6 妹の喪失
幸せな日々というものは、続いている最中にはその形がわかりにくい。
朝が来て、子が泣いて、乳母が慌ただしく出入りし、夫が仕事へ向かい、私は食卓につく。
晴れた日には庭を歩き、雨の日には窓辺で針を持つ。
何事もなく過ぎる一日を、若い頃の私はきっと退屈だと思っただろう。
けれど今は違う。
何事もなく過ぎることこそが、どれほど得がたいかを知っていた。
子はすくすく育っていた。
日に日に目が合う時間が増え、小さな手で私の指をつかむ力も強くなっていく。
夫はそんな様子を見るたび、いまだに少し不思議そうな顔をした。
「どうしてそんなお顔をなさるの」
ある夕暮れ、私は揺り籠をのぞき込む彼に声をかけた。
「いえ」
「また不器用な父親の顔?」
「それもありますが」
彼は眠る子を見たまま言った。
「こんなにも小さな存在が、家の空気まで変えてしまうのだと思うと、驚いているのです」
私は笑った。
「大げさね」
「あなたはそう言いますが、事実でしょう」
たしかにその通りだった。
子が生まれてから、この家の静けさは同じ静けさでも少し違うものになった。
以前は整った室内の落ち着きだったものが、今はそこにぬくもりを帯びている。
泣き声も寝息も、時には慌ただしささえ、この家の一部になっていた。
私はその幸福を、ようやく胸いっぱいに吸い込めるようになっていた。
だからこそ、ふいに思い出すことがあった。
妹が、最初の子を失った日のことだ。
それは私が結婚するより前の出来事だった。
あの頃の私はまだ母ではなかった。
子を抱く重みも、眠る胸の上下を確かめずにはいられない夜も、泣き声ひとつで心臓が縮むような不安も知らなかった。
妹の長女が病を得たという知らせが届いた時、私はもちろん胸を痛めた。
幼い子が苦しんでいる。
妹が苦しんでいる。
そのことを思えば、言葉を失うほどつらかった。
けれど今にして思えば、私はあの時、その悲しみの深さを本当にはわかっていなかったのだ。
わかっているつもりでいた。
だが、つもりでしかなかった。
母になってから、あの知らせは何度も私の中へ戻ってきた。
夜半、我が子が熱を持ったように感じて慌てて額に手を当てた時。
泣き疲れて眠った小さな頬を見下ろした時。
胸に抱いた子の体があまりに頼りなくて、腕に力を込めすぎてしまった時。
そのたびに私は思った。
あの時、妹はどんな思いでいたのだろう。
ウィーンから届いた最初の知らせには、幼い皇女が病に伏したことだけが慎重な言葉で書かれていた。
私はその報せを受け取った日のことを、今でも覚えている。
まだ自分の縁談も定まりきらぬ頃だった。
屋敷の廊下には午後の光が差し、母は手紙を読んだあと、しばらく黙っていた。
「シシィの子が病だそうよ」
その声は静かだった。
静かすぎて、私はかえって不安になった。
「重いのですか」
「まだ、そうと決まったわけではありません」
母はそう答えた。
けれど、その言い方だけで、よくない知らせなのだとわかった。
幼い子は、あまりにもあっけなく熱を出し、あまりにも軽々しく神のもとへ攫われることがある。
当時の私も、それを知識としては知っていた。
けれど知識は、痛みそのものではない。
私はその日のうちに妹へ手紙を書いた。
おまえがそばにいたいと思うなら、どうかその気持ちを恥じないで。
母が子を案じるのは当然のことよ。
誰が何を正しいと言っても、おまえがあの子の母であることは変わらないのだから。
書き終えたあと、私はしばらくペンを置いたまま動けなかった。
この手紙が届くころ、妹の子はまだ熱の中にいるのだろうか。
それとも。
その考えを、私は最後まで形にしなかった。
数日後、返事は来なかった。
代わりに、別の知らせが来た。
妹の長女は亡くなった。
私はその一行を見た瞬間、椅子に腰を落とした。
息がうまくできなかった。
まだ会ったこともない幼い命なのに、その死は胸の奥を深くえぐった。
けれど今ならわかる。
あの時の私は、幼い皇女の死を悼んでいた。
妹を気の毒に思っていた。
若い母から子が奪われたことを、ひどいことだと思っていた。
けれど本当に恐ろしいのは、その先だった。
妹が、その子をどれほど抱けたのか。
母として、泣く子を腕に取り、熱い額に頬を寄せ、冷えていく体を胸に抱いて名を呼ぶことができたのか。
それとも最後まで、宮廷の秩序の中で、母であることさえどこか遠ざけられてしまったのか。
母となった今の私は、そのことばかり考えてしまう。
ある夜、私は揺り籠のそばに座ったまま、ふと涙をこぼした。
子は眠っていた。
あたたかい息をしていた。
何も起きていない。
それなのに、急に妹のことが胸へ押し寄せたのだ。
夫が部屋へ入ってきて、私の顔を見るなり足を止めた。
「どうしました」
私は慌てて涙を拭った。
「何でもないの」
「何でもない顔ではありません」
そう言われて、私は少し笑った。
この人には、そういう言い訳があまり通じない。
「昔のことを思い出していたの」
「昔のこと?」
「妹が、最初の子を亡くした時のこと」
夫は静かに私のそばへ来た。
揺り籠の中の子を起こさないよう、椅子を引く音まで慎重だった。
「あの頃、私はまだ母ではなかったから」
私は眠る子を見つめたまま言った。
「悲しいことだとは思ったの。妹が可哀そうだとも思った。でも、今になってようやくわかるの。あの子が何を失ったのか。何を奪われたのか」
夫は黙って聞いていた。
その沈黙がありがたかった。
慰めは時として、悲しみに急いで蓋をしようとする。
だが彼は、まずその痛みがここにあることを認める人だった。
「妹が」
私は続けた。
「妹が、あの子をちゃんと抱けたのかと思うと」
喉の奥が詰まった。
ちゃんと抱けたのか。
その問いは、母になった今の私にはあまりにも重かった。
夫は静かに答えた。
「あなたは、それを今になって思うのですね」
「ええ」
私は膝の上で手を握った。
「子を失う痛みそのものももちろんだけれど、私はその痛みを妹がどんなふうに味わわされたのかを思ってしまうの」
幼い命の死はそれだけで十分残酷だ。
だが妹の場合、その悲しみはさらに皇后という立場に包まれる。
きっと大勢が同情する。
きっと誰もが気遣う。
きっと誰もが正しい言葉をかける。
そしてその正しさの中で、妹はどこまでもひとりになる。
「私は」
気づけば言葉がこぼれていた。
「以前は、妹が皇后になったことばかりを見ていたの。眩しくて、美しくて、皆に愛されているように見えて」
夫は黙って聞いていた。
「でも今は違う。見れば見るほど、あの子はずっと、選ばれたことの代償を払い続けているのだと思う」
暖炉の火が小さくはぜた。
私は両手を組んだまま、そこから目を離せなかった。
「一歩違えば、あれは私だったかもしれないのに」
その一言は、胸の底から自然に出た。
夫はすぐには何も言わなかった。
しばらくしてから、低い声で言った。
「そうかもしれません」
否定しないことが、かえって私を楽にした。
ありえないことではない。
大げさな想像でもない。
ほんの少し視線が違えば、ほんの少し運命の糸がずれていれば、あの宮廷で泣いていたのは私だったのだ。
その夜、私は眠れなかった。
子の寝台のそばへ行き、何度も顔を確かめた。
あたたかい額。
やわらかな頬。
息をしている。
ここにいる。
それだけで泣きそうになる。
妹のことを思うと、胸がきしんだ。
あの子は、自分の子を失った。
ただでさえつかみきれなかったものを、完全に失った。
その喪失は、あの子の中で何を壊しただろう。
妹から、あの時の手紙が届いたのは、葬儀のあとだった。
黒い縁取りの便箋だった。
文字はいつもの妹のものなのに、どこか沈んでいた。
姉さま。
あの子は天使になりました。
皆さまがそうおっしゃるから、きっとそうなのでしょう。
私はまだ、その言葉を信じられません。
私はそこで目を閉じた。
さらに続く。
あの子の顔を忘れたくないのに、皆が早く安らぎなさいと言うの。
泣いてばかりではいけないと言うの。
神の御心だと言うの。
私はただ、まだ母でいたいだけなのに。
当時の私は、その一文に胸を痛めた。
けれど今の私は、そこに書かれていたものの重さを、ようやく理解している。
まだ母でいたいだけなのに。
その一言に、どれほど多くの苦しみが詰まっていたことか。
子を失った時、人は母であることまで失うのではない。
それなのに周囲は、悲しみを静かに閉じることを求める。
妹はきっと、悲しみにすら形を整えるよう迫られていた。
私はあの時、すぐに返事を書いた。
おまえは今も母よ。
あの子の名を呼んでいい。泣いていい。忘れたくないと願っていい。
誰が何を言っても、おまえがあの子の母だったことは消えないわ。
今読み返せば、拙い言葉だったと思う。
若く、まだ母にもなっていなかった私が、必死に妹へ差し出した言葉だ。
けれど、あの時の私にはそれしかできなかった。
そして母となった今、私はその手紙をもう一度書きたいと思うことがある。
もっと強く。
もっと確かに。
おまえの悲しみは間違っていないと。
しばらくして、親族の集まりでその話題がのぼった日のことも、私は覚えている。
誰もが気の毒がった。
若い皇后には酷なことだと。
お気の毒に、でもお若いからまたお子は授かるでしょうと。
神は試練をお与えになるものですと。
私は黙って聞いていたが、胸の中では何かが冷えていった。
また授かるでしょう。
その言葉は正しいのかもしれない。
だが、今失った子の代わりになる命など、どこにもない。
そう言えるのは、失う前の人間だけだ。
今なら、その冷たさがさらにわかる。
自分の腕に眠る子の重みを知ったあとでは、なおさら。
ある日、私はその時の話を夫にした。
「人は、悲しむ者を慰める時に、どうしてあんなに未来を持ち出すのかしら」
夫は少し考えてから答えた。
「今の痛みに、長く向き合うのが怖いからでしょう」
私は窓の外を見た。
冬の木々が黒く立っている。
「では、妹はきっと、とてもひとりだったわ」
「そうでしょうね」
私は膝の上で手を握った。
「私はあの子を羨んでいたの」
夫は黙っていた。
「ずっと。若い頃は、あの子が持っているものばかり見ていた。美しさも、皇帝の愛も、誰もが振り返るような運命も」
声は思ったより静かだった。
「でも今は、その全部があの子を守らなかったことを知ってしまった」
美しさは守らない。
愛されることも守らない。
皇后であることなど、なおさら守らない。
むしろそれらは、妹を人々の視線の中心へ縫い止め、悲しみの逃げ場を奪っただけなのではないか。
その晩、私は子を胸に抱いて長く揺らした。
乳の匂い。
あたたかな重み。
その当たり前の幸福が、急にかけがえのない奇跡のように思えた。
もし私が皇后だったなら。
もし私があの宮廷で、正しさに囲まれて母になっていたなら。
この子を、こんなふうに夜更けまで抱いていられただろうか。
泣きながら揺らし、名を呼び、ただ母であることに浸っていられただろうか。
わからない。
けれど、もう簡単に「私は妹よりうまくやれたかもしれない」などとは思えなかった。
むしろ逆かもしれない。
あの場所は、誰にとっても容易くはない。
妹はただ、その傷を隠せないほどまっすぐで、美しく、自由を求める性質だったから、ひびが鮮やかに見えるのだ。
最初の喪失は、妹から何かを決定的に奪ったように思えた。
まだ若いのに、もう以前のあの子とは少し違う。
手紙の文字の沈み方が、そのことを物語っていた。
そして私は、その変化を遠くから見ていることしかできない。
それが姉として、ひどく苦しかった。
私はもう、後世の人々の言うような単純な物語を信じていなかった。
皇帝に選ばれなかった姉が不幸で、皇后になった妹が幸福。
そんな形のよい話ではない。
現実はもっと入り組んでいる。
選ばれなかったからこそ守られるものがあり、選ばれたからこそ失うものがある。
そしてその代償は、あまりにも容赦なく、幼い子の死というかたちで妹のもとへ落ちた。
私は暖炉の前で静かに目を閉じた。
神よ。
どうかあの子をお守りください。
できることなら、あの子がまだ母でいられるように。
まだ人として泣けるように。
皇后である前に、ひとりの女として壊れきってしまわぬように。
その祈りは、これまででいちばん切実だった。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




