第3話 外務卿
明治十四年三月。国王が宮中で天皇に謁見したその二日後の夜だった。
謁見の場に三枝は入れなかった。宮中の扉の外で、半刻ほど立っていただけだった。王の一行は、その日のうちに延遼館へ戻ったと聞いている。
三枝恭介はその夜、外務省の奥の一室に呼ばれた。長い廊下の突き当たりで、扉の隙間からランプの光が細く漏れていた。部屋の主は外務卿の井上馨だった。机の上は紙の山で埋まっている。
「座れ」
井上は、書類から目を上げなかった。年は四十五。声は低く言葉は短い。
「お前の英語は、どこで覚えた」
「横浜の居留地です。宣教師の開いた学校で」
「そうか」それきり、井上は何も言わなかった。「ハワイの王が、随員に書かせたものがある。英語だ。お前に日本語にしてもらいたい」
束ねられた紙が、机の上を滑ってきた。表題の字は、きれいな筆記体だった。覚書、とある。国王陛下より日本国天皇陛下への内密の申し入れ。
「書いたのは、あの肩幅の広い男か」
「随員のアームストロング氏です。ハワイで生まれた米国人の宣教師の子だと聞いています」
「米国人の手の者が、王の傍に付いている」井上は独り言のように言った。「それでも、王は日本に頼みに来た」
三枝は読み始めた。英語の文章は、丁寧で少し大仰だった。一行を訳すたびに、言葉が日本語の側へ少しずつ痩せていく気がした。
第一に、移民の件があった。ハワイの砂糖農園は、働き手が足りない。日本から労働者を送ってほしい。待遇はハワイ政府が責任を持つ。
第二に、縁組の件があった。
「国王の姪、カイウラニ王女を日本の皇族の男子に嫁がせたい。王女の年齢は」三枝はそこで言葉を止めた。
「どうした」
「五歳、と書いてあります」
井上は、初めて顔を上げた。
「五歳」
「はい。相手の候補は、山階宮定麿王。八歳とあります」
井上は、短く息を吐いた。
「五つと八つか。ならば、返事を急ぐ必要はない」
三枝は、次の行に目を落とした。筆を取ってその名を紙に書いた。山階宮定麿王。英語の綴りの中では、どこか頼りなかった響きが、漢字を当てた途端に急に重さを持った。
「宮内省は、首を縦に振るまい」と、井上は言った。「皇族を異国へ嫁がせた前例は、い。それはお前の仕事ではない。私の仕事だ」
三枝は何も言わずに頷いた。
第三に、連合の件があった。
「アジアおよび太平洋の独立国が、一つの連合を結び、欧州諸国の圧迫に共同で当たること。日本国がその盟主となること」
訳し終えて三枝は筆を置いた。
「もう一度、頭から読め」
三枝は、訳文を声に出して読んだ。井上は目を閉じたまま、指で机を叩いていた。その間隔が条文ごとに少しずつ変わった。
「連合、と訳したのか」
「原文の語は連合に当たります」
「同盟とは書かんのか」
「同盟であれば、別の語を使うはずです」
「今は、連合でいい」井上は頷いた。「同盟の字はあとで要る」
部屋はランプの芯の音だけになった。
「大きく出たな」
井上は、笑っていなかった。
「お前は横浜で王と二人で海を見たそうだな」
三枝の背が冷たくなった。課長が報告したのだ。
「はい」
「何を話した」
嘘は通らない。そう思った。同時にあの夕刻の言葉が自分のものではないことも分かっていた。誰も一人きりで食べられてしまわないように。王はそう言ったのだ。
「連合の話を、少し」と、三枝は答えた。「この覚書にあることと、同じです。それ以上のことはありませんでした」
半分は本当だった。井上は三枝の顔をしばらく見ていた。
「お前はどう思った」
「分かりません」
「分からぬ、でいい。意見はいらん。事実だけを持ってこい」
「王はどんな男だった」
「正直な方に見えました」
「正直な王は使いにくい」井上は、わずかに口の端を動かした。「だが、信用はできる。信用できる相手は少ない」
三枝は頷いた。王の声が頭の中でまた鳴った。君はまだ自分の意見を持てるほど、偉くないだろう。
井上は、椅子の背にもたれた。
「ハワイは小さい。だが、小さいから使える」
独り言のような声だった。
「米国人は、あの島々を自分の庭だと思っている。その庭に日本が木を一本植えたらどうなる。条約の改正を米国と話すとき、日本はただ頭を下げる側ではなくなる。そうは思わんか」
三枝には答えられなかった。外交の話は通訳の仕事の外にあった。
「それに」と、井上は続けた。「あの国は砂糖の国だそうだ。人が足りぬ。日本には食えぬ者が余っている」
ランプの炎が揺れた。三枝はその言葉を訳す相手のいない通訳のように、胸の中で聞いていた。
「陛下には断らぬ方向で、申し上げることになるだろう」
井上はそう言って覚書の束を自分のほうへ引き寄せた。
「返事はまだ出さぬ。五つの子供だ。急ぐ必要はない。ただ、断らぬ。それだけあの王に伝えておけ」
「承知しました」
「今夜のことは、課長にも言うな」
「はい」
部屋を出ると廊下は暗かった。窓の外に三月の月が出ている。三枝は掌を見た。筆の墨が人差し指と親指に、うっすらと残っていた。墨は洗えば落ちる。だが、今夜この手を通った言葉が、これからどこへ流れていくのか見当がつかなかった。
山階宮定麿王。その六文字は、まだ生きているように指先に絡みついていた。
どうでしたか?
感想・評価して下さると作者のモチベーションが上がります!
誤字があれば教えてください
それでは、また~




