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世界が日本に降りる日

午前5時42分。


静岡県静岡市。


東の空が、まだ薄い群青色を残していた。


普段ならば、コンビニへ向かう配送トラックが走り始め、早番の会社員が眠そうな顔で駅へ向かう時間。


だが、その日の静岡は、いつもとは少しだけ違っていた。


主要交差点には、見慣れない数の警察車両。


幹線道路の脇には、制服姿の警察官が数十メートルおきに配置されている。


大型バスが通る可能性のある交差点では、信号制御の最終確認が進められ、道路脇には規制用の柵が積み上げられていた。


上空。


まだ低い朝靄のさらに向こうから、ヘリコプターのローター音が聞こえる。


「今日だっけ?」


通学途中の高校生が、自転車を押しながら隣の友人に聞いた。


「サミット?」


「そうそう。なんか外国の大統領とか来るやつ」


「静岡に?」


「知らん。富士山あるからじゃね?」


二人はそれだけ話すと、何事もなかったように横断歩道を渡っていった。


彼らにとっては。


世界各国の首脳が集まる歴史的会合よりも。


今日の一限目にある小テストの方が、遥かに重大な問題だった。




駿河湾。


夜明け前。


薄暗い海面を、海上保安庁の巡視船がゆっくりと横切っていた。


通常よりも広い警戒海域。


漁船への航行案内。


不審船の監視。


海上交通の整理。


そのさらに外側には、海上自衛隊の護衛艦が展開している。


しかし。


沖合を双眼鏡で眺めても。


そこに、S.O.D.U.の艦影は見えない。


『こうよう』も。


『てんかい』も。


『みやつかぜ』も。


『あきつかぜ』も。


見えるのは、海保と海自。


それだけだった。


清水港近くの岸壁。


海上保安庁の現地指揮所では、数十台のモニターが駿河湾の状況を映し出している。


担当官が無線を確認する。


「民間航路、予定通り」


「漁船への周知も完了しています」


「湾口の警戒ラインに異常なし」


その隣。


海上自衛隊の連絡員がヘッドセットを押さえた。


「航空警戒も予定通り。空自側から異常なし」


「S.O.D.U.は?」


海保の担当者が何気なく聞いた。


海自連絡員は一瞬だけ黙った。


「……必要な場所にいるそうです」


「何だそれ」


「俺もそれ以上は聞いてません」


二人は顔を見合わせた。


そして。


ほぼ同時に、沖合の穏やかな海へ視線を向けた。


何も見えない。


だからこそ。


どこにいるのか分からない。




午前7時15分。


航空自衛隊静浜基地周辺上空。


通常の航空管制とは別に設けられた臨時の広域監視体制が稼働していた。


レーダー画面には、民間航空機。


警戒任務機。


輸送機。


各国政府専用機。


複数の識別表示が並んでいる。


「西方、VIPフライト確認」


「識別コード一致」


「先導機、予定航路へ」


航空管制官たちが淡々と処理していく。


その遥か上空。


肉眼ではほとんど見えない高度。


さらに別の編隊が静かに飛んでいた。


S.O.D.U.第1戦略航空隊。


『ヤタガラス』。


前面には出ない。


各国の政府専用機へ接近することもない。


航空自衛隊の警戒圏より、さらに外側。


その外縁をなぞるように。


ただ。


見ている。


「ヤタガラス・リーダーより管制」


『感度良好』


「対象空域、異常なし」


『了解。こちらも問題なし』


「予定通り、接触は避けてください」


『分かってるよ』


一瞬。


無線の向こうで笑う声がした。


『今日は護衛だ。喧嘩しに来たんじゃない』


通信が切れる。


管制官は小さく息を吐いた。


「……毎回そう言ってくれれば楽なんだけどな」


隣の隊員が苦笑した。




午前8時03分。


最初の大国首脳が日本へ入った。


アメリカ合衆国大統領。


厳重な警護車列。


先導車。


警察車両。


情報機関の随行員。


通信車両。


救急対応班。


その全てが、事前に設定されたルートを静岡市内へ向けて進んでいく。


交通規制された道路脇。


地元住民がスマートフォンを向けていた。


「うわ、本当に来た」


「どれが大統領?」


「分からん」


「黒い車全部同じに見える」


そんな声が飛ぶ。


車列の一台。


後部座席。


アメリカ大統領は窓の外を見ていた。


遠く。


朝日に照らされる富士山。


白い雪を頂いた巨大な山が、雲の上から静かに姿を見せている。


大統領はしばらく何も言わなかった。


向かいに座る国家安全保障担当補佐官が資料を開く。


「日本側から正式な日程が届いています」


「後で見る」


「しかし――」


「後でいい」


大統領は窓から目を離さなかった。


道路脇。


普通の住宅。


コンビニ。


自転車で学校へ向かう学生。


犬を散歩させる老人。


どこにでもある街だった。


「……随分、普通だな」


補佐官が顔を上げる。


「何がです?」


「日本だよ」


「もっと」


一度、言葉を切る。


「要塞みたいな国になっているのかと思っていた」


補佐官は答えなかった。


世界中が恐れているS.O.D.U.。


世界最深級の海を潜る潜水艦。


レールガン。


ステルス艦。


戦略航空隊。


だが。


車窓に見えるものは。


朝の日本そのものだった。


大統領が小さく呟いた。


「……これを守っているのか」


その言葉は。


誰に聞かせるでもなかった。




午前9時10分。


中国代表団が到着した。


空港から静岡方面へ向かう専用車内。


随行する海軍武官が、タブレットに表示された海上警戒状況を見ていた。


「妙ですね」


隣の外交官が尋ねる。


「何がだ」


「S.O.D.U.艦艇が確認できません」


「隠しているだけだろう」


「それにしてもです」


海軍武官は画面を拡大する。


「我々の衛星画像にも、民間の海上監視網にも、ほとんどそれらしいものがない」


外交官が窓の外を見る。


駿河湾。


青い海。


その上を、小型漁船が普通に進んでいる。


「いないのではないか?」


「いいえ」


武官は即座に否定した。


「むしろ逆です」


「?」


「見えていないだけです」


外交官がゆっくり武官を見る。


「この国が、世界中の首脳を集めておいて」


「何も配置していないはずがない」


武官は静かに言った。


「見えないなら」


一拍。


「その方が厄介です」


車内が少しだけ静かになった。




午前10時22分。


イギリス代表団。


フランス代表団。


インド代表団。


ドイツ。


カナダ。


オーストラリア。


中東諸国。


アフリカ。


南米。


各国の代表団が次々と静岡入りする。


世界中の国旗を付けた車列が、日本の地方都市を走る。


沿道では。


手を振る子供たち。


カメラを向ける観光客。


交通規制に巻き込まれて困った顔をする配送業者。


「今日だけだから仕方ねえか」


そう言いながら缶コーヒーを飲むトラック運転手。


その横を。


世界の政治を動かす車列が通り過ぎていった。


静岡は。


一日だけ。


世界の中心になろうとしていた。




正午前。


日本平。


富士山と駿河湾を同時に望む高台。


今回の会合のために整備された、国際会議施設。


『日本平国際海洋安全保障会議センター』


全面ガラス張りの大きなホール。


その向こうには。


駿河湾。


伊豆半島。


そして富士山。


日本という国を、一枚の景色に押し込めたような場所だった。


エントランス。


最初に立っていたのは御子柴総理だった。


その隣に外務大臣。


さらに少し後ろ。


天城少将と如月二佐。


天城は軍服を着ていた。


だが。


勲章も飾緒も最小限。


S.O.D.U.を誇示するためではない。


この会合における、自分の立場を示すためだけの服装だった。


「来ました」


如月が小声で言う。


アメリカ大統領の車列が敷地へ入る。


御子柴が姿勢を正した。


車両が停まる。


大統領が降りる。


「ようこそ日本へ」


御子柴が握手を求めた。


「歓迎します」


大統領はその手を握り返す。


「随分と景色のいい場所を選んだな」


「日本側の数少ない強みです」


「数少ない?」


御子柴が少し笑う。


「控えめに言っておいた方が外交は上手くいきます」


大統領も小さく笑った。


その視線が。


御子柴の後方にいる天城へ向く。


一瞬だけ。


二人の目が合った。


かつて。


太平洋で互いに牙を剥いた国と組織。


しかし今日は。


どちらも何も言わなかった。


天城が軽く敬礼する。


大統領も短く頷いた。


それだけだった。


次に中国。


続いてイギリス。


フランス。


インド。


各国首脳が次々と到着する。


御子柴が一人ずつ迎える。


天城は前に出ない。


S.O.D.U.が主催する会合ではない。


日本国が主催する。


その線だけは。


御子柴も。


天城も。


最初から崩すつもりはなかった。




午後1時。


歓迎昼食会。


本会議前の、非公式な時間。


世界各国の首脳が同じ空間で食事をしていた。


料理は豪華すぎない。


静岡の食材を中心とした、日本料理と洋食の折衷。


焼津の魚。


静岡茶。


地元野菜。


果物。


それらを、各国の食文化や宗教上の制限へ配慮した形で提供している。


御子柴はテーブルの中央近く。


天城は少し離れた席。


如月はさらに後方。


基本的には各国代表団の会話を聞いているだけだった。


イギリス代表が、窓の向こうを眺めながら言う。


「素晴らしい景色ですね」


フランス代表が応じる。


「会議よりこちらを見ていたいくらいだ」


インド代表が笑う。


「それでは日本まで来た意味がない」


柔らかな笑い。


だが。


話題がS.O.D.U.へ移ると。


空気は変わった。


中国側の軍事顧問が言う。


「ここまで来ても、S.O.D.U.の艦艇は一隻も見えませんね」


如月が視線を向ける。


「今日は艦艇展示会ではありませんから」


「配置していないと?」


「警備に関する詳細はお答えできません」


「やはりいるのですね」


如月は少し考える。


「警備をしている、とだけ」


中国側の武官が窓の外へ目をやる。


穏やかな駿河湾。


漁船。


小さな貨物船。


風。


「……あの海のどこかに?」


如月は微笑んだ。


「さて」


それ以上は言わなかった。


隣のテーブル。


アメリカ大統領が御子柴へ尋ねる。


「本当に、我々へ何か見せるつもりはないのか」


「何をです?」


「空母でも、潜水艦でもいい」


御子柴は箸を置いた。


「大統領」


「?」


「今回、日本が見せたかったものは」


窓の向こうを見る。


「もう見えていると思います」


大統領も同じ方向を見る。


富士山。


海。


街。


その下を走る道路。


「……あれか」


「はい」


御子柴は答えた。


「我々が守ろうとしているものです」


大統領は何も言わなかった。


しばらく。


ただ景色を眺めていた。




午後2時16分。


サミット会場から数十キロ離れた海上。


海上保安庁の巡視船。


海自護衛艦。


警戒は続いている。


異常なし。


水上。


異常なし。


空。


異常なし。


電波環境。


異常なし。


そして。


水深、一九二〇メートル。


暗黒。


『しんえん』。


発令所。


赤みを抑えた淡い照明。


モニターには、駿河湾と湾口周辺の水中状況が表示されている。


何時間も。


何も起きていなかった。


それが理想だった。


ソナー員がヘッドホン越しに小さく息を吐く。


「……静かですね」


副長が答える。


「静かなのが仕事だろ」


「それはそうですけど」


「暇ならありがたいと思え」


艦長は海図を見ながら言った。


「今日ばかりはな」


その時。


ソナー員の表情が変わった。


耳を澄ます。


数秒。


「……艦長」


「どうした」


「微弱反応」


発令所の空気が少しだけ変わる。


「方位」


「二一七」


「距離は?」


「まだ不明瞭です」


ソナー員が操作を続ける。


「小型」


「推進音、極めて小さい」


副長が席を立つ。


「生物では?」


「違います」


即答だった。


「周期があります」


モニターに。


小さな点が一つ表示された。


湾外。


深度およそ三百メートル。


ゆっくり。


しかし。


確実に。


駿河湾側へ向かっている。


「UUVか?」


「可能性あり」


「識別データは?」


「該当なし」


発令所から雑音が消えた。


艦長が画面を見る。


「武装反応」


「現時点で確認できません」


「通信」


「断続的な微弱信号あり。ただし暗号化されています」


副長が言う。


「排除しますか」


艦長は少し考えた。


「まだいい」


「しかし、この進路なら――」


「分かってる」


艦長が指示を出す。


「針路変更」


「目標の下へ回る」


「探信は?」


「するな」


「相手に気づかせない」


「了解」


『しんえん』の巨大な船体が。


音もなく。


ゆっくりと向きを変える。


深海の暗闇。


頭上。


遥か一五〇〇メートル以上先を。


小さな無人潜航艇らしき影が進む。


そのさらに上。


海面には。


一隻の漁船。


そして。


さらに遠くの高台では。


「こちらをお願いします!」


カメラマンの声が響いていた。


午後2時30分。


サミット参加各国の首脳による公式記念撮影。


富士山。


青い空。


駿河湾。


御子柴総理を中心に。


アメリカ。


中国。


イギリス。


フランス。


インド。


世界各国の指導者たちが並ぶ。


「では撮ります!」


シャッター音。


一回。


二回。


三回。


首脳たちが笑顔を作る。


世界中のニュースへ。


その写真が送られていく。


『歴史的な静岡サミット、開幕へ』


誰も知らない。


その写真に映る青い海の下で。


一隻の正体不明の無人機が。


ゆっくりと。


彼らのいる海域へ近づいていることを。


そして。


そのさらに下。


遥か深海から。


漆黒の巨体が。


一切の音を立てず。


その侵入者を追い始めたことを。


『しんえん』艦内。


ソナー員が報告する。


「目標、追尾継続」


「こちらへの反応なし」


艦長が短く答えた。


「そのまま」


副長が尋ねる。


「どこまで泳がせます?」


艦長は前方の暗闇を見つめた。


「誰が見ているのか」


「何を探しに来たのか」


「分かるまでだ」


一拍。


「今日は」


「撃たずに済ませたい」


誰も返事をしなかった。


ただ。


了解を示すランプが静かに点灯する。


海面では。


世界中の首脳たちが。


富士山を背景に。


笑っていた。


そして。


その平和な一枚を守るため。


誰にも見えない深海で。


S.O.D.U.の「影の八番星」が。


静かに目を開いた。


静岡サミットは。


まだ。


始まったばかりだった。

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