2-3.空を知る
第6生も、湿った土の中から始まった。
白く太い幼虫として、朽木を食べる。
短い足で土を掻き、大きな顎で腐った木を噛み砕く。
食べるほどに身体は膨らみ、古い皮を脱ぎ捨てるたびに大きくなった。
やがて食べることをやめ、周囲の土を押し固めて蛹室を作る。
白い身体は蛹へ変わり、長い眠りの中で少しずつ形を変えていった。
大きな角。
硬い殻。
力強い6本の足。
そして、上翅の下へ折り畳まれた一対の翅。
地上へ出る頃には、前の生と同じ雄のカブトムシとなっていた。
だが、初めて木の上から飛び立った瞬間、その生は以前とは大きく異なっていた。
◇
硬い上翅を開く。
その下から、薄い翅を広げた。
翅を震わせると、低い羽音とともに重い身体が浮き上がる。
大きな角に引かれ、身体がわずかに前へ傾いた。
だが、落ちない。
左右の翅の動きが自然に変わり、すぐに姿勢が戻った。
前方には、何本もの枝が伸びている。
以前ならば、そのどれかへ身体をぶつけていただろう。
今は違った。
少し高度を落とす。
枝の下へ潜り込む。
葉が目の前へ迫れば、身体を傾けて脇を抜ける。
強い風が横から吹きつけた。
流される前に翅の動きを変える。
風へ逆らうのではなく、押される力を利用して大きく弧を描いた。
別の木の幹が近づいてくる。
翅の動きを弱め、速度を落とす。
6本の足を前へ伸ばした。
爪が樹皮へ触れる。
そのまま、しっかりと幹を掴んだ。
身体をぶつけることなく、狙った場所へ着地できた。
上翅を閉じる。
翅は傷ついていない。
脚も外れていない。
初めて飛んだはずなのに、身体は空の進み方を知っていた。
なぜ知っているのかは分からない。
以前にも飛んだことがあるのか。
何度も失敗を重ねたのか。
そのカブトムシには、何一つ思い出せなかった。
ただ、翅の動かし方だけが身体へ刻まれていた。
飛べる。
木から木へ。
枝から枝へ。
思った場所へ進むことができる。
その事実が、身体の奥へ強い昂ぶりを生んだ。
甘い樹液の匂いが、風に乗って流れてくる。
自分は再び上翅を開いた。
今度は迷わず、夜の空へ飛び出した。
◇
飛ぶ力を得たことで、樹液場を巡る生き方も変わった。
木の上に大きな雄がいれば、無理に争う必要はない。
その木を離れ、別の匂いを探せばいい。
長い顎を持つクワガタが樹液を独占していても、正面から挑む必要はなかった。
翅を広げれば、すぐに別の木へ移れる。
地面を歩いて探していた頃には、一つの樹液場を失うことが大きな問題だった。
次の木へたどり着くまでには時間がかかる。
草の根。
石。
倒木。
地面を進む身体にとって、森には多くの障害があった。
だが、空を飛べば越えられる。
広い茂みも。
浅い沢も。
急な斜面も。
翅を動かしている限り、進路を塞ぐことはできなかった。
ある夜、樹液場へ着くと、二匹の大きな雄が争っていた。
二本の角が激しくぶつかる。
一匹が相手の身体を持ち上げようとする。
もう一匹は爪を樹皮へ食い込ませ、必死に耐えていた。
周囲にいた小さな虫たちは、争いに巻き込まれないよう離れている。
自分も樹液を求めていた。
戦いへ割って入り、弱ったほうを追い落とすこともできた。
だが、そうしなかった。
上翅を開く。
二匹の争いを背に、別の木へ飛んだ。
しばらく進むと、前の場所より小さいが、誰にも使われていない樹液場が見つかった。
甘い液体へ口をつける。
腹を満たすには、それで十分だった。
別の夜には、樹液場へ何十匹もの蟻が集まっていた。
蟻たちは細い列を作り、木の下から登ってくる。
樹液へ口をつけた個体が、また巣へ向かって下りていく。
小さな身体。
細い足。
硬い殻を持つ今の自分なら、簡単に追い払うことができる。
だが、蟻たちの姿を見ていると、不思議な懐かしさが湧いてきた。
何匹もの蟻が触角を触れ合わせる。
一匹が見つけた食料へ、次々と仲間が集まってくる。
自分は樹液場の中央へ入らなかった。
蟻の列から少し離れた場所へ移り、樹液がにじんでいる端へ口をつける。
蟻たちは、そのまま働き続けた。
自分も必要なだけを飲んだ。
誰かを追い払わなくても、腹は満たされた。
――山の恵みは、山で生きるもののためにある。
頭の奥に、低い声が浮かぶ。
誰の声なのかは分からない。
だが、その言葉に従うことが自然に思えた。
必要以上に奪わない。
食べる分だけを得る。
戦う必要がなければ戦わない。
飛べるようになったことで、自分にはそれを選ぶ余裕が生まれていた。
◇
毎晩、飛べる距離が伸びていった。
最初は隣の木までだった。
次は、林の端まで。
やがて沢を越えた。
細い水の流れが、月の光を反射している。
地面を歩いて渡ろうとすれば、流れに足を取られたかもしれない。
今は、その上を一度も水へ触れずに通り過ぎることができた。
さらに先へ進む。
これまでいた森とは、匂いが違う。
樹木の種類が変わった。
地面には大きな岩が増え、斜面も急になっている。
樹液の匂いを探し、夜の空を進む。
腹を満たすだけなら、ここまで遠くへ来る必要はなかった。
近くにも、樹液の出る木はある。
それでも自分は、遠くへ飛ぶことをやめなかった。
山の奥へ進むほど、胸の内側に奇妙な感覚が生まれた。
懐かしい。
何かを探さなければならない。
この先に、誰かがいる。
だが、誰を探しているのかは思い出せない。
生まれてから一度も会ったことのないはずの何かが、自分を山の奥へ呼んでいる。
高い木の枝へ降りる。
そこから周囲を見渡した。
暗い森。
重なる山の影。
さらに奥には、月の光を遮る高い峰がある。
木々の間を、一筋の古い道が通っていた。
草に覆われ、今ではほとんど使われていない道。
その道を見た瞬間、頭の奥へぼんやりとした像が浮かんだ。
大きな背中。
肩にかけられた長い物。
泥に汚れた長靴。
一人の誰かが、山の奥へ歩いていく。
追わなければならない。
その思いが、強く身体を突き動かした。
だが、像はすぐに消えた。
なぜ追うのか。
誰を追うのか。
その答えは残らない。
カブトムシは枝の上で触角を動かした。
周囲に樹液の匂いはない。
やがて空腹が勝り、来た方向へ飛び立った。
◇
ある夜、山の上には薄い雲が広がっていた。
月の光は弱い。
風もほとんどない。
自分は、いつものように木から飛び立った。
山の奥へ向かう。
沢を越える。
斜面の上を進む。
木々の頂が下へ流れていく。
自由だった。
地面に縛られることなく、どこへでも進める。
飛ぶことを覚えたばかりの頃とは違う。
枝を避けられる。
狙った木へ降りられる。
風の動きも分かる。
もう空は、恐ろしい場所ではなかった。
そのとき、背後で空気が揺れた。
自分の羽音とは異なる。
低く。
重く。
一度の羽ばたきで、多くの空気を押し動かす音。
身体が危険を訴えた。
振り返ることはできない。
だが、月明かりの弱い空を、大きな影が横切った。
鳥。
枝に止まっていた鳥が、飛んでいる自分を見つけたのだ。
大きな翼を広げ、後方から近づいてくる。
速い。
自分も翅を強く動かした。
前へ進む。
だが、距離は縮まっていく。
鳥はほとんど音を立てずに飛んでいた。
自分よりも大きな身体。
広い翼。
空を飛ぶために作られた姿。
まっすぐ逃げても、追いつかれる。
本能がそう告げた。
前方に、枝葉の密集した木がある。
その隙間へ入れば、大きな翼を持つ鳥は追いにくくなる。
だが、そこへ向かうまでに捕まるかもしれない。
背後から風圧が迫った。
自分は突然、翅の動きを弱めた。
身体が下へ落ちる。
鳥の嘴が、先ほどまで自分がいた場所を通り過ぎた。
大きな影が頭上へ抜ける。
すぐに翅を強く動かす。
落下を止め、前方へ進んだ。
鳥が空中で身体を翻す。
再びこちらへ向かってくる。
まだ、逃げ切れていない。
木の枝が迫る。
そのまま、枝葉の隙間へ飛び込んだ。
葉が殻へ当たる。
細い枝が角を擦る。
だが、速度を落とさない。
鳥も後ろから迫った。
翼が枝へ触れる。
葉が激しく揺れた。
大きな身体では、狭い隙間を自由に進めない。
それでも、嘴は近い。
自分は太い幹の直前で身体を傾けた。
幹の表側から、裏側へ回り込む。
鳥は同じようには曲がれない。
翼を広げ、幹へぶつかる直前で上昇した。
一瞬だけ、姿が見えなくなる。
自分は翅を閉じた。
身体が落下する。
幹に沿って下へ落ちる途中、6本の足を広げた。
爪が荒い樹皮を掴む。
そのまま、幹の裏側へ張りついた。
動かない。
翅も開かない。
触角さえ、ほとんど動かさない。
頭上を、鳥が通り過ぎる。
枝へ止まる音がした。
探している。
自分がどこへ消えたのか、見つけようとしている。
しばらくすると、鳥が別の枝へ移った。
再び翼を広げ、暗い森の向こうへ飛び去っていく。
それでも、自分は動かなかった。
鳥の気配が完全に消えてから、ゆっくりと幹を下りた。
生きている。
翅は傷ついていない。
脚も揃っている。
硬い殻には、枝で擦った小さな傷が残っただけだ。
鳥より速く飛べたわけではない。
戦って追い払ったわけでもない。
飛び方を変えた。
枝を使った。
幹の陰へ隠れた。
それだけで、生き残ることができた。
――強いものから、正面だけで逃げるな。
――山にあるものを使え。
また、低い声が浮かんだ。
その言葉を聞くと、胸の奥がわずかに暖かくなった。
理由は分からない。
自分は暗い木の幹を登り、安全な樹皮の割れ目で夜明けを待った。
◇
鳥に襲われたあとも、飛ぶことをやめなかった。
空には危険がある。
木々の上へ出れば、身を隠す場所は少ない。
大きな鳥に見つかれば、速さでは勝てない。
それでも、空を飛ばなければたどり着けない場所があった。
自分は枝葉から大きく離れないようになった。
森の上を飛ぶときも、いつでも木の間へ逃げ込める高さを選んだ。
開けた場所を横切る前には、高い枝へ止まる。
周囲の気配を探る。
鳥の羽音や影がないことを確認してから、一気に渡った。
飛べるからといって、どこを飛んでもよいわけではない。
自由に動けるからこそ、危険な場所を見極めなければならない。
それもまた、山で生きるための掟なのだろう。
夜を重ねるごとに、移動する範囲は広がっていった。
沢を二つ越えた。
岩の多い斜面を越えた。
以前に見つけた古い山道の、さらに先まで進んだ。
山の奥には、樹齢の長い木々が並んでいる。
幹は太く、樹皮には深い傷があった。
その一つに、不自然な痕が残されていた。
虫が削ったものではない。
獣の爪痕でもない。
硬い何かを、幹へ打ちつけた跡。
縦に。
斜めに。
何度も刻まれている。
その痕へ前足を触れた瞬間、頭の奥に光景が浮かんだ。
大きな手が、鉈を振るう。
木の幹へ印を付ける。
道を見失わないために。
戻る場所を知るために。
だが、その意味を理解するより先に、光景は消えた。
自分はしばらく、幹の傷へ触れていた。
ここを知っている。
来たことなどないはずなのに、そう感じた。
胸の奥へ、言葉にならない焦りが生まれる。
もっと奥へ行かなければならない。
何かを見つけなければならない。
自分は再び飛び立った。
◇
その夜は、いつもより遠くまで進んだ。
高い斜面を越えた。
樹液の匂いを見つけても、すぐには降りなかった。
空腹よりも、山の奥へ向かう衝動のほうが強かった。
飛び続ける。
翅を動かす。
風に乗る。
木々の間を抜ける。
やがて、山の空気が変わった。
冷たい風が、斜面の上から吹き下ろしてきた。
夏の夜にも、山の上には冷たい場所がある。
だが、その風は今までとは違っていた。
雲が厚くなる。
月の光が完全に消えた。
葉が大きく揺れ始める。
遠くで、低い音が鳴った。
雨の匂い。
自分は身体の向きを変えた。
来た道を戻る。
樹液のある低い場所へ。
暖かい森へ。
だが、冷たい風は急速に強くなった。
雨粒が殻へ当たる。
一粒。
二粒。
すぐに、数え切れないほどの雨が降り始めた。
翅が濡れる。
身体が重くなる。
風に押され、進路が横へずれた。
姿勢を戻す。
翅を強く動かす。
飛ぶことはできる。
だが、身体の動きが少しずつ鈍くなっていた。
冷たい。
脚へ力が入らない。
翅を動かす速度が落ちる。
高度が下がった。
前方の木へ向かう。
着地しなければならない。
雨の中を飛び続ければ、地面へ落ちる。
太い幹が近づく。
6本の足を広げた。
爪が樹皮へ触れる。
だが、濡れた表面を滑った。
身体が幹へぶつかる。
そのまま落ちかける。
後ろ足の一本だけが、樹皮の割れ目へ引っかかった。
身体を持ち上げる。
前足で幹を掴む。
どうにか落下を止めた。
上翅を閉じる。
濡れた翅を、身体の下へ畳む。
雨の当たりにくい場所を探し、幹をゆっくりと下りていく。
樹皮の一部が剥がれ、浅い隙間になっていた。
そこへ身体を押し込む。
風は避けられる。
雨も直接は当たらない。
あとは、空気が暖かくなるまで待てばいい。
そうするしかなかった。
身体を動かさず、冷たい夜が過ぎるのを待つ。
だが、気温は下がり続けた。
脚が動かなくなる。
触角の感覚が薄れる。
翅へ力を送ることもできない。
飛びすぎた。
山の奥へ進みすぎた。
低い場所へ戻るための時間を残していなかった。
鳥からは逃げ切った。
枝も避けられた。
谷も越えた。
それでも、冷たい空気からは逃げられなかった。
空を自由に飛べるようになっても、山のすべてを越えられるわけではない。
頭の奥に、低い声が浮かんだ。
――山の天気は、すぐに変わる。
――帰れるうちに帰れ。
その声を、もっと早く思い出していればよかった。
だが、生きている間の自分には、その意味が分からなかった。
視界が暗くなる。
雨の音が遠ざかっていく。
最後に残ったのは、木の幹へ刻まれた鉈の痕だった。
誰かが、ここを通った。
誰かが、山の奥へ進んだ。
追わなければならない。
その思いだけを残し、すべての感覚が消えた。
◇
『個体の死亡を確認しました』
感情のない声が響いた。
その声とともに、失われていた記憶が戻ってくる。
人間として16歳で死んだこと。
働き蟻として4度生きたこと。
カブトムシとして寿命まで生きたこと。
飛行Lv.2を取得し、もう一度カブトムシへ転生したこと。
そして、じいちゃんが自分のために山へ入ったこと。
「さっき見つけた傷は……」
木の幹へ刻まれていた鉈の痕。
生きている間は意味を理解できなかった。
だが、今なら分かる。
じいちゃんは猟師だった。
山へ入るときには、道を見失わないよう、木へ印を残すことがあった。
あれは、じいちゃんが付けた印だったのかもしれない。
「俺は、じいちゃんが通った場所まで行ったのか」
断言はできない。
他の猟師が残した痕かもしれない。
昔、山仕事をしていた人間が付けたものかもしれない。
それでも、見た瞬間に感じた懐かしさは消えていなかった。
少なくとも、自分は以前より山の奥へ近づいている。
飛ぶ力があれば、蟻や地上を歩く生き物では行けなかった場所へ進める。
暗闇の中に、白い文字が浮かび上がった。
――――――――――
【第6生 集計結果】
種族:カブトムシ
生存期間:361日
死亡原因:低温による活動停止
獲得EP:8
獲得SP:10
――――――――――
【現在の保有値】
EP:14
SP:14
――――――――――
寿命まで生き切ることはできなかった。
それでも、EPを8獲得している。
これまでより広い範囲を飛んだこと。
沢や斜面を越え、異なる山域へ到達したこと。
鳥の襲撃から逃げ切ったこと。
山の深部へ続く入口で、人間の残した痕跡を発見したこと。
カブトムシという小さな身体で成し遂げた一つ一つが、大きく評価されたらしい。
『特殊条件の達成を確認しました』
――――――――――
【達成項目】
長距離飛行
空中回避
鳥類からの逃走
異なる山域への到達
山林深部への到達
人為的痕跡の発見
――――――――――
SPも10増えていた。
前の生で残していた4と合わせて、現在の保有SPは14。
『技能強化条件を満たしました』
白い文字が切り替わる。
――――――――――
【強化可能技能】
飛行 Lv.2 → Lv.3
必要SP:12
【獲得可能技能】
危険察知 必要SP:8
夜間視覚 必要SP:4
耐寒性 必要SP:15
【保有SP】
14
――――――――――
危険察知を得れば、鳥や天候の変化へ早く気づけるかもしれない。
夜間視覚があれば、暗い森でも障害物や逃げ道を見つけやすくなる。
耐寒性を得られれば、今回のような冷え込みにも耐えられる可能性がある。
だが、必要なSPは15。
今の自分には1足りない。
飛行Lv.3なら取得できる。
これまでより速く飛べる。
急上昇。
急降下。
急旋回。
空中での反転。
風を利用した滑空。
カブトムシの身体が本来持つ限界を越え、空をさらに自由に進めるようになる。
今回の死は、飛べなかったからではない。
むしろ、飛べるようになったことで遠くまで進みすぎた結果だった。
飛ぶ力を捨て、危険を避けて生きる道もある。
低い場所だけを飛び、樹液を探して寿命を迎えることもできる。
だが、それでは山の奥へ近づけない。
じいちゃんが歩いた道を追えない。
飛べるようになったことで、初めて見つけられたものがある。
古い山道。
木に刻まれた鉈の痕。
山の奥へ続く、誰かの足跡。
もっと遠くへ進めれば、さらに多くの痕跡を見つけられるかもしれない。
「飛行をLv.3へ強化する」
『SPを12消費します』
『技能――飛行がLv.3へ上昇しました』
――――――――――
【保有技能】
強靭な顎 Lv.2
脚力強化 Lv.1
飛行 Lv.3
【現在の保有値】
EP:14
SP:2
――――――――――
飛行Lv.3。
その文字が浮かび上がった直後、暗闇の中へ新たな光が走った。
『特殊進化条件を達成しました』
――――――――――
【達成条件】
飛行 Lv.3
長距離飛行の達成
鳥類からの逃走
山林深部への到達
【特殊進化先】
ハシブトガラス 必要EP:14
――――――――――
「ハシブトガラス……」
山林に生きる、大型の鳥。
カブトムシとは比べものにならないほど大きな身体。
空気を捉える広い翼。
硬い木の実を割り、小さな生き物を捕らえる太い嘴。
見つけた食料を隠し、その場所を後から探し出せる記憶力。
周囲を観察し、経験から行動を変えられる知能。
ただ飛ぶだけの生き物ではない。
見つける。
覚える。
考える。
そして、嘴と足で物を動かす。
これまでの身体では得られなかった力を持つ鳥だった。
以前から表示されていた進化先も、再び浮かび上がる。
――――――――――
【転生可能】
カブトムシ
【進化可能】
カエル 必要EP:6
ヤモリ 必要EP:10
ハシブトガラス 必要EP:14
【現在の保有EP】
14
――――――――――
カエルになれば、水と陸の両方を知ることができる。
ヤモリになれば、木の幹や岩肌を自在に進み、昆虫を捕らえる側へ回ることができる。
カブトムシとしてもう一度生きれば、飛行Lv.3を使い、さらに山の奥を目指すこともできる。
だが、自分の意識は、新しく現れた名前から動かなかった。
ハシブトガラス。
カブトムシよりも高く、遠くまで飛べる。
山を上から見渡せる。
木に刻まれた印を探せる。
見つけたものを覚えておける。
そして、ただ本能に従うだけではなく、自分で考えて行動できるかもしれない。
じいちゃんの痕跡を追うために必要なのは、強い身体だけではない。
飛ぶ力。
探す目。
覚える頭。
今の自分には、そのすべてが必要だった。
「ハシブトガラスに進化する」
『確認します』
――――――――――
【進化先】
ハシブトガラス
【消費EP】
14
【失効SP】
2
【継承技能】
強靭な顎 Lv.2
脚力強化 Lv.1
飛行 Lv.3
――――――――――
『ハシブトガラスへの種族進化を実行しますか』
「実行する」
迷いはなかった。
『EPを14消費します』
『未使用SPを破棄します』
――――――――――
【現在の保有値】
EP:0
SP:0
――――――――――
カブトムシとして積み重ねたEPが消えた。
使わずに残していたSPも失われた。
それでも、後悔はない。
土の中から始まった命は、何度も翅を広げた。
枝へぶつかった。
風に流された。
鳥から逃げた。
沢を越えた。
山の奥へ進んだ。
そして、木に刻まれた痕を見つけた。
次は、ただ空を飛ぶだけではない。
空から山を見て。
見つけたものを覚え。
失われた痕跡を追う命になる。
『種族進化の条件を満たしました』
『進化先――ハシブトガラス』
『新たな知能段階への到達を確認』
感情のない声が、そこでわずかに間を置いた。
『山の記憶を解放します』
「じいちゃんの、続きが見られるのか」
返事はなかった。
暗闇の中へ、冷たい風が吹き抜ける。
土と雨。
火の煙。
血の匂い。
そして、遠くから響く獣の唸り声。
白い光が広がり、山の景色を形作っていく。
『山の記憶――第二片を再生します』




