2-2.命をつなぐ
夜の森を飛ぶ。
硬い上翅を開き、その下に畳まれていた翅を震わせる。
低い羽音とともに、重い身体が宙へ浮かんだ。
まっすぐには進めない。
風に押されれば、身体が横へ流れる。
大きな角が枝へぶつかりそうになり、慌てて翅を強く動かす。
避けた先には葉があった。
硬い身体で葉を突き破り、その向こう側へ飛び出す。
姿勢を立て直そうとしているうちに、高度が下がっていく。
それでも、飛ぶことをやめなかった。
前方から、甘い匂いが流れてくる。
樹液。
身体が、その場所へ向かうことを求めていた。
匂いの強い方向へ角を向ける。
地面が近づけば、翅を強く動かす。
身体が浮きすぎれば、少しだけ力を緩める。
何度も枝や葉へぶつかりながら、それでも目的の木へ近づいていく。
最後は、幹へ身体をぶつけるように着地した。
硬い殻が衝撃を受け止める。
6本の足を広げ、鋭い爪を樹皮へ食い込ませた。
落ちない。
上翅を閉じる。
甘い匂いを追って、木を登っていく。
樹液場には、すでに多くの昆虫が集まっていた。
蛾。
蜂。
小さな甲虫。
長い顎を持つクワガタ。
樹皮の隙間を歩き回る蟻。
そして、同じように角を持つ雄のカブトムシ。
すべての生き物が、同じ甘い液体を求めていた。
自分は樹液場へ近づいた。
小さな昆虫たちは、大きな身体を避けるように道を開ける。
だが、雄のカブトムシは動かなかった。
角をこちらへ向ける。
退け。
ここは自分の場所だ。
言葉はない。
それでも、相手の意思は伝わった。
自分も角を下げる。
身体の奥から、戦えという命令が湧き上がった。
樹液が欲しい。
この場所を奪われたくない。
相手が前へ出た。
二本の角がぶつかる。
硬い音が、夜の森へ響いた。
相手が押す。
自分も押し返す。
爪を樹皮へ深く食い込ませ、6本の足へ力を込める。
角を、相手の腹の下へ差し込んだ。
持ち上げる。
相手の前足が樹皮から離れた。
雄は脚を激しく動かした。
だが、掴めるものはない。
自分は身体を振った。
相手の身体が宙へ投げ出される。
枝へぶつかり、葉の間を落ちていった。
勝った。
身体の奥へ、強い昂ぶりが広がる。
樹液場へ口を近づけた。
甘い液体を舐め取る。
濃い甘さが、疲れた身体へ染み込んでいった。
だが、樹液場を守り続けることは簡単ではなかった。
別の雄が現れる。
長い顎を持つクワガタが登ってくる。
自分より大きなカブトムシが、上から降りてくることもある。
勝つこともあった。
負けることもあった。
小さな相手なら角で持ち上げ、木から落とした。
同じ大きさの相手とは、長く押し合った。
長い顎を持つクワガタには、身体の側面を挟まれた。
硬い殻が守ってくれたが、力任せに身体を振られ、樹皮から引き剝がされた。
自分より大きなカブトムシに身体を持ち上げられ、暗い地面へ投げ落とされたこともある。
硬い殻が衝撃を受け止めた。
すぐに身体を起こすことはできた。
木へ登り直し、もう一度戦うこともできる。
今度は勝てるかもしれない。
だが、角を折られるかもしれない。
脚を失うかもしれない。
高い場所から落ち、翅を傷つけるかもしれない。
頭の奥に、低い声が浮かんだ。
――負けたなら、退け。
――生きていれば、別の場所を探せる。
その声の主は分からない。
どこで聞いたのかも思い出せない。
それでも自分は、同じ木へ登り直さなかった。
森には多くの木がある。
甘い樹液が出る場所は、一つではない。
戦って奪うことだけが、生きる方法ではなかった。
◇
ある夜、樹液場に一匹の雌が現れた。
雄のような大きな角はない。
身体は自分より小さく、丸みを帯びている。
雌は周囲を警戒しながら、樹液へ近づいた。
自分は追い払わなかった。
樹液場には、十分な甘い液体がある。
自分が腹を満たしても、まだ残る。
雌が口をつけたところで、自分の分がなくなるわけではない。
だが、別の雄が幹を登ってきた。
樹液場へ近づく。
雌へ向かう。
身体の奥から、強い衝動が湧き上がった。
自分は雄の前へ出た。
角を下げる。
相手も角をこちらへ向けた。
二匹の身体がぶつかる。
樹皮が爪の下で削れた。
相手は大きい。
力も強い。
正面から押され、身体が少しずつ後ろへ下がる。
それでも、自分は退かなかった。
角の位置を変える。
真正面から押し返すのではない。
相手の身体の下へ、角の先を潜り込ませる。
6本の足へ力を込めた。
相手の身体が、わずかに浮く。
さらに押し上げる。
相手の前足が樹皮から外れた。
身体を振る。
雄は木の下へ落ちていった。
自分も疲れていた。
角には小さな傷がある。
右の前足にも痛みがあった。
それでも、生きている。
雌も樹液場に残っていた。
やがて自分は、その雌と交尾した。
それが何を意味するのか、深く理解していたわけではない。
身体が求めた。
雌も受け入れた。
ただ、それだけだった。
やがて雌は樹液場を離れた。
腐葉土や朽木のある場所へ向かい、土の中へ卵を産むのだろう。
そこから生まれる幼虫が、自分の子であることを知ることはない。
子の姿を見ることもない。
育てることもない。
それでも、自分の生は次へつながった。
自分が死んだあとも、白い幼虫が土の中で朽木を食べる。
やがて蛹となり、硬い殻と角を持つ。
同じ森のどこかで、夜空へ翅を広げる。
その姿を見ることはなくても、命は残る。
◇
夏が深まるにつれ、夜の空気は暖かくなった。
自分は何度も木から木へ飛んだ。
飛び方は、少しずつ上達した。
初めの頃ほど、枝へぶつからなくなった。
身体が傾けば、左右の翅の動きを変える。
風に押されれば、角の向きと脚の位置で姿勢を立て直す。
着地するときには6本の足を広げ、爪で樹皮を掴んだ。
それでも、自由に飛べるとは言えない。
急に方向を変えることはできない。
狙った枝へ正確に降りることも難しい。
翅を動かす力を誤れば、高度を失う。
強い風に当たれば、思いもよらない場所へ流される。
それでも、地面を歩くよりはるかに遠くまで移動できた。
新しい樹液場を見つけた。
戦って手に入れた場所もある。
負けて譲った場所もある。
大きな相手がすでに樹液を独占していれば、無理に近づかず別の木へ飛んだ。
樹液場へ群がる小さな虫たちを見て、自分から離れた場所へ移ったこともある。
樹皮の隙間を歩く蟻を、追い払わずに残したこともあった。
自分の身体なら、小さな蟻を簡単に払い落とせる。
角で押し退ける必要さえない。
足を一度振るだけで、何匹も木から落とせる。
だが、そうしなかった。
すべての食料を自分だけで独占する必要はない。
戦う必要がなければ戦わない。
負けたなら退く。
食べる分だけを得る。
弱いからという理由だけで、他の命を傷つけない。
頭の奥に浮かぶ言葉は、少しずつ形を持ち始めていた。
――山にはな、山の掟がある。
誰の声なのかは思い出せない。
顔も。
名前も。
大きな背中も。
すべて霧の向こうに隠れていた。
それでも、その言葉に従うと身体の奥が静かになった。
山のものは、誰か一匹のためだけにあるのではない。
木も。
樹液も。
土も。
そこに生きる命も。
奪い尽くせば、次はなくなる。
その意味を言葉として理解していたわけではない。
ただ、必要な分だけを得て離れることが、自然なことのように思えた。
◇
夜が少しずつ長くなっていった。
やがて、空気が冷たくなる。
樹液の出る量も減っていった。
甘い匂いを追って木へ登っても、樹皮の割れ目が乾いていることが増えた。
自分の身体にも変化が現れた。
翅を動かしても、以前のように高く浮かない。
木から木へ飛ぶだけで、長く休まなければならなくなった。
脚の力も弱くなり、幹を登る速度が落ちた。
角には多くの傷が残っている。
殻の表面も、ところどころ白く擦れていた。
寿命が近づいている。
そのことを、本能で理解した。
ある夜、自分は樹液場の近くで身体を休めていた。
甘い匂いはする。
だが、口を近づけても、以前のように強く飲みたいとは思わなかった。
幹の上では、小さな昆虫たちが樹液を舐めている。
蟻たちが列を作り、樹皮の隙間を歩いていた。
一匹の若い雄が、木の下から登ってきた。
大きな角。
傷の少ない殻。
力のある足。
若い雄は樹液場へ近づき、自分へ角を向けた。
以前ならば、自分も角を下げただろう。
樹液場を巡って戦っただろう。
だが、身体にはもう十分な力が残っていない。
戦えば負ける。
負けるだけならまだいい。
角や脚を傷つけ、苦しみながら死ぬことになるかもしれない。
自分は角を向けなかった。
ゆっくりと身体を動かし、樹液場から離れる。
若い雄は追ってこなかった。
樹液へ口を近づけ、甘い液体を飲み始める。
自分は少し離れた枝まで歩いた。
そこで脚を止める。
負けたわけではない。
逃げたわけでもない。
もう、自分がその場所を必要としていないだけだった。
若い雄が食べればいい。
自分は十分に食べた。
十分に戦った。
空も飛んだ。
雌と出会い、命を次へつないだ。
それでよかった。
枝の上で、身体から力が抜けていく。
爪が樹皮から外れた。
身体が落ちる。
葉へぶつかる。
細い枝を折る。
最後は、積もった落ち葉の上へ硬い殻が静かに沈んだ。
以前なら、すぐに脚を動かして身体を起こしただろう。
だが、今はもう力が入らない。
頭上では、若い雄が樹液を飲んでいる。
幹の下では、蟻たちが変わらず列を作っている。
自分が死んでも、森は続く。
樹液を求める虫たちも。
土の中で育つ幼虫も。
次の夜空へ飛び立つカブトムシも。
命は、別の命へ場所を譲りながら続いていく。
最後に頭へ浮かんだのは、大きな手だった。
小さな虫を、掌へ乗せる手。
幼い誰かが、その手の中をのぞき込んでいる。
低く穏やかな声が聞こえた。
――小さいからって、取っていい命とは限らん。
――必要がないなら、山へ返してやれ。
その言葉の意味を、完全に思い出すことはできなかった。
それでも、懐かしいと思った。
夜の森の匂いが遠ざかる。
翅も。
角も。
硬い殻も。
すべての感覚が消えた。
◇
『個体の死亡を確認しました』
感情のない声が響いた。
その声とともに、失われていた記憶が戻ってくる。
人間として16歳で死んだこと。
働き蟻として4度生きたこと。
初めてカブトムシへ種族進化したこと。
種族進化の際に、山の記憶を見たこと。
じいちゃんが自分を救うため、ヌシを求めて山へ入ったこと。
「カブトムシとしても、死んだのか」
幼虫として、土の中で育った。
朽木を食べた。
蛹室を作った。
蛹になり、硬い殻と角を持つ成虫になった。
樹液を巡って戦った。
勝った。
負けた。
退いた。
譲った。
不器用ながら、空を飛んだ。
雌と出会い、命を次へつないだ。
そして寿命を迎えた。
蟻として過ごした生とは、何もかもが違っていた。
群れの命令はない。
守るべき女王もいない。
仕事を分け合う仲間もいない。
どこへ行くか。
何と戦うか。
いつ退くか。
すべてを一匹で選んだ。
暗闇の中に、白い文字が浮かび上がる。
――――――――――
【第5生 集計結果】
種族:カブトムシ
生存期間:398日
死亡原因:寿命
繁殖:成功
獲得EP:6
獲得SP:12
――――――――――
【現在の保有値】
EP:6
SP:12
――――――――――
EPを6獲得していた。
ただ寿命まで生きたことによるEPだけではない。
次の命を残した。
森の中で、必要のない争いを避けた。
敗北したときには、意地を張らずに退いた。
勝てる相手からも、食料をすべて奪わなかった。
小さな虫たちを、力だけで追い払わなかった。
そして最後には、若い雄へ樹液場を譲った。
力を持ちながら、山の恵みを独占しなかった。
それらが、大きく評価されたらしい。
『特殊評価を確認しました』
――――――――――
【山の掟】
必要以上に奪わない
無用な争いを避ける
敗北を受け入れ、生存を優先する
弱い命を理由なく傷つけない
次代へ命をつなぐ
【評価報酬】
獲得EPおよび獲得SPに補正
――――――――――
「山の掟……」
じいちゃんが何度も教えてくれた言葉だった。
山にあるものを、必要以上に持ち帰らない。
命を奪うなら、無駄にしない。
勝てない相手へ、意地だけで挑まない。
小さく弱いというだけで、命を軽く扱わない。
カブトムシとして生きている間、自分はその教えを覚えていなかった。
じいちゃんのことも。
山へ入った背中も。
自分が何度も転生していることさえ知らなかった。
それでも、何度も頭の奥へ浮かんだ声に従っていた。
記憶は失われても、教えまで消えたわけではない。
じいちゃんが教えてくれた山の掟は、自分の生き方として残っている。
『生存中の経験から、技能が形成されました』
――――――――――
【新規技能】
飛行 Lv.1
――――――――――
カブトムシとして、何度も空を飛んだ。
枝へぶつかった。
風に流された。
着地に失敗した。
それでも翅を動かし、木から木へ渡った。
その経験が、飛行という技能になったらしい。
『進化候補が追加されました』
白い文字が切り替わる。
――――――――――
【種族進化】
カエル 必要EP:6
ヤモリ 必要EP:10
【現在の保有EP】
6
――――――――――
カエル。
水辺で生まれ、やがて4本の足を使って陸へ上がる生き物。
長い舌で虫を捕らえ、水中へ逃げ込むこともできる。
必要なEPは6。
今すぐ選ぶことができる。
ヤモリ。
木の幹や岩肌へ張りつき、素早く這い回る小さな爬虫類。
昆虫よりも大きな身体と鋭い感覚を持ち、カブトムシを捕食する側の生き物でもある。
必要なEPは10。
こちらを選ぶには、あと4足りない。
カエルへ進化すれば、カブトムシとはまったく異なる世界を知ることができる。
水の中で生まれ、身体を変化させながら陸へ上がる。
これまでとは違う成長と生き方を経験できるだろう。
EPをさらに蓄え、ヤモリを目指す道もある。
木の幹や岩肌を自在に進める身体があれば、山の中で活動できる範囲は大きく広がるかもしれない。
だが、自分はすぐには選ばなかった。
カブトムシとして、まだ十分に使いこなせていない力がある。
飛ぶこと。
空から見た森は、地面を歩いているときとはまったく違っていた。
木々を越えられる。
谷を渡れる。
地上の障害に進路を塞がれない。
蟻だった頃には、遠すぎてたどり着けなかった場所へも進める。
自由に空を飛べるようになれば、じいちゃんが向かった山の奥へ近づけるかもしれない。
じいちゃんを探さなければならない。
その目的は、次の生へ引き継がれない。
それでも、今ここにいる自分はそう思った。
「種族進化はしない」
『EPを保持し、同一種族へ転生しますか』
「はい」
『技能を選択してください』
表示が切り替わった。
――――――――――
【強化可能技能】
飛行 Lv.1 → Lv.2
必要SP:8
【獲得可能技能】
外殻強化 必要SP:6
感覚器官強化 必要SP:5
夜間視覚 必要SP:4
【保有SP】
12
――――――――――
外殻を強化すれば、戦いや落下によって受ける傷を減らせる。
強靭な顎や脚力強化と組み合わせれば、近くの敵と戦う力をさらに高められるだろう。
感覚器官を強化すれば、樹液や敵の匂いを遠くから捉えられる。
風の変化や、近づいてくる生き物の振動にも早く気づけるかもしれない。
夜間視覚を得れば、暗い森の中でも枝や葉を見つけやすくなる。
飛行中に障害物へ衝突する危険も減る。
どれも役に立つ。
複数の技能を取得することもできる。
外殻強化と夜間視覚なら、保有するSPをすべて使って両方を得られる。
感覚器官強化と夜間視覚を選べば、SPは3残る。
だが、自分の意識は最初の技能へ向いていた。
飛行Lv.2。
飛行中の姿勢制御が向上する。
風に流されにくくなる。
上昇。
下降。
方向転換。
着地。
それらを、これまでより正確に行えるようになる。
枝へぶつかることなく飛べる。
狙った木へ降りられる。
地面を歩くのと同じように、空を自分の道として使えるようになる。
強い殻を得るよりも。
暗闇を見る目を得るよりも。
今は、もっと遠くへ進める翅が欲しかった。
「飛行をLv.2へ強化する」
『SPを8消費します』
『技能――飛行がLv.2へ上昇しました』
――――――――――
【保有技能】
強靭な顎 Lv.2
脚力強化 Lv.1
飛行 Lv.2
【現在の保有値】
EP:6
SP:4
――――――――――
『転生先――カブトムシ』
『保有技能を継承します』
『第6生を開始します』
白い光が、暗闇を満たしていく。
じいちゃんのこと。
山の掟に従ったことで、多くの力を得られたこと。
カエルへ進化できたこと。
EPを蓄えれば、ヤモリへ進化できること。
それでも、カブトムシとして飛ぶ力を伸ばすと決めたこと。
そのすべてが失われていく。
次の生へ残るのは、獲得した技能だけ。
強い顎。
速い足。
そして、自由に空を飛ぶための翅。
次のカブトムシは、生まれながらに広い空を持つ。
そう考えたことさえ忘れ、意識は白い光の中へ消えた。




