表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
皇后になった妹と選ばれなかった私 〜エリザベートの姉は不幸な女ではなかった〜  作者: ゆうらり薄暮


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/13

3 穏やかな結婚と遠い宮廷の妹




 妹が皇后となってから、いくつもの季節が過ぎた。


 最初のうち、家族の話題は自然とあの子のことへ向かった。

 ウィーンから届く便り。皇帝陛下のお心遣い。新しい衣装。宮廷での作法。誰がどれほど妹の美貌に驚いたか。


 私は微笑んで聞いていた。

 聞けた、というべきかもしれない。


 けれど日が経つにつれ、そのひとつひとつが胸のどこかをかすかに削った。

 痛みは鋭くはない。だからこそ厄介だった。

 小刀ではなく、細かな砂に少しずつ削られていくようなものだ。


 周囲はすでに新しい現実に慣れていた。

 皇后エリザベート。

 その響きは、あまりにも早く当然のものになった。


 私はなかなか慣れなかった。


 それでも月日は、こちらの心など待ってはくれない。


 妹はウィーンで皇后となり、やがて母となった。

 けれど母になれば幸せになれるのだと、単純に言えるものでもなかった。


 届く手紙の端々には、宮廷の窮屈さがにじんでいた。

 子を産んでも、その子を思うままには抱けないこと。

 母でありながら、母として振る舞うことさえ誰かの許しを必要とすること。

 そして幼い皇女を失った時、妹の手紙はしばらく途絶えた。


 黒い縁取りの知らせが届いた日、屋敷の空気はひどく静かだった。


 私は妹の悲しみを思い、胸を痛めた。

 けれどその重さを、当時の私はまだ本当にはわかっていなかった。


 まだ、私は母ではなかったから。


 そんな頃、母が私を呼んだ。


 午後の光が差す居間で、母は何通かの手紙を前にしていた。

 顔つきは穏やかだったが、あれは何かを決めた時の表情だった。


「ヘレーネ、座りなさい」


 私は言われた通り、母の向かいに腰を下ろした。


「体調でも悪いの?」


「いいえ。むしろ、その逆よ」


 母は手紙のひとつを指先で整えた。


「おまえのことを考えていたのです」


 私は静かに息を吸った。


 こういう時、話がどこへ向かうのかはだいたいわかる。


「縁談のお話かしら」


 母はほんの少しだけ眉を上げた。


「察しがいいわね」


「娘はそういうふうに育つものですもの」


 すると母は、私の言葉の端に滲んだものを感じ取ったのか、わずかに口もとを曇らせた。


「ヘレーネ」


「申し訳ありません」


「謝ることではありません」


 母は一拍置いてから続けた。


「おまえが傷ついたことを、私が知らないと思っているのなら、それは違います」


 私は母を見た。


 この人は厳しい。

 だが、鈍い人ではない。


「けれどね」と母は言った。「傷ついたまま立ち止まっていても、人生は前へ進んでしまうの」


 その通りだった。

 残酷なくらいに。


 私は膝の上で手を重ねた。


「それで、どのようなお話なの」


 母は手紙を一通、私の前へ滑らせた。


「トゥルン・ウント・タクシス家です」


 その名は私も知っていた。

 古く、豊かな家柄。

 格式も申し分ない。


「先方のご子息、マクシミリアン・アントン殿下」


 母はそう言ってから、私をじっと見つめた。


「悪いお話ではありません」


 私はうなずいた。


 悪い話ではないのだろう。

 むしろ、非常によい話なのだ。


 選ばれなかった姉にあてがわれる慰めではなく、きちんと釣り合う相手。

 家も、立場も、将来性も申し分ない。


 けれどその時の私には、何もかもが遠かった。


「お会いするだけでも」


「ええ」


「してみなさいと?」


「そうです」


 母の声は柔らかかった。

 それがかえって逃げ道をなくす。


「わかりました」


 そう答えると、母は小さく息をついた。


 安堵なのか。

 それとも別の感情なのか。

 私にはわからなかった。


「ありがとう、ヘレーネ」


 私は微笑んだ。

 娘として、もっとも無難な微笑みだった。


 その日の夜、私は久しぶりに妹からの手紙を読み返した。


 丁寧な筆跡。

 ところどころ勢いに任せて書いたような線の乱れ。


 陛下はお優しいわ。

 皆さま親切にしてくださるの。

 でも、毎日が少しずつ窮屈で、私は時々、自分の呼吸の仕方を忘れてしまいそうになるの。


 私はその一文の上に指を置いた。


 窮屈。

 あの子はそう書いた。

 まだ遠慮がちに。

 けれどたしかに。


 私が手にしかけた未来は、いま妹のものだ。

 そして妹は、その未来の中で、すでに息苦しさを覚えている。


 それなのに私は、自分の新しい縁談を前にして心が動かなかった。


 人の心とは、どうしてこうも不自由なのだろう。


 マクシミリアン・アントンに初めて会ったのは、それから間もないことだった。


 私は正直に言えば、ほとんど何も期待していなかった。

 相手がどれほど立派な青年であろうと、今の私にすぐ何かを感じろというほうが無理だと思っていた。


 応接間へ通された時、窓からやわらかな光が差していた。

 その明るさの中に立っていた彼は、まず穏やかな人だという印象を残した。


 華やかさで人目を奪うタイプではない。

 けれど、相手を緊張させぬ空気を持っていた。


 挨拶を交わし、向かい合って座る。

 決まりきった話から始まるものと思っていたら、彼は少しだけ困ったように笑った。


「こういう場では、何から話せばよいのか迷いますね」


 私は思わず相手を見た。


「皆さま、もっとお上手に振る舞われるものではなくて?」


「私はあまり得意ではありません」


 彼は肩をすくめた。


「上手に見せようとして失敗するより、最初から不得手だと申し上げたほうが早い気がしまして」


 私はわずかに目を見開いた。


 そんなことを、縁談の席で言う人がいるだろうか。


 けれど不思議と不快ではなかった。

 むしろ、その正直さに少しだけ気持ちがゆるんだ。


「では、私も正直に申し上げたほうがよろしいかしら」


「ぜひ」


「私も、こういう席は得意ではありません」


 そう言うと、彼ははっきりと笑った。

 その笑いは大きすぎず、こちらを試すようでもなく、ただ自然だった。


「少し安心しました」


「安心?」


「私ひとりが居心地の悪い思いをしているのでなければ」


 その言葉に、私は久しぶりに肩の力を抜いて笑った。


 会話は驚くほど静かに続いた。

 けれど退屈ではなかった。


 彼は私に、何が好きかと尋ねた。

 音楽は。

 読書は。

 散歩は。


 私が答えると、きちんと聞き、興味があればその理由まで尋ねた。


 そして何より、私の沈黙を急かさなかった。


 これまで私は、何かを問われれば正しく答えることばかり考えてきた。


 相手にふさわしい返事。

 家の娘として恥のない受け答え。


 けれど彼と話していると、それとは少し違った。


 私は答えを差し出すのでなく、会話をしていた。


 そのことが、思いのほか新鮮だった。


 別れ際、彼は少し真面目な顔で言った。


「今日お会いできて光栄でした、ヘレーネ殿下」


「私もです」


「またお話しできれば嬉しく思います」


 その一言に、私は慎重にうなずいた。


「ええ」


 彼を見送ったあと、母がさりげなく私の顔をうかがった。

 私はその視線に気づかぬふりをしたが、たぶん少しだけ表情が柔らかくなっていたのだろう。


「悪い方ではないわね」


 そう言うと、母はそれ以上何も言わなかった。


 数日後、私は妹に手紙を書いた。


 おまえの書いてくれた窮屈という言葉が、ずっと心に残っています。


 私は最近、新しい方とお会いしました。

 穏やかで、不思議と息がしやすい人でした。


 こんなことをおまえに書いてよいのかわからないけれど、私はようやく、他の道というものを少しだけ見始めている気がします。


 書き終えた手紙を見つめながら、私は苦笑した。


 他の道。

 まるで今まで自分が行き止まりに立っていたような書き方だ。


 だが実際、そうだったのかもしれない。


 妹が皇后となったことで、私はひとつの未来を失った。

 けれどその喪失のあとに、自分の目で見て、自分の足で選ぶ余地が少しだけ生まれたのだとしたら。


 それは敗北だけではないのかもしれなかった。


 縁談はゆっくり進んだ。


 母も父も乗り気だったし、先方も誠実だった。

 私は何度かマクシミリアン・アントンと会い、そのたびに、この人は人の話を最後まで聞くのだと知った。


 ある時、庭園を歩きながら彼が言った。


「私は、賑やかな場にいると時々、自分が正しく笑えているのか不安になります」


 私は思わず吹き出した。


「そんなことを考えるの?」


「考えます。ヘレーネ殿下は考えませんか」


「考えるわ。でも、口には出しません」


「それでは私のほうが少し損ですね」


 私は笑いながら首を振った。


「少しどころではないかもしれないわ」


「それでも、隠しているより楽です」


 私はその横顔を見た。


 誠実で、少し不器用で、虚飾がない。

 皇帝陛下とはまるで違う。

 その違いを意識しないわけではなかった。


 だが比較する気持ちは、少しずつ消えていった。


 比べること自体が違うのだと、わかり始めていたからだ。


 王冠をいただく人と、家を守る人。

 帝国の中心に立つ人と、日々の暮らしを築く人。


 どちらが優れているという話ではない。

 ただ役目が違う。


 私はたぶん、後者に向いている。


 そのことを認めるのは、かつての私には敗北のように思えた。

 けれど今は、少し違った。


 向いている場所で生きることは、逃げではない。


 妹からの返事は、しばらくして届いた。


 姉さま。

 穏やかな方だと書いていらしたわね。

 私はその言葉を読んで、少し泣いてしまいました。


 こちらでは穏やかという言葉が、だんだん遠くなっていく気がするの。


 皆さまは私に親切です。

 でも私は、親切にされればされるほど、見張られているような気もするわ。


 陛下は優しくしてくださいます。

 けれど陛下は陛下で、お忙しくて、おひとりで、私まであの方のお役に立てているのか時々わからなくなるの。


 私は母になりました。

 けれど母とは何か、ますますわからなくなってしまった。


 私の腕は、いつも何かに足りないの。

 抱きたい時に抱けず、泣きたい時に泣けず、悲しい時でさえ、私は皇后として立っていなければならない。


 そこまで読んだところで、私は便箋を閉じた。


 これ以上は、一度に胸へ入れられなかった。


 穏やかという言葉が、遠くなっていく。


 あの子にとってそれは、どれほどの苦しさだろう。

 私がいま少しずつ手にしようとしているものを、妹はもう失い始めているのかもしれない。


 その夜、私は礼拝堂で長く祈った。


 神よ。

 どうかあの子をお守りください。


 そして、もし許されるなら。

 私に与えられたこの穏やかさを、罪のように感じずに受け取れるようにしてください。


 自分の幸福が、誰かの不幸の裏返しに見えることがある。

 とくにその誰かが、愛する妹であるならなおさらだ。


 婚約が正式に進むと決まった日、私は父と母から祝福を受けた。

 家の者たちも喜んだ。

 誰もが、ようやく私にもふさわしい未来が訪れたと安堵していた。


 私はその言葉を、静かに受け取った。


 妹の時のような華やかな騒ぎではなかった。

 宮廷を揺るがすような大きな話でもない。


 けれど、その静けさが私にはありがたかった。


 自分の婚約を前にして、息ができる。

 それだけで十分だと思えた。


 ある日、マクシミリアン・アントンが私に尋ねた。


「あなたは、どのような家庭を築きたいとお考えですか」


 私は少し驚いた。

 そんなことを、真正面から聞かれるとは思っていなかった。


「妙なことをお聞きしましたか」


「いいえ。ただ、あまりにまっすぐだったから」


「私は回りくどいことがあまり得意ではないのです」


 私は考えた。


 皇后の座を逃した娘として、ではなく。

 よき縁談に恵まれた公女として、でもなく。


 ひとりの女として、自分は何を望むのか。


「静かな家がいいわ」


 彼は黙って聞いていた。


「誰かの機嫌を常にうかがい続けるのではなくて、ほっと息をつける場所がある家。笑うべき時に笑うのではなく、本当に可笑しい時に笑える家」


 言いながら、自分でも驚いた。


 こんな願いが自分の中にあったのだと、その時初めてはっきりした。


 彼は少しのあいだ何も言わなかった。

 それから、静かにうなずいた。


「私も、そういう家がほしいです」


 その返事に、胸の奥がじんわりと温かくなった。


 恋とは違うのかもしれない。

 少女の夢見るような、胸を焼く熱ではない。


 けれど、冬の手袋の中へそっと差し込まれるぬくもりのようなものが、たしかにそこにあった。


 私はようやく理解し始めていた。


 幸福とは、誰もが振り返る眩しいものばかりではない。

 人知れず、静かにこちらの手を取ってくるものもある。


 そしてその頃、遠いウィーンでは、妹が少しずつ宮廷の空気に削られ続けていた。


 まだ誰も、それを大きな不幸とは呼ばなかった。


 若い皇后の気まぐれ。

 少し繊細すぎるだけ。

 自由を好む少女らしい戸惑い。


 人はひび割れがまだ細いうち、その危うさに気づかない。


 だが私は、手紙の行間に、その細いひびの音を聞いていた。


 私の婚約が、静かな喜びの中で進んでいくほどに。

 妹の結婚が、華やかな檻へ変わっていく気配が、遠くからでも見えた。


 あの夏、選ばれなかったことで私は終わるのだと思っていた。


 けれど実際には、その時から私の人生はようやく始まりかけていたのかもしれない。


 そして妹は、選ばれたその日から、少しずつ自分をすり減らし始めていたのかもしれなかった。

 

※完結まで毎日投稿です。

よろしくお願い致します。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ