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山のヌシ  作者: つぶつぶみかん
3.黒い翼
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11/28

3-1.道標

 空腹だった。


 まだ羽毛も生え揃っていない身体を持ち上げ、嘴を大きく開く。


 巣の中では、兄弟たちも同じように首を伸ばしていた。


 鳴く。


 食べ物を求める。


 巣の縁へ降り立った親鳥へ向かい、少しでも高く嘴を突き出す。


 太い嘴から、小さく千切られた虫が落とされた。


 兄弟の一羽が先に受け取る。


 次に運ばれてきた肉片へ、今度は自分が嘴を伸ばした。


 飲み込む。


 腹の中へ温かなものが入る。


 もっと欲しい。


 身体が食料を求めていた。


 生きるために食べる。


 大きくなるために食べる。


 本来ならば、それだけのはずだった。


 だが、頭の奥には、生まれたときから消えないものがあった。


 炎。


 雨。


 血に濡れた猟銃。


 木の幹へ刻まれた傷。


 暗闇の中で輝く二つの目。


 そして、傷ついた身体で山の奥へ歩いていく老人の背中。


 顔は分からない。


 声も、ほとんど思い出せない。


 自分がその老人とどのような関係だったのかも、霧に隠されている。


 それでも、一つの言葉だけは残っていた。


 じいちゃん。


 老人の背中を思い浮かべるたび、その言葉が胸の奥へ浮かぶ。


 探さなければならない。


 山の奥へ行かなければならない。


 なぜそう思うのかは、まだ分からなかった。


     ◇


 日を重ねるごとに、身体は急速に大きくなった。


 黒い羽毛が生える。


 弱々しかった首が太くなる。


 嘴は硬くなり、巣へ運ばれてきた肉や木の実を自分で千切れるようになった。


 足にも力がついた。


 爪で枝を掴めば、多少身体を揺らされても落ちない。


 兄弟が押してきても、踏ん張ることができる。


 親鳥が運んできた硬い木の実へ嘴を立てた。


 一度。


 二度。


 殻へ亀裂が入る。


 他の兄弟が何度つついても割れなかった実だった。


 自分の嘴には、同じ大きさの雛よりも強い力があるらしい。


 足にも。


 翼にも。


 理由は分からない。


 生まれる前に得た何かが、身体へ残っているようだった。


 やがて、巣の中だけでは収まらなくなった。


 羽ばたけば、身体がわずかに浮く。


 巣の縁へ立ち、外を見る。


 木々が連なっている。


 その向こうには沢。


 さらに遠くには、雲のかかった高い峰があった。


 あの山を知っている。


 見たことなどないはずなのに、そう思った。


 胸の奥が騒ぐ。


 じいちゃん。


 山の奥。


 木に刻まれた傷。


 まだ飛ぶこともできない身体で、すぐにでも向かわなければならないような焦りを覚えた。


 巣の縁から、一歩踏み出す。


 足の下から枝が消えた。


 身体が落ちる。


 翼を広げた。


 風が羽毛の間へ入り込む。


 羽ばたく。


 身体が持ち上がる。


 初めて空へ出たはずなのに、何をすればよいのか分かっていた。


 右の翼をわずかに傾ける。


 身体が右へ曲がる。


 尾羽を広げる。


 落下する速度が弱まる。


 前方の枝へ向かい、足を伸ばした。


 爪が樹皮へ触れる。


 そのまま枝を掴んだ。


 ほとんど衝撃もなく、身体が止まる。


 巣から飛び立った兄弟の一羽が、別の枝へ腹からぶつかった。


 もう一羽は着地できず、低い茂みまで落ちていった。


 自分だけが、最初から空の進み方を知っていた。


 なぜ知っている。


 その疑問へ答える記憶はない。


 代わりに頭の奥へ、黒い夜空が浮かんだ。


 重い身体。


 低い羽音。


 薄い翅。


 枝へぶつかりながら、必死に飛んでいた小さな生き物。


 像はすぐに消えた。


 自分は黒い翼を広げる。


 もう一度、枝から飛び立った。


     ◇


 巣立ったあともしばらくは、親鳥の近くで過ごした。


 どの実が食べられるのか。


 どの虫を狙うのか。


 どの獣から離れるべきなのか。


 親や兄弟の行動を見て覚えていった。


 木の実を見つければ、嘴で拾う。


 硬ければ、高い場所から落とす。


 割れなければ、さらに高い枝へ運ぶ。


 岩の上へ落とすと、殻が砕けた。


 中身を食べる。


 一度で割れなければ、もう一度。


 落とす場所が土では意味がない。


 硬い岩を選ばなければならない。


 そのことを、自分は他の兄弟よりも早く理解した。


 ある日、朽木の穴から虫の匂いがした。


 嘴を差し込む。


 届かない。


 首を伸ばしても、穴の奥までは入らなかった。


 兄弟たちは諦め、別の場所へ飛んでいく。


 自分も一度は穴から離れた。


 だが、内部で動く虫の音が聞こえる。


 食料がある。


 届かないだけだ。


 近くに落ちていた細い枝へ目が向いた。


 なぜそれを見たのかは分からない。


 枝。


 穴。


 奥にいる虫。


 頭の中で、三つがつながった。


 枝を嘴で拾う。


 先端を穴へ入れた。


 押し込む。


 枝が内部の何かへ触れる。


 虫がさらに奥へ逃げた。


 そのままでは取れない。


 枝を引き抜く。


 先端が二股に分かれていた。


 邪魔な部分を嘴で折る。


 もう一度、穴へ入れる。


 奥を探る。


 虫へ触れた。


 枝を回し、手前へ追い立てる。


 白い幼虫が穴の入口へ姿を見せた。


 すぐに嘴で捕らえた。


 飲み込む。


 腹が満たされる。


 足元に落ちた枝を見る。


 ただの木の欠片。


 食べることもできない。


 自分で動くこともない。


 だが、それを使えば、嘴の届かない場所へ触れられる。


 頭の奥へ、言葉が浮かんだ。


 道具。


 その言葉を、どこで覚えたのかは分からない。


 だが、枝が道具であることは理解できた。


     ◇


 自分は、使えそうな物へ目を向けるようになった。


 枝。


 石。


 硬い殻。


 樹皮。


 獣が残した骨。


 同じ物でも、使い方によって役割が変わる。


 石を落とせば、木の実を割れる。


 細い枝を使えば、穴の中の虫を追い出せる。


 剥がれかけた樹皮へ太い枝を差し込み、力をかければ、その下に隠れた虫を見つけられる。


 骨の尖った部分で腐った木を削れば、嘴だけで掘るより深くまで届く。


 最初から上手くできたわけではない。


 枝が太すぎて、穴へ入らない。


 細すぎれば、途中で折れる。


 石を落としても、柔らかい土の上では木の実が沈むだけだった。


 使った骨が嘴から滑り、沢へ落ちたこともある。


 それでも、失敗するたびに次の方法を考えた。


 細すぎる枝は使わない。


 先が曲がっていれば、嘴で不要な部分を折る。


 木の実は平らで硬い岩へ落とす。


 運べないほど大きな石は、斜面から転がす。


 考える。


 試す。


 失敗する。


 別の方法を探す。


 その繰り返しが、不思議なほど楽しかった。


 兄弟たちも、自分の行動を見ていた。


 自分が木の実を岩へ落とすと、後から同じことをする。


 枝で穴を探る姿を見せると、落ちている枝を嘴で拾った。


 だが、枝を折って形を整える者はいなかった。


 穴の深さに合わせて、別の枝を選ぶ者もいない。


 自分だけが、物を見て、その先の使い方を考えていた。


 自分は他の鳥とは違う。


 その感覚が、少しずつ強くなっていった。


     ◇


 夏が終わりに近づくと、親や兄弟たちと行動する時間は減った。


 一羽で山を飛ぶ。


 食料を探す。


 夜を過ごす場所を見つける。


 自分で決めなければならないことが増えていった。


 山の低い場所は暖かい。


 食べ物も多い。


 人の住む場所へ近づけば、簡単に食料を見つけられることもあった。


 だが、自分の身体は山の奥へ向かおうとした。


 じいちゃん。


 木の傷。


 暗い目。


 消えない断片が、進む方向を示していた。


 高い場所へ飛ぶほど、空気は冷たくなる。


 夜には風が強く吹いた。


 雨が降れば、濡れた羽毛から急速に熱が奪われる。


 枝へ止まり、身体を丸めても寒さは消えない。


 ある夜、突然の雨に襲われた。


 大きな木の枝へ止まる。


 葉の下へ入ったが、横から吹く風が雨を運んでくる。


 羽毛が濡れた。


 身体が震える。


 もっと風を避けられる場所が必要だった。


 周囲を見回す。


 木の幹に、小さな空洞がある。


 入り口は狭いが、今の身体なら入れる。


 中には枯れ葉が積もっていた。


 身を入れてみる。


 雨は当たらない。


 だが、入り口から冷たい風が吹き込んでくる。


 奥へ身体を寄せても、寒さは変わらない。


 空洞の外に、剥がれ落ちた大きな樹皮があった。


 薄く、湾曲している。


 あれを入り口へ置けば、風を弱められる。


 なぜそんな考えが浮かんだのかは分からない。


 だが、頭の奥には別の景色があった。


 岩の下。


 積み上げられた枝。


 雨を遮る布。


 小さな炎のそばで、老人が身体を休めている。


 自分は空洞から出た。


 樹皮を嘴で掴む。


 重い。


 一度には持ち上がらない。


 端を引きずる。


 風に煽られ、何度も離してしまう。


 それでも少しずつ空洞まで運んだ。


 入り口へ立てかける。


 だが、そのままでは風に押されて倒れた。


 近くから二股の枝を運ぶ。


 樹皮と幹の間へ差し込む。


 角度を変える。


 もう一本の枝で下を支える。


 今度は倒れなかった。


 入り口の半分が樹皮で塞がれる。


 冷たい風が弱くなった。


 さらに乾いた苔を集める。


 枯れ葉を運ぶ。


 空洞の奥へ敷き詰めた。


 その上で身体を丸める。


 先ほどまでとは違う。


 苔と枯れ葉が身体の熱を逃がさない。


 樹皮が風を遮っている。


 外では雨が降り続けていた。


 だが、空洞の中は静かだった。


 枝。


 樹皮。


 苔。


 枯れ葉。


 一つ一つは、ただ山に落ちていた物にすぎない。


 組み合わせれば、寒さから身を守る場所になる。


 頭の奥へ、新しい言葉が浮かんだ。


 ねぐら。


 それから、もう一つ。


 作る。


 自分は、見つけた場所へ隠れただけではない。


 自分の手で、生きられる場所へ変えた。


     ◇


 その空洞を、自分は何度も使った。


 山の奥へ進み、夜になる前に戻る。


 食料を持ち帰り、奥へ隠す。


 雨が続く日には、蓄えた木の実を食べた。


 苔が湿れば、新しい物へ取り替える。


 入り口を塞ぐ樹皮が倒れれば、支える枝の位置を変えた。


 周囲には、食料だけでなく、使えそうな物も集めるようになった。


 長く真っ直ぐな枝。


 先端の曲がった枝。


 尖った骨。


 硬く平らな石。


 乾いた苔。


 人間が落としたらしい、短い紐。


 何に使うのか分からない物もある。


 だが、いつか役に立つかもしれない。


 見つけた場所を覚える。


 必要になれば取りに戻る。


 記憶は以前よりも確かだった。


 どの沢を越えたのか。


 どの木に樹液が出るのか。


 どこに木の実を隠したのか。


 どの空洞が雨を防げるのか。


 一度見た場所は、かなりの範囲で思い出すことができた。


 だが、人間だった頃の記憶だけは違う。


 手を伸ばそうとすると、霧の向こうへ逃げていく。


 じいちゃん。


 山の奥。


 鉈の傷。


 残っているのは、断片だけだった。


 それでも、以前の生とは違う。


 忘れてはいない。


 探す目的も失っていない。


 自分は毎日、少しずつ山の奥へ飛んだ。


     ◇


 ある朝、尾根の上を飛んでいると、空気が急に変わった。


 風が強くなる。


 木々の頂が大きく揺れた。


 上空から、鋭い鳴き声が聞こえる。


 身体が反応した。


 翼を畳み、高度を下げる。


 直後、灰色の影が頭上を通り過ぎた。


 猛禽。


 自分よりも大きな翼。


 鋭い爪。


 鳥を狩るための身体。


 相手は旋回し、再びこちらへ向かってくる。


 以前、黒い夜空で見た鳥とは違う。


 今の自分にも、その危険がはっきりと分かった。


 森の中へ逃げる。


 枝の間を飛ぶ。


 飛行の技能が身体を支えた。


 急旋回。


 下降。


 幹の裏側へ回り込む。


 それでも、猛禽は離れなかった。


 木々の隙間を縫いながら、後ろから追ってくる。


 速い。


 自分よりも、空で獲物を追うことに慣れている。


 前方に、以前見つけた岩場が見えた。


 岩の側面には、狭い裂け目がある。


 自分なら入れる。


 猛禽の大きな身体では入れない。


 だが、裂け目へたどり着く前に追いつかれる。


 近くの枝に、何かがぶら下がっていた。


 蔓へ絡まった、古い獣の骨。


 以前、使えるかもしれないと思い、そのままにしていた物だった。


 自分は骨のそばへ飛んだ。


 嘴で蔓を強く引く。


 一度では切れない。


 猛禽が迫る。


 もう一度、嘴へ力を込めた。


 蔓が切れた。


 骨が落ちる。


 枝へぶつかり、硬い音を立てながら斜面を転がっていった。


 突然の音に、猛禽の頭が動いた。


 ほんの一瞬、視線が落ちた骨へ向く。


 自分は翼を畳んだ。


 急降下する。


 岩場の裂け目へ身体を滑り込ませた。


 直後、猛禽の爪が入口の岩を擦った。


 石片が飛ぶ。


 だが、大きな翼が岩へ当たり、それ以上は入ってこられない。


 猛禽は何度か入口の周囲を飛んだ。


 やがて諦め、上空へ消えていった。


 自分は裂け目の奥で、しばらく動かなかった。


 骨で猛禽を倒したわけではない。


 音を立て、注意を逸らしただけだ。


 だが、その一瞬がなければ、爪に捕らえられていた。


 山にある物を使う。


 それは、食料を得るためだけではない。


 生き残るためにも使える。


 頭の中へ、また老人の声が浮かんだ。


 ――力だけでどうにもならんなら、頭を使え。


 顔は見えない。


 だが、その声を聞くと、胸が締めつけられた。


「じいちゃん」


 初めて、その言葉を自分の意思で思い浮かべた。


 ただ残っていた音ではない。


 探している相手の呼び名として。


 じいちゃんは、この山の奥へ行った。


 自分は、その痕跡を追っている。


 まだ理由のすべては思い出せない。


 それでも、以前よりはっきりと理解できた。


     ◇


 翌朝、自分は以前に見た古い山道へ向かった。


 沢を越える。


 急な斜面の上を飛ぶ。


 木々の間を通る細い道。


 草に覆われ、土の上には落ち葉が積もっている。


 人間が使わなくなってから、長い時間が経っている。


 その道に沿って飛んだ。


 木の幹を一つずつ確認する。


 自然に裂けた傷。


 獣が付けた爪痕。


 虫に食われた穴。


 その中から、人の手で刻まれた痕を探す。


 しばらく進むと、一つ目の傷が見つかった。


 縦に一つ。


 斜めに二つ。


 鉈の印。


 記憶の中で、じいちゃんが残していたものと同じだった。


 幹へ降りる。


 嘴で傷へ触れた。


 樹皮はすでに盛り上がり、古い傷を塞ごうとしている。


 それでも、形は残っていた。


 じいちゃんは、ここを通った。


 胸の奥で、確信に近いものが生まれた。


 次の印を探す。


 さらに山道を進む。


 別の木にも傷がある。


 その先にも。


 距離は一定ではない。


 道が分かりにくい場所。


 獣道と分かれる場所。


 斜面の向きが変わる場所。


 迷いやすい場所にだけ、印が残されていた。


 自分は印をたどった。


 空から見れば、地上の道を歩くより早い。


 だが、木の傷を見落とさないため、低い場所を飛ばなければならない。


 一つ。


 また一つ。


 じいちゃんが歩いた道を、黒い翼で追っていく。


 やがて、岩の下に開けた場所が見えた。


 地面だけが、不自然に平らになっている。


 中央には、黒く焼けた石が集められていた。


 火を使った跡。


 周囲には古い骨が散らばっている。


 雨と土に汚れ、ほとんど白くなっていた。


 その中に、色の違う物があった。


 細長い金属。


 自分は地面へ降りた。


 嘴で拾う。


 小さな筒。


 片側が開き、反対側には丸い跡が残っている。


 頭の奥で、記憶が弾けた。


 猟銃。


 銃声。


 空から落ちる雉。


 地面を駆けるイノシシ。


 じいちゃんの手。


 これは、使い終わった弾だ。


 薬莢。


 言葉が戻ってきた。


 嘴から金属が落ちる。


 硬い音が、岩場へ響いた。


 別の場所を見る。


 石の隙間に、牙があった。


 太く。


 湾曲した。


 イノシシの牙。


 記憶の中で、じいちゃんが外していたもの。


 さらに、岩の奥には腐りかけた皮の切れ端が残っていた。


 偶然ではない。


 ここは、じいちゃんが夜を過ごした場所だった。


 炎を起こし。


 雉の肉を食べ。


 傷を洗い。


 残った弾を確かめた場所。


 そして、暗闇の中に現れた何かを追って、山のさらに奥へ向かった場所。


「じいちゃん……」


 嘴から、人間の言葉は出なかった。


 漏れたのは、低い鳴き声だけだった。


 それでも、頭の中でははっきりと呼んでいた。


 じいちゃんは実在した。


 記憶の中だけの影ではない。


 自分が勝手に見た夢でもない。


 この山を歩き。


 ここで火を起こし。


 この先へ進んだ。


 自分は薬莢を拾った。


 嘴に挟み、岩場の奥にある隙間へ運ぶ。


 イノシシの牙も、その隣へ置いた。


 じいちゃんが残した物を、失いたくなかった。


 雨に流されない場所。


 獣に踏まれない場所。


 後から戻ってきても見つけられる場所へ隠す。


 記憶がまた薄れても、この二つを見れば思い出せるように。


 物へ、記憶を預ける。


 それもまた、道具の使い方だった。


     ◇


 岩場から山の奥を見る。


 獣道が続いている。


 木々はさらに深く、昼でも暗い。


 風は冷たい。


 その先からは、鳥や虫の声がほとんど聞こえなかった。


 記憶の中で、二つの目が暗闇に浮かぶ。


 大きな獣。


 じいちゃんを導いた何か。


 あれが、この先にいる。


 自分はすぐには飛び立たなかった。


 以前なら、本能のまま進んでいたかもしれない。


 カブトムシだった頃は、帰る時間を考えずに山の奥へ進み、冷え込みの中で死んだ。


 その生の記憶も、形は曖昧だが残っている。


 冷たい雨。


 動かなくなる脚。


 帰れるうちに帰れという声。


 今から奥へ進めば、夜までにねぐらへ戻れない。


 食料も十分に持っていない。


 天気も崩れ始めている。


 じいちゃんの痕跡を見つけた。


 だからこそ、急いではいけない。


 生きて戻らなければ、続きを探せない。


 ――山では、待つことも生きることだ。


 懐かしい声が浮かんだ。


 自分は獣道へ背を向けた。


 薬莢と牙を隠した場所を、もう一度確かめる。


 周囲の木の形。


 岩の割れ目。


 沢から聞こえる水の音。


 空から見た位置。


 すべてを頭へ刻み込む。


 準備をする。


 食料を蓄える。


 寒さを防ぐ物を集める。


 使える道具を選ぶ。


 そして、もう一度ここへ戻る。


 じいちゃんが消えた、その先へ進むために。


 黒い翼を広げる。


 風を捉える。


 身体が空へ浮かび上がった。


 岩場が小さくなる。


 古い山道。


 鉈の印。


 じいちゃんが残した野営跡。


 今度は、忘れない。


 記憶はまだ完全ではない。


 人間だった自分の名前も。


 病に伏せていた日々も。


 じいちゃんがなぜ命を懸けたのかも、すべてを思い出したわけではない。


 それでも、目的は残っている。


 じいちゃんを探す。


 山の奥で何が起きたのかを知る。


 そのために、生きる。


 そのために、考える。


 そのために、山にあるものを使う。


 空を飛ぶだけの鳥ではない。


 記憶を持ち、道具を使い、自分の意思で進む一羽のハシブトガラスとして。


 主人公は、山の奥から吹く冷たい風に逆らい、ねぐらへ向かって飛び続けた。


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