2 妹が皇后になった日
妹の婚約が決まってからというもの、屋敷の空気はどこか落ち着かなかった。
祝いの言葉は絶えなかった。
侍女たちは浮き立ち、使者はひっきりなしに出入りし、母は休む間もなく手紙を書き続けていた。父もまた、娘が皇后になるという現実を前に、いつになく機嫌がよかった。
誰もが忙しそうにしていた。
誰もが未来の栄光を見ていた。
その中で私だけが、まるで一歩遅れた場所に立っているようだった。
自分が置いていかれたとは思いたくなかった。
けれどそう感じていたのは確かだった。
エリザベートは、私を見るたびに少し困ったような顔をした。
あの子なりに私を気遣っていたのだろう。
けれど気遣われれば気遣われるほど、私は自分の立場を思い知らされた。
ある日の午後、私は廊下の窓辺でひとり立ち止まっていた。
避暑地の空は青く、山の稜線はどこまでも穏やかだった。
こんなにも静かな景色なのに、胸の内だけがひどく騒がしい。
背後で足音がして、振り返るとエリザベートがいた。
「姉さま」
少しためらうような声だった。
私は微笑んだ。少なくとも、そのつもりだった。
「どうしたの」
あの子はしばらく口を開けなかった。
何か言わなければと思っているのに、何を言えばよいのかわからない。そんな顔をしていた。
やがて、絞り出すように言った。
「怒っていらっしゃる?」
私は一瞬、返事ができなかった。
怒る。
その言葉はあまりにもまっすぐで、胸に刺さった。
怒っていたのだろうか。
妹に。
皇帝に。
運命に。
それとも、期待してしまった自分自身に。
私は窓の外へ目をやった。
山の緑がまぶしい。あまりに美しい景色は、ときどき残酷だ。
「怒ってはいないわ」
そう言うと、エリザベートは少しだけ眉を下げた。
「でも、悲しんでいらっしゃる」
私は笑いそうになった。
あの子は本当に、時々だけ鋭い。
「おまえは昔から、ときどき人の心を妙に見抜くのね」
「ときどきではなくて、いつもです」
少しふくれたように言う声が、いつものあの子らしくて、胸が痛んだ。
私は壁際の椅子に腰を下ろした。
エリザベートもためらいながら隣に座る。
ふたりきりになると、急に幼い頃へ戻ったような気がした。
けれど、もう戻れないのだともわかっていた。
「姉さま」
「なあに」
「私、本当にいいのかしら」
私は横顔を見た。
まだ少女の丸みを残す頬。
長い睫毛。
青みがかった瞳の揺れ。
これから帝国の皇后になる娘には、どうにも見えなかった。
「何が」
「だって、母さまは最初……」
そこで言葉が止まる。
私のためだった。
そう口にしなかっただけ、あの子も大人になったのかもしれない。
私はそっと息を吐いた。
「最初に考えられていたことと、最後に決まることが同じとは限らないわ」
「でも」
「陛下がお望みになったのでしょう」
言葉にしてしまうと、不思議と少しだけ楽になった。
これは誰かの悪意ではない。
ただ、そう決まったのだ。
エリザベートは両手を膝の上で握りしめた。
「姉さまは、お優しいわ」
「そんなことはない」
「あります」
私は首を横に振った。
「優しい姉なら、きっともっと上手に笑えるもの」
その瞬間、エリザベートがはっとした顔をした。
しまった、と思った。
弱みを見せるつもりはなかったのに、声にほんのわずか本音が混じってしまった。
妹はしばらく黙っていた。
やがて、小さく言った。
「私、嬉しくないわけではないの」
「ええ」
「でも、怖いの」
「ええ」
「あの方は優しくしてくださる。でも、それだけではどうにもならない気がするの」
私は答えなかった。
わかる、とも言えなかった。
わかるはずがないのだから。
それでも、あの子の怯えは本物だった。
「姉さまは、私が羨ましい?」
その問いは残酷なほど真っ直ぐだった。
私は少し考えた。
嘘をつくこともできた。
できたけれど、もうそればかりでは息が詰まる。
「少しは」
エリザベートが息をのむ。
「でも、それだけではないわ」
私はゆっくり言葉を選んだ。
「おまえが行く先は、私が夢見たようなきらびやかな場所ばかりではないのでしょうね。たぶん、とても重いわ」
妹は黙って聞いていた。
「だから羨ましいと思う気持ちと、可哀そうにと思う気持ちが一緒にあるの」
言い終えたあと、自分でも驚くほど静かな気持ちになっていた。
口に出したことで、ようやく形を得た感情だった。
エリザベートは目を伏せた。
「姉さまにそんなことを言わせるなんて、私、いやな妹ね」
「そうね。少しだけ」
わざと軽く言うと、あの子は目を丸くしたあと、かすかに笑った。
その笑顔はいつもの妹のもので、私はようやく息ができた気がした。
「でも」
私は続けた。
「おまえが悪いわけではないわ」
「本当に?」
「本当に」
「姉さま、私ね」
そこでエリザベートは言いよどんだ。
何かをためらう時の癖で、指先が落ち着きなく動いている。
「陛下にお会いした時、少しだけ、あの方が可哀そうに見えたの」
意外な言葉だった。
「可哀そう?」
「だって、とてもお若いのに、ずっとおひとりで立っていらっしゃるように見えたの。たくさんの人に囲まれているのに、誰もあの方に気軽なことを言えないみたいに」
私は妹の横顔を見つめた。
あの子は人を容貌や肩書きだけで見ない。
そういうところがある。
「だから、私にあんなふうに話しかけてくださった時、少しだけほっとしたのかもしれないと思ったの」
「それでおまえは、陛下をお慰めするつもり?」
「そんな立派なものではないわ」
エリザベートは困ったように笑った。
「ただ、もし本当に私があの方のおそばへ行くのなら、せめて息苦しくない場所をひとつくらい差し上げられたらいいと思ったの」
私は言葉を失った。
十五の少女の考えとは思えないほど柔らかく、危うい願いだった。
その願いが、やがてどれほどあの子自身を傷つけることになるのか、この時の私たちはまだ知らない。
窓の外で鳥が飛び立った。
緑の中を一筋の影がよぎる。
私は妹の手を取った。
細く、温かな手だった。
「シシィ」
「はい」
「おまえは自分が思うより、ずっと勇気があるのね」
エリザベートは驚いたように私を見た。
「姉さまにそう言われると、変な気持ち」
「なぜ」
「だって姉さまのほうが、ずっと強いもの」
私は首を振った。
「強いのではないわ。ただ、諦めるのが上手いだけ」
「それは違うと思う」
妹は珍しくきっぱり言った。
そして少しだけ私の肩にもたれた。
「姉さまは、ちゃんと耐えているのよ」
その一言に、胸が熱くなった。
私は妹の頭を撫でることも、抱きしめることもできなかった。
そんなことをしたら、たぶん涙がこぼれてしまう。
だからただ、指先に少しだけ力を込めて、その手を握り返した。
バート・イシュルの夏から、季節は巡った。
妹は花嫁として、遠いウィーンへ向かう準備を進めていった。
あの子のまわりには、衣装、宝石、作法、手紙、訪問客、祝いの言葉が絶えず積み上がっていった。
年が明け、春が近づくにつれ、私は自分の役目をよりはっきり自覚するようになった。
私は主役ではない。
妹を支え、家族として恥のないように振る舞うべき立場だ。
その事実を受け入れるのは苦しかった。
けれど一度そう定めてしまえば、心はかえって静かになった。
人は選べぬ立場の中にも、選べる振る舞いを見つけるしかない。
婚礼前夜、妹は私の部屋を訪ねてきた。
夜着の上にガウンを羽織り、髪をゆるく下ろしている。
皇后になる娘というより、眠れぬ少女だった。
「どうしたの」
「眠れないの」
「明日に備えて休まないと」
「そう言われると思った」
そう言いながらも、あの子は帰ろうとしない。
私はため息をついて、暖炉のそばの椅子を勧めた。
妹は座るなり、膝を抱えた。
「姉さまは、眠れるの?」
「眠るしかないわ」
「ずるい」
「ずるいの意味がわからないわ」
エリザベートは火を見つめたまま言った。
「姉さまは、いつも何かをきちんと胸の中へしまっておけるでしょう。私はだめ。嬉しい時も怖い時も、ぜんぶ外へ出てしまう」
「それはおまえの長所でもあるわ」
「皇后の長所かしら」
「人としての長所よ」
妹は少し黙り込んだ。
「明日が来なければいいのに」
小さな声だった。
私は思わず顔を上げた。
「そんなことを言ってはだめ」
「言うだけならいいでしょう」
「よくないわ」
私が少し強く言うと、エリザベートは肩をすくめた。
「ごめんなさい」
私はしばらく何も言えなかった。
叱るべきか、抱きしめるべきか。
姉として何が正しいのか、わからなかった。
けれど次の瞬間、私はふと理解した。
この子は栄光を前に震えているのではない。
人生が決まってしまうことに怯えているのだ。
「シシィ」
「なあに」
「明日が来ても、おまえはおまえよ」
妹はゆっくり顔を上げた。
「皇后になっても?」
「ええ」
「本当に?」
「本当よ。誰が何を着せても、どんな名前で呼んでも、おまえまで別人になるわけではないもの」
エリザベートはしばらく私を見つめていた。
やがて、泣きそうな顔で笑った。
「姉さまって、時々すごくいいことを言うわ」
「時々だけなの」
「いつもではないところが姉さまらしい」
私はようやく笑えた。
その夜、妹は私の部屋でしばらく暖炉の火を見ていた。
それから立ち上がり、私の頬にそっと口づけた。
「おやすみなさい、姉さま」
「おやすみ、シシィ」
扉が閉まる音を聞いたあと、私は長く椅子に座ったまま動けなかった。
明日になれば、あの子は皇后になる。
そして私は、皇后の姉になる。
たったそれだけの違いが、これから先の人生をどれほど分けるのだろう。
私はまだ知らなかった。
知らなかったからこそ、ただ目の前の痛みにばかり囚われていた。
翌日、妹は誰よりも美しかった。
白い衣装に身を包み、宝石の輝きを受けながら歩く姿は、まるで朝の光そのもののようだった。
居並ぶ人々の視線がすべてあの子へ集まり、空気さえもひれ伏すように思えた。
私は少し離れた場所から、それを見ていた。
胸が痛まなかったと言えば嘘になる。
あの場所に立つかもしれなかった自分を、ほんの一瞬だけ想像した。
けれど次の瞬間、妹の横顔に浮かぶ緊張を見て、そんな想像は消えた。
あの子は美しかった。
けれど、幸福そうではなかった。
皇帝陛下は誠実な眼差しで妹を見つめていた。
あの方なりに、真心をもって愛しておられたのだろう。
それは見て取れた。
それでも私はなぜか、祝福の中に冷たいものを感じていた。
光が強すぎるのだ。
強すぎる光は、長く人を照らし続けない。
儀式が終わり、歓声があがり、皆が口々に妹の美しさを褒めた。
母は感極まったように涙ぐんでいた。
父は誇らしげだった。
周囲の者たちは、家門に訪れた大きな栄誉に酔っていた。
私は妹のそばへ行き、手を取った。
「おめでとう」
今度こそ、その言葉は前よりも静かに出た。
エリザベートは私を見て、ほんのわずかに表情をゆるめた。
「ありがとう、姉さま」
その手は冷えていた。
私は指先に力を込めた。
言いたいことは山ほどあった。
どうか無理をしないで。
怖い時は怖いと言って。
逃げたくなったら、せめて心だけでも閉じ込めないで。
けれど、そんなことを今この場で言えるはずもない。
だから私は、姉として最も穏当で、最も無力な言葉を選んだ。
「元気でいてね」
あの子は一瞬だけ目を見開いた。
それから、笑った。
「ええ」
その返事を、私は長く忘れなかった。
婚礼ののち、妹は皇帝の傍らへ立ち、私の手の届かない場所へ行った。
人々はその姿に喝采した。
美しい皇后。
若き帝国の花。
誰もがそう呼んだ。
けれど、私は知っていた。
花は美しいからこそ、強い風にさらされる。
あの日、妹が皇后になった時。
私はようやく理解したのだ。
選ばれなかったことの痛みと、選ばれたことの恐ろしさは、同じ日に生まれるのだと。
私はその日、主役にはなれなかった。
けれど同時に、あの眩しすぎる光の中へ踏み込まずに済んだのかもしれない。
そのことの意味を、本当に知るのは、もっとずっと後のことだった。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




