1 皇帝に選ばれた妹と選ばれなかった私
後世の人々は、私の人生を不幸だというだろうか。
若き皇帝を妹に奪われた姉。
皇后の座を目前で逃した哀れな娘。
そう語れば話は早いし、物語としても見栄えがする。
けれど死を前にした今の私には、それがあまりに乱暴な言い方だとわかっている。
人の一生は、たった一度の夏だけで決められるほど単純ではない。
暖炉の火は静かにはぜる。
赤くやわらかな光が冬の薄い部屋に揺れている。窓の外では白く曇った空から細かな雪が落ちていた。
私は膝にかけられた毛布の上に手を置き、ゆっくり息をつく。
年を取ると、遠い昔のことほど鮮明になる。
昨日の食事は曖昧なのに、若い日の夏の匂いは、ふいに胸を刺すほど濃くよみがえる。
私の人生最大の転機は、十九歳の夏に訪れた。
バート・イシュルへ向かう馬車の中で、私はずっと背筋を伸ばしていた。
窓の外には青葉が光り、風はやわらかく、どこまでも夏だった。
馬車が揺れるたび、母のドレスの裾飾りがかすかに鳴る。
向かいに座るエリザベートは何度も窓の外を見ようとして、そのたびに母にたしなめられていた。
「落ち着きなさい、シシィ」
母が低く言うと、妹は唇を尖らせた。
「だって、山がきれいなんですもの」
その声音には少しの悪びれもない。
私は思わず視線をそらし、笑いをこらえた。
あの子は昔からそうだった。
私が身につけるべきことを順番に覚えていた頃、あの子は木々のざわめきや空の色に心を奪われていた。
私は落ち着いていて、従順な娘だった。
エリザベートは美しく、気まぐれで、つかまえようとすると指の間をすり抜ける光のような子だった。
私たちは似ていなかった。
けれどその時の私は、そんな違いが運命を分けるとは思っていなかった。
母がこの旅にどれほどの期待をかけていたか、知らなかったわけではない。
オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ陛下。
若く、生真面目で、帝国を背負う人。
そして私には、彼の花嫁候補としての役目があった。
口に出されなくても、空気でわかる。
良家の娘はそういうふうに育つ。家の期待をまとい、慎ましく微笑み、相手にふさわしい自分であろうと努める。
私もまた、そうだった。
あの頃の私は十九歳で、夢を見るには十分若かった。
自分の未来は、努力と祈りと慎み深さで、ある程度は良い形に整えられるものだと信じていた。
バート・イシュルに着いた日、空はどこまでも明るかった。
避暑地の空気は軽やかで、山々はやさしく連なり、ウィーンの宮廷よりずっと人の息を許すように思えた。けれど私の胸は、不思議なほど重かった。
侍女に髪を整えられながら、私は鏡の中の自分を見つめた。
瑠璃色のドレス。きっちり結い上げられた髪。乱れのない襟元。
鏡の中の私は、申し分なく整っていた。
けれど完璧に整えられたその姿は、少しも自由ではなかった。
別室からは、エリザベートの笑い声が聞こえていた。
母にまた何か叱られたのだろう。
それでもあの子の声は、閉じ込められたものの響きではなかった。
私はほんの少しだけ、その無邪気さを羨ましく思った。
皇帝陛下に初めてお会いした時のことは、今でもはっきり覚えている。
凛々しい軍服姿。
若いのにどこか張りつめた表情。
誠実で、責任感が強く、簡単には息を抜けない人だとすぐにわかった。
私は深く礼をした。
娘として求められるとおりに。
家の名を背負う者として、恥のないように。
陛下は私に言葉をかけてくださった。
穏やかで丁寧なお言葉だった。
私は受け答えを誤らなかった。ひとつとして。
なのに、その場の空気の流れが変わったのは、エリザベートが姿を見せた時だった。
青い空気が、すうっと開くような気がした。
今でも、あれをどう言い表せばいいのかわからない。
恋だったのか、衝動だったのか、若い皇帝が一瞬で心を奪われたのか。
ただ確かなのは、陛下の視線が私を離れ、妹へ向かったということだけだった。
あの子は気負いもなく立っていた。
きちんと着飾ってはいても、私ほどこの場の意味を理解していなかった。
まだ十五の少女だったのだから、無理もない。
けれどだからこそ、あの子は息をしていた。
私は磨き上げられた燭台で、妹は窓から吹き込む風だった。
若い男がどちらに目を奪われるかなど、考えるまでもない。
その瞬間、私の胸の奥で何かが静かに割れた。
けれど私は笑った。
正しく微笑んだ。
私にはそれができたし、そうするほかなかった。
その夜、私はひとりになってから、ようやく自分が傷ついていると知った。
情けないと思った。
皇后という栄光を夢見ていた自分が恥ずかしかったわけではない。
もっと単純に、ひとりの若い娘として傷ついている自分が情けなかった。
私は選ばれなかった。
たったそれだけのことが、こんなにも心を刺すのだと、その時はじめて知った。
数日のうちに、状況は決まった。
皇帝陛下が望まれたのは、私ではなくエリザベートだった。
母は顔色を変えた。
周囲の者たちも戸惑った。
本来そうあるはずだった話の筋道が、目の前であっさり書き換えられたのだから無理もない。
当のエリザベートは泣いていた。
嫌がっていたわけではない。
けれど喜びに震えていたわけでもなかった。
あの子はまだ若く、皇后というものが何を奪うかなど何も知らなかった。ただ巨大な運命の扉が自分の前に開いたことだけを感じ取り、怯えていたのだと思う。
私はそんな妹を見て、胸の内で絡まり合う感情を持て余していた。
可哀そうだと思った。
羨ましいとも思った。
代わってほしいと一瞬だけ願った。
けれど次の瞬間には、自分でも信じられないほど冷たい気持ちで、あの扉の向こうにあるものを想像していた。
もし、あれが私だったなら。
まだ見ぬ宮廷。
皇帝の母であるゾフィー大公妃。
国そのもののように重い期待。
決して自由には歩けぬ毎日。
子を産み、帝国のために笑い、ひとつの失態も許されぬ人生。
その時の私は、そこまで明確に想像していたわけではない。
ただ本能だけが、うすくざわめいていた。
あの光は眩しすぎる、と。
妹の婚約が決まった夜、私はひとりで祈った。
神よ、どうかあの子をお守りください。
そう祈りながら、私は心のどこかで、自分がその場所に立たずに済んだことに安堵していた。
この安堵を、私は長いあいだ認められなかった。
私は姉だった。
妹の幸せを祝福するべき立場だった。
そこにほのかな安堵が混じっていたなど、認めてしまえば、自分があまりにも小さく思えた。
けれど人の心は、白か黒かではできていない。
愛情と嫉妬は同じ胸の中に住む。
祝福と安堵もまた、そうだ。
私は妹を抱きしめた。
「おめでとう」
その声は震えなかった。
エリザベートは私の肩に顔を埋め、小さく泣いた。
「ねえ、姉さま。私、怖いわ」
あの子の声は、本当に幼かった。
私は背を撫でながら言った。
「怖がることはないわ」
それが嘘だったのか、本心だったのか、今でもわからない。
バート・イシュルの夏から、季節は巡った。
翌年の春、妹はウィーンで皇帝陛下の妃となり、皇后となった。
私はそうではない人生を歩き始めた。
その頃の私は、これが敗北なのだと思っていた。
選ばれなかった姉。
妹に運命を譲った女。
歴史に名高い皇后の陰に隠れた存在。
後の世の人々が私をそう呼ぶなら、若い日の私はきっと反論できなかっただろう。
けれど人生は、十九歳の夏だけで決まるものではなかった。
私は別の男性と出会い、妻となった。
皇帝ではない。
世界中の視線を集める存在でもない。
けれど穏やかで、誠実で、私の言葉を最後まで聞いてくれる人だった。
その人と並んで食卓を囲み、子の寝息を聞き、季節を数えて暮らすうちに、私は少しずつ気づいていった。
幸福とは、必ずしも眩しいものではないのだと。
妹は美しかった。
誰もが見とれるほどに。
そして誰より自由を愛していた。
だからこそ王冠は、あの子を飾ると同時に、締めつける輪にもなったのだろう。
宮廷はあの子に礼儀を求め、沈黙を求め、服従を求めた。
ゾフィー大公妃は皇帝の母として、孫たちの養育に深く関わった。
妹は母でありながら、母でいることさえ思うようには許されなかった。
あの子は笑いながら遠くへ逃げた。
旅へ。
美へ。
痩せた体へ。
決して捕まえられぬ風のように。
私は遠くからそれを見ていた。
妹の人生は、誰の目にも華やかだった。
けれど近づけば近づくほど、その眩しさの下にあるひびが見えた。
夫に愛されながら孤独で、
民に憧れられながら安らげず、
美しいからこそその美しさに縛られ、
自由を求めるほどに立場の重さに苦しんでいた。
あの十九歳の夏、皇帝に選ばれたのがもし私だったなら。
何度そう考えたかわからない。
若い頃は、その想像は痛みばかりを連れてきた。
けれど年を重ねるにつれ、別の色を帯びていった。
もし私が選ばれていたなら。
私は妹のように耐えきれただろうか。
それとも、もっと早く壊れていただろうか。
私は妹ほど美しくない。
妹ほど自由でもない。
けれど、だからこそ平穏に向く人生もある。
あの子は広い空の下を駆けるための生き物だった。
私は火を絶やさぬ家の中で、静かに暮らすほうが向いていた。
優れているとか劣っているとか、そんなことではない。
ただ運命が、私たちを別々の場所へ押し流しただけだ。
妹は王冠を得て、少しずつ遠くへ行ってしまった。
私は王冠を逃して、地に足のついた幸福を知った。
夫には先立たれた。
子も失った。
涙のない人生など、どこにもない。
それでも私の悲しみは、暮らしの中に置くことができた。
妹の悲しみは帝国の光にさらされ、逃げ場を持てなかった。
だから私は、もはやあの夏を奪われた季節とは呼ばない。
あれは分かれ道だった。
妹が皇后になり、私が私として生きることになった夏。
暖炉の火が小さくはぜた。
窓の外では、雪がしんしんと降っている。
後世の人々は、これからも私を不幸な姉と呼ぶかもしれない。
それでもかまわない。
ただ、もし誰かが私の人生をたずねるなら、私はこう答えよう。
あの十九歳の夏、私は選ばれなかった。
けれどそのおかげで、私は穏やかな幸福を知ることができたのだと。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




