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皇后になった妹と選ばれなかった私 〜エリザベートの姉は不幸な女ではなかった〜  作者: ゆうらり薄暮


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10/13

10 私は抱くことができた




 初夏の光が窓辺を明るく照らす頃、私は悟っていた。


 夫の病は、もはやよくなるのを待つものではない。


 日ごとに機嫌のように軽くなったり重くなったりするのではなく、静かに、けれど確実に、こちらの手から零れ落ちていくものなのだと。


 その悟りは、ある朝いきなり降ってきたわけではない。


 冬のあいだ、幾度も咳の音に目を覚まし、春になっても抜けぬ熱に怯え、何度も医師の言葉の曖昧さに耐えた。


 そうして少しずつ、骨の奥へ染みていった。


 人は、失う前から失い始める。


 それが病というものなのかもしれない。


 それでも私は、最後まで奇跡を待っていた。


 待たないことは、まだ終わっていない命に対する裏切りのように思えたからだ。


 夫は以前より長く寝台に伏すようになった。


 食べられるものは限られ、階段を上ることはもうできず、子どもたちを抱き上げることも難しくなった。


 末の子は、まだ生まれて間もなかった。


 小さく、頼りなく、眠っている時でさえこの世にしがみついているような命だった。


 その子を見るたび、私は胸の中で何度も祈った。


 どうかこの子の父を、もう少しだけここに置いてください。


 けれど、祈りはいつも望む形で返ってくるとは限らない。


 意識の澄んでいる時の夫は、以前と変わらぬ静かな人だった。


 冗談を言う。

 私の顔色を気にする。

 子どもたちのことを尋ねる。


 まるで病だけが彼の体に住みつき、人そのものを侵すことにはまだ成功していないかのようだった。


 それが、よけいに私を苦しめた。


 ある午後、私は寝台の脇で薬を整えていた。


 窓の外では初夏の緑が濃くなり始めている。

 庭は明るく、空は青く、世界はまるで何事もないようだった。


「ヘレーネ」


 呼ばれて顔を上げると、夫がこちらを見ていた。


「なあに」


「少し、そこへ」


 私は薬瓶を置き、椅子を寄せた。

 彼は息を整えるようにひと呼吸してから言った。


「あなたは最近、私が眠っている時によく泣いていますね」


 胸が止まるかと思った。


「泣いていないわ」


 反射のようにそう言ってしまってから、自分でも情けなくなった。


 こんな時まで私は、昔の癖で平気な顔を作ろうとする。


 彼は少し笑った。


 病んだ人の笑みは時に、健康な者よりずっと優しい。


「泣いています」


「……見ていたの」


「全部ではありませんが」


 私は目を伏せた。


 恥ずかしいのではない。

 見せまいとしていたものを見られたことが、痛かった。


「だって」


 ようやく声を出すと、喉の奥がひどく詰まった。


「だって、あなたが」


 その先が言えない。


 弱っていく。

 離れていく。

 死んでしまうかもしれない。


 言葉にした瞬間、現実が完成してしまう気がした。


 夫はしばらく黙っていた。


 それから、細い指でそっと私の手を探った。

 私はすぐにその手を握った。


「怖いのですね」


「ええ」


「そうでしょうね」


 また、その言い方だった。


 私の恐れを軽く扱わない。

 否定しない。


 だから私は、この人の前でだけは少しずつ本当の自分になれたのだ。


「私は」


 息を吸ってから言った。


「失いたくないの」


「ええ」


「まだ、いなくならないで」


 願いというより、ほとんど幼子の泣き言だった。

 それでも彼は笑わなかった。


「できることなら、そうしたいのです」


 私はその手に額を押し当てた。


 泣き声は立てなかった。

 けれど涙は、どうしても止まらなかった。


 それからの日々は、不思議なほど静かだった。


 嵐の前の静けさ、というのではない。

 もっと違う。


 嵐が来ると知った者だけが、最後の穏やかな水面を見つめているような時間だった。


 私は子どもたちを抱き、食卓へ向かい、夫の薬を用意し、寝台の脇で本を読む。


 夫は目を閉じて聞いている時もあれば、途中で「もう少しゆっくり」と言う時もある。


 時には話を遮って、「その主人公はどうしてそんなことを言うのです」と小さく笑うこともあった。


 そんな時、私はほとんど錯覚しそうになった。


 このまま夏が深まり、秋が来て、また穏やかな日々が続くのではないかと。


 だが夜になると、咳は深くなった。

 熱も下がりきらず、呼吸はときおり浅くなる。


 医師の顔には、もう希望を装う余裕すら薄れていた。


 私はそれでも、子どもたちには笑いかけた。

 乳母には落ち着いて指示を出した。

 使用人たちの前では姿勢を崩さなかった。


 けれどひとりになると、私は時々、どうしようもない怒りに近いものを覚えた。


 なぜこの人が。

 なぜ今なの。

 まだ若いのに。

 まだ子どもたちはこんなに幼いのに。

 末の子は、まだ父の声さえ覚えられないのに。

 まだ私たちは、こんなにもこれからだったのに。


 その怒りの行き場はなかった。


 神にぶつけるには、私は信仰を知りすぎていた。

 医師にぶつけるには、彼らもまた無力だ。

 夫に向けるなど、言うまでもない。


 だから私は、その怒りを胸の奥で凍らせた。


 凍ったままの怒りは、痛みとは少し違う重さで体に沈んだ。


 妹のことを思った。


 あの子もまた、最初の子を失った時、どこへ向ければよいかわからぬ怒りを抱いたのではないだろうか。


 自分へ。

 周囲へ。

 神へ。

 何ひとつ変えられぬ現実そのものへ。


 そして、皇后であるあの子は、その怒りさえ美しく飲み込むことを求められたのだろう。


 私はまだ恵まれていた。


 夫の寝台の脇で泣ける。

 祈りの最中に声を震わせても咎められない。

 子どもたちを抱きしめて、「怖い」と囁ける。


 その違いが、今の私には痛いほどわかる。


 ある夜、夫は久しぶりに少し長く目を開けていた。


 熱のせいか頬は赤く、目だけが妙に澄んで見えた。


「子どもたちは眠りましたか」


「ええ、ようやく」


「今日は上の子がよく笑っていましたね」


「あなたの指を離したくなかったのよ」


 彼は弱く微笑んだ。


「賢い子だ」


「親に似たのね」


「では、あなたに」


 その軽口が嬉しくて、私は涙ぐみながら笑った。


 しばらく沈黙が続いたあと、彼はふいに言った。


「ヘレーネ」


「なあに」


「あなたは、私と結婚して幸せでしたか」


 私は息を呑んだ。


「どうしてそんなことを」


「聞きたくなったのです」


 私は椅子から身を乗り出した。


「幸せだったわ」


 即座に答えた。

 ひとつも迷いはなかった。


「とても」


 彼は目を閉じかけ、それからまた開いた。


「よかった」


 その顔に、私は胸を刺された。


 どうして最期に近づく人は、残される者の幸せばかり気にするのだろう。


「あなたは?」


 私も問うた。


 彼は少しだけ驚いたように見え、それから笑った。


「もちろんです」


「もちろんではわからないわ」


「では、こう言いましょうか」


 彼は息を整えた。


「私は、あなたと同じ家の暖炉を囲めたことを、生涯の幸運だと思っています」


 私はその場で泣いた。


 もう取り繕えなかった。


 その言葉があまりにも、この人らしくて、あまりにも私の心の真ん中に届いたからだ。


 同じ家の暖炉を囲めたこと。


 それこそが、私があの十九歳の夏のあとで手に入れたものだった。


 王冠ではない。

 帝国の視線でもない。

 ただ、同じ家の暖炉を囲める相手。


 若い頃の私には、その価値がわからなかった。


 今ならわかる。


 それは王冠より重く、宝石よりあたたかい。


 その数日後、夫の意識はしばしば遠のくようになった。


 言葉は短くなり、眠る時間が増え、目覚めてもすぐにまた疲れが訪れる。


 私は寝台のそばにいる時間をさらに増やした。


 子どもたちは乳母に預けるしかないことも多く、そのたび胸が痛んだ。

 末の子の泣き声が廊下の向こうから聞こえるたび、体が二つあればいいのにと思った。


 母である私。

 妻である私。


 どちらも私なのに、同時にすべてを抱くことはできない。


 それでも今だけは、どうしても夫のそばを離れがたかった。


 そして、ある朝。

 空がひどく白く、静かな朝だった。


 初夏の光はあまりに明るく、病室の白さを容赦なく照らしていた。


 鳥の声は遠く、世界の音だけが薄い。

 私は目を覚ますとすぐに、何かが違うと知った。


 寝台へ駆け寄る。


 夫は目を閉じていた。

 呼吸は浅く、長い間を置いて、ようやく次の息が来る。


「……お願い」


 何に向かっているのかわからぬまま、私はそう言った。


 目を開けて。

 ここにいて。

 まだ。

 まだ行かないで。


 夫はその時、ほんのわずかに目を開けた。


 焦点の揺れる瞳が、やがて私に合う。


「ヘレーネ」


 かすれた声だった。


「ええ、ここにいるわ」


「子を」


 私は急いで乳母を呼ばせた。


 乳母が末の子を抱いて来た。


 まだ生まれて間もないその子は、何も知らず、眠そうな顔をしていた。


 私は夫のそばへ抱いて行き、その小さな手をそっと寝台の上へ導いた。


「ここよ」


 夫は動くのもつらそうにしながら、指先で末の子の手に触れた。


 その顔に浮かんだ微かな安堵を、私は一生忘れないだろう。


「よく……」


 そこで言葉が途切れる。


 私は身を寄せた。


「何?」


 夫は息を探すようにしてから、ようやく囁いた。


「よく……生きて」


 それが、子に向けた言葉だったのか。

 私に向けたものだったのか。

 上の子たちも含めた、この家すべてへ向けた言葉だったのか。


 たぶん、その全部だったのだろう。


 次の瞬間、私は自分でも驚くほどはっきり叫んでいた。


「いや」


 そんな言葉はみっともない。

 死にゆく人を引き止めるには幼すぎる。


 けれど、口をついて出たのはそれだった。


「いやよ」


 私は寝台に身を伏せるようにして、夫の手を握った。


「まだ、だめ」


 涙で何も見えない。

 祈りも礼儀も、全部どこかへ消えてしまった。


 その時、ふと思った。


 私は今、ちゃんとこの人を抱いている。

 引き止めようとしている。

 妻として泣き、妻としてすがっている。


 妹は、子を失う時、こんなふうに泣けただろうか。

 こんなふうに、みっともなく、必死に、名を呼べただろうか。


 私は腕を伸ばし、夫の肩を抱いた。


 熱はあるのに、体のどこかはもう冷え始めている気がした。


「お願い……」


 それでも、朝は容赦なく明るくなっていく。

 光は人の死を待たない。


 夫は最後に、かすかに私の手を握り返した。


 それから、本当に静かに、息を終えた。


 世界は音もなく止まったように思えた。


 けれど止まらなかった。


 乳母が息を呑む。

 末の子が小さく身じろぎする。

 廊下の向こうで誰かの足音がする。

 暖炉の火は、いつもと同じように小さく燃えている。


 私は夫の胸に顔を伏せて泣いた。


 声を殺すこともできず、ただ泣いた。

 泣いて、泣いて、まだ熱の残る衣を握りしめた。


 この人はいなくなった。


 この家の暖炉を共に囲んだ人が。

 私の言葉を最後まで聞いてくれた人が。

 子どもたちの手に触れて笑った人が。


 いなくなった。


 それはあまりに単純で、あまりに大きな事実だった。


 その日一日、私はほとんど何も覚えていない。


 人が出入りし、祈りの準備が進み、誰かが私を椅子へ座らせ、水を持ってくる。


 私は言われるままにうなずき、時々また泣いた。


 ただひとつだけ、鮮明に残っていることがある。


 夕方、末の子を抱いた時。


 私はその重みを胸へ引き寄せながら、はっきり思った。


 妹と私は、どちらも失った。


 私も。

 あの子も。


 けれど私は、この子を抱くことができる。


 夫を看取り、最後にすがり、泣き崩れることができた。


 人として。

 妻として。

 母として。


 それだけで痛みが軽くなるわけではない。


 喪失は喪失だ。

 胸は裂けるように痛む。


 それでも、その違いは決定的だった。


 私は、悲しみを生きることを許されている。


 その夜、ようやく人払いされた部屋で、私は末の子を抱いたまま暖炉のそばに座った。


 火は静かに燃えていた。

 夫のいない暖炉は、同じ火なのにまるで別物のように見える。


 私は頬を子の髪に押し当てた。


「お父さまは」


 声が震える。


「お父さまは、おまえを愛していたわ」


 子はまだわからない。

 それでも私は言わずにいられなかった。


「おまえたちを、みんな愛していたわ」


 そこまで言って、喉が詰まった。


 私も。


 愛していた。

 愛している。


 どちらも本当で、どちらももう届かない。


 私は火を見つめながら、長く泣いた。


 幸福の家にも冬は来る。

 そして冬は、ついに大切なものを奪っていく。


 たとえ窓の外が初夏の光で満ちていても、人の胸には冬が降ることがある。


 けれど私は今も、あの十九歳の夏を呪うことだけはできなかった。


 なぜなら、あの夏に選ばれなかったからこそ、私はこの人と同じ家の暖炉を囲み、この人の最期に手を握り、この人の子を抱いて泣くことができたのだから。


 不幸だった。

 たしかに不幸だった。


 それでもなお、私は不幸な女だったとは言い切れなかった。

 

※完結まで毎日投稿です。

よろしくお願い致します。

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