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皇后になった妹と選ばれなかった私 〜エリザベートの姉は不幸な女ではなかった〜  作者: ゆうらり薄暮


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11 それでも生きていく




 夫を失ってから最初の数日は、まるで冷たい水の中を裸足で歩いているようだった。


 冷たい。

 痛い。


 けれど、それがどれほど痛いのかを考えるところまで頭が働かない。


 人は大きな喪失の直後、悲しみそのものになるのではなく、むしろ何も感じきれぬまま、ただ次の時刻へ押し流されるのだと私は初めて知った。


 弔問は絶えなかった。


 祈りの言葉。

 慰めの言葉。

 若すぎる死を惜しむ声。

 私と子どもたちを気づかう視線。


 誰もが親切だった。

 だが親切な言葉ほど、時に遠く聞こえる。


「お力を落とされませんように」


「お子様方のためにも」


「神はきっと、この悲しみにも意味をお与えになります」


 私はうなずいた。

 礼を言った。

 姿勢を崩さず、夫の名にふさわしい未亡人として振る舞った。


 けれど心の中には、ひどく冷えた場所があった。


 意味。


 そんなものは今いらない。


 私はただ、この家の暖炉の前に夫がいないという事実だけで、十分に苦しかった。


 誰かが去ったあとの家は、不思議な静けさを持つ。


 人が減っただけではない。

 その人が無意識に占めていた空気のかたちまで、そっくり失われるのだ。


 書斎の椅子。

 読みかけの本。

 机の上に残された紙の重ね方。

 何気なく置かれていた手袋。


 どれもがまだ、この人が戻ってくるような顔をしてそこにある。


 なのに、戻ってはこない。


 私は何度か、書斎の扉の前で立ち尽くした。


 入れば泣く。

 そうわかっていた。


 それでもある朝、とうとう扉を開けた。


 室内には、かすかに夫の残り香があった。


 紙と革と、いつも身につけていた香のごく薄い匂い。

 私はその場で崩れ落ちそうになった。


「……いや」


 誰に向かって言ったのでもない。


 ただ、あまりに無防備にそこに残っている日常がつらくて、口からこぼれた。


 私は机へ近づき、椅子の背にそっと触れた。


 ここに座っていた。

 ここで私を見上げて、小さく笑った。

 ここで書類を読み、時々、あまりに真面目なお顔ですねと私に言われた。


 私は椅子に額を押し当てて泣いた。


 泣きながら、ふと気づく。


 私はこうして泣くことを許されている。


 誰にも止められず、正しい涙の量を求められず、書斎の中でひとり、好きなだけ泣いていられる。


 そのことが、今さらのように胸に刺さった。


 妹はどうだったのだろう。


 子を失った時。

 あるいは、その後も少しずつ何かを失い続けていくたび。


 あの子には、誰の目もなく泣ける部屋があったのだろうか。


 私は子どもたちを抱いて生きねばならなかった。


 その事実が、時に残酷で、時に救いだった。


 朝になれば乳母たちが来る。

 子どもたちは目を覚まし、私を見つけて手を伸ばす。

 食事を与え、着替えさせ、庭へ少し出す。


 末の子は、まだあまりに小さかった。

 父を失ったことも、自分が父の腕に触れたことも、何ひとつ覚えてはいないだろう。


 それでも、その小さな手を見るたびに、夫の最期の言葉が耳の奥によみがえった。


 よく、生きて。


 それは子どもたちへ向けられた言葉であり、私へ向けられた言葉でもあった。


 どれも昨日まで夫と分け合っていた日々の続きなのに、もう私はひとりだった。


 けれど、そのひとりという言葉の中にも、完全な孤独ではない重みがある。


 私は母だった。

 この小さな命たちが、私を現実へつなぎとめる。


 夫を失った直後のある夜、幼い子のひとりが熱を出した。


 たいした熱ではなかった。

 幼子にはよくある程度のものだと医師も言った。


 だが私は青ざめた。


 胸が一気に締めつけられ、息がうまくできなくなる。


 額に手を当てる。

 熱い。

 泣き声が弱い。

 寝台のそばに座る。

 名前を呼ぶ。


 そのひとつひとつが、以前より何倍も恐ろしかった。


 子を失うかもしれぬ、という考えは、母になってから常にどこかにあった。


 だが今は違う。


 夫を失った直後だからこそ、死というものが急に家の中へ近づいている。


 私は夜通し子を抱いていた。

 乳母に任せることができなかった。


 小さな背を撫で、額を冷やし、何度も呼吸を確かめる。


 そして夜半、はっと思った。


 妹もまた、こんな夜を過ごしたのだ。


 もっとひどい熱の中で。

 もっと大きな恐怖の中で。

 しかも、自分の子を抱くことさえ思うように許されぬ場所で。


 その想像に、私は震えた。


「お願い……」


 気づけば私は、夫の最期の時と同じように祈っていた。


「お願い、連れていかないで」


 私の願いは、あまりにも裸だった。


 信仰心の整った祈りではない。

 母の、ただの叫びだ。


 夜が明ける頃には、熱は少しずつ下がった。


 私は子を胸に抱いたまま、涙が出るほど安堵した。


 抱ける。

 こうして、自分の腕の中で朝まで守ることができる。


 それだけのことが、胸を裂くほどありがたかった。


 翌日、私は妹へ手紙を書いた。


 夫の死を知らせたあと、しばらく何も書けずにいたが、今は無性にあの子へ何か伝えたくなった。


 私は昨夜、子の熱に怯えて眠れませんでした。

 朝になってようやく落ち着いて、抱いたまま泣いてしまったの。


 その時、おまえのことを思ったわ。


 私は今さらのように、おまえがどれほど怖かったかを想像しています。


 そこまで書いて、手が止まる。


 想像しています。


 そんな言葉で足りるだろうか。

 足りない。


 けれど私はあの場にいなかった。

 いなかった以上、知っているふりはできない。


 だから私は正直に続けた。


 同じではないけれど、今の私は少しだけ、以前よりおまえに近づけた気がするの。


 近づきたかったわけではない。

 でも喪失は、人を思いがけぬところへ連れていくのね。


 妹から返事が来たのは、それからしばらくしてだった。


 姉さま。

 あなたのお手紙を読んで、泣いてしまいました。


 私はずっと、誰にもあの時のことはわからないと思っていたの。

 たぶん、本当に同じにはわからないのでしょう。


 でも、わかろうとしてくれることが、こんなにもありがたいとは思いませんでした。


 私は便箋を持つ手に、少しだけ力を込めた。


 さらに続く。


 ご主人のことを思うと胸が痛みます。


 姉さまは、ちゃんとお別れができたのね。

 それが羨ましいと言ったら、私は悪い妹かしら。


 私はそこで目を閉じた。


 ちゃんとお別れができた。

 羨ましい。


 そうか。

 妹にとっては、そこなのだ。


 私は夫を看取った。

 最後に手を握り、名を呼び、すがり、泣いた。


 それは残酷で、あまりに痛かった。


 けれど妹から見れば、それは羨むべきことだったのだ。


 子の死は突然で、宮廷の秩序の中で進み、母である妹はきっと十分にしがみつくことさえ許されなかったのだろう。


 だからこそ、私の痛ましい別れでさえ、あの子にはひとつの救いの形に見えてしまう。


 私はそのことに、深く打たれた。


 後世の人々は、私の人生を不幸だと言うかもしれない。


 若くして夫を失い、いくつもの喪失を抱えて生きる女なのだから。


 けれど不幸の中にも、なお人として扱われる余地がある。


 泣くことを許され、抱くことを許され、しがみつくことを許される悲しみがある。


 妹には、その余地があまりに少なかった。


 その違いが、今の私にははっきり見える。


 夏が深まるにつれ、庭の緑はいっそう濃くなった。


 夫のいない夏だった。


 世界は容赦ない。

 私の悲しみなど待たず、光は明るくなり、草は伸び、鳥は枝へ戻ってくる。


 私はその無慈悲さに傷つき、同時に救われてもいた。


 どれほど泣いても、朝は来る。

 どれほど失っても、子どもたちは目を覚ます。


 だから私は、生きるしかない。


 ある日、私は子どもたちを連れて庭へ出た。


 風はやわらかく、葉は濃い影を落としている。

 幼い子が草の色に目を留め、小さく声を上げた。


「きれいね」


 私がそう言うと、子は意味もわからぬまま笑った。


 その笑顔を見て、胸の奥に細い痛みと、同じだけのぬくもりが差した。


 夫はもういない。


 けれどこの子たちの中に、その人の面影は生きる。


 声の調子。

 笑う時の目もと。

 指の形。


 私はそれを見つけるたびに泣きそうになり、同時に、この子たちを守って生きねばと思う。


 私には役目が残っていた。


 それは宮廷の義務のような大仰なものではない。


 ただ、今日も子どもたちに食べさせ、抱き、眠らせ、明日へ連れていくこと。


 そして夫が残した家を、崩れぬよう支えること。


 使用人たちの暮らし。

 子どもたちの後見。

 家の務め。

 届く書類。

 決めねばならぬこと。


 私は泣いてばかりもいられなかった。


 その事実は残酷でもあったが、同時に私を立たせた。


 悲しみの中で何かを守る役目があることは、時に人を縛り、時に人を生かす。


 その役目は重い。

 けれど、人を生かす重さだった。


 妹は今ごろどうしているだろう。


 鏡の前に立ち、美しく微笑んでいるのか。

 それとも旅先の空を見ているのか。

 誰にも見せぬ顔で、ひとり静かに疲れているのか。


 私はこの頃、妹への感情から羨望という色がすっかり抜け落ちたことを知っていた。


 残っているのは、愛情と哀れみ、そして少しの恐れだ。


 恐れ。


 あの子が、これ以上どこへ壊れていくのかという恐れ。


 私は夫を失っても、まだここにいる。


 子どもたちを抱き、泣き、食べ、眠り、庭へ出る。

 人としての輪郭を保ったまま悲しめる。


 妹はどうだろう。


 美しさの檻に閉じこもり、自由のない宮廷で、悲しみさえ形を整えさせられながら、どれだけ自分を失わずにいられるのだろう。


 そう思うたび、私はあの十九歳の夏を思い出した。


 あの時、私は選ばれなかった。


 若い私はそれを敗北と呼んだ。


 けれど、今の私は知っている。


 あれは敗北ではなかった。

 私が人として泣き、人として抱き、人として老いていくための分かれ道だったのだ。


 それでも喪失は喪失だ。


 夫のいない寝台は広く、夜は長い。

 ふとした瞬間に振り返りそうになって、もうそこにいないことを思い知る。


 それでも私は生きていく。


 暖炉に火を入れる。

 子どもたちの髪を整える。

 末の子を抱く。

 庭に出て、夏の匂いを吸う。


 そうしてひとつひとつ、生きていく。


 不幸ではない、と簡単に言う気はない。


 私はたしかに傷つき、喪った。


 けれどそれでもなお、私は自分の人生を空っぽとは思わない。


 この家の暖炉。

 夫の手のぬくもり。

 子どもたちの重み。

 泣き崩れた夜。

 それでも朝が来ること。


 それらは全部、私が確かに生きた証なのだから。

 

※完結まで毎日投稿です。

よろしくお願い致します。

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