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皇后になった妹と選ばれなかった私 〜エリザベートの姉は不幸な女ではなかった〜  作者: ゆうらり薄暮


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9 失う前の静けさ




 夫の熱は、いったん下がったかに見えて、また戻った。


 よくなるのではないかと期待し、翌日には咳の深さに胸を冷やし、三日後には少し食欲が出たことに安堵する。


 そんな小さな希望と不安の往復が続くうち、私は時間の流れ方まで変わってしまったように感じていた。


 朝に聞く咳の音で、その日の心の重さが決まる。

 食卓でどれだけ口にできたかで、夕暮れまでの祈りの深さが変わる。

 夜、安らかに眠っているように見えれば、私はその寝息を数えながらようやく目を閉じる。


 冬は過ぎた。


 庭の雪は溶け、枝先には淡い芽がふくらみ、窓から差す光もやわらかくなっていった。

 けれど夫の体から、冬だけが抜けていかない。


 幸福の家にも冬は来る。

 そして時に、その冬は季節が変わっても居座り続ける。


 それはまず、暖炉のそばに座る人の頬から少しずつ血の気を奪っていく。


 医師は前より頻繁に訪れるようになった。


 薬草の匂い。

 低い声。

 慎重すぎる言い回し。


 どれも私は嫌いではなかったが、好きにもなれなかった。


 人は、はっきり絶望を告げられるのも怖い。

 だがそれ以上に、絶望の名を呼ばれぬまま、部屋の隅に置かれ続けるのは消耗する。


「胸を安静に」


「無理はなさらぬように」


「疲れが重なっておいでです」


 どれも本当なのだろう。

 だが、その本当はいつも一歩だけ核心を避けている気がした。


 私はある日、とうとう医師に尋ねた。


「この方は、よくなるのですか」


 医師は答えるまでに、ほんのわずか間を置いた。

 その間が、すでに答えの半分だった。


「ご養生次第では、落ち着く時もございましょう」


「時も」


 私が言うと、医師は目を伏せた。


「奥方様」


「私は、慰めではなく知りたいのです」


 自分でも驚くほど静かな声だった。


 怒っていたわけではない。

 ただ、これ以上霧の中を歩かされるのに耐えられなかった。


 医師は慎重に言葉を選んだ。


「長く、完全にご壮健でおられることは難しいかもしれません」


 私はその言葉を、胸の中で何度も繰り返した。


 長く。

 完全に。

 ご壮健でおられることは難しい。


 死ぬとは言わない。

 だが、以前のようには戻らないとも言っている。


「わかりました」


 それだけ答えると、医師は深く頭を下げた。


 私は強い娘として育った。

 表情を崩さず、必要な言葉だけを返すことはできる。


 けれどその晩、ひとりで衣装部屋に立った時、鏡に映った自分の顔は、思っていたよりずっと青ざめていた。


 私はようやく理解した。


 これは、いつか治るまでの辛抱ではないかもしれない。

 これから先、私は失うかもしれぬ人と共に日々を生きていくのだ。


 子どもたちはまだ幼かった。


 父の病を理解するには小さすぎる。

 それでも何かを感じ取るのだろうか。


 寝室の前で急に静かになったり、私の顔をじっと見たりすることが増えた。


 私はそのたびに笑った。


 大丈夫よ、と笑った。


 そうしながら、ふと気づく。


 私は今、妹が何度もしてきたであろうことをしている。


 不安を飲み込み、周囲を安心させるための顔をつくること。


 ただし私には、宮廷がない代わりに家族がある。

 そして何より、顔を外して泣ける部屋がある。


 その違いは大きかった。


 そんな頃、私はまた身ごもっていることを知った。


 新しい命が自分の内にある。

 それは本来なら、ただ喜ばしい知らせであるはずだった。


 けれど夫の咳が深くなるたび、喜びの隣に冷たい不安が腰を下ろした。


 この子が生まれる頃、夫はそばにいてくれるだろうか。

 この子を抱く手は、まだ温かいだろうか。


 そんな考えが頭をよぎるたび、私は自分を叱った。

 まだ何も失っていない。

 まだ夫はここにいる。

 まだ、未来を悪い形に決めてしまってはいけない。


 それでも恐れは、叱ったくらいでは出ていかなかった。


 ある夕方、夫は珍しく居間まで下りてきた。


 暖炉の前の椅子に腰を下ろし、毛布を膝に掛ける。


「無理をなさらないで」


「寝台の上だけでは、気が滅入ります」


 声は落ち着いていた。

 だが以前より細い。


 私はその変化に気づかぬふりをして、紅茶を注いだ。


「少しは飲めそう?」


「あなたがその顔をやめてくださるなら」


「どんな顔?」


「今にも私を薬瓶ごと飲ませそうな顔です」


 私は思わず顔を上げた。

 彼は少しだけ笑っている。


「そんな顔はしていないわ」


「しています」


「していません」


「では、少し口にします」


 私はため息をついた。


 そのやり取りが、可笑しくて、苦しくて、胸が痛んだ。


 彼はひと口飲み、それから火を見つめた。


「この家の暖炉の匂いは落ち着きますね」


「妹も同じようなことを書いていたわ」


 ふいにそう言うと、彼は私を見た。


「手紙が?」


「ええ。私の手紙を読んで、暖炉の匂いを思い出したと」


 夫はしばらく黙っていた。


「妹君は、よほどお疲れなのですね」


「たぶん」


 私は紅茶の縁を指先でなぞった。


「最近のあの子は、美しさの中へ籠っているように見えるの。旅や運動や、節制や、髪や、鏡の中の自分に」


「それがなければ立っていられないのかもしれません」


「そうね」


 私はうなずいた。


「そして私は今、別の意味で、同じようなことをしているのかもしれないわ」


「同じ?」


「家事の順番とか、薬の時間とか、子どもたちの寝かしつけとか。手を動かしていないと、怖さが形になってしまう気がする」


 彼はやわらかく目を細めた。


「人は皆、耐えるための手すりを必要とするのでしょう」


 手すり。


 その言葉が胸に残った。


 妹の手すりは、美しさ。

 私の手すりは、暮らし。


 似ているようでいて、決定的に違う。


 美しさは人の目に晒される。

 けれど暮らしは、人を家の中へ守る。


「私のほうが、ずっと幸運ね」


 思わずこぼれた言葉に、彼は首を振った。


「幸運というだけではありません」


「では何?」


「あなたが、その暮らしを大事にしてきたからです」


 私は黙った。


 そう言ってもらえることが、嬉しく、同時に悲しかった。


 だが、暮らしを大事にしても、人は病む。

 愛しても、失うかもしれない。


 その事実だけは変わらない。


 数日後、妹からまた手紙が届いた。

 今回は封を切る前から、何かが重く沈んでいるのがわかった。


 姉さま。

 こちらでは舞踏会の準備が続いています。

 私はまた、きれいに見えるように立ち、笑い、褒められました。


 皆が安心した顔をするのを見ると、私も笑わなければと思うの。


 でも、時々、あの死んだ子のことを思い出して、鏡の前で急に何もわからなくなります。


 私は便箋を持つ手に力を入れた。


 続きには、ほとんど懺悔のように書かれていた。


 私は悪い母だったのかしら。

 もっとそばにいれば、何か違ったのかしら。


 そう考えても無駄だと皆は言うけれど、無駄でない悲しみなんてあるの?


 私はその一文を読み、目を閉じた。


 無駄でない悲しみなんてあるの?


 なんという問いだろう。


 悲しみは、役に立つから抱くものではない。

 けれど周囲はいつも、悲しみを早く意味へ変えたがる。


 神の試練。

 成長。

 次の子。

 皇后としての務め。


 そうして悲しみから棘を抜こうとする。

 だが抜かれた棘の跡は、本人の中で膿むばかりだ。


 私は返事を書こうとして、しばらく何も書けなかった。


 夫は病み、妹は心を削られ、私はその中間に立っている。


 どちらにも手を伸ばしたいのに、私の手は自分の家の中だけで精いっぱいだった。


 ようやく私は、正直に書くことにした。


 無駄でない悲しみなど、たぶんないわ。


 でも、無駄だからといって、おまえが悲しんではいけない理由にはならない。


 おまえがあの子を思うのは、母だからよ。

 それを誰にも取り上げさせてはだめ。


 書いたあと、私は長く便箋を見つめた。


 強い言葉だった。

 けれど今の妹には、やわらかな慰めより必要かもしれないと思った。


 その夜、夫の咳はひどかった。


 私は水差しを持って寝室へ行き、背を支える。


「すみません」


「どうして謝るの」


「起こしてしまった」


「起きていたわ」


「では余計に悪い」


 私は思わず笑った。


 こんな時でも、この人は妙なところで律儀だ。


「それより、少し楽になった?」


「少しだけ」


 彼は息を整えながら言った。


「あなたがそばにいると、少し」


 その言葉に、私は水差しを置く手を止めた。


 そばにいると少し楽。


 それだけのことが、これほど胸を締めつけるとは思わなかった。


 妹も、誰かにそう言ってもらえたならよかったのに。


 皇帝陛下はあの子を愛している。

 だが、あの人のそばにいることで妹は楽になれたのだろうか。


 それとも、愛されるほどに皇后としての役目が重くなっていったのだろうか。


 私は夫の額に触れた。


 熱は以前より高い気がする。


「明日は何もなさらないで」


「そうしたいのは山々ですが」


「いいえ。そうしてください」


 私が強く言うと、彼は少しだけ目を丸くし、それから諦めたように笑った。


「わかりました、奥方様」


 私はその笑みを見るたび、たまらない気持ちになる。


 いとおしい。

 恐ろしい。

 失いたくない。


 その全部が一緒に胸へ押し寄せる。


 深夜、ようやく寝息が穏やかになったあと、私は寝台の脇の椅子に座ったまま動けなかった。


 灯りは小さい。

 火も静かだ。

 家の中は穏やかで、壊れかけているようには見えない。


 けれど人の体は、家より先にほころぶ。


 私はそこで初めて、妹への羨望が完全に別のものへ変わっていたことに気づいた。


 もう私は、皇后の座も、美しさも、誰もが振り返る華やかさも欲しいとは思わない。


 ただ、こうしてそばにいる人を失わずに済むなら、それでよかった。


 幸福の基準は、とうに変わっていた。


 あの十九歳の夏、若い私は何を見ていたのだろう。


 輝く未来。

 栄冠。

 選ばれるという甘さ。


 けれど今ならわかる。


 選ばれることより、誰かと同じ家の暖炉を囲めることのほうが、ずっと深く人生をあたためるのだ。


 翌朝、上の子が父の寝室へ行きたがった。


 私は少しためらったが、短い時間だけ入れることにした。


 夫は枕にもたれ、子を見て顔をほころばせた。


「来てくれたのですね」


 子はまだすべてをわかっているわけではない。

 けれど父の様子がいつもと違うことは感じているのだろう。


 おずおずと小さな手を伸ばす。

 彼はその手を指先で包み、しばらくじっと見つめていた。


 私は扉のそばで、その光景を見守っていた。


 失う前の静けさ。


 そんな言葉が、ふいに胸に浮かんだ。


 まだ奪われてはいない。

 まだここにある。


 けれど、それが永遠ではないと知ってしまった者の見る穏やかさは、以前とは違う色を帯びる。


 私はその色を、妹はもっと前から知っていたのかもしれないと思った。


 子を失った日から。

 美しさの檻へ身を寄せた日から。

 鏡の前で、自分が何のためにそこにいるのかわからなくなった日から。


 私はようやく、その場所へ少し近づいていた。


 だからこそ、なおさら思う。


 一歩違えば、あれは私だった。


 だが、同じ不幸が来たとしても、私は妹とは違うかたちでそれを抱ける。


 この家では、人として泣くことが許されるから。


 それがどれほどの救いかを、私はまだ失いきっていない今、すでに知っていた。

 

※完結まで毎日投稿です。

よろしくお願い致します。

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