8 幸福の家にも冬は来る
幸福な家にも、冬は来る。
それはある日いきなり扉を破って入ってくることもあれば、窓の隙間から冷えた空気のように、少しずつ忍び込んでくることもある。
私の家にも、子どもたちの声が増えていた。
泣き声。
笑い声。
小さな足音。
乳母を呼ぶ声。
眠りかけた子が、何かを探すように私の指を握る感触。
その一つひとつが、家の中に暮らしの層を重ねていった。
かつて静けさだけだった部屋には、玩具が置かれ、柔らかな布が増え、思いがけない場所に小さな靴が転がるようになった。
私はその乱れを、いつの間にか愛しいと思うようになっていた。
整った家より、生きている家のほうがいい。
そう思えるようになったことが、自分でも少し不思議だった。
けれど、その幸福な家に最初のはっきりとした陰りが差したのは、夫がひと冬のあいだ何度も咳き込むようになってからだった。
最初は、誰も深刻には受け取らなかった。
冷たい空気のせいでしょう。
働きすぎです。
少し休めばよくなります。
医師も、召使いたちも、私自身も、そう思おうとしていた。
けれど咳はやまず、やんでもまた戻った。
顔色は少しずつ白くなり、以前より疲れやすくなり、食卓の席でも時折、ふと遠くを見るような顔をする。
ほんのわずかな変化だった。
他人が見れば気づかぬかもしれないほどの。
だが共に暮らす者には、それで十分だった。
私は次第に、家の中の静けさの質が変わっていくのを感じていた。
以前の静けさは、ぬくもりを包む柔らかな布のようなものだった。
けれど今の静けさには、耳を澄ませば何か悪い知らせが潜んでいるような張りがあった。
ある夜、私は暖炉のそばで本を開いていた。
子どもたちはすでに眠り、家の中は穏やかに更けていた。
夫は書類を片づけていたが、ふいに強く咳き込み、私は思わず本を閉じた。
「大丈夫?」
「ええ」
そう言って笑おうとする。
だがその笑みは、少しばかり無理をしているように見えた。
「また医師を呼ぶわ」
「そこまでのことではありません」
「そこまでのことではない咳を、あなたは何週間続けているの」
私が言うと、彼は少し黙った。
「心配をかけていますね」
「当たり前でしょう」
私は本を脇へ置き、立ち上がった。
「あなたは私が体調を隠すのを嫌うくせに、ご自分は平気な顔をなさるのね」
彼は苦笑した。
「あなたほど上手には隠せていないつもりでした」
「十分よくありません」
私の声が思ったより固くなっていたのだろう。
彼はようやく書類から手を離し、椅子にもたれた。
「怖いのですか」
その問いは静かだった。
私はすぐには答えられなかった。
怖い。
もちろん怖かった。
けれど、その言葉を口にすれば、まだ形になっていない不安に輪郭を与えてしまう気がした。
「ええ」
それでも私は答えた。
「怖いわ」
すると彼は、私を見つめて小さくうなずいた。
「そうでしょうね」
否定しないことが、ありがたかった。
大丈夫だと軽く流されるより、よほど救いになった。
私は彼のそばへ行き、テーブルの端に手を置いた。
「あなたに何かあったら困るの」
「そんなに頼りなく見えますか」
「そういう冗談を言ってほしくない時もあるわ」
私がそう言うと、彼は少しだけ申し訳なさそうに目を伏せた。
「すみません」
私は深く息を吐いた。
叱りたいわけではない。
ただ、不安に冗談で薄布をかけられると、その下でかえって不安が育つのだ。
「医師を呼びます」
「わかりました」
それだけのやり取りなのに、なぜか胸が重かった。
後日、医師は明確なことを言わなかった。
胸を冷やしたのでしょう。
過労もあります。
休養が必要です。
滋養をつけて、無理をなさらぬように。
どれも間違いではないのだろう。
だが、どれも私の不安を晴らしはしなかった。
人は、はっきりと悪いと言われるのも怖い。
けれどそれ以上に、何も断言されぬまま薄い霧の中を歩かされることにも疲れる。
私は初めて、自分の家の中で先の見えない不安を抱えた。
妹のことを思った。
あの子はずっと、先の見えぬ不安の中にいるのかもしれない。
誰もが正しいことを言い、誰もが善意を差し出し、それでも苦しさの正体だけは掴めないまま。
以前の私は、妹を遠い悲劇の中心にいる人のように見ていた。
けれど今、自分の家に冷たい影が差し始めて、ようやくわかる。
不幸とは、劇的な音を立てて来るばかりではない。
むしろ静かな家ほど、そこへ落ちる影の輪郭はくっきり見える。
夫は私を安心させようと努めた。
以前と同じように笑い、子どもたちを抱き上げ、庭も歩いた。
けれど階段を上ったあとに一瞬だけ息を整える様子や、深夜の咳の長さは、私の目を逃れなかった。
ある朝、私は目を覚ますと、隣の寝台が空いていることに気づいた。
胸がひやりとして、急いでガウンを羽織って部屋を出る。
夫は書斎にいた。
窓辺に立ち、手紙を読んでいる。
ただそれだけなのに、私はしばらく扉の前で動けなかった。
失うかもしれぬと一度思ってしまうと、人はそこにいる姿を見てもなお、安堵と同じだけ恐れを覚えるものらしい。
「どうしたの」
私の気配に気づいた彼が振り向いた。
「起きたらいらっしゃらなかったから」
「すみません。起こしたくなくて」
「そういう気遣いは時々、心臓に悪いわ」
彼は少し笑い、それから咳をひとつした。
その軽い咳さえ、今の私には刃物のように感じられる。
私は窓辺へ近づき、彼の手から手紙をそっと取った。
「何を読んでいたの」
「ウィーンからです」
その言葉に、私は顔を上げた。
差出人を見れば、宮廷に近い親族からのものだった。
私はためらったが、夫は静かに言った。
「読んでかまいませんよ」
そこには、妹の近況が遠回しな筆致で記されていた。
皇后陛下はますますお美しくなられたこと。
近頃は乗馬や運動に熱心で、節制をいっそう重んじておられること。
ご気分には波がおありのようだが、お立場をお忘れになることは決してなく、周囲も細やかに支えていること。
美しい文章だった。
そして、何ひとつ安心できることが書かれていなかった。
「こういう便りって、どうしてこんなに何も言わずに全部言うのかしら」
思わず漏れた私の言葉に、夫は苦く笑った。
「それが宮廷の文章なのでしょう」
私は手紙を折りたたんだ。
妹はますます美しい。
ますます節制している。
ますます周囲に支えられている。
つまり、ますますひとりになっているのではないか。
私は急に、ひどく妹に会いたくなった。
手紙ではなく。
肖像でも噂でもなく。
あの子の声を聞きたかった。
昔のように、同じ部屋で、同じ空気の中で。
だがそれは、たやすくかなう願いではなかった。
私には私の家がある。
妹には妹の宮廷がある。
そして私たちはもう、若い日の姉妹のようには、どちらの人生にも踏み込めない。
その日、私は久しぶりに妹へ長い手紙を書いた。
子どもたちのこと。
夫の体調のこと。
庭に降りた霜のこと。
朝、台所から漂ってきた焼き菓子の匂いのこと。
取り立てて意味のない、日々の断片を丁寧に並べた。
最後に、こう添えた。
おまえが美しくしていなければならぬ場所にいるのだとしても、せめて私の前では息を整えていいのよ。
私はおまえの顔色ではなく、おまえの声を知っているのだから。
書きながら、胸が詰まった。
妹を助ける力はない。
それでも、せめてあの子が誰かに見られる存在である前に、声を持つ人間であったことを忘れたくなかった。
数日後、夫の熱が上がった。
高くはない。
だが、じわじわと引かず、顔色はさらに悪くなった。
私は眠れない夜を過ごすようになり、子どもたちの世話の合間に何度も寝室と居間を行き来した。
こんな時、自分が妻であることを思い知らされる。
日々の食卓や穏やかな会話の中では見えにくいが、いざ相手が弱った時、心は剥き出しになる。
私はこの人を失いたくない。
あまりにもはっきり、そう思った。
夜更けに薬を持って寝室へ入ると、彼は半ば目を閉じたまま言った。
「まだ起きていたのですか」
「寝ていられるわけがないでしょう」
「でも、あなたも休まなければ」
「今はそういうことを言わないで」
私が薬を渡すと、彼は少し苦笑しながら飲み下した。
「怖い顔をしていらっしゃる」
「怖いもの」
「私が?」
「違うわ。これが」
私は言葉に詰まり、ようやく絞り出した。
「何もできないことが」
その瞬間、自分の声が震えているのがわかった。
妹も、こんな気持ちを何度味わったのだろう。
子に対して。
自分の人生に対して。
宮廷の中で、何もかも自分ひとりではどうにもできぬまま。
夫は枕に沈んだまま、私を見た。
「あなたは何もできないのではありません」
「いいえ」
「こうして、ここにいてくださる」
その言葉に、私はかえって泣きそうになった。
ここにいること。
ただそばにいること。
それが無力ではないのだと、誰かに言ってもらうのは、こんなにも救いになるのか。
私は寝台の脇へ膝をついた。
「どうか、よくなって」
祈るような声になってしまった。
彼は弱く笑い、私の指先にそっと触れた。
「努力します」
「そういう返し方、ずるいわ」
「少しだけでしょう」
私は涙ぐみながら笑った。
こんな時でも、笑わせようとする。
その優しさが愛おしく、同時に恐ろしかった。
失いたくないものほど、人は壊れやすい。
返事は、妹から先に届いた。
姉さま。
あなたの手紙を読んで、暖炉の匂いを思い出しました。
あなたの家には、ちゃんと人の暮らしの匂いがあるのね。
私は最近、鏡の前で立ち尽くしている時、自分が何のためにここにいるのかわからなくなることがあります。
でも姉さまの手紙を読むと、昔の自分の呼吸を少しだけ思い出せるの。
私はその文を、指でなぞった。
昔の自分の呼吸。
それを思い出すために、妹は姉の手紙にすがらねばならない。
美しい皇后の部屋には鏡があり、宝石があり、侍女がいて、何不自由ないように見えるだろう。
それでも、呼吸ひとつ思い出せぬほど人は自分から離れてしまうのか。
そして私は今、熱に浮かされた夫の寝顔を見守りながら、そのことを以前よりずっと深く理解していた。
幸福の家にも冬は来る。
痛みは来る。
喪失の影もまた差す。
だが、それでもなお、この家には人の手が届く。
妻としてそばにいられる。
母として子どもたちを抱ける。
泣きたい時に泣いてよく、怖いと口にしても責められない。
妹の人生との違いは、そこにあるのだと、私は今さらのように悟った。
もしこの先、私にも大きな不幸が来るとしても。
それでも私は、人として悲しむことを許される場所にいる。
そのことの意味が、今の私には痛いほどわかった。
暖炉の火は小さく揺れていた。
外では冬の気配が、いよいよ濃くなっていく。
私は夫の寝台のそばに座り、静かに祈った。
神よ。
どうかこの家から、これ以上のぬくもりを奪わないでください。
そして遠い宮廷にいる妹にも、せめてひと夜ぶんの安らかな呼吸をお与えください。
その時の私は、まだどこかで信じていた。
冬が過ぎれば、きっとすべては少しずつよくなるのだと。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




