富士の麓の円卓
午後3時。
日本平国際海洋安全保障会議センター。
全面ガラス張りの会議室からは、駿河湾と富士山が一望できた。
午前中まで薄く残っていた雲はほとんど消え、富士山は青空の下にくっきりと輪郭を浮かべている。眼下の海では漁船や貨物船が小さな点のように行き交い、遠くには清水の街並みが広がっていた。
世界各国の首脳が集う場所としては、あまりにも穏やかな景色だった。
しかし、会議室の中を満たしている空気は、その景色とは対照的だった。
中央の円卓には、日本、アメリカ、中国、イギリス、フランス、インドをはじめとする各国の代表が座っている。各国の背後には外務・防衛当局の高官や軍事顧問が控え、机の上には分厚い資料が積まれていた。
今日の議題は、一つだけだった。
S.O.D.U.とは、何なのか。
そして、その力はどこまで許されるのか。
御子柴総理は円卓の中央付近に座り、手元の資料を一度閉じた。
「それでは、午後の本会議を開始します」
静かだった会議室の空気が、さらに引き締まる。
「まず、日本側から改めて確認しておきます。本日の目的は、S.O.D.U.が保有する装備の性能を公開することではありません。兵器の構造や作戦計画、暗号方式など、国家安全保障上公開できない情報はあります」
御子柴は各国代表の顔を順に見た。
「ですが、S.O.D.U.がどのような原則で動き、誰が責任を負い、何をしてよくて、何をしてはならないのか。それについては、可能な限り説明します」
その隣に座る天城少将は黙っていた。
今日は、国連でのように前面へ出るつもりはない。
日本を代表するのはあくまで政府であり、S.O.D.U.は政府の下にある組織だ。
その線引きを示すこと自体が、この会議の目的の一つだった。
御子柴が続ける。
「ご質問をどうぞ」
最初に手を挙げたのはアメリカだった。
大統領本人ではなく、国家安全保障担当補佐官がマイクを取る。
「では、率直に伺います」
声に敵意はなかった。
しかし、遠慮もなかった。
「S.O.D.U.は、総理大臣直属の組織であると説明されています。では、その総理大臣自身が誤った判断を下した場合、誰が止めるのですか」
会議室の視線が日本側へ集まる。
御子柴は一度、天城を見た。
天城がマイクを引き寄せる。
「その質問には、私から答えます」
アメリカ側が頷く。
天城は静かに言った。
「S.O.D.U.は、総理大臣個人の私兵ではありません」
そこで一度、言葉を区切る。
「総理による指揮命令は、日本国内の法令と、あらかじめ定められた政府の意思決定手続きに基づいて行われます。違法な命令であれば、我々は従いません」
アメリカ補佐官がすぐに聞き返す。
「では、総理の命令を拒否する権限があると?」
「違法である場合には」
「その判断は誰がする?」
天城は少しだけ姿勢を正した。
「我々だけで決めるわけではありません。内閣法制部門、司法当局、国家安全保障会議など、複数の機構による確認手続きがあります。緊急時には時間が限られますが、それでも一人の判断だけで国家規模の武力行使が決定される構造にはしません」
アメリカ補佐官はメモを取りながら続ける。
「では、仮に日本政府そのものが国際法に反する命令を出した場合は?」
天城は答えた。
「従いません」
短い答えだった。
しかし、次の言葉はさらに重かった。
「同時に、我々が政府を倒すこともありません」
会議室が静かになる。
中国代表が少し身を乗り出した。
天城は、その視線を受け止めながら続けた。
「我々には軍事力があります。だからこそ、そこを曖昧にしてはいけない」
「政府の命令に従わないことと、政府に取って代わることは全く別です。後者は、S.O.D.U.の権限ではありません」
中国代表がマイクを取る。
「ちょうどその点を聞こうと思っていました」
「少将。あなた方は、これまで何度も日本政府すら知らない場所で作戦を行ってきた。そう見える事例もあります」
「否定はしません」
「では、実際には政府よりS.O.D.U.の方が強いのではないですか」
天城は少しだけ眉を動かした。
「武器の数で言えば、そう見えるかもしれません」
「では、政治的には?」
「違います」
天城の声は変わらなかった。
「S.O.D.U.は、日本国という船を動かす舵ではありません。我々は、その船が沈まないように外から穴を塞ぐ側です」
中国側の軍事顧問が口を挟む。
「だが、穴を塞ぐためなら何でもする、と?」
「いいえ」
「では、何をしない?」
天城は少し考えた。
「政権転覆」
「他国の選挙への介入」
「他国政府への脅迫を目的とした軍事行動」
「資源獲得だけを目的とする武力行使」
「そして、日本と直接関係のない紛争への独断介入」
会議室の空気が僅かに動く。
中国代表はさらに聞いた。
「では、日本の国益と、国際社会の利益が衝突した場合は?」
「国益を無条件に優先する、とは言いません」
「随分と曖昧ですね」
「国益という言葉自体が、状況によって意味を変えるからです」
天城は少しだけ視線を窓の外へ向けた。
「日本が短期的に得をするために、世界全体の海上交通を壊すようなことをすれば、結局は日本自身が損をします。反対に、国際社会のためという名目で日本国民の安全を無視することもできません」
「つまり?」
「その都度、政府が判断します」
天城は続ける。
「そして我々は、その判断を軍事的に実行できるか、してよいかを確認する。それだけです」
中国代表は暫く黙った後、軽く頷いた。
「少なくとも、神を名乗るつもりはないということですか」
天城は少しだけ口元を緩めた。
「そんな面倒な役職は御免です」
その会話の最中。
日本平から数十キロ離れた駿河湾の深海では、別のやり取りが進んでいた。
水深、一九〇〇メートル。
『しんえん』発令所。
赤みを抑えた照明の下で、ソナー員が正体不明のUUVを追い続けている。
「目標、進路変更」
「新方位、一四二」
副長がモニターを見る。
「会場方向じゃないな」
「はい。湾奥へ直進する様子はありません」
艦長が低い声で尋ねる。
「深度は?」
「三二〇。一定です」
「速度」
「八ノット」
「随分と慎重だな」
副長が言う。
「観光に来たわけではないでしょうね」
艦長は答えず、海底地形図を見た。
目標が向かっている先。
そこには、駿河湾海底を通る通信インフラの一部が表示されていた。
副長の表情が変わる。
「海底ケーブルですか」
「可能性が高い」
ソナー員が報告する。
「目標、ケーブル敷設域へ接近中」
「武装反応は?」
「ありません」
「外部送信」
「断続的な超低出力通信を確認。何らかのデータを送っている可能性があります」
艦長が頷く。
「攻撃機じゃない」
副長が言う。
「偵察用UUV」
「たぶんな」
「排除しますか?」
艦長は即答しなかった。
画面上の小さな点は、一定速度で進んでいる。
こちらには、まだ気づいていない。
「まだ触るな」
「了解」
「目的を確認する」
発令所に、再び静かな緊張が戻った。
日本平。
会議は続いていた。
今度はインド代表がマイクを取った。
「S.O.D.U.が日本のための組織であることは理解しました。では、国際的な任務について伺いたい」
御子柴が頷く。
「どうぞ」
「海賊対処」
「大規模災害」
「海難救助」
「シーレーン防護」
「そして、国連による安全保障任務」
インド代表は資料を一枚めくった。
「S.O.D.U.は、これらに参加する意思がありますか」
天城ではなく、今度は御子柴が答えた。
「あります」
一部の代表が顔を上げる。
「ただし、無条件ではありません」
インド代表が尋ねる。
「条件とは?」
「日本政府の承認」
「国際法上の根拠」
「任務範囲の明確化」
「そして、撤収条件です」
御子柴は続ける。
「救援要請を受けたからといって、その国の内政に踏み込むことはありません。海賊対処を理由に港湾を占領することもありません。災害救助を理由に、その国の軍事施設へ勝手に入ることもありません」
「S.O.D.U.でも?」
「S.O.D.U.だからこそ、です」
御子柴の返答に、インド代表は僅かに笑った。
「なるほど」
その隣で、フランス代表がマイクを取る。
「では、技術協力について聞きたい」
「どうぞ」
「各国は当然、S.O.D.U.の技術に関心があります」
御子柴が苦笑する。
「存じています」
「レールガン」
「レーザー迎撃」
「ステルス素材」
「推進技術」
「量子演算」
「高性能センサー」
「これらを、日本は同盟国や友好国へ供与する意思がありますか」
如月が静かにメモを取る。
御子柴は天城へ一度視線を送り、それから答えた。
「全てを渡すつもりはありません」
フランス代表が笑う。
「でしょうね」
「ですが、民生利用や防御用途、共同研究が可能な分野については協議できます」
「攻撃兵器は?」
「個別判断です」
「潜水艦技術は?」
天城が横から答えた。
「そこは期待しないでください」
フランス代表が肩をすくめた。
「聞くだけ聞いてみました」
小さな笑いが会議室に広がった。
少しずつ。
午前中まであった、刺すような緊張は薄れていた。
誰もS.O.D.U.を信用したわけではない。
ただ、対話が成立する相手ではある。
その認識だけは、広がり始めていた。
駿河湾深海。
『しんえん』。
「目標、海底ケーブルまで距離八〇〇」
ソナー員が報告する。
副長が腕を組む。
「どうやって盗聴するつもりだ?」
「接触型か、近距離誘導型でしょう」
別のオペレーターが答える。
「ケーブルへ直接装置を取り付ける可能性があります」
艦長が指示する。
「進路を下へ」
「目標の真下を取る」
「深度を二〇〇〇」
「了解。深度二〇〇〇」
『しんえん』の巨大な船体が、ほとんど音を立てずにさらに深く沈む。
正体不明のUUVは、自分の千数百メートル下を巨大な潜水艦が並走していることなど知る由もない。
副長が艦長を見る。
「ここまで来れば、目的はほぼ確定でしょう」
「ああ」
「捕獲しますか?」
「壊す必要はない」
「では?」
艦長は少し考える。
「帰ってもらう」
副長が僅かに笑う。
「丁寧に?」
「できるだけな」
艦長はソナー員へ目を向けた。
「低出力で一発」
「位置だけ教えてやれ」
「了解」
ソナー員が操作に入る。
「アクティブ、最小出力」
「目標方位固定」
「発信します」
短い電子音。
そして。
暗い深海を、一筋の探信音が走った。
強烈な威嚇ではない。
船体を震わせるほどの大出力でもない。
ただ。
確実に。
お前を見ている。
その事実だけを伝えるための一発だった。
UUVの反応は即座だった。
「目標、急速変針!」
「速度上昇!」
「西南西へ退避します!」
副長がモニターを見る。
「気づいたようですね」
「追うな」
艦長が言う。
「記録だけ取れ」
「了解」
UUVは海底ケーブルから離れ、湾外へ向かって退避を始める。
『しんえん』は、追撃しなかった。
魚雷発射管も開かない。
ミサイルも使わない。
ただ、その背中が見えなくなるまで、静かに監視を続けた。
日本平。
今度はドイツ代表だった。
「質問があります」
「どうぞ」
「武力行使についてです」
御子柴が少し姿勢を正す。
ドイツ代表は慎重な口調で言う。
「どれほど高性能なシステムでも、誤認は起こります」
「民間船を敵艦と誤認する」
「無人機を攻撃兵器と誤認する」
「サイバー攻撃の発信源を間違える」
「S.O.D.U.がそのような過ちを犯した場合、誰が責任を負うのですか」
天城が答える。
「日本国です」
「組織ではなく?」
「国家としてです」
「賠償も?」
「必要なら」
「刑事責任は?」
「行為に違法性があれば、担当者も指揮官も対象になります」
ドイツ代表が少し目を細める。
「S.O.D.U.の人間でも、日本の法律で裁かれると?」
「当然です」
「超法規的組織だという話も聞きますが」
天城は少し眉を寄せた。
「便利な言葉ですね、それ」
御子柴が隣で苦笑する。
天城は続けた。
「緊急時に通常手続きを簡略化できる特別権限はあります。しかし、何をしても許されるという意味ではありません」
「では、誤射が起きれば?」
「調査します」
「責任があれば?」
「取ります」
ドイツ代表は頷いた。
「明確な答えです」
天城は少しだけ疲れたような顔をした。
「曖昧にすると、後で我々が困りますから」
会議室に僅かな笑いが起きる。
今度はイギリス代表が口を開いた。
「もう一つだけ」
「どうぞ」
「S.O.D.U.は、武力を使う前にどこまで非軍事的な手段を選ぶのですか」
天城は少し黙った。
その問いだけは。
今日の中で最も簡単で。
最も難しいものだった。
「可能な限り」
天城は答える。
「撃たない方法を選びます」
イギリス代表が続ける。
「それは理想論では?」
「そうかもしれません」
「実戦では、相手が先に撃ってくる」
「ええ」
「それでも?」
天城は窓の外を見た。
海。
街。
道路。
人。
「撃たずに守れるなら、その方がいい」
天城はゆっくり言った。
「兵器は、撃つためにあります」
「ですが、国家が兵器を持つ目的は、撃つことそのものではない」
「撃たなくても相手が引く」
「撃たなくても国民が守られる」
「そこまでできたなら」
一拍。
「その方が、ずっと上等です」
会議室は静かだった。
その言葉に拍手は起きなかった。
しかし。
誰も笑わなかった。
数十分後。
第一日目の本会議は終了した。
各国代表が席を立ち、随行員とともに次の非公式協議へ向かっていく。
御子柴は長時間の会議を終え、肩を回しながらテラスへ出た。
夕方の風が気持ちよかった。
富士山の輪郭が、午後より少し柔らかくなっている。
後ろから天城が出てくる。
御子柴が振り返る。
「思ったより、生きて帰れたな」
「会議ですよ」
「会議だから怖いんだ」
天城が少し笑う。
「弾なら避けようがあります」
「質問は避けたらニュースになる」
「確かに」
御子柴は手すりに寄りかかり、駿河湾を眺めた。
「それにしても」
「はい」
「よくもまあ、あれだけ聞かれて平然としていられるな」
天城は首を振る。
「平然とはしてませんよ」
「顔に出ないだけか」
「艦隊司令が質問一つで青ざめていたら、格好がつかないでしょう」
「君にも格好を気にする感覚があったんだな」
「失礼ですね」
二人の間に、小さな笑いが落ちた。
そこへ。
如月が足早にやって来た。
表情は落ち着いている。
だが。
御子柴は、それだけで何かあったと分かった。
「どうした」
如月は声を落とした。
「先ほど、駿河湾海中で正体不明のUUVを確認しました」
御子柴の顔から笑みが消えた。
「……今、何と言った?」
「無人潜航艇です」
「武装は?」
「確認されていません」
「目的は?」
「海底通信ケーブルへの接近とみられます」
御子柴は海を見る。
少し前まで。
世界各国の首脳が、この海を背景に写真を撮っていた。
「どこの国だ」
「まだ特定できません」
「捕まえたのか?」
如月は首を振る。
「いいえ」
「『しんえん』が追尾し、探信音を一度だけ送信しました」
「それで?」
「目標は反転。現在、湾外へ退避中です」
御子柴がしばらく黙る。
「……攻撃は?」
「ありません」
「こちらからも?」
「ありません」
「つまり」
御子柴は如月を見る。
「何もなかったと?」
如月は少しだけ笑った。
「何も起こさせませんでした」
御子柴は目を閉じた。
深く息を吐く。
「そういう報告は、心臓に悪い」
天城が静かに海を見る。
夕陽が駿河湾の水面を照らしている。
漁船。
貨物船。
街。
何も知らない人々。
今日。
世界の首脳がここに集まり。
S.O.D.U.について議論した。
その同じ時間。
正体不明の侵入者が海底へ近づき。
『しんえん』は一発も撃たずに、それを追い返した。
天城は小さく頷いた。
「それでいい」
御子柴が横を見る。
「何がだ」
「今日の答えです」
「?」
天城は海から目を離さなかった。
「撃たずに守れるなら、その方が上等だと」
先ほど。
会議室で言った言葉。
それを。
誰にも見えない場所で。
『しんえん』が先に証明していた。
御子柴も、やがて海を見る。
何も見えない。
ただ穏やかな駿河湾が広がっている。
「……本当に、いるんだよな」
「何がです?」
「『しんえん』だよ」
天城が少し笑った。
「どうでしょうね」
「お前らはすぐそういう言い方をする」
御子柴は呆れたように言いながらも。
その表情には、僅かな安堵があった。
夕陽がゆっくりと傾いていく。
明日も。
この円卓では、さらに難しい話が続くだろう。
各国がS.O.D.U.を全面的に信用したわけではない。
日本が世界から疑われなくなったわけでもない。
それでも。
今日。
世界は一度も砲声を聞かなかった。
誰も沈まなかった。
誰も血を流さなかった。
それだけで。
この会議には十分な意味があった。
駿河湾の深い海の底では。
任務を終えた『しんえん』が、再び完全な沈黙へ戻っていた。
その姿を知る者は、ほとんどいない。
それでいい。
誰にも気づかれず。
何も起こらず。
明日の朝も。
富士山の向こうから、いつものように太陽が昇る。
その普通を守ることこそが。
S.O.D.U.が持つ力の。
最も難しい使い方なのだから。




