃は三十代だろうか、清潔な身なりの男性が小走りでやって来る。
「パティア様には先ほどご紹介いたしましたが、改めて――」
ヴァルターの呼びかけに応じて、男性はルナに対して丁寧に頭を下げた。
「紹介します。甥の、メルリネスです。今回の隊商を任せております」
頭をゆっくりと上げた男性が、人懐っこい笑みを投げかける。
「メルリネス・ブロムです。どうぞよろしくお願いします」
顎髭を蓄えた精悍な体格のヴァルターと比べると、彼は小柄で弱々しく見える。しかし、商人らしい自信に満ちた表情で、探るような視線をルナに向けた。
ルナは軽く会釈を返す。
こういう手合いは嫌いではないが、油断もできない。
「よぉ。姉ちゃん、元気だったか」
その時、傍らから野太い声が掛かった。
ルナが振り向くと、無精髭の男性が手を上げながらこちらの方へとやって来ていた。強面の顔に、溶けたような笑みが浮かんでいる。
確か、クラウスとかいうブロム家の私兵の隊長だ。
「俺も護衛で一緒に行くことになった。改めて、よろしくな」
自身の服の裾でごしごしと拭った手を、ルナに向かって差し出す。
クラウスの肩越しに、黒い髪の男性の姿が視界に入る。遠目でルナの方を窺っているように見えた。
どこかで見たことがある気がする。ルナはわずかに身を乗り出した。
黒髪の男性の、色素の抜けた一房の特徴的な髪にも見覚えはない。だが、本能が、彼が何者かであるということを告げる。
妙に、胸がざわつく。
差し出した手とルナを見比べて、クラウスが罰が悪そうに視線を彷徨わせる。そして、彼女が自分の向こう側を見ているのに気付いて、ゆっくりと振り返った。
「ああ、あいつか」と、クラウスが肩を竦めた。
「昨日からうちで雇っている傭兵だ。姉ちゃんは、ああいうのが好みかい」
違和感の正体は分からない。ルナは、眉を顰めて重たく瞬きをする。
「男は嫌い」
ルナが、クラウスの手を握る。
クラウスは嬉しそうに、にやりと笑った。
「それじゃあ、出発ね」
パティアが宣言して、馬車へと向かう。
六台の馬車からなる隊商だ。比較的、小規模なものと言える。
五台の馬車にそれぞれ御者と積み荷、先頭の馬車にはメルリネス、残りの馬車にはヴァルターの部下が二人ずつ乗車する。ルナたちは六台目の最後尾の馬車だ。クラウスたち護衛の私兵たちと、ルナとパティア。今、ここにはいない、シュタインとウィルが乗る予定の席だけが空いていた。
「…分かっていると思いますが」
馬車に乗り込もうとするルナの背中に、ヴァルターが小声で囁いた。
「例の件は、メルリネスしか知りません。まだ内密にお願いします」
――カンナビエルリーフのことか。
それで隊商が小規模なのも納得がいく。関わる人間を最小限にしたいということだろう。
「私は魔薬なんて、そもそも興味ないわ」
捨てるように言い放って、ルナは馬車に乗り込んだ。
空いている席に座って、ふと視線を巡らせる。
向かい合わせの座席の正面に、五人の護衛の兵たちが並んで座っている。隊長のクラウスは、ルナたちと並びの席だ。クラウスとパティア、そして二人分の空席を隔ててルナが端っこに座る。
緩くウェーブのかかった鮮やかな金色の髪のパティアは、この車内にあってはとても浮いて見えた。
同じ雰囲気を感じたのか、クラウスが足を組みながらにやにやと笑みを浮かべた。
「これまでも旅行者を乗せたことはあるが、これじゃあお姫様の観光ツアーだな」
パティアが不満気な視線を送るが、クラウスは物ともせずにけろっとした表情だ。
会話に巻き込まれまいと、ルナは腕組みして目を閉じた。
「高貴な身分の方だとは思っていましたが、まさか本当のお姫様だとは思いませんでした」
掛けられた黒髪の男性の言葉に、パティアは彼の方に顔を向けた。
「良かったわね、…ええと、ルーファス。無事に雇ってもらえて」
「ええ」と、ルーファスが笑顔で頷いた。
「さすがはお姫様の紹介といったところでしょうか」
パティアの素性は、隊商の面子には知らされている。クラウスとルーファス以外の車内の兵たちは、妙に畏まった姿勢でパティアと視線を合わせない。
「いや、これでなかなかに腕も立つんだ」
わずかな眠りに誘われながら、ルナはクラウスたちの会話をなんとはなしに聞き流す。
「良い人物を紹介してもらったよ。傭兵じゃなく、正規雇用にと誘ったんだがなあ」
大声で話すクラウスの残念そうな口調に、ルーファスが言葉を被せる。
「いやいや。私なんて、とんでもない。その日暮らしが性に合ってるんです」
「勿体ねえよなあ」と、クラウスは視線をパティアに移した。
その瞳が興味深げに、鈍色に輝く。
「お姫様たちも、あれだろう。魔族を討伐したんだってな」
――魔族。
パティアは思わず押し黙ってしまう。
蛇の半身を持ったクラリッサ。
蝙蝠の羽を生やした、銀色の髪の冷酷な女性。
そして、王都でウィルとシリルたちが戦ったというマルセラ――。
魔族の血は、たとえそれがわずかばかりでも災厄を呼び寄せる。その存在自体が、人間とは決して相容れない。
その悍ましさを、パティア自身も実際に相見えて実感した。
「…討伐できたわけじゃないわ」
パティアは視線を落として、膝の上でそっとこぶしを握り固めた。
「へー。魔族、ですか」
顎を上げたルーファスが、座席に背中を大きく預けてパティアに値踏みするような視線を向けた。
「魔族を見たことがあるんですか」
パティアは顔を上げると、静かに頷いた。
本当は思い出したくないぐらい、怖い。だが、目を背けることはできない。王国に忍び寄る魔族の手から、皆を守るのが自分の役目だ。
その為に、出来ることをやる。
「あんなもの、魔族じゃないわ」
それまで眠そうに黙って聞いていたルナが、面倒臭そうにゆっくりと目を開けた。
いつの間にか、馬車は走り出していた。窓から吹き込んできた風が、フードから覗くルナの銀色の髪を揺らした。
馬車が、次第に速度を上げる。ガタガタと車輪が回る振動が伝わってくる。
「おや、面白いことを言う」と、ルーファスが好奇心が溢れる表情で、ルナを見た。
「では、貴女は本当の魔族を見たことがあるというのでしょうか」
眠そうな目付きのまま、ルナが横目でルーファスを睨め付ける。
ルーファスはまったく物怖じする素振りを見せずに、ルナの視線を笑みで受け止めた。しばらくの間、二人は見つめ合う。
ルナは眉を顰めて、首を捻った。
「…どこかで会ったことがあるかしら」
「さあ」と、ルーファスは目を細めた。
「長く生きていますから。会ったことがあるかも知れませんね。まあ、何処にでもある顔ですし」
言うと、ルーファスはわざとらしく肩を竦めた。
ルナは彼をひとしきり睨んだ後で、ふっと息を吐いた。目を逸らして腕を組み直す。
「魔族のことなんて思い出したくもないわ」
そして、視線を窓の外に向けた。
パティアが納得のいかない顔で、ルナを見据える。
その時、ルーファスがぽんと手を叩いた。
「こんな話を聞いたことがあります」
彼に視線が集まる。
「何者かによって、この世界に蒔かれた悪意。その悪意を宿した生き物のことを、人間たちは魔族と呼ぶようになった、と」
ルーファスが、パティアに笑みを向けた。
「パティアさんが言っている魔族は、こちらのことでしょう」
戸惑った表情のパティアに頷いて見せてから、今度はルナの横顔に目線を向けた。
「そして――」と、ルーファスが続けた。
「悪意を蒔いた存在。こちらの方は、彼らのことを魔族と呼んだ。どちらも、正しい」
ルナが、視線だけでルーファスの方を振り向いた。
「なるほどなあ」
クラウスが感心した様子で頷きながら、その太い腕で大仰に腕組みをする。
「生み堕とされた魔族と、生み堕とした方の魔族か」
その言葉に、ルーファスが付け足す。
「古い文献では、人間界の魔族と、魔界の魔族という言い方もあるようですね」
「へー」と、パティアが感嘆の息を漏らした。
「詳しいのね。とても」
ルーファスが人差し指を、自身の唇に軽く当てた。
「そこそこ長く生きているもので」
ルナも母親から、魔族がどんな存在であるのか聞かされた。
それは、決して知識を得るためではなかった、――ただ、自らを守るために。
ルーファスが語ったことは、真実だ。
彼は悪意と言ったが、彼らにとってそれは悪意ですらない。むしろ、彼らにとっては正義だとすら言える。目的ですらない。それが彼らの存在理由だからだ。
「そんなものとは、会いたくはねえな」
クラウスがおどけるように言う。その言葉に、返事をしたのはルーファスだけだった。
「ええ、まったくです」
パティアは何やら考え込むように、眉間に深い皺を寄せた。
窓の外に視線を戻したルナは、遠くの森の木々をぼんやりと眺めた。




