第1話 横浜
明治十四年三月四日、横浜の空は、朝から低く曇っていた。
三枝恭介は、税関の前の石畳に立って、沖を見ていた。外套の襟を立てても、潮風は首筋に入ってくる。手には、昨夜遅くまで書き直した挨拶の英訳が、二つ折りにして握られていた。紙は掌の汗でもう柔らかくなっている。
二日前に、外務省の課長から言い渡された。ハワイ国王が来る。随行の通訳にお前を付ける。理由は聞かなかった。横浜の居留地で英語を覚えた若手の中で、米国人の発音に最も近いのが、二十五になったばかりの自分だったからだろう、と見当をつけていた。
ハワイという国の名前を、三枝は三日前まで、地図の上でしか知らなかった。太平洋のまんなかに、黒胡麻をばらまいたような点が、ごく小さく描かれていた。その点が、人の形をして歩いてくるのだ、と考えかけてすぐに打ち消した。通訳がそんな気持ちで言葉を運ぶものではない。
待つあいだ桟橋の向こうで、荷役の男たちが、縄の束を肩に掛けたまま動かずにいた。誰も口をきかない。国王を迎えるという出来事が、横浜の港の空気を一枚だけ硬くしていた。
「来たぞ」
隣に立っていた先輩の通訳官が、短く言った。
沖合に、煙を吐く汽船が見えた。二十一発の礼砲が鳴り、港の鴎が一斉に飛び立った。三枝は反射的に半歩だけ後ろへ下がった。足の裏が濡れた石の上で滑った。
汽船から小舟が降ろされ、やがて桟橋に着いた。最初に降りたのは、軍服姿の背の高い男だった。その後ろから黒い洋服の男と、肩幅の広い白人の男が続いた。三枝は前へ出ろ、という課長の目配せを受けて、一歩進んだ。
「ようこそ、横浜へ」
英語で言った。声は思ったよりも出た。
背の高い男が、三枝を見た。肌は日に焼けた褐色で口髭は濃く、目は大きかった。年は、四十の半ばだろうか。胸の勲章が、曇り空のわずかな光を拾っていた。随員の二人は、王よりも半歩下がって立っていた。白人の男は、迎えに並んだ日本人の顔を一人ずつ値踏みするように見ていた。
「ありがとう。君が、私の口になってくれる人かな」
男は笑った。その英語は、三枝が居留地で聞いてきたどの米国人のものよりも、柔らかく、丸かった。
「三枝恭介と申します。外務省の者です」
「キョウスケ」と、男は繰り返した。「いい名前だ。私は、カラカウア。君たちの言葉では何と呼ぶんだったか」
「国王陛下、と」
「陛下」男は、その言葉を口の中で転がした。「うん。悪くない」
そこから先は、記憶が途切れ途切れになっている。外務卿の挨拶は、整っていてどこにも棘がなかった。それを英語に直すと、整った言葉の中身が、ほとんど空になる。三枝はその空洞の大きさを訳しながら測っていた。王の答礼があり、それを訳す自分の声があった。一つの言葉を渡すたびに、掌の紙が少しずつ要らなくなっていくのが分かった。紙に書いたものは、日本語の側に偏っていた。王の言葉はいつも紙の外にあった。
式は思ったよりも短く終わった。新橋へ向かう汽車の時刻まで、一時間ほどの間があった。肩幅の広い白人の男が、疲れた顔で王に何か耳打ちしたが王は首を振った。そして三枝のほうを向いた。
「少しだけ、海を見たい。三週間ぶりに、動かない地面に立ったんだ」
三枝は課長を見た。課長は少し迷ってから頷いた。
二人で、海岸通りに出た。ほかの者は、数歩離れて付いてくる。歩きながら、三枝は、自分の靴音と王の靴音が、わずかにずれていることに気づいた。雲の切れ間から、夕方に近い光が差して湾の水面を鈍い銀色にしていた。
王は護岸の石に手をかけて、しばらく黙っていた。波が石の根元を同じ間隔で叩いていた。
「君は、この海の向こうに何があると思う」
不意の質問だった。三枝は答えを探した。
「アメリカ、でしょうか」
「そうだね。そして、私の国だ。同じ水が、ここと、ホノルルとを繋いでいる」王は笑わなかった。「私の国民は、この水を、隔てるものだとは考えない。道だと考える。ずっと、そうしてきた」
三枝は、黙って聞いていた。通訳は余計な口を挟まない。しかし今は訳すべき相手もいなかった。
「キョウスケ。私は、日本に頼みごとをしに来たんだ」
王の声は、低くなっていた。
「私の国は小さい。白人たちは、今はまだ礼儀正しいが、いつまでそうかは分からない。私は、アジアと太平洋の国々が一つの連合を作るべきだと思っている。日本が、その中心になってくれたら、と。誰も一人きりで食べられてしまわないように」
三枝は、息を止めていた。
連合。それがどれほど大それた言葉か、彼にも分かった。日本は、まだ不平等な条約に縛られた国だった。他の国々を束ねる前に、自分の足元の関税さえ、自分では決められない。
「陛下、それは」
「分かっている」王は遮った。「君の国の人々が、すぐには頷かないことも。だから、今日は君にだけ話した。君はまだ、自分の意見を持てるほどには、偉くないだろう」
悪意のない言い方だった。三枝は思わず小さく笑ってしまった。
「その通りです」
「それでいい」
王は、護岸から手を離した。夕刻の光は、もう水平線の上に橙色の一筋を残すだけになっていた。背後で課長の咳払いが聞こえた。
「行こうか」
王が歩き出した。
三枝は半歩遅れて、その後ろに付いた。今の話を誰にどう伝えるべきなのか。まだ何も、決めていなかった。ただ掌の中にあった紙はいつの間にか外套のポケットの底にしまわれていた。
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