第三章 7:死の予言
獣道としか思えない小道を歩きながら、木々の合間を抜ける。
二人が枯葉を踏む音が、森の中で異質に響いた。近くで、バサバサと鳥が飛び立つ。
「この世界はな、何十もの世界が重なり合っているんだ」
足を止めずに、シュタインが先を歩くウィルの背中に向けて語り掛ける。
「先ほど通った世界は、魔力の源となる精霊たちの世界だ。物質で構成されているこっちの世界とは違って、純粋に近いエネルギーで満ちている」
シュタインが淡々とした口調で続ける。
「それに距離の概念も緩いからな。あっちを通った方が早いってわけだ」
理解が追い付かない。だが、自身の体験が、ウィルにそれが事実であることを告げる。
「この世界における魔法の才能っていうのはな、重なり合う別の世界を知覚できるかどうか、感覚的に認識できるかどうかってことなんだ」
今まで、そんなことは考えたこともなかった。
見慣れたはずの小道が、二重にだぶって見える気がする。ウィルは慌てて目を擦った。
「先ほどのも、魔法なんですか」
「まあ、そんなもんだ」
シュタインの返事を聞いても、ウィルはまだ理解し難い表情で首を捻る。
ふと視界が開ける。見慣れた一軒家が見えた。
庭で、オルヴァンが斧で薪を割っていた。五十に近い年齢のはずだが、筋骨隆々とした剥き出しの上半身は若々しい。
二人に気付いて、オルヴァンが手を止めた。斧を下ろして無造作に腕で汗を拭う。
「父さん、ただいま」
手を上げるウィルに、オルヴァンが腰を伸ばしながら答えた。
「お帰り。元気そうだな」
そして、息子の後ろにいる人物を見て、慇懃に頭を下げた。
「調和させし者――いえ、シュタイン殿、ようこそおいでくださいました」
「オルヴァン、堅苦しい挨拶は止してくれ」と、シュタインが苦笑いする。
「…調和させし者?」
眉を顰めながら、ウィルが聞き返した。
そう言えば、あの銀髪の魔物やクラリッサも、シュタインのことをそう呼んでいた気がする。
「古い呼び名だ」
シュタインがさらりと流す。
「どうでしたか。息子はお役に立てましたでしょうか」
問うオルヴァンに、シュタインはほんの一瞬だけ言葉を選ぶように視線を落とした。
「その件でなあ…」と、傍らのウィルをちらりと見ると、ゆっくりと瞬きしながらオルヴァンに視線を戻した。
「大事な話がある。俺からの、頼み事と言ってもいい」
オルヴァンが不思議そうな顔で、シュタインを凝視する。
ウィルも真剣な眼差しで、父親を見つめた。
「とりあえず入ってください。話を聞きましょう」
オルヴァンが玄関の扉をゆっくりと開けて、二人を家の中へと誘った。
ウィルの目には、シュタインの前にティーカップを置く父親、オルヴァンの手が、心なし緊張しているように見えた。
三人分のティーカップを置いたオルヴァンが、ゆっくりとシュタインの真向かいの席に着く。
自家製のハーブティーがほのかに香り立つ。薄く立ち上る湯気をくゆらせながら、シュタインが無造作に持ち上げたカップに口を付けた。
「美味いな」と、シュタインがにこやかな表情で言う。
「これを飲むために、オルヴァンに会いに来ているようなもんだ」
オルヴァンも笑顔を作って答えた。
「このお茶は私の自慢ですから。妻の療養地の近くで自生していた香草を、裏の森で栽培してるんです」
「…ルシアナか」
シュタインの目が遠くを見る。
――ルシアナ・セレスティア・マリオール。
マリオール王国、現国王の妹であり、オルヴァン・フェルナーの妻。
ウィルも、療養地のことは覚えている。彼はそこで生まれた。美しい湖の畔にある、森に囲まれた小さな村だった。目を閉じれば、いつでもあの光景を思い出すことができる。
「母のことも知っているのですか」
病弱で、いつもベッドに横たわっていた母親の姿。穏やかな表情を浮かべて、幼いウィルの頭を優しく撫でてくれた。
「すまんな」と、シュタインは小さく頭を下げた。
「あれは、俺の油断だった。もう少し早く気付いていれば、あんなことにはならずに済んだかも知れない。悪かった。本当にすまない」
ウィルはきょとんとシュタインを見る。
横から、オルヴァンが静かに言った。
「ウィルは何も知らないのです」
眉を顰めて二人を見比べるように視線を向けるウィルを横目に、シュタインは苦笑いしながら髪を掻き上げて頭を押さえた。
「…余計な話をしてしまったようだな」
「いえ」と、オルヴァンがテーブルの上に乗せた手をそっと握る。
「いずれ知ることです。…いや、今まで話す切っ掛けがなかった。私の弱さ、です」
オルヴァンは物憂い顔付きで、目を伏せる。彼の視線はテーブルの一点をじっと見つめていた。
しばしの沈黙が、場に帳を下ろす。ウィルは戸惑った表情で、父親の普段はあまり見せることのない沈んだ顔を眺めた。
沈黙を破ったのは、おもむろに顔を上げたオルヴァンだった。
「…ウィルは、母のことをどれくらい覚えている?」
彼が五つか六つの時に、母親は亡くなった。思い出すのは、病室のベッドの上で身を起こして窓の外を眺めているその横顔だ。彼女は部屋に入って来たウィルに気付くと、振り返って優しく微笑んで見せた。
ウィルは少し考えて、口を開いた。
「…すみません。あまり、覚えていなくて――」
言いかけて、「あっ」と声をあげた。
「そう言えば、本を読んでもらったことがあります。海の魔物に立ち向かった、英雄の話だったかな」
これまで、あまり母親のことを思い出すことはなかった。しかし、こうして思い返してみると、子供ながらに見た母親の幾つもの表情が脳裏に浮かぶ。
オルヴァンが懐かしむように微笑んだ。
「ルシアナは冒険譚が好きだったからな」
そして、彼はハーブティーで口を湿らせてから続けた。
「パティア様を見ていると、ルシアナを思い出すよ」
第二王女であるパティアは、ルシアナの姪にあたる。ルシアナも、彼女と同じ金色の髪をしていた。
正直、ウィルからすれば、ベッドに伏していた母親と、あの溌溂なパティアのイメージは全く重ならない。
「確かに、似ている雰囲気はあるかもなあ」
隣で言うシュタインを、ウィルは難しそうな顔で見た。
「…母さんって、あんな感じだったんですか」
シュタインとオルヴァンが目を合わせる。先に目を逸らしたシュタインが、カップを持ち上げてハーブティーを啜った。
仕方なくといった様子で、オルヴァンが口を開いた。
「少し、強引な一面もあったがな。――誰にでも分け隔てのない、優しく聡明な母であり、良き妻だった」
そして、ふっと表情を綻ばせた。
「パティア様もそうだろう」
誤魔化された感じもするが、ウィルはとりあえず頷いて見せた。
パティアの責任感の強さは知っている。無謀と言えるほどの好奇心も。しかしそれは、王家の血筋というよりも、どちらかと言えば本人の性質のような気がする。
そんなことよりも――。
ウィルは冷めた手元のカップに目を落とす。
「母さんは、ただ病気だったんじゃないんですか」
視線を上げて、シュタインと父親を交互に見据えた。
オルヴァンはじっと息子を見つめ返す。
「母さんは、な――」
彼は視線を逸らさない。
「優しかったんだ。優し過ぎた」
オルヴァンの瞳で、歪な翳りが揺れる。彼はわずかに口元を強張らせた。
「そいつは、自らが引き起こした災厄の、難民の中に紛れ込んでいたんだ。気弱な、面倒見の良い青年の振りをして」
そこまで話すと、オルヴァンは言葉を詰まらせた。テーブルの上で静かにこぶしを握り固める。
続きを、シュタインが引き継ぐ。
「奴はマスターと呼ばれるほど何百年も生きた、ヴァンパイアの王だった。俺が言うのもあれだが、とても狡猾な奴でな。罠に嵌って、ルシアナは奴の毒牙に堕ちてしまったんだ」
「…それが、病気の原因だったってわけなんですね」
意外と冷静でいられていることに、ウィルは内心で驚いていた。
ウィルにとっては、母親は物心付いた頃から病弱で、ベッドに伏している姿が日常だった。それ以外の、例えば元気に走り回っている母親の姿なんて想像もできない。
父親やシュタインの気持ちは理解できる。ただ、失った物の大きさが違うのだろう。
「あまり驚かないんだな」
不思議そうに問いかけるシュタインに、ウィルは淡々とした口調で答えた。
「…ええと、驚いてはいます。でも、…なんていうか、おれの知っている母さんは、いつもベッドの上で笑っていたから。実感が湧かなくて」
申し訳なさそうに言うと、ウィルは改めて二人を見た。
「シュタインさんと父さん、そして母さんは、そんな化け物を相手に戦ったことがあるんですか。そちらの方にもっと驚いています」
オルヴァンがゆっくりと頷く。
「もう二十年以上も前の話。ここより、遥かに北方の地での事件だ。知っている者も多くはない」
そして、彼はふと遠い目をする。窓の方をちらりと眺めた。
一陣の風が、窓枠に吊るした薬草の束を揺らす。
「いや、もう一人いるな。あの事件のことを良く知っている人間が」
オルヴァンが懐かしそうに、口元をわずかに綻ばせた。
「彼女がいなかったら、私たちも無事ではいられなかっただろう。しばらく噂も聞かないが。…今、どこで何をしているのやら」
「誰なんですか。おれの知っている人ですか?」
ウィルの問いに、オルヴァンは目を細める。
「カトリアーナ・ピアルシュド」
オルヴァンが、ゆっくりとその名前を口にした。
「大陸で三大賢者のうちの一人に数えられる、大魔導士だ」
――三大賢者。
ウィルは思わず息を呑み込んだ。
オルメシア・グランドテイル。
イルレリアム・エルメジア。
そして、カトリアーナ・ピアルシュド。
名前は、ウィルも聞いたことがある。
吟遊詩人たちが唄う英雄譚のなかで、彼らはその強大な魔力や、深遠な知性で、魔族や非道極まる暴君を討ち倒し、国や民を救う。たまに訪れた王都の酒場で流れるその唄に、ウィルは心を弾ませたものだ。
「…三大賢者って、本当に存在するんですね」
「ああ」と、オルヴァンが大きく頷いた。
「私も、会ったことがあるのは、カトリアーナだけだがな」
これまであまり語られることのなかった父親の過去の一部に、ウィルは衝撃を受けた。
王都での事件に巻き込まれた時に、父親の名前を口にしたウィルに警備兵が言った言葉が、改めて思い出された。
――ああ。有名人だ。…良くも、ある意味では、悪くも、な。
その言葉の意味が、少し理解できた気がした。
「そろそろ本題だ」と、シュタインがティーカップをテーブルに置いた。
彼の視線が、オルヴァンと、その息子のウィルに注がれる。
「ある筋からの情報だが――」
シュタインは言いにくそうに、一旦言葉を切る。
そして自嘲めいた笑みを浮かべて、自身の後ろ頭に手を当てた。
「どうやら俺は、近い未来に、死ぬことになるらしい」
ウィルとオルヴァン、二人の目が驚きのあまり大きく見開かれた。




