10 私は抱くことができた
初夏の光が窓辺を明るく照らす頃、私は悟っていた。
夫の病は、もはやよくなるのを待つものではない。
日ごとに機嫌のように軽くなったり重くなったりするのではなく、静かに、けれど確実に、こちらの手から零れ落ちていくものなのだと。
その悟りは、ある朝いきなり降ってきたわけではない。
冬のあいだ、幾度も咳の音に目を覚まし、春になっても抜けぬ熱に怯え、何度も医師の言葉の曖昧さに耐えた。
そうして少しずつ、骨の奥へ染みていった。
人は、失う前から失い始める。
それが病というものなのかもしれない。
それでも私は、最後まで奇跡を待っていた。
待たないことは、まだ終わっていない命に対する裏切りのように思えたからだ。
夫は以前より長く寝台に伏すようになった。
食べられるものは限られ、階段を上ることはもうできず、子どもたちを抱き上げることも難しくなった。
末の子は、まだ生まれて間もなかった。
小さく、頼りなく、眠っている時でさえこの世にしがみついているような命だった。
その子を見るたび、私は胸の中で何度も祈った。
どうかこの子の父を、もう少しだけここに置いてください。
けれど、祈りはいつも望む形で返ってくるとは限らない。
意識の澄んでいる時の夫は、以前と変わらぬ静かな人だった。
冗談を言う。
私の顔色を気にする。
子どもたちのことを尋ねる。
まるで病だけが彼の体に住みつき、人そのものを侵すことにはまだ成功していないかのようだった。
それが、よけいに私を苦しめた。
ある午後、私は寝台の脇で薬を整えていた。
窓の外では初夏の緑が濃くなり始めている。
庭は明るく、空は青く、世界はまるで何事もないようだった。
「ヘレーネ」
呼ばれて顔を上げると、夫がこちらを見ていた。
「なあに」
「少し、そこへ」
私は薬瓶を置き、椅子を寄せた。
彼は息を整えるようにひと呼吸してから言った。
「あなたは最近、私が眠っている時によく泣いていますね」
胸が止まるかと思った。
「泣いていないわ」
反射のようにそう言ってしまってから、自分でも情けなくなった。
こんな時まで私は、昔の癖で平気な顔を作ろうとする。
彼は少し笑った。
病んだ人の笑みは時に、健康な者よりずっと優しい。
「泣いています」
「……見ていたの」
「全部ではありませんが」
私は目を伏せた。
恥ずかしいのではない。
見せまいとしていたものを見られたことが、痛かった。
「だって」
ようやく声を出すと、喉の奥がひどく詰まった。
「だって、あなたが」
その先が言えない。
弱っていく。
離れていく。
死んでしまうかもしれない。
言葉にした瞬間、現実が完成してしまう気がした。
夫はしばらく黙っていた。
それから、細い指でそっと私の手を探った。
私はすぐにその手を握った。
「怖いのですね」
「ええ」
「そうでしょうね」
また、その言い方だった。
私の恐れを軽く扱わない。
否定しない。
だから私は、この人の前でだけは少しずつ本当の自分になれたのだ。
「私は」
息を吸ってから言った。
「失いたくないの」
「ええ」
「まだ、いなくならないで」
願いというより、ほとんど幼子の泣き言だった。
それでも彼は笑わなかった。
「できることなら、そうしたいのです」
私はその手に額を押し当てた。
泣き声は立てなかった。
けれど涙は、どうしても止まらなかった。
それからの日々は、不思議なほど静かだった。
嵐の前の静けさ、というのではない。
もっと違う。
嵐が来ると知った者だけが、最後の穏やかな水面を見つめているような時間だった。
私は子どもたちを抱き、食卓へ向かい、夫の薬を用意し、寝台の脇で本を読む。
夫は目を閉じて聞いている時もあれば、途中で「もう少しゆっくり」と言う時もある。
時には話を遮って、「その主人公はどうしてそんなことを言うのです」と小さく笑うこともあった。
そんな時、私はほとんど錯覚しそうになった。
このまま夏が深まり、秋が来て、また穏やかな日々が続くのではないかと。
だが夜になると、咳は深くなった。
熱も下がりきらず、呼吸はときおり浅くなる。
医師の顔には、もう希望を装う余裕すら薄れていた。
私はそれでも、子どもたちには笑いかけた。
乳母には落ち着いて指示を出した。
使用人たちの前では姿勢を崩さなかった。
けれどひとりになると、私は時々、どうしようもない怒りに近いものを覚えた。
なぜこの人が。
なぜ今なの。
まだ若いのに。
まだ子どもたちはこんなに幼いのに。
末の子は、まだ父の声さえ覚えられないのに。
まだ私たちは、こんなにもこれからだったのに。
その怒りの行き場はなかった。
神にぶつけるには、私は信仰を知りすぎていた。
医師にぶつけるには、彼らもまた無力だ。
夫に向けるなど、言うまでもない。
だから私は、その怒りを胸の奥で凍らせた。
凍ったままの怒りは、痛みとは少し違う重さで体に沈んだ。
妹のことを思った。
あの子もまた、最初の子を失った時、どこへ向ければよいかわからぬ怒りを抱いたのではないだろうか。
自分へ。
周囲へ。
神へ。
何ひとつ変えられぬ現実そのものへ。
そして、皇后であるあの子は、その怒りさえ美しく飲み込むことを求められたのだろう。
私はまだ恵まれていた。
夫の寝台の脇で泣ける。
祈りの最中に声を震わせても咎められない。
子どもたちを抱きしめて、「怖い」と囁ける。
その違いが、今の私には痛いほどわかる。
ある夜、夫は久しぶりに少し長く目を開けていた。
熱のせいか頬は赤く、目だけが妙に澄んで見えた。
「子どもたちは眠りましたか」
「ええ、ようやく」
「今日は上の子がよく笑っていましたね」
「あなたの指を離したくなかったのよ」
彼は弱く微笑んだ。
「賢い子だ」
「親に似たのね」
「では、あなたに」
その軽口が嬉しくて、私は涙ぐみながら笑った。
しばらく沈黙が続いたあと、彼はふいに言った。
「ヘレーネ」
「なあに」
「あなたは、私と結婚して幸せでしたか」
私は息を呑んだ。
「どうしてそんなことを」
「聞きたくなったのです」
私は椅子から身を乗り出した。
「幸せだったわ」
即座に答えた。
ひとつも迷いはなかった。
「とても」
彼は目を閉じかけ、それからまた開いた。
「よかった」
その顔に、私は胸を刺された。
どうして最期に近づく人は、残される者の幸せばかり気にするのだろう。
「あなたは?」
私も問うた。
彼は少しだけ驚いたように見え、それから笑った。
「もちろんです」
「もちろんではわからないわ」
「では、こう言いましょうか」
彼は息を整えた。
「私は、あなたと同じ家の暖炉を囲めたことを、生涯の幸運だと思っています」
私はその場で泣いた。
もう取り繕えなかった。
その言葉があまりにも、この人らしくて、あまりにも私の心の真ん中に届いたからだ。
同じ家の暖炉を囲めたこと。
それこそが、私があの十九歳の夏のあとで手に入れたものだった。
王冠ではない。
帝国の視線でもない。
ただ、同じ家の暖炉を囲める相手。
若い頃の私には、その価値がわからなかった。
今ならわかる。
それは王冠より重く、宝石よりあたたかい。
その数日後、夫の意識はしばしば遠のくようになった。
言葉は短くなり、眠る時間が増え、目覚めてもすぐにまた疲れが訪れる。
私は寝台のそばにいる時間をさらに増やした。
子どもたちは乳母に預けるしかないことも多く、そのたび胸が痛んだ。
末の子の泣き声が廊下の向こうから聞こえるたび、体が二つあればいいのにと思った。
母である私。
妻である私。
どちらも私なのに、同時にすべてを抱くことはできない。
それでも今だけは、どうしても夫のそばを離れがたかった。
そして、ある朝。
空がひどく白く、静かな朝だった。
初夏の光はあまりに明るく、病室の白さを容赦なく照らしていた。
鳥の声は遠く、世界の音だけが薄い。
私は目を覚ますとすぐに、何かが違うと知った。
寝台へ駆け寄る。
夫は目を閉じていた。
呼吸は浅く、長い間を置いて、ようやく次の息が来る。
「……お願い」
何に向かっているのかわからぬまま、私はそう言った。
目を開けて。
ここにいて。
まだ。
まだ行かないで。
夫はその時、ほんのわずかに目を開けた。
焦点の揺れる瞳が、やがて私に合う。
「ヘレーネ」
かすれた声だった。
「ええ、ここにいるわ」
「子を」
私は急いで乳母を呼ばせた。
乳母が末の子を抱いて来た。
まだ生まれて間もないその子は、何も知らず、眠そうな顔をしていた。
私は夫のそばへ抱いて行き、その小さな手をそっと寝台の上へ導いた。
「ここよ」
夫は動くのもつらそうにしながら、指先で末の子の手に触れた。
その顔に浮かんだ微かな安堵を、私は一生忘れないだろう。
「よく……」
そこで言葉が途切れる。
私は身を寄せた。
「何?」
夫は息を探すようにしてから、ようやく囁いた。
「よく……生きて」
それが、子に向けた言葉だったのか。
私に向けたものだったのか。
上の子たちも含めた、この家すべてへ向けた言葉だったのか。
たぶん、その全部だったのだろう。
次の瞬間、私は自分でも驚くほどはっきり叫んでいた。
「いや」
そんな言葉はみっともない。
死にゆく人を引き止めるには幼すぎる。
けれど、口をついて出たのはそれだった。
「いやよ」
私は寝台に身を伏せるようにして、夫の手を握った。
「まだ、だめ」
涙で何も見えない。
祈りも礼儀も、全部どこかへ消えてしまった。
その時、ふと思った。
私は今、ちゃんとこの人を抱いている。
引き止めようとしている。
妻として泣き、妻としてすがっている。
妹は、子を失う時、こんなふうに泣けただろうか。
こんなふうに、みっともなく、必死に、名を呼べただろうか。
私は腕を伸ばし、夫の肩を抱いた。
熱はあるのに、体のどこかはもう冷え始めている気がした。
「お願い……」
それでも、朝は容赦なく明るくなっていく。
光は人の死を待たない。
夫は最後に、かすかに私の手を握り返した。
それから、本当に静かに、息を終えた。
世界は音もなく止まったように思えた。
けれど止まらなかった。
乳母が息を呑む。
末の子が小さく身じろぎする。
廊下の向こうで誰かの足音がする。
暖炉の火は、いつもと同じように小さく燃えている。
私は夫の胸に顔を伏せて泣いた。
声を殺すこともできず、ただ泣いた。
泣いて、泣いて、まだ熱の残る衣を握りしめた。
この人はいなくなった。
この家の暖炉を共に囲んだ人が。
私の言葉を最後まで聞いてくれた人が。
子どもたちの手に触れて笑った人が。
いなくなった。
それはあまりに単純で、あまりに大きな事実だった。
その日一日、私はほとんど何も覚えていない。
人が出入りし、祈りの準備が進み、誰かが私を椅子へ座らせ、水を持ってくる。
私は言われるままにうなずき、時々また泣いた。
ただひとつだけ、鮮明に残っていることがある。
夕方、末の子を抱いた時。
私はその重みを胸へ引き寄せながら、はっきり思った。
妹と私は、どちらも失った。
私も。
あの子も。
けれど私は、この子を抱くことができる。
夫を看取り、最後にすがり、泣き崩れることができた。
人として。
妻として。
母として。
それだけで痛みが軽くなるわけではない。
喪失は喪失だ。
胸は裂けるように痛む。
それでも、その違いは決定的だった。
私は、悲しみを生きることを許されている。
その夜、ようやく人払いされた部屋で、私は末の子を抱いたまま暖炉のそばに座った。
火は静かに燃えていた。
夫のいない暖炉は、同じ火なのにまるで別物のように見える。
私は頬を子の髪に押し当てた。
「お父さまは」
声が震える。
「お父さまは、おまえを愛していたわ」
子はまだわからない。
それでも私は言わずにいられなかった。
「おまえたちを、みんな愛していたわ」
そこまで言って、喉が詰まった。
私も。
愛していた。
愛している。
どちらも本当で、どちらももう届かない。
私は火を見つめながら、長く泣いた。
幸福の家にも冬は来る。
そして冬は、ついに大切なものを奪っていく。
たとえ窓の外が初夏の光で満ちていても、人の胸には冬が降ることがある。
けれど私は今も、あの十九歳の夏を呪うことだけはできなかった。
なぜなら、あの夏に選ばれなかったからこそ、私はこの人と同じ家の暖炉を囲み、この人の最期に手を握り、この人の子を抱いて泣くことができたのだから。
不幸だった。
たしかに不幸だった。
それでもなお、私は不幸な女だったとは言い切れなかった。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




