第2話 ホノルル
四月の終わりの朝、ホノルルの港に郵便船が入った。
ナニ・ケアロハは母の手につかまって、王宮の裏門へ向かっていた。五つの足には道の継ぎ目がいつも少し深かった。母の指には針の跡が小さな点になっていくつも残っている。王宮の針子である母は、縫い上げた衣を、毎朝そこへ届けに通っていた。ナニは、その手に引かれて、毎朝同じ道を歩いた。
港では、郵便船から麻袋が次々と降ろされていた。荷役の男たちが、袋を肩に載せて板の上を渡っていく。母は、足を止めずに言った。
「あの袋のどれかに、王様のお手紙が入っているのかもしれないね」
ナニは、袋の一つ一つを目で追った。どれも同じ色をしていて、どれが遠い国から来たものなのか、区別がつかなかった。
王宮は二つあった。古いほうは、珊瑚の石を積んだ低い建物で、ナニが生まれるずっと前からそこに建っている。そのすぐ隣で、新しい王宮が少しずつ背を伸ばしていた。足場の木が壁に絡み、石工たちが朝から槌を打っている。王様はその新しい王宮が建ち上がるのを見ないまま、遠い国々へ旅に出てしまった。母は、そう言っていた。
王様の留守のあいだ、国を預かっているのは王様の妹君であるリリウオカラニ殿下だった。
その日、古い王宮の空気はいつもと違っていた。女官たちの足音が速く、扉の開け閉めが荒かった。母は、衣を渡し終えるとナニの肩を軽く押した。
「庭で待っていなさい。おとなしくね」
ナニは頷いて、庭へ出た。ハウの木の下に、ラウハラの敷物が広げてあった。編み目はどこまで辿っても、同じ形に戻ってくる。そこに先客がいた。
「ナニ」
小さな声で呼ばれた。カイウラニだった。ナニと同じ年の、褐色の肌をした女の子で、白い服の襟に小さな花を挿している。乳母が、少し離れた木陰で団扇を使っていた。
二人はほとんど毎日、ここで過ごした。遊ぶといってもナニは、王女の言うことに頷くだけのことが多かった。母がそう教えたのだ。それでもカイウラニは、ナニの隣に座りたがった。理由はナニには分からなかった。
その日のカイウラニはいつもより静かだった。
「中で、お話をしているの」
「誰が」
「おじ様のお手紙。海の向こうから、来たんだって」
カイウラニの言う「おじ様」は、王様のことだった。ナニは、その顔を遠くからしか見たことがなかった。
開いた窓から、大人たちの声が漏れてくる。英語とハワイの言葉が、入り混じっていた。ナニは英語をほとんど知らなかった。それでも、一つの響きだけははっきりと耳に残った。
「ヤマシナ」
リリウオカラニ殿下の声だった。手紙を読み上げているらしい。ゆっくりと、石を一つずつ並べるように。
英語の朗読が終わると殿下は、ハワイの言葉に切り替えた。幼いナニにも分かる言葉だった。
「陛下は、日本の皇帝にお会いになった。皇帝は、最後まで話を聞いてくださったそうよ。ただその場では、お答えにならなかった。考えておく、と」
誰かが、息を吐いた。
「陛下はカイウラニを日本の宮家の子に、とお望みです。その方のお名前がヤマシナ。今、八歳になるそうよ」
長い沈黙があった。やがて、男の声が、低く言った。
「あの子は、まだ五つです。どちらも、まだ子どもではないですか」
カイウラニの父の声だった。スコットランドから来た人で、ハワイの言葉を、少しだけ硬く話す。
「ええ、知っています」と、殿下は言った。「それでも、陛下はいつも一番遠くをご覧になる方ですから」
窓の中で、紙のこすれる音がした。
「足元の石は、私が数えておきましょう」
ナニには、その言葉の意味が分からなかった。ただ殿下の声が、手紙を読んでいたときよりも少しだけ静かになったことは分かった。
窓辺に人影が立った。殿下だった。庭の二人をしばらく見ていた。笑ってはいなかった。長い指が手紙の端をゆっくりと折っていた。ナニと目が合う前に人影は窓の奥へ消えた。
敷物の上ではカイウラニが膝を抱えていた。
「ヤマシナって、何」
「知らない。名前みたい」
「変な音」
カイウラニはその音を口の中で転がした。ヤマ、シナ。ヤマシナ。三度目で、小さく笑った。ナニも真似をして言ってみた。ヤマシナ。舌の上にまだ誰の顔もない硬い音が乗った。
「わたしのお婿さんなの」
「分からない」
「遠いのかな」
「海の向こう」
ナニは、そう答えて港のほうを見た。ハウの葉の隙間から、帆柱の先がいくつか覗いている。その向こうで、新しい王宮の槌音が変わらない間隔で鳴っていた。
乳母が団扇を止めてこちらへ来た。
「お嬢様、もう戻りますよ」
カイウラニは、立ち上がってナニの手を、一度だけ握った。小さな手は、少し汗ばんでいた。
その夜、ナニは家の寝床で天井を見ていた。母は暗がりの中でも針に糸を通すことができる。隣の部屋で、の小さな音が続いていた。
「ヤマシナ」
声に出してみた。母の手が、ふと止まった。
「どこで、そんな言葉を」
「お庭で」
母は、しばらく黙っていた。それから、また針を動かし始めた。
「忘れなさい。大人の話よ」
ナニは目を閉じた。窓の外では波の音が、昼と同じ強さで続いていた。忘れなさい、と言われても音は舌の上に残っていた。隣の部屋の針の音は夜が更けても止まらなかった。
それがナニの覚えた最初の日本語になった。
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