帰路
静岡サミット閉幕から、約一時間後。
日本平国際海洋安全保障会議センターの周辺では、各国代表団の撤収が始まっていた。
二日間にわたって世界各国の要人を迎えた建物の前には、再び黒塗りの車両が長い列を作っている。
警察官が周囲を警戒し、外務省職員が慌ただしく行き来する中、各国首脳は御子柴総理との最後の挨拶を交わし、一人ずつ車へ乗り込んでいった。
到着した時と比べれば、空気は少しだけ柔らかい。
それでも、握手一つで全ての問題が解決したわけではなかった。
S.O.D.U.に対する警戒は残っている。
疑念もある。
各国には、それぞれ守らなければならない国益がある。
ただ一つだけ変わったことがあるとすれば、二日前までS.O.D.U.は「正体の分からない巨大な力」だった。
今は違う。
少なくとも、話をする相手の顔が見えるようになった。
それだけだった。
そして、それだけでも十分だった。
アメリカ合衆国大統領は、車へ乗り込む直前に一度だけ振り返った。
建物の向こう。
富士山が見える。
その手前に立つ御子柴総理。
少し離れた場所には、天城少将の姿もあった。
大統領は何も言わず、軽く手を上げる。
御子柴も同じように応じた。
車のドアが閉まる。
車列がゆっくりと動き始めた。
後部座席で、大統領はネクタイを僅かに緩めた。
「終わったな」
向かいに座る国家安全保障担当補佐官が答える。
「はい」
「どう思う」
「何についてでしょう」
「日本だよ。S.O.D.U.だ」
補佐官は少し考えた。
「危険な組織です」
大統領は窓の外を見る。
「随分と率直だな」
「危険でしょう。保有している兵器だけ見れば」
「それは俺も分かっている」
大統領は腕を組んだ。
「聞きたいのは、昨日と今日で評価が変わったかだ」
補佐官はタブレットを閉じた。
「変わりました」
「どう?」
「以前は、彼らが何をするか分からないことが最大の問題でした」
「今は?」
「何をしないつもりなのかは、ある程度分かりました」
大統領が小さく頷く。
「信用できるか?」
「まだ無理でしょう」
即答だった。
大統領は笑った。
「俺も同じだ」
「ですが」
補佐官は続ける。
「話はできます」
大統領は窓の外へ視線を戻した。
沿道には、規制解除を待つ車。
交差点に立つ警察官。
歩道からこちらを眺めている市民。
二日前。
ここへ来る途中で見た景色と、何も変わっていない。
「危険だが、話はできる」
大統領は静かに呟く。
「外交相手としては、十分面倒だな」
補佐官が僅かに笑った。
「同盟国としては?」
「もっと面倒だ」
大統領も笑う。
その表情から笑みが消えるまで、それほど時間はかからなかった。
「監視は続けろ」
「当然です」
「ただし、無駄に刺激するな」
補佐官が顔を上げる。
「方針を変えますか?」
「少しだけだ」
大統領は窓の向こうに小さくなっていく富士山を見た。
「敵かもしれないと思って見るのと、味方かもしれないと思って見るのでは、同じ監視でも意味が違う」
「どちらだと思われます?」
大統領は少し考えた。
「まだ決めるな」
それが答えだった。
ほぼ同じ頃。
中国代表団の車列も静岡市内を離れつつあった。
車内では、国家主席が何も言わず資料を読んでいた。
向かいには外交担当者と、サミット初日から海上警戒状況を分析していた海軍武官が座っている。
資料の表紙には『静岡原則』と記されている。
主席は最後まで読み終えると、文書を閉じた。
「どう見る」
外交担当者が答える。
「日本側としては、かなり踏み込んだと思います」
「言葉だけならな」
「はい」
主席は海軍武官を見る。
「軍人としては?」
武官は一瞬考えた。
「S.O.D.U.を信用すべきではありません」
外交担当者が横を見る。
武官は続けた。
「ですが、敵と決めつけるべきでもありません」
主席は僅かに目を細める。
「理由は」
「彼らには、我々が把握していない能力があります」
「潜水艦か」
「それだけではありません」
武官は窓の外へ視線を向けた。
遠くに駿河湾が見える。
「この二日間、我々はかなりの監視能力を投入しました。しかしS.O.D.U.艦艇の配置は、最後まで十分に把握できませんでした」
「それで警戒しろと?」
「はい」
「だが敵と決めるなとも言った」
「はい」
主席は少し笑った。
「矛盾しているな」
「国防は矛盾ばかりです」
武官の答えに、外交担当者が僅かに口元を緩める。
主席は再び資料を開いた。
「少なくとも、日本側には自分たちの力を制御しようという意思がある」
外交担当者が答える。
「そう見えます」
「見える、か」
「本当にそうなのかは、今後を見るしかありません」
主席は頷いた。
「なら見よう」
それだけだった。
日本を信頼するとは言わない。
S.O.D.U.を認めるとも言わない。
ただ。
観察を続ける。
国家同士の関係としては、それで十分だった。
イギリス代表団では、少し違った空気が流れていた。
首相は帰国便の機内で紅茶を受け取りながら、随行する安全保障補佐官に尋ねた。
「君は、今回の会合をどう評価する?」
補佐官は窓際の席から顔を上げた。
「成功でしょう」
「ずいぶん簡単だな」
「戦争が起きませんでしたので」
首相が笑う。
「それだけか?」
「重要ですよ」
補佐官も少し笑った。
「世界中が正体を疑っている軍事組織を巡って、アメリカ、中国、ロシア、欧州、インドまで一つの場所へ集まり、二日間話をした」
「そして誰も席を立たなかった」
「はい」
首相は紅茶を一口飲む。
「日本は変わったと思うか?」
補佐官は少し考える。
「S.O.D.U.が、だと思います」
「ほう」
「以前の彼らなら、疑われたら力を見せて黙らせたでしょう」
「今回は違った」
「はい」
補佐官は資料を指先で叩いた。
「自分たちが何者なのか、言葉で説明しようとした」
首相はしばらく黙っていた。
「力を持った国が、力の使い方を覚え始めた、か」
「まだ始めたばかりでしょう」
「それでも悪くない」
機体はゆっくりと高度を上げていく。
雲の切れ間から。
富士山が見えた。
首相はその姿を眺めながら、小さく言った。
「次に会う時も、話が先であってほしいものだ」
補佐官は答えなかった。
誰にも保証できない願いだった。
静岡市内。
午後5時を過ぎる頃には、二日間続いた大規模交通規制が段階的に解除され始めていた。
封鎖されていた道路が開く。
警察車両が移動する。
交差点を埋めていた警察官の数も少しずつ減っていった。
コンビニの駐車場では、配送トラックの運転手が店員と話している。
「やっと普通に走れるな」
「大変でした?」
「まあな。でも世界中の偉い人が来るなんて、もうないだろ」
「また来たりして」
「勘弁してくれ」
二人が笑う。
少し離れたところでは、高校生がスマートフォンを見ながら歩いていた。
画面には。
富士山を背景に並ぶ各国首脳の記念写真。
『静岡原則、採択』
というニュース速報。
友人が横から画面を覗き込む。
「これ、昨日のやつ?」
「うん」
「俺らこの辺にいたよな」
「いたね」
「何も見えなかったけど」
「規制しか見てない」
「だよな」
二人は笑いながら、そのまま駅の方向へ歩いていった。
歴史的な二日間だった。
だが。
そこに暮らす人々にとっては。
少し道路が混み。
警察官が増え。
テレビに地元が映った。
それくらいの出来事でもあった。
それでいい。
政治は。
本来、その程度で済む方がいい。
午後6時12分。
日本平国際海洋安全保障会議センター。
ほとんどの代表団が出発した後。
建物は急に広く感じられた。
数時間前まで世界各国の言葉が飛び交っていた会議室も、今は職員が資料を片付けているだけだ。
テラス。
御子柴総理は一人、手すりに寄りかかっていた。
駿河湾の向こう。
夕暮れ。
富士山には薄い雲が掛かり始めている。
背後から足音が聞こえた。
「まだいらしたんですか」
天城だった。
御子柴は振り返らない。
「君もだろ」
「私は仕事です」
「私も仕事だよ」
「景色を見ながら?」
「総理大臣にも景色を見る権利くらいある」
天城は隣に立った。
二人で黙って海を見る。
しばらく。
何も話さなかった。
先に口を開いたのは御子柴だった。
「終わったな」
「はい」
「疲れた」
「でしょうね」
「君は疲れてないのか?」
「戦闘よりは楽です」
御子柴が横を見る。
「本気で言ってるのか」
天城は少し考えた。
「半分くらいです」
「残り半分は?」
「撃てば終わる相手の方が、話は簡単です」
御子柴が苦笑する。
「物騒なことを言うな」
「だから会議の方が難しいんです」
二人の間に、少しだけ笑いが落ちた。
御子柴は再び海を見る。
「あのUUVは?」
「湾外へ出ました」
「追わなかった?」
「必要ありません」
「送り主を知りたくないのか」
「知りたいですよ」
天城は答える。
「ですが、知りたいことと、今すぐ捕まえるべきことは別です」
御子柴が天城を見る。
「随分と丸くなったな」
「そう見えます?」
「前なら沈めていただろう」
天城は否定しなかった。
少しだけ間を置いて。
「そうかもしれません」
御子柴は何も言わない。
天城は駿河湾へ目を向けたまま続ける。
「でも今回は、沈めなくても守れた」
「そうだな」
「なら、それで十分です」
夕陽が海へ反射している。
漁船が一隻。
港へ向かってゆっくり進んでいた。
御子柴がその船を見ながら言う。
「陛下がおっしゃったな」
天城の表情が少し変わる。
「平和な海」
「はい」
「今日のこれは、少しは近づいたと思うか」
天城はすぐには答えなかった。
目の前の海。
その底。
数時間前まで『しんえん』が潜んでいた。
世界各国の首脳。
不明UUV。
厳戒態勢。
警戒機。
護衛艦。
警察。
海保。
その全てが動いた二日間。
それでも。
この街では。
誰も死ななかった。
一発も撃たなかった。
天城は小さく頷いた。
「少しくらいは」
御子柴は笑った。
「君からその言葉が出るなら、上出来だ」
「評価が低すぎませんか」
「日頃の行いだよ」
天城は苦笑した。
午後7時。
清水港沖。
海上保安庁の警戒態勢も、通常運用へ戻り始めていた。
海自の艦艇も、順次担当海域を離れていく。
そして。
さらに遠く。
深い海。
『しんえん』。
発令所では、駿河湾警備任務の終了処理が進められていた。
「指定警戒海域を離脱」
「民間船舶、異常なし」
「海上部隊より任務終了確認」
副長が艦長を見る。
「終わりましたね」
艦長は海図を確認した。
「そうだな」
「結局、撃ちませんでした」
「不満か?」
「まさか」
副長は笑った。
「むしろ助かります」
「なら言うな」
「ただ」
副長は少しだけ表情を変える。
「あのUUV。誰だったんでしょうね」
艦長は海図から目を上げない。
「知らん」
「気になりません?」
「なる」
「じゃあ」
艦長が答えた。
「気になるだけにしておけ」
副長は黙る。
「証拠がないうちから相手を決めれば、次から全部その国に見える」
「なるほど」
「海の中で先入観は邪魔だ」
艦長は前方へ視線を向けた。
「次に来た時も、音を聞いて判断する」
「敵だったら?」
「その時考える」
「撃ちますか?」
艦長が僅かに笑う。
「撃たずに済むなら、それが一番だろ」
副長も笑った。
「最近、それ流行ってます?」
「知らん」
『しんえん』は静かに針路を変えた。
駿河湾を離れる。
サミットを守った潜水艦がそこにいたことを。
各国首脳のほとんどは知らない。
静岡の人々も知らない。
明日の朝には。
漁船がいつも通り海へ出る。
その時。
『しんえん』はもう、遥か遠くの深海にいる。
それでよかった。
夜。
静岡市内。
規制用の柵が片付けられている。
道路には一般車が戻り。
コンビニにはいつもの客が入り。
住宅街には夕食の匂いが漂っていた。
テレビでは、まだ静岡サミットのニュースが流れている。
『歴史的合意』
『静岡原則』
『S.O.D.U.、国際社会との対話へ』
様々な言葉が並んでいる。
だが。
窓の外では。
信号が変わり。
車が走り。
人が家へ帰る。
世界が大きく動いた日も。
一日は、こうして終わる。
日本平。
最後まで残っていた御子柴と天城も、帰る時間になっていた。
御子柴が車へ向かう。
天城は少しだけその場に残った。
誰もいなくなったテラス。
風が吹く。
遠くに静岡市の明かりが見える。
駿河湾は暗く。
もう『しんえん』の姿は当然見えない。
天城はしばらく、その景色を眺めていた。
二日前。
世界は。
S.O.D.U.を問いに来た。
危険なのか。
信用できるのか。
何を隠しているのか。
その全てに答えられたわけではない。
そもそも。
答えるつもりのないものもある。
それでも。
世界は帰っていった。
砲弾ではなく。
文書を持って。
天城はそれを悪くないと思った。
「……静かになったな」
独り言だった。
返事はない。
当たり前だ。
天城はポケットへ手を入れたまま、建物へ戻ろうとする。
その直前。
もう一度だけ。
海を振り返った。
何もない。
ただ暗い海がある。
それでいい。
S.O.D.U.がどれほど巨大な力を持っていようと。
本当に守るべきものは。
戦艦でも。
潜水艦でも。
国家の威信でもない。
この景色が。
明日も変わらないこと。
天城は小さく息を吐いた。
そして今度こそ。
振り返らずに歩き出した。
静岡サミットは終わった。
世界はそれぞれの国へ帰る。
日本もまた。
いつもの明日へ。
帰っていった。




