2-4.消えない記憶
『山の記憶――第二片を再生します』
冷たい風が、暗闇を吹き抜けた。
土と雨。
火の煙。
生き物の血。
濡れた獣の毛。
いくつもの匂いが混ざり合い、失われていた景色を形作っていく。
◇
山へ入ってから、すでに3日が過ぎていた。
じいちゃんは、細い尾根道を一人で歩いていた。
肩には猟銃。
腰には鉈と小刀。
背負った荷物は、入山したときよりも軽くなっている。
持ってきた食料のほとんどを食べ終えていた。
水は沢で補給できる。
だが、身体を動かすための食べ物は、山の中で手に入れなければならなかった。
一歩進むたび、長靴が湿った土へ沈む。
息は荒い。
額から流れた汗が、白くなった眉を濡らしていた。
夜露に濡れた服は乾ききらず、身体へ冷たく張りついている。
それでも、じいちゃんは足を止めなかった。
ときおり木の幹へ鉈を振るい、目印となる傷を残す。
縦に一つ。
斜めに二つ。
山へ入る猟師たちが使う印だった。
道を間違えないため。
来た場所へ戻るため。
そして、自分の後から山へ入る者へ、進んだ道を知らせるため。
じいちゃんは傷を確かめると、再び山の奥へ向かった。
周囲には、鳥の声さえほとんどない。
人が歩いた形跡も消えている。
獣道だけが、木々の間を細く縫うように続いていた。
「ずいぶん遠くまで来たな」
誰に話しかけるでもなく、じいちゃんが呟く。
返事はない。
風が葉を揺らす音だけが返ってきた。
じいちゃんは胸元へ手を入れた。
取り出したのは、小さな写真だった。
病院のベッドの上で、痩せた少年が笑っている。
その横には、じいちゃん自身が立っていた。
少年の身体は細い。
腕も、布団の上から分かるほど頼りない。
それでも写真の中の少年は、じいちゃんへ向かって笑っていた。
「もう少し待っとれ」
じいちゃんの節くれ立った指が、写真の中の少年へ触れる。
「じいちゃんが、何とかしてやる」
写真を胸元へ戻し、猟銃を持ち直した。
そのとき、前方の藪が小さく揺れた。
じいちゃんの足が止まる。
身体を低くする。
猟銃へ手をかけたまま、風の向きを確かめる。
草の隙間を、一羽の雉が歩いていた。
雄ではない。
茶色い羽毛に覆われた雌だった。
地面をつつきながら、ゆっくりと藪の間を進んでいる。
じいちゃんは猟銃を構えた。
狙いを定める。
だが、すぐには引き金を引かなかった。
雉は、こちらの存在に気づいていない。
撃てば仕留められる。
食料は必要だった。
このまま何も食べなければ、さらに山の奥へ進むことはできない。
それでも、じいちゃんは雉の腹へ目を向けていた。
巣を持っている時期かもしれない。
雛が近くにいるかもしれない。
藪の奥から、小さな鳴き声が聞こえた。
雉が頭を上げる。
じいちゃんは静かに銃口を下ろした。
「お前は駄目だ」
雌の雉は何も知らないまま、藪の奥へ消えていった。
じいちゃんはしばらく、その背中を見送った。
空腹は消えない。
だが、必要だからといって、どの命を奪ってもよいわけではなかった。
巣へ戻る親を撃てば、残された雛も死ぬ。
一発の弾で奪う命は、一つだけではない。
じいちゃんは猟銃を背負い直した。
「もう少し探すか」
再び歩き始める。
しばらくすると、斜面の上から羽音が聞こえた。
色鮮やかな雄の雉が、木々の隙間から飛び出す。
じいちゃんは素早く猟銃を構えた。
一発の銃声が、静かな山へ響き渡った。
雉の身体が斜面の先へ落ちる。
じいちゃんは足場へ注意しながら、その場所まで下りていった。
まだ生きている。
苦しませないよう、すぐに小刀を使った。
「悪いな」
両手を合わせる。
「命、もらうぞ」
◇
その日の夜、じいちゃんは大きな岩の下で火を起こした。
猟師仲間から渡された火口が役に立った。
乾いた樹皮へ火を移す。
細い枝。
少し太い枝。
順にくべていくと、小さかった炎が安定して燃え始める。
雉の羽を抜く。
肉を切り分ける。
内臓も、食べられる部分は捨てなかった。
骨は火のそばで煮出す。
すぐに食べない肉には塩を擦り込み、煙の上へ吊した。
じいちゃんは、焼けた肉を少しずつ口へ運んだ。
空腹だった身体が、強く食べ物を求めている。
それでも、急いで飲み込まない。
一口ずつ噛みしめる。
「獲った命は、無駄にするな」
炎を見つめながら呟いた。
「お前にも、そう教えたな」
その言葉が誰へ向けられたものなのか、自分には分かった。
胸の奥が締めつけられる。
じいちゃんは、いつもそうだった。
山で得た物を、必要以上に持ち帰らない。
魚を釣っても、小さすぎるものは川へ戻す。
獣を仕留めれば、肉だけでなく皮や骨まで使う。
食べ切れない命を、遊びのために奪うことを嫌った。
病弱だった自分は、じいちゃんの横でそれを聞いていた。
山へ行っても、長い距離を歩くことはできなかった。
すぐに息が切れた。
足が痛くなった。
じいちゃんに背負ってもらうことも多かった。
それでも、山が好きだった。
木の匂い。
水の音。
鳥の声。
じいちゃんの大きな背中。
元気になったら、自分の足で山を走る。
何度も、そう言った。
じいちゃんは、いつも笑って答えた。
――歩けるさ。
――いつかな。
炎が揺れる。
じいちゃんは猟銃を手元へ引き寄せた。
銃身を布で拭う。
残った弾を確認する。
あと3発。
山頂までは、まだ遠い。
それでも、戻る様子はなかった。
「必ず会ってやる」
火の向こうにある暗い山へ、じいちゃんが告げる。
「ヌシだろうが、化け物だろうが、何だって構わん」
「孫を助けられるなら、俺は何でも払う」
その声を聞いた瞬間、胸の奥へ冷たいものが走った。
何でも払う。
その言葉が、これから起きることにつながっている。
止めなければならない。
そんな言い方をしてはいけない。
「じいちゃん!」
叫んでも届かない。
これは、すでに起きた出来事だった。
炎の前にいるじいちゃんは、何も知らずに残った肉を布へ包んでいる。
翌日に備え、身体を横たえた。
猟銃は、すぐ手が届く場所へ置かれていた。
◇
次の日。
じいちゃんは、さらに急な斜面を登っていた。
雉の肉を食べたことで、少しだけ力が戻っている。
だが、疲労は消えていない。
歩く速度は遅い。
呼吸も荒い。
岩へ手をつき、身体を引き上げる。
足を滑らせるたび、鉈を地面へ打ち込んで転落を防いだ。
昼を過ぎた頃、獣道に大きな足跡を見つけた。
二つに割れた蹄の跡。
周囲の土が深く沈んでいる。
大きなイノシシ。
足跡は新しい。
じいちゃんは腰を落とし、周囲を見回した。
風は斜面の上から下へ吹いている。
獣は、こちらの匂いに気づいているかもしれない。
猟銃を構えながら、慎重に進む。
藪の向こうから、土を掘る音が聞こえた。
黒い身体が見える。
太い首。
泥に汚れた毛。
鋭い牙。
一頭の大きな雄が、地面へ鼻を押しつけていた。
じいちゃんは立ち止まった。
食料はまだ残っている。
今すぐ仕留めなければならない理由はない。
大きなイノシシを撃てば、危険も大きい。
手負いにすれば、逆に襲われる。
持ち運べる肉の量にも限界がある。
じいちゃんは、静かに後ろへ下がろうとした。
そのとき、長靴の下で枝が折れた。
乾いた音が響く。
イノシシの頭が上がった。
黒い目が、じいちゃんへ向く。
低い唸り声。
じいちゃんは動かない。
猟銃を構える。
イノシシが前足で土を掻いた。
次の瞬間、巨体が斜面を駆け上がってきた。
速い。
逃げ切れない。
じいちゃんは引き金を引いた。
銃声。
イノシシの肩から血が飛ぶ。
だが、止まらない。
さらに近づいてくる。
じいちゃんは横へ跳んだ。
牙が服を裂いた。
身体が地面へ転がる。
猟銃が手から離れた。
イノシシが向きを変える。
傷口から血を流しながら、再び突進しようとしていた。
じいちゃんは地面へ手をつき、猟銃へ這う。
指が銃床へ届く。
身体を起こす時間はない。
地面へ倒れたまま銃口を向けた。
イノシシが迫る。
もう一発。
銃声とともに、巨体が崩れた。
勢いのまま地面を滑り、じいちゃんのすぐ手前で止まる。
しばらく、誰も動かなかった。
じいちゃんは荒い息を繰り返している。
脇腹の服が裂け、血がにじんでいた。
イノシシも、まだわずかに息をしている。
じいちゃんは立ち上がり、小刀を抜いた。
震える足で近づく。
そして、苦しみが長引かないように命を絶った。
「すまんな」
血に濡れた身体へ手を触れる。
「こっちも、死ぬわけにはいかんのだ」
◇
イノシシのすべてを、一人で運ぶことはできなかった。
じいちゃんは必要な分の肉と脂を切り取り、皮の一部も剝いだ。
牙も外す。
残った肉を、そのまま腐らせることはしない。
少し離れた場所へ運び、獣たちが見つけやすいように置いた。
血に濡れた土を、落ち葉で覆う。
「全部持って帰ることだけが、命を無駄にせん方法じゃない」
誰かへ教えるように、じいちゃんが呟く。
「山で生まれたものは、山へ返る」
「鳥も、獣も、虫も食う」
「食われたものは土になって、また木を育てる」
イノシシの身体へ、もう一度手を合わせた。
持ち出す肉は、必要なだけ。
残りは山の命へ返す。
それもまた、山の掟だった。
じいちゃんは、剝いだ皮を脇腹へ巻いた。
イノシシの牙が直接深く入ったわけではない。
それでも、傷は浅くなかった。
歩くたびに痛みが走る。
猟銃に残った弾は、あと1発。
肉は手に入った。
脂もある。
だが、身体は確実に弱っていた。
普通なら、ここで引き返す。
じいちゃんも、それを分かっているはずだった。
それでも、視線は山の上へ向いていた。
木々の間から、さらに高い峰が見える。
雲に覆われた山頂。
ヌシがいると伝えられている場所。
「待っとれよ」
じいちゃんは胸元の写真へ触れた。
「今度こそ、じいちゃんと走ろうな」
痛む脇腹を押さえ、再び歩き始めた。
一歩。
また一歩。
足取りは重い。
それでも、山頂へ向かっている。
その背中を見ていることしかできなかった。
「もういい」
声をかける。
「もう、戻ってくれ」
届かない。
「俺のために、そこまでしなくていい」
じいちゃんは振り返らない。
木の幹へ、鉈の印を刻む。
傷を一つ残し、さらに先へ進む。
やがて日が沈んだ。
じいちゃんは岩場の隙間へ入り、小さな火を起こした。
イノシシの脂を燃やす。
濡れた枝しかなくても、脂が火をつないだ。
火のそばで肉を焼く。
傷を洗う。
残った塩を傷口の周囲へ使った。
身体は震えている。
寒さだけではない。
疲労。
痛み。
熱。
それでも、目にはまだ力が残っていた。
夜が深くなる。
山の動物たちの声が、少しずつ消えていった。
虫の音も。
鳥の鳴き声も。
風に揺れる葉の音さえ、いつの間にか止んでいる。
不自然な静けさ。
じいちゃんが顔を上げた。
岩場の外。
火の光が届かない暗闇。
そこから、何かがこちらを見ていた。
二つの目。
低い位置ではない。
じいちゃんが立ち上がっても、同じほどの高さにある。
火の光を受け、淡く輝いていた。
じいちゃんは猟銃を手に取る。
残る弾は1発。
だが、すぐには構えなかった。
暗闇から、低い唸り声が響く。
イノシシよりも深い。
腹の底へ直接伝わるような声。
じいちゃんは目をそらさなかった。
「お前が、案内してくれるのか」
返事はない。
目だけが、じいちゃんを見つめている。
やがて二つの光は暗闇の奥へ動いた。
数歩進み、止まる。
振り返るように、再びじいちゃんへ向けられた。
ついてこい。
そう告げているようだった。
じいちゃんは火を消した。
肉と道具をまとめる。
痛む身体を起こし、猟銃を杖代わりにして立ち上がった。
「やっと、近づいたか」
暗闇へ向かって歩き始める。
大きな獣の気配が、少し先を進んでいく。
それがヌシなのか。
ヌシに仕える獣なのか。
あるいは、じいちゃんを食べるために誘っているのか。
まだ分からない。
それでも、じいちゃんは足を止めなかった。
火の消えた岩場を離れ、山のさらに深い場所へ入っていく。
その姿が闇に飲み込まれたところで、景色が砕けた。
◇
「じいちゃん!」
山も。
炎も。
血に濡れた猟銃も。
暗闇の中で輝いていた二つの目も。
無数の光の欠片となり、消えていく。
自分は、消えていく景色へ手を伸ばした。
掴めるものはない。
「身体が、もう限界だったじゃないか」
雉を狩った。
イノシシと戦った。
傷を負った。
食料と火をつなぎながら、山の奥へ進み続けた。
すべて、自分のために。
「そこまでして、どうして……」
答えは分かっている。
じいちゃんは、自分を助けようとしていた。
病気を治し、自分の足で山を走れるようにするために。
命を懸けて、ヌシを探していた。
『山の記憶――第二片の再生を終了しました』
感情のない声が響いた。
「あの目は何だった」
『回答できません』
「じいちゃんを案内したのか」
『回答できません』
「あの先で、ヌシに会ったのか」
『回答できません』
同じ返答しか返ってこない。
それでも、第一片を見たときより多くのことが分かった。
じいちゃんは、ただ山へ入っただけではない。
何日も生き延びた。
食料を得た。
傷を負った。
それでも戻らず、山の深部へ進み続けた。
そして最後には、普通の獣とは思えない何かに導かれていた。
「次の記憶を見れば、分かるんだな」
声は答えなかった。
代わりに、白い光が暗闇の中へ広がり始める。
『種族進化を継続します』
『進化先――ハシブトガラス』
『知能段階の上昇を確認しました』
これまでにはなかった言葉が響いた。
「知能段階?」
『転生先の認知能力が、記憶保持の最低条件を満たしました』
暗闇の中に、新しい表示が浮かぶ。
――――――――――
【転生後の変化】
自我形成速度:上昇
学習能力:上昇
問題解決能力:上昇
記憶継承制限:一部緩和
――――――――――
「記憶を、持っていけるのか」
『完全な継承はできません』
『転生後の身体と知能に適合する範囲で、記憶の断片が残留します』
「どこまで残る」
『回答できません』
「じいちゃんのことは?」
『保証できません』
白い光が強くなる。
今までと同じように、意識が少しずつ薄れていく。
人間だったこと。
16歳で死んだこと。
蟻として生きたこと。
カブトムシとして飛んだこと。
EPとSP。
山の記憶。
すべてが、遠ざかっていく。
「忘れたくない」
じいちゃんが山へ入った。
自分を助けるために。
雉を狩った。
イノシシと戦った。
傷ついても進んだ。
暗闇の中の何かを追い、山の奥へ消えた。
「じいちゃん」
その言葉へ、必死にしがみついた。
「山の奥」
忘れてはいけない。
「探すんだ」
何を。
誰を。
なぜ探すのか。
それらが一つずつ光へ溶けていく。
最後に残ったのは、大きな背中だった。
猟銃を杖にして歩く、傷だらけの背中。
その像だけを追いながら、意識が途切れた。
◇
狭い。
暗い。
柔らかなものが、身体を包んでいる。
動こうとすると、周囲から小さな音が聞こえた。
何かが殻を叩いている。
すぐ近くにも、自分と似た生き物がいる。
身体を動かす。
頭の先が硬い壁へ触れた。
外へ出なければならない。
本能が、そう命じていた。
嘴を動かす。
殻の内側を叩く。
一度。
もう一度。
小さな亀裂が入る。
そこから、冷たい空気が流れ込んできた。
さらに嘴を動かす。
殻が割れた。
光が差し込む。
濡れた身体を押し出すようにして、外へ出た。
そこは、木の上に作られた巣だった。
細い枝。
枯れ草。
獣の毛。
さまざまな物を組み合わせて作られている。
すぐ隣では、まだ割れていない卵が動いていた。
すでに生まれている雛もいる。
裸に近い小さな身体。
大きく開かれた口。
誰もが食べ物を求め、声を上げていた。
自分の身体も空腹を訴える。
首を持ち上げる。
嘴を開く。
巣の縁へ、大きな黒い鳥が降り立った。
太い嘴。
黒い羽。
鋭い目。
その嘴には、小さな虫が挟まれていた。
雛たちが一斉に鳴く。
親鳥は虫を細かくし、一羽ずつ口へ運んでいく。
自分も嘴を大きく開いた。
食べ物が口の中へ入る。
身体が、それを飲み込んだ。
生きるために食べる。
育つために食べる。
本来なら、それだけのはずだった。
だが、頭の奥には別のものが残っていた。
炎。
血。
木へ刻まれた鉈の傷。
暗闇の中で輝く二つの目。
そして、傷ついた身体で山の奥へ歩いていく老人の背中。
何なのかは、はっきり分からない。
自分が誰なのかも分からない。
なぜ、その背中を知っているのかも思い出せない。
それでも、一つの言葉だけが残っていた。
じいちゃん。
雛は嘴を閉じた。
まだ羽も生えていない。
立ち上がることさえできない。
空を飛ぶことも。
山の奥へ向かうこともできない。
それでも、胸の奥に消えない思いがあった。
探さなければならない。
あの背中を。
木へ刻まれた印を。
山の奥へ消えた、じいちゃんを。
これまでの生では、転生するたびにすべてを忘れていた。
だが、今度は違った。
完全ではない。
記憶は霧に覆われている。
顔も。
声も。
自分との関係も。
ほとんど思い出せない。
それでも、失われなかったものがある。
じいちゃんという言葉。
山の奥へ向かわなければならないという思い。
そして、自分がただの雛ではないという、曖昧な違和感。
巣の外では、朝の山が広がっていた。
重なる木々。
遠くを流れる沢。
その向こうにそびえる、高い峰。
雛には、まだ見えない。
それでも、その山が自分を呼んでいるような気がした。
黒い鳥としての最初の生。
そして、記憶を持って生きる最初の生が始まった。
第2章はここまでです。




