見えない海
静岡サミット閉幕から、十二時間後。
場所は日本から数千キロ離れた、ある国家の情報施設。
地上から見れば、何の変哲もない行政庁舎だった。ガラス張りの外壁と簡素な国旗、警備員が立つ正面玄関。建物の前を通る市民のほとんどは、そこが軍事情報を扱う施設であることすら知らない。
しかし、その地下四階。
窓のない分析室では、静岡サミットの二日間に収集された情報が、夜を徹して解析されていた。
壁一面の大型モニターには、日本列島と駿河湾の海底地形が表示されている。
その中央。
赤い線が一本、湾外から内部へ向かって伸びていた。
静岡サミット初日。
駿河湾へ送り込まれた無人潜航艇の航跡だった。
分析官がキーボードを操作する。
「回収ログの復元、九十二パーセントまで完了しました」
部屋の中央に立つ男が振り返る。
五十代ほど。
軍服ではなく、黒いスーツを着ている。
この施設の責任者だった。
「残りは?」
「一部のセンサーデータが破損しています。ですが、任務評価には十分です」
「結果を」
分析官が画面を切り替えた。
「無人機は予定通り、湾外から侵入しました。日本側の海上警戒線には捕捉されていません」
「海上警戒線には、か」
責任者がその言葉を繰り返す。
分析官は頷いた。
「はい」
別の画面。
UUVの航跡。
水深。
速度。
通信履歴。
「航空機による探知兆候なし。海上艦艇からのアクティブソナー照射も確認されていません。日本側が展開していた海上保安庁および海上自衛隊の艦艇については、こちらの事前想定通りです」
「では、どこで発見された」
分析官は一瞬だけ黙った。
画面を拡大する。
駿河湾中央部。
赤い航跡の途中に、小さな黄色い印が表示された。
「ここです」
責任者が画面を見る。
「何だ」
「無人機が最初に外部音響信号を受信した地点です」
「探信音か?」
「はい。ただし、通常の対潜捜索で使用される出力ではありません」
別の分析官が横から説明する。
「極めて低出力です。攻撃のためでも、広域捜索のためでもない。ほぼ間違いなく、こちらへ存在を知らせるためだけに送信されたものです」
責任者が眉を寄せる。
「警告か」
「その可能性が高いと見ています」
「発信源は?」
分析官は答えなかった。
「聞いている」
「推定できません」
部屋の空気が少し変わった。
責任者はゆっくり振り返る。
「もう一度言え」
「発信源を特定できません」
「探信音を受信しておいて?」
「はい」
分析官が操作する。
画面に複数の円が表示される。
「本来ならば、受信時刻、音圧、海水温、反射時間からある程度の位置推定は可能です。しかし、今回の信号は短すぎます」
「それだけか」
「いいえ」
分析官は少しだけ声を落とした。
「問題は、信号の到来方向です」
画面に一本の矢印が現れる。
責任者が目を細める。
矢印は。
下を向いていた。
「……下?」
「はい」
「海底反射ではないのか」
「検討しました。違います」
別の分析官が追加データを表示する。
「信号は、無人機より遥かに深い位置から直接届いています」
「深度は」
「正確には出せません」
「推定でいい」
分析官は一度、隣の同僚を見る。
それから答えた。
「少なくとも、千メートル以上下です」
責任者は何も言わなかった。
UUVの航行深度は、約三百メートル。
その千メートル以上下。
つまり。
水深千三百メートルを超える領域。
しかも。
そこから正確に無人機だけへ向けて、低出力の探信音を送った。
責任者が尋ねる。
「日本の潜水艦で、それが可能な艦は?」
誰もすぐには答えなかった。
やがて、一人が言う。
「公表されている艦にはありません」
責任者の表情が変わる。
「S.O.D.U.は」
「『しんえん』があります」
大型モニターに、一枚の画像が表示された。
不鮮明な衛星写真。
黒い潜水艦。
長い船体。
その下には簡潔な文字が並んでいる。
S.O.D.U.超深海戦略潜水艦『しんえん』。
推定性能。
不明。
最大潜航深度。
不明。
推進方式。
推定MHD併用。
正確な排水量。
不明。
責任者は資料を見ながら尋ねた。
「静岡サミットの期間中、『しんえん』が駿河湾にいた証拠は?」
「ありません」
「いなかった証拠は?」
「それもありません」
「つまり、何も分からない」
「はい」
責任者は椅子へ座った。
目の前の画面を見つめる。
「我々は、何を得た」
分析官は少し考える。
「日本側の海中警戒能力が、事前想定を上回っていること」
「それだけか」
「もう一つあります」
UUVの航跡が再生される。
海底通信ケーブルへ接近。
探信音を受信。
自動回避。
湾外へ撤退。
「日本側は、我々の無人機を破壊できた可能性があります」
「だが、しなかった」
「はい」
「なぜだ」
「不明です」
別の分析官が口を開く。
「意図的に逃がしたのでは」
責任者が顔を向ける。
「理由は?」
「こちらに、見つけたことを伝えるためです」
「撃沈するより、警告だけを送った?」
「可能性はあります」
責任者は腕を組んだ。
それは、静岡サミットで日本側が語った内容と一致していた。
可能な限り、撃たない方法を選ぶ。
だが。
もし本当にそうなら。
別の意味で厄介だった。
単に強いだけの相手ならば。
対抗手段を考えればいい。
射程。
速度。
火力。
装甲。
数。
軍事とは、比較できる数字で考えることができる。
しかし。
相手が、自分たちの力を制御し始めているとしたら。
それは数字だけでは測れない。
責任者は低く呟いた。
「……面倒な相手になったな」
三時間後。
分析室とは別の地下区画。
長い机を囲み、八人の男女が座っていた。
軍。
外務。
情報機関。
技術分析部門。
それぞれ所属は違う。
しかし、手元には同じ資料が配られている。
『対日戦略能力評価・暫定報告』
議長役の男が口を開いた。
「結論から始める」
部屋が静かになる。
「静岡サミットをもって、日本およびS.O.D.U.に関する従来の能力評価を破棄する」
一人の軍人が眉を上げた。
「破棄?」
「全面的に見直す」
「そこまで必要ですか」
議長は資料を開く。
「必要だ」
「理由を」
大型スクリーンに北斗打撃群の艦艇一覧が映し出される。
空母『こうよう』。
『てんかい』。
『てんすう』。
『たかお』。
『ずいうん』。
『みやつかぜ』。
『あきつかぜ』。
そして。
『しんえん』。
「我々はこれまで、S.O.D.U.の主力を北斗打撃群と評価していた」
軍人が頷く。
「間違っていないでしょう」
「そう思うか?」
議長が資料を一枚めくる。
「なら説明してくれ」
画面が変わる。
造船関連資材。
特殊鋼材。
原子力関連設備。
大型発電設備。
超伝導材料。
軍用電子機器。
複数年度にわたる納入量。
「日本国内の複数企業から得た公開情報、衛星画像、輸送記録、貿易データを再整理した」
軍人が画面を見る。
「それが?」
「量が合わない」
沈黙。
議長は続ける。
「北斗打撃群を建造しただけでは、使用量を説明できない」
技術分析官が補足する。
「もちろん、全てが艦艇用とは限りません。研究施設や地下基地に使用された可能性もあります」
「それを差し引いても?」
「差が残ります」
外務担当者が尋ねる。
「どの程度だ」
技術分析官は少し躊躇した。
「断定はできません」
「推定でいい」
「大型艦数隻分」
会議室から音が消えた。
「数隻?」
「はい」
「どんな艦だ」
「分かりません」
「空母か?」
「不明です」
「潜水艦?」
「可能性があります」
「駆逐艦?」
「それも否定できません」
議長が指で机を軽く叩く。
「つまり、何かを造っている」
技術分析官は答える。
「正確には」
少し間を置く。
「何かを造った可能性があります」
軍人が顔を上げる。
「進水記録は?」
「ありません」
「建造ドックは?」
「確認できません」
「なら、どうやって」
議長が遮る。
「北斗打撃群を思い出せ」
誰も答えない。
S.O.D.U.が持つ巨大な地下施設。
外から存在を確認できない建造設備。
海へ直接接続された秘密ドック。
これまで何度も。
彼らは、存在しないはずのものを海へ送り出してきた。
議長は言った。
「我々は、見えているものだけで日本の戦力を評価していた」
「ですが、北斗打撃群だけでも十分異常です」
一人の情報官が反論する。
「普通なら、それ以上を隠す必要がない」
議長がその男を見る。
「普通ならな」
誰も続けなかった。
大型スクリーンの中央に。
黒い文字が表示される。
『仮説:S.O.D.U.未確認戦力』
下には、複数の可能性。
第二打撃群。
戦略潜水部隊。
秘密航空戦力。
地下配備型長距離兵器。
無人艦隊。
どれも根拠は薄い。
全て推測だった。
その中で、軍人が一つの項目を見る。
「第二北斗打撃群?」
「仮説に過ぎない」
「もし本当にあるなら?」
議長は少し考えた。
「世界の海軍戦力評価を書き換える必要がある」
「そんなものを隠しておく理由は?」
情報官が言う。
議長は答えなかった。
それこそが。
今後、調べるべきことだった。
同日。
日本。
S.O.D.U.中央管理施設。
深山は自室で、一枚の報告書を読んでいた。
机の向こうには如月が座っている。
「静岡の件は終わりました」
如月が言う。
「表向きは、ですね」
深山は報告書から目を離さない。
「UUVの件ですか?」
「それもあります」
「他に?」
深山は書類を机へ置いた。
「海外からの照会が増えています」
「サミットをやったんですから、当然でしょう」
「通常の照会なら問題ありません」
深山は別の資料を如月へ渡す。
「これは?」
「ここ四十八時間で観測された、国外からの公開情報検索です」
如月がページをめくる。
S.O.D.U.関連企業。
造船会社。
電力設備。
特殊鋼材。
研究機関。
地下工事。
納入契約。
「随分と細かいところまで見ていますね」
「ええ」
「情報機関でしょうか」
「一つとは限りません」
如月は資料を読み進める。
「静岡サミットで我々への関心が上がっただけでは?」
「最初は私もそう思いました」
深山は端末を操作する。
画面に複数のアクセス傾向が表示された。
「ですが、検索対象が偏っています」
「どこに?」
「北斗打撃群ではありません」
如月が顔を上げる。
深山は続けた。
「北斗打撃群を造った後に、何が残ったのかを調べています」
如月の表情から僅かに笑みが消える。
「資材ですか」
「資材。予算。人員。施設」
「目的は?」
深山は椅子へ背を預ける。
「おそらく」
一度だけ。
言葉を選ぶように間を置いた。
「北斗打撃群以外に、何があるのかを知りたいのでしょう」
如月は黙る。
しばらくして。
「あるんですか?」
深山が如月を見る。
「何がです?」
「北斗打撃群以外です」
深山は答えなかった。
その沈黙だけで。
如月はそれ以上聞くべきではないと理解した。
「……聞かなかったことにします」
「そうしてください」
如月は立ち上がる。
だが。
扉へ向かう途中で足を止めた。
「一つだけ」
深山が視線を上げる。
「天城司令は知っているんですか?」
深山は数秒黙った。
「全部は知りません」
如月の顔が少し強張る。
北斗打撃群司令。
S.O.D.U.の中でも最上位に近い位置にいる天城でさえ。
知らない。
「そんなものが、あるんですね」
深山は答えなかった。
如月も。
もう聞かなかった。
「失礼します」
扉が閉じる。
一人になった深山は、暫く何もせず座っていた。
やがて。
机の下にある認証装置へ手を伸ばす。
指紋。
静脈。
暗号鍵。
端末に通常とは異なる画面が表示された。
そこには。
艦名はない。
部隊名もない。
ただ、一つだけ。
『戦略的継戦能力確保計画』
その下。
現在状態。
封印維持。
発動段階、零。
深山はその文字を見ながら、小さく息を吐いた。
「……嗅ぎ始めましたか」
誰に聞かせる言葉でもなかった。
海外の情報機関が。
まだ入口に立っただけなのか。
それとも。
既に何かを掴んでいるのか。
分からない。
だが、一つだけ確かなことがある。
北斗打撃群は。
S.O.D.U.が世界へ見せた、最も大きな力だった。
しかし。
最も深い場所にある力ではない。
深山は画面を閉じた。
今はまだ。
知られるわけにはいかない。
あれは敵を倒すために存在しているのではない。
勝つためでもない。
日本が。
最後まで日本であるために。
誰にも知られず残してあるものだ。
その存在が世界に知られる日が来るとすれば。
それは。
平和な海が。
本当に終わりかけた時だけでいい。
暗転した端末に。
深山自身の顔が薄く映った。
静岡サミットは終わった。
しかし。
世界はようやく。
S.O.D.U.という海の深さを。
測り始めたばかりだった。




