第三章 6:空間を渡る
それは唐突に終わり、一気に視界が広がったが、まだ焦点を上手く合わせられない。すべてが滲んで見えた。
腹の底から込み上げてくるものを抑え切れずに、ウィルは体を屈めてその場に胃の内容物を吐き出した。げほげほと咳き込みながら、胃の中が空っぽになるまで吐き続ける。
――何が起こったのか、理解できなかった。
「最初は吐きそうになるもんだ。我慢しろ」
シュタインのその言葉の後、まるで魂が無理やりに後ろに引っ張られるような感覚があった。
同時に視界は景色を失い、何も見えなくなる。いや、違う。言葉にするのが難しい。何も見えないのではない、それは見えていた。しかし、圧倒的な質量で、視界が塞がれている感じだ。
体は、――魂と言った方がいいか、平衡感覚が消失し、立っているのか、逆さまに宙に浮かんでいるのかも分からない。脳が無限に広がり続けて、思考がまとまらない。
意識を保てたのは、唯一、肩に置かれたシュタインの手の感触が残っていたからだ。
永遠の時間の中に、彼は放り込まれた。終わりという概念を忘れるほど。
しかし、こうして地面に立って吐しゃ物を散らしているウィルは、すべてが一瞬のうちに終わったことを理解できた。
まだ頭が割れるように痛い。無限に広がった脳を、力尽くで頭蓋骨の中に押し込められたようだ。
新鮮な空気を荒い呼吸で取り込んで、ウィルの体は少しずつ平静を取り戻す。徐々に痛みも遠ざかり、彼の吐しゃ物で覆われた木の根元がはっきりと見えてきた。
口元を袖で拭いながら、ウィルは涙目で顔を上げた。
「…こ、ここは?」
先ほどまでエルドヴァルの街から近い丘陵にいたはずだが、彼の周囲にあるのは鬱蒼とした木々だ。
森の中にいるようだが、不思議な既視感がある。
「落ち着いたか」と、隣でシュタインが声を掛ける。その口調はさほど心配した様子はない。
シュタインは腕組みして、値踏みするような視線をウィルに向けていた。
咳を抑え込んだ喉を擦りながら、ウィルが頷く。
「…はい。ここはどこなんでしょうか」
しばらく彼の目を覗き込んで、ようやくシュタインは破顔した。
「良かった。きちんと自我が保ててるな」
シュタインの言っていることがよく理解できない。ウィルは真っ赤に充血した目で、彼を怪訝そうに見た。
「いや、な」と、シュタインがさらりと続ける。
「記憶障害ぐらいは覚悟していたからなあ。下手したら廃人、…いや、肉体が繋ぎ止められなくなってばらばらになっていたかも知れない。本当に良かったよ」
ウィルの顔から血の気が引いて、さらに真っ青になる。
「…シュタインさん。そういうのは前もって言ってください」
「ははは」と、シュタインが誤魔化すように笑った。
ウィルの足が落ちた枯れ枝を踏む。あらためて彼は周囲を見回した。
高く伸びた広葉樹の葉の隙間から、陽光が差し込む。耳を澄まさずとも、遠くから鳥のさえずりが聞こえてきた。そのさえずりも、聞き慣れたものだった。鳥の種類まで分かる。
「道案内は、ウィルに頼むよ」
ウィルの肩に、シュタインがぽんと手を置いた。
「ひょっとして…」
見慣れた小道を見つけて、ウィルは彼を伴って先に進む。
しばらくして、滝の音が聞こえてきた。ウィルは音のする方向へと向かった。
――やはり、そうだ。
視界が開けて、大きな滝が姿を現した。滝つぼの近くに洞穴が見える。父親のオルヴァンが食料の貯蔵庫として使っている洞穴だ。
「ここは、おれの…」
唖然とするウィルの言葉に、シュタインは「そうだ」と頷いた。
この森も、この滝も、ウィルは覚えている。ここはウィルと彼の父親が住む家の近くだ。
エルドヴァルからここまで、徒歩なら三、四日はかかる。それが、瞬きほどの一瞬で、彼はここに立っている。状況を理解して、ウィルはようやく混乱した。これまで混乱する余裕もなかった。
「空間を渡ったんだ」と、シュタインが、ウィルの背中に言う。
「この世界から、ちょっと隣の世界に移って、そこを移動してからここに戻って来た」
「――隣の世界?」
ウィルが振り返る。
シュタインが苦笑いして、答えた。
「これは、ルナも知らないことだ。俺たち、男同士の秘密にしてくれ。そして――」
表情を改めて、シュタインが射抜くような視線をウィルに向けた。
「知ったからには、もう戻れないぞ」
ウィルも表情を引き締めて、力強く頷いた。
「覚悟していたことです」
シュタインが見定めるように、ウィルを見つめた。その視線を、ウィルはしっかりと受け止める。
「分かった」と、シュタインが表情を緩めた。
「その前に、挨拶はしておかないとな」
シュタインは首を傾けて、ウィルの肩越しに遠くを眺めた。




