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山のヌシ  作者: つぶつぶみかん
2.昆虫の王様
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7/28

2-1.土の中から

 暗い。


 身体を包んでいるのは、湿った土と、腐りかけた木の匂いだった。


 以前の暗闇とは違う。


 狭い通路もない。


 絶えず行き交う仲間の振動もない。


 働けと命じる匂いも、運ぶべき食料もなかった。


 ただ柔らかな土と、朽ちた木がある。


 身体を動かす。


 重い。


 長い。


 白く柔らかな腹が、土の上をゆっくりと這った。


 足は短い。


 身体の大きさに比べれば、あまりにも頼りない。


 前へ進もうとしても、土をわずかに掻くだけだった。


 それでも、頭の前には大きな顎がある。


 目の前の朽木へ噛みついた。


 柔らかな木が、音もなく崩れる。


 顎を動かし、細かく砕き、口の中へ取り込んでいく。


 食べる。


 身体が、それだけを求めていた。


 何のために食べるのか。


 どこへ行くのか。


 何になろうとしているのか。


 そんなことは分からない。


 ただ、空腹だった。


 朽木を食べる。


 土に混じった腐葉を食べる。


 少し進み、また食べる。


 以前の自分が何者だったのか、その幼虫は覚えていなかった。


 何度も働き蟻として生きたことも。


 仲間とムカデを倒したことも。


 自らカブトムシへの進化を選んだことも。


 木々の間へ消えていく、大きな背中を見たことも。


 何一つ覚えていない。


 それでも、ときおり頭の奥に、形のない何かが浮かんだ。


 大きな手。


 土の匂い。


 低く穏やかな声。


 意味を捉えるより先に消えてしまう。


 幼虫は頭を振ることもなく、再び朽木へ顎を立てた。


     ◇


 土の中には、昼も夜もなかった。


 地上から伝わる温度が、わずかに変わる。


 雨が降れば、土が湿る。


 陽が照れば、地面の浅い場所が暖かくなる。


 それだけだった。


 幼虫は食べ続けた。


 食べれば、身体が大きくなった。


 白く柔らかな皮が窮屈になる。


 身体を震わせる。


 古い皮が裂け、その中から一回り大きな身体が現れた。


 また食べる。


 朽木を噛み砕く。


 腐った葉を飲み込む。


 土の中を少しずつ進む。


 他の生き物と出会うこともあった。


 自分とよく似た、白く太い幼虫。


 細長い身体をくねらせる虫。


 土の隙間を走る、小さな節足動物。


 相手が近づけば顎を開いた。


 こちらも生きるために食べなければならない。


 相手も同じだった。


 だが、戦うことはほとんどなかった。


 狭い場所で身体が触れれば、どちらかが向きを変えた。


 食べられる朽木は、目の前にあるものだけではない。


 少し離れれば、別の木がある。


 土を掘れば、新しい腐葉が見つかる。


 わざわざ傷つき、命を落とす理由はなかった。


 ある日、同じ朽木の中で、自分より少し小さな幼虫と出会った。


 相手は顎を開いた。


 逃げ場の少ない空洞だった。


 自分も顎を開く。


 身体は自分のほうが大きい。


 顎も強い。


 噛みつけば、相手の柔らかな身体を傷つけることができる。


 一歩、前へ進んだ。


 小さな幼虫が身体を縮める。


 その姿を見たとき、頭の奥に声が浮かんだ。


 ――必要がないなら、奪うな。


 誰の声かは分からない。


 意味も、すべて理解できたわけではない。


 それでも自分は顎を閉じた。


 身体の向きを変える。


 別の方向へ土を掘り進んだ。


 背後に残した朽木は、小さな幼虫が食べればいい。


 自分には、他にも食べられる場所がある。


 なぜそうしたのかは分からなかった。


 ただ、そのほうが自然なことのように思えた。


     ◇


 身体が十分に大きくなると、幼虫は食べることをやめた。


 空腹が消えたわけではない。


 身体の奥から、別の命令が湧き上がってきた。


 部屋を作れ。


 土を固めろ。


 身体を守れ。


 幼虫は頭と身体を動かし、周囲の土を押し固めた。


 円形の空間を作る。


 壁を顎と身体で何度も押す。


 柔らかかった土が、次第に硬い壁へ変わっていく。


 外から入り込む隙間を塞ぐ。


 暗い土の中に、自分だけの小さな部屋ができた。


 そこで身体を丸める。


 動かなくなる。


 長い静けさが訪れた。


 身体の内側が、少しずつ変わっていく。


 白く太かった身体が崩れる。


 短かった足が形を変える。


 頭の前方から、硬く長いものが伸び始める。


 背中には、これまで存在しなかったものが作られていく。


 痛みはなかった。


 けれど、自分が自分ではなくなっていくような、不思議な感覚があった。


 やがて幼虫の形は消え、土の部屋には一匹の蛹が残った。


 蛹は動かない。


 食べない。


 逃げることも、戦うこともできない。


 ただ、身体が完成するのを待った。


 外から伝わってくる振動へ、何もできずに耐えた。


 雨が降った。


 地面の上を獣が歩いた。


 土の中を、小さな虫が這った。


 そのすべてが遠い。


 長い眠りの中で、また声が聞こえた。


 ――焦るな。


 ――山では、待つことも生きることだ。


 声とともに、大きな背中が浮かんだ。


 木々の間を歩く背中。


 誰かが、その背に乗っている。


 小さく、痩せた身体。


 だが、それが自分なのかは分からない。


 記憶はすぐに消えた。


     ◇


 硬い殻の内側で、身体が目覚めた。


 足を動かす。


 以前より長い。


 力もある。


 頭を持ち上げようとすると、前方に重みを感じた。


 大きな角。


 背中には、硬い殻がある。


 その下には、薄く折り畳まれた翅が隠されていた。


 身体はまだ白い。


 殻も柔らかい。


 すぐには動けなかった。


 狭い蛹室の中で、じっと待つ。


 時間が経つにつれて、身体の色が変わっていった。


 白から薄い茶へ。


 薄い茶から、深く濃い色へ。


 殻が硬くなる。


 足へ力が戻る。


 顎を動かす。


 角を土の壁へ押し当てた。


 壁が崩れた。


 もう一度、押す。


 硬く固めたはずの土が割れる。


 前足で土を掻き、身体をねじ込む。


 少しずつ、上へ進む。


 土の匂いが変わっていく。


 湿り気が薄くなる。


 遠くから、風の流れる音が聞こえた。


 光が見えた。


 わずかな隙間から差し込む、白い光。


 身体を押し込む。


 土が崩れる。


 角が地面を突き破った。


 次に頭が出る。


 前足で地面を掴み、大きな身体を引き上げる。


 土の中から、黒く硬い甲虫が姿を現した。


 夜だった。


 頭上には無数の枝葉が重なり、その隙間から月の光が落ちている。


 風が身体を撫でた。


 湿った土。


 草。


 樹皮。


 花。


 生き物たち。


 これまで土の中では感じられなかった、無数の匂いが押し寄せてくる。


 身体を持ち上げる。


 蟻だった頃とは比べものにならないほど大きく、重い。


 足の先には鋭い爪があり、木の表面へしっかりと食い込んだ。


 近くにあった木へ登る。


 太い幹も、今の身体には巨大な壁ではない。


 爪を立て、一歩ずつ上へ進む。


 高い場所へたどり着く。


 風が強くなった。


 背中の殻が、わずかに開いた。


 その下から、薄い翅が広がる。


 なぜ広げたのかは分からない。


 どう動かせばいいのかも知らない。


 それでも、本能が命じていた。


 飛べ。


 翅を震わせる。


 低い音が鳴った。


 身体がわずかに浮いた。


 驚いて足へ力を入れる。


 爪が樹皮へ食い込む。


 浮いた身体が、再び木へ戻った。


 もう一度、翅を動かす。


 今度は強く。


 身体が持ち上がった。


 木から足が離れる。


 地面が遠ざかった。


 空へ出た。


 だが、身体を支えきれない。


 大きな角が前へ傾く。


 右へ流される。


 枝が迫った。


 避けることができない。


 硬い音を立て、身体が枝へぶつかった。


 そのまま葉の間を転がり、別の枝へ落ちる。


 脚を広げる。


 爪が樹皮へ引っかかった。


 落下が止まった。


 身体は無事だった。


 硬い殻に、わずかな傷が付いただけだ。


 それでも、翅はすぐに閉じた。


 飛ぶことはできる。


 だが、自由に飛べるわけではない。


 もう一度試すべきか。


 このまま木を歩くべきか。


 答えは分からなかった。


 そのとき、風の中に甘い匂いが混じった。


 樹液。


 その言葉が、頭の中へ浮かんだ。


 知らないはずの匂い。


 まだ一度も口にしたことのない食料。


 それでも、身体はその甘さを求めた。


 匂いは、別の木から流れてきている。


 枝から枝へ歩いて行ける距離ではない。


 地面へ降りて進むこともできる。


 だが、匂いは高い場所から漂っていた。


 翅を使うしかない。


 背中の殻を開く。


 薄い翅を伸ばす。


 先ほど枝へぶつかった恐怖は、すでに薄れていた。


 食べなければならない。


 あの場所へ行かなければならない。


 翅を動かす。


 身体が浮く。


 今度は角を少し持ち上げる。


 傾いた身体を、脚の動きで立て直す。


 風に押される。


 それでも翅を止めない。


 一度、身体が大きく下がった。


 地面が近づく。


 さらに強く翅を動かした。


 身体が再び浮き上がる。


 目指す木が近づいてきた。


 着地する場所を選ぶ余裕はない。


 太い幹へ向かって、そのまま身体をぶつけた。


 硬い殻が衝撃を受け止める。


 6本の足を広げた。


 爪が樹皮へ食い込んだ。


 落ちなかった。


 翅を閉じる。


 初めて、自分の力で別の木へ移った。


 上から漂ってくる甘い匂いを追い、幹を登っていく。


     ◇


 樹皮の割れ目から、透明な液体がにじみ出ていた。


 甘く濃い匂い。


 その周囲には、すでに多くの虫が集まっている。


 小さな蛾。


 茶色い甲虫。


 長い顎を持つクワガタ。


 細い身体の蜂。


 樹皮の隙間を歩く蟻たち。


 誰もが樹液を求めていた。


 自分は樹液場へ近づいた。


 小さな虫たちが、こちらの身体を見て道を開ける。


 大きな角。


 硬い殻。


 太い脚。


 今の自分は、この場所に集まった虫の多くより大きかった。


 樹液へ口を近づける。


 甘い液体を舐め取る。


 身体の中へ、力が広がっていく。


 朽木とは違う。


 柔らかな甘さ。


 濃い匂い。


 一度口にすれば、もっと欲しくなった。


 そのとき、横から強い衝撃を受けた。


 身体が押される。


 足へ力を込め、樹皮を掴んだ。


 隣には、自分より少し小さな雄のカブトムシがいた。


 相手も大きな角を持っている。


 樹液場を譲れ。


 言葉はない。


 だが、角をこちらへ向ける姿が、そう伝えていた。


 自分も角を下げる。


 身体の奥から、戦えという命令が湧き上がった。


 樹液が欲しい。


 この場所から離れたくない。


 相手が角を突き出す。


 自分も前へ出る。


 二本の角がぶつかった。


 硬い音が夜の森へ響く。


 相手が押す。


 自分も押し返す。


 足の爪を樹皮へ深く食い込ませる。


 身体の大きさでは、自分が勝っている。


 強い足で踏ん張り、角を相手の身体の下へ差し込む。


 持ち上げる。


 相手の前足が樹皮から離れた。


 さらに力を込める。


 雄の身体が浮き上がる。


 角を振る。


 相手は幹から引き剥がされ、暗い地面へ落ちていった。


 勝った。


 身体の奥に強い感覚が広がる。


 樹液場は自分のものだ。


 誰にも邪魔されず、甘い液体を飲むことができる。


 再び口を近づけた。


 だが、その時間は長く続かなかった。


 上から、重い振動が伝わってきた。


 何かが幹を下りてくる。


 大きな雄のカブトムシだった。


 自分よりも一回り大きい。


 角も太く、長い。


 身体の殻には傷があり、何度も争ってきたことが分かる。


 大きな雄は、そのまま樹液場へ近づいた。


 自分は角を向けた。


 先ほど勝ったばかりだ。


 今度も押し出せる。


 そう考えたわけではない。


 ただ、身体が退くことを拒んだ。


 大きな雄が突進してくる。


 二本の角がぶつかった。


 衝撃が身体を貫く。


 足の爪が樹皮を削った。


 押し返せない。


 相手の力が強い。


 自分は身体を低くし、角を相手の下へ入れようとした。


 だが、大きな雄の角が先に自分の腹の下へ差し込まれた。


 身体が持ち上がる。


 足が樹皮から離れた。


 脚を動かす。


 何も掴めない。


 次の瞬間、身体が宙へ投げ出された。


 枝へぶつかる。


 葉を突き抜ける。


 地面へ落ちた。


 硬い殻が衝撃を受け止めた。


 すぐに足を動かす。


 身体を起こすことはできた。


 大きな傷はない。


 だが、樹液場は遠い。


 見上げても、木の上は暗く、勝った雄の姿は見えなかった。


 自分は負けた。


 もう一度登り、戦うこともできる。


 だが、身体には疲労が残っている。


 次に投げ飛ばされれば、硬い殻でも傷つくかもしれない。


 もっと高い場所から落ちれば、翅や脚を失うかもしれない。


 頭の奥に、低い声が浮かんだ。


 ――負けたなら、退け。


 ――生きていれば、別の場所を探せる。


 誰の声かは分からなかった。


 それでも、自分は同じ木へ登らなかった。


 甘い匂いは、森の中に一つだけではない。


 歩く。


 別の木を探す。


 疲れが取れれば、また飛べばいい。


 自分は落ち葉の上を進み始めた。


     ◇


 別の夜。


 自分は新しい樹液場を見つけた。


 前の場所よりも樹液の量は少ない。


 だが、大きなカブトムシやクワガタの姿はなかった。


 集まっているのは、小さな蛾と、数十匹の蟻だけだった。


 蟻たちは樹皮の割れ目からにじむ樹液へ群がっている。


 小さな身体。


 細い顎。


 一本の脚を動かすだけで、何匹も払い落とせる。


 自分が樹液場へ身体を押し込めば、蟻たちは場所を失う。


 顎を開いて向かってきたとしても、硬い殻を傷つけることはできない。


 今の自分なら、すべて追い払える。


 一歩、近づく。


 蟻たちが触角をこちらへ向けた。


 警戒の匂いが広がる。


 何匹かが顎を開き、こちらの脚へ近づいてきた。


 自分は前足を持ち上げた。


 振り下ろせばいい。


 それだけで、蟻たちは退く。


 だが、足は動かなかった。


 樹液の周囲で働く蟻たちの姿を見ていると、身体の奥に奇妙な感覚が生まれた。


 懐かしい。


 なぜそう感じるのかは分からない。


 蟻など、生まれてから何度も見ている。


 特別な生き物ではない。


 それでも、触角を交わし、樹液を分け合い、巣へ運ぼうとする姿から目を離せなかった。


 頭の奥へ、声が浮かんだ。


 ――全部、自分のものにする必要はない。


 ――山の恵みは、山で生きるもののためにある。


 自分は持ち上げた前足を下ろした。


 蟻たちが集まっている割れ目から少し離れた場所へ移動する。


 樹皮を顎で削る。


 硬い表面が割れた。


 その奥から、わずかに樹液がにじみ出てくる。


 蟻たちの場所を奪わなくても、食べることはできた。


 自分は新しく開いた傷口へ口を近づけた。


 甘い液体を舐める。


 すぐそばでは、蟻たちが変わらず樹液へ群がっている。


 追い払わない。


 奪わない。


 同じ木から、それぞれ必要な分だけを得る。


 なぜそれを選んだのかは分からなかった。


 だが、不思議と悪くないと思った。


 風が吹いた。


 木々の葉が揺れる。


 夜の森に、さまざまな生き物の気配が満ちている。


 勝つこともある。


 負けることもある。


 戦わずに退くこともある。


 そして、譲ることもある。


 頭の奥で、低い声が静かに響いた。


 ――山にはな、山の掟がある。


 その声の主を思い出すことはできない。


 顔も。


 名前も。


 大きな背中も。


 すべて霧の向こうに隠れていた。


 それでも、その言葉だけは身体の奥へ残った。


 カブトムシは樹液を舐めながら、隣で働く蟻たちを追い払わなかった。


 頭上には、枝葉の隙間から夜空が見える。


 遠くの木から、また別の甘い匂いが漂ってきた。


 背中の殻が開く。


 薄い翅が、夜風の中へ広がった。


 まだ、うまく飛べるわけではない。


 それでも、自分は木の幹から足を離した。


 低い羽音とともに、大きな身体が夜の森へ飛び出した。


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