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皇后になった妹と選ばれなかった私 〜エリザベートの姉は不幸な女ではなかった〜  作者: ゆうらり薄暮


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7 妹の美しさという檻




 妹の長女が亡くなってから、いくつもの季節が過ぎた。


 喪の黒はいつか脱がれる。

 祈りの言葉も、やがて日々の会話の中へ薄れていく。

 周囲の人々は、少しずつ以前の暮らしへ戻っていく。


 けれど、妹の悲しみまで明けたようには思えなかった。


 むしろあの子は、そこから少しずつ別のものへ身を寄せていった。


 旅。

 乗馬。

 散歩。

 そして美しさ。


 人々は言う。

 若き皇后は類いまれな美貌をいっそう磨き、ますます人目を奪うようになったと。

 節制を重んじ、体を鍛え、髪を整え、その姿は見る者を圧したと。


 それを聞くたび、私は胸の奥に薄い痛みを覚えた。


 かつての妹は、美しかった。

 だがそれは、野に咲く花のようなものだった。


 見せるためというより、そこにあるだけで周囲の空気を変えてしまう種類の美しさ。


 今の妹の美しさは違う。

 研がれ、保たれ、守られ、同時に自らを縛る鎧になりつつある。


 ある日の午後、私はウィーンから届いた写しの肖像を見つめていた。


 そこに描かれた妹は、息を呑むほど美しかった。

 首筋は白く細く、腰は驚くほど締まり、髪は豊かに流れ落ちている。


 けれどその美しさの奥に、私は以前にはなかったものを見た。


 張りつめたもの。

 寄せつけぬもの。

 そして、少しばかりの冷たさ。


「奥様」


 声をかけられて振り返ると、子守を終えた乳母が戸口に立っていた。

 私は慌てて肖像から目を離した。


「お眠りになりましたよ」


「そう、ありがとう」


 乳母が去ったあと、私はもう一度だけ妹の顔を見た。


 この美しさは、あの子を守っているのだろうか。

 それとも逆に、あの子が壊れていくさまを、いっそう見事に飾り立てているだけなのだろうか。


 答えは出なかった。


 我が家では、子がようやく言葉にならぬ声で笑うようになっていた。


 朝、揺り籠をのぞき込むと、小さな口もとがふわりとほどける。

 それだけで一日が明るくなる。


 私は以前よりも忙しかった。

 けれどその忙しさは、宮廷のそれとは違う。


 誰かの目を気にして動く忙しさではなく、目の前の暮らしに引っぱられる忙しさだった。


 ある朝、私は子を抱いたまま窓辺に立っていた。


 庭には薄く霧がかかり、草の先が朝露に濡れている。

 子は私の胸もとに頬を寄せ、あたたかな重みを預けていた。


 その時ふいに、妹はこういう朝をどれほど持てただろうと思った。


 誰にも急かされず。

 誰の許しも待たず。

 ただ母として子を抱き、朝の光を見ていられる時間を。


 私は知らぬうちに、子を抱く腕に力を込めていたらしい。


「そんなに強く抱くと、苦しいかもしれませんよ」


 後ろからの声に振り返ると、夫が立っていた。

 私ははっとして腕をゆるめた。


「ごめんなさい」


「謝ることではありません」


 彼は近づいてきて、私の腕の中の子をのぞき込んだ。


「考え事を?」


「ええ」


「妹君のことですか」


 私は小さくうなずいた。


 彼は私の顔を見て、それ以上はすぐに尋ねなかった。

 問い詰めず、言葉が出るのを待つ。


 そういうところが、この人にはある。


「妹の肖像が届いたの」


「新しいものが?」


「ええ。とても美しかったわ」


「それは何よりです」


 その返事に、私は少し苦く笑った。


「何よりなのでしょうか」


 彼は私の顔色を見て、わずかに表情を改めた。


「違うのですね」


「ええ」


 私は子を乳母へ預け、夫と二人で小さな居間へ移った。


 暖炉には火が入り始めたばかりで、まだ部屋の空気に冷えが残っている。


「皆はあの子の美しさを褒めるの。ますます輝きを増したと」


「あなたには、そうは見えない?」


「輝いてはいるわ」


 私は暖炉の火を見つめた。


「でも、火が強すぎるのよ。あまりに強く燃えている火は、いつか自分まで焼いてしまう気がする」


 夫は黙って聞いていた。


「昔の妹は、美しさを意識しすぎてはいなかったの。もちろん自分が美しいことはわかっていたでしょうけれど、それはあの子の一部でしかなかった。風を好み、外を走ることを好み、空の色に見入る。そういうもの全部があの子だった」


 私は指先を組んだ。


「でも今は、美しさだけがあの子の砦になっている気がするの」


「砦」


「ええ。何も自分の思うようにならない場所で、せめて自分の体だけは自分のものであろうとしているみたいに」


 夫はゆっくりとうなずいた。


「ありえることです」


「やっぱりそう思う?」


「人は追いつめられると、自分で支配できるものへしがみつきます」


 私は目を伏せた。


 食べること。

 痩せること。

 髪の一本に至るまで整えること。


 それらは傍から見れば、虚栄のように映るかもしれない。

 けれどその奥には、他の何ひとつ選べぬ人間の必死さがあるのかもしれなかった。


「私、若い頃は」


 私はぽつりと言った。


「あの子の美しさが羨ましかった」


 夫は何も言わなかった。

 驚くことでも責めることでもないと知っている顔だった。


「誰の目も惹きつけてしまうの。私がどんなに整えても届かないところへ、あの子は何もせずに立っていた」


 苦くはあったが、もう認められる。


 あの夏の私には、それが眩しくて、悔しかった。


「でも今は」


 私はゆっくり息を吐いた。


「今は、あの美しさがあの子を苦しめているように見える」


 誰もが妹に美しさを求める。


 皇后として。

 帝国の象徴として。

 人々の夢として。


 あの子が人である前に、姿であることを望まれている。

 そのことの残酷さが、今の私には昔よりわかる。


 数日後、妹から手紙が届いた。

 珍しく少し長かった。


 姉さま。

 このところ皆が私の顔色がよいと言うの。

 体も前より軽いわ。


 そう言われるたび、私は変な気持ちになります。

 軽くなればなるほど、自分がどこかへ消えていく気もするのに。


 そこを読んだだけで、胸が冷えた。


 続く文には、舞踏会のこと、乗馬のこと、散歩のことが書かれていた。


 皇帝陛下は変わらずお優しいこと。

 けれどお忙しく、私もまた落ち着かぬこと。

 宮廷の人々は以前より私に気を遣うが、その気遣いがかえって壁のように感じられること。


 そして最後に、こうあった。


 私が美しいあいだは、皆が少しだけ安心するの。

 だからたぶん、私は美しくしていなければならないのね。


 私はその一文から目を離せなかった。


 美しいあいだは、皆が安心する。


 なんと恐ろしい言葉だろう。


 それはつまり、妹が人として安らいでいるかどうかではなく、見た目が保たれているかどうかで周囲が満足するということだ。


 泣いていても、苦しんでいても、痩せていても、微笑みが美しければよい。


 それではまるで、女ではなく飾りではないか。


 私はすぐに返事を書こうとして、手を止めた。


 何を書けばいい。


 美しくなくていいと書いても、妹は美しさの外へ逃げられない。

 気にしないでと書いても、気にせずに済む立場ではない。


 私は長く考えた末に、こう書いた。


 おまえが美しいから皆が安心するのではなく、本当はおまえがそこにいてくれるから安心したいのだと、いつか誰かが気づくといいわね。


 でも、たとえ気づかれなくても、私は知っている。


 おまえの価値は、その細い腰や長い髪だけではないわ。


 それは慰めにもならぬ綺麗事かもしれなかった。

 けれど私は、せめて姉としてそれを書かずにはいられなかった。


 その夜、私は子を寝かしつけたあと、ひとりで小さな衣装箪笥を開けた。


 若い頃のドレスの断片が、布に包まれて残っている。

 あの十九歳の夏に着た瑠璃色の布切れもあった。


 指先でそっと触れる。


 なめらかな手触り。

 あの日の硬さがよみがえる。


 あの時の私は、選ばれなかったことばかり見ていた。


 妹に視線を奪われ、未来を奪われたように感じていた。


 けれどもし本当にあの場で選ばれていたなら、私は今ごろどうなっていただろう。


 鏡の前で痩せた体を確かめ、髪の一本まで整え、誰かを安心させるためだけに微笑む女になっていたかもしれない。


 そう思うと、背筋が寒くなった。


 私はもともと、我慢はできる。

 正しくあろうとすることもできる。


 けれど、その正しさの中で少しずつ自分が削られていく時、妹のように外へ逃げることも、美しさに籠ることも、うまくできなかったかもしれない。


 そうなれば私は、もっと静かに壊れただろう。


 その考えは、以前にも胸をよぎった。

 だが今は、前よりはっきりと現実味をもって迫ってくる。


 一歩違えば、あれは私だった。


 けれど妹がそこへ立ったからこそ、私はその恐ろしさを外から知ることになった。


 翌日、庭で子を遊ばせていると、夫が書類を持ったままやって来た。


「ずいぶん真面目なお顔ですね」


 私が言うと、彼は苦笑した。


「真面目でない顔で書類は読めません」


「それはそうね」


 彼は芝の上にしゃがみ、子の小さな手を指先でつついた。


 子は不思議そうな顔をしてから、きゃっと笑う。


 その光景を見て、私はふと胸があたたかくなった。


「どうしました」


「いえ」


 私は笑った。


「こういう姿を見ていると、幸せというものは案外、ひどく地味なのだと思って」


「あなたは地味なものを、最近ずいぶん好まれるようになった」


「若い頃は、もっと違ったのよ」


「存じています」


「うそ。知らないでしょう」


「少しは想像できます」


 私は眉を上げた。


「どんなふうに?」


「今よりもっと、ご自分を律しておられたのでしょう」


 私は少し考えてから、うなずいた。


「そうね。いつも正しく見えたかった」


「今も十分にお強いですよ」


「強いというより、肩の力が抜けただけよ」


 彼は立ち上がり、私を見た。


「それを強さと呼ぶのではありませんか」


 私は返事に困って、ただ笑った。


 この人は時々、静かな声で思いがけないことを言う。


 その夜、私は妹の返事を待ちながら、長く眠れなかった。


 あの子は今ごろ何をしているのだろう。


 鏡の前に立っているのか。

 窓の外を見ているのか。

 それとも、もう泣くことにも疲れて、何も感じぬようにしているのか。


 数日後に届いた返書は、また短かった。


 姉さま。

 あなたはいつも私のことを人として見てくれるのね。

 それだけで、少しだけ息ができます。


 私はその一文を、何度も読み返した。


 少しだけ息ができます。


 たったそれだけ。

 たったそれだけのことが、宮廷の妹にはどれほど貴重なのだろう。


 私は便箋を胸に抱きしめた。


 何もしてやれない。

 その無力さは変わらない。


 けれど、せめて妹が人でいられる場所を、手紙の中だけでも守りたい。


 美しさしか持たない妹。

 昔の私はそう思ったことがあったかもしれない。


 けれど今は違う。


 あの子は美しさしか持たないのではない。

 あまりに多くを持っていたからこそ、それをしまい込む場所を宮廷に与えられなかったのだ。


 自由を愛する心。

 人の孤独を見抜く目。

 風や光にすぐ惹かれる柔らかさ。


 それらは本来、美しさと同じくらいあの子を形づくっていた。


 だが今の宮廷は、そのどれも必要としていない。


 ただ美しい皇后だけを求めている。


 だから妹は、美しさの檻の中へ自ら入っていく。


 そこが唯一、自分で鍵を握れる場所に見えるから。


 私は窓の外の夜を見た。


 庭は暗く、木々が静かに立っている。

 この家は穏やかだ。

 私を妻として、母として、人として息づかせてくれる。


 妹には、その穏やかさがない。


 それでもなお、美しくあろうとすることでしか立っていられないのだとしたら。


 あの子の人生は、なんと孤独なのだろう。


 私はそっと目を閉じた。


 後世の人々は、華やかな肖像画を見るだろう。

 細い腰と長い髪、誰もが羨む皇后の輝きだけを見るだろう。


 そして、選ばれなかった姉を不幸と呼ぶのかもしれない。


 けれど私は知っている。


 あの輝きの中に、どれだけ息苦しさが閉じ込められているかを。

 そして、誰にも羨まれぬ静かな家の中に、どれほど確かな幸福があるかを。


 それを知るたび、私はあの十九歳の夏に対する見方を少しずつ変えていった。


 あれは、ただ私が選ばれなかった夏ではない。


 妹が美しさという檻へ近づき、私が穏やかな家へ遠ざかった夏だったのだ。

 

※完結まで毎日投稿です。

よろしくお願い致します。

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