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山のヌシ  作者: つぶつぶみかん
1.働き蟻
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6/28

1-5.初めての進化

 第4生は、これまでの蟻生とは少し違っていた。


 自分が以前にも働き蟻として生きていたことを、その働き蟻は知らない。


 蟻地獄に捕らえられたことも。


 仲間とともにムカデを倒したことも。


 死後の暗闇で、カブトムシを目指すと決めたことも。


 何一つ覚えていなかった。


 それでも、その小さな身体には、これまでの生で積み重ねた力が残されていた。


 強靭な顎。


 脚力強化。


 硬く固まった土へ顎を立てれば、他の働き蟻よりも深く削ることができた。


 太い虫の脚へ噛みつけば、硬い殻ごと切断できた。


 仲間たちと同時に走り出せば、すぐに列の先頭へ追いついた。


 6本の足は地面を強く蹴り、小石や草の根を軽々と越えていく。


 強い顎と速い足。


 二つの力を持つ自分は、巣の中でも外でもよく働いた。


 崩れかけた通路を掘り直した。


 硬く固まった土を砕いた。


 遠くの餌場を見つけ、巣へ続く匂いの道を残した。


 大きな食料を切り分け、他の働き蟻が一度往復する間に何度も巣へ運んだ。


 仲間たちは、自分を特別扱いしなかった。


 名前を付けることもない。


 功績を褒めることもない。


 ただ、硬い物があれば自分を呼び、遠くに食料があれば自分を送り出した。


 働け。


 運べ。


 巣を広げろ。


 その匂いに従い、自分は顎と足を動かした。


 それで十分だった。


     ◇


 ある日、自分は食料を探して、巣から遠く離れた場所まで進んでいた。


 仲間が残した匂いは薄い。


 周囲には背の低い草がまばらに生え、地面の一部は細かな砂に覆われている。


 風に混じる匂いを触角で探りながら、小石の間を進んでいく。


 前方に、すり鉢状に窪んだ場所があった。


 その縁へ足を踏み入れた瞬間、砂が崩れた。


 身体が中央へ向かって滑り始める。


 危険。


 本能が警告を発した。


 6本の足が、強く砂を蹴った。


 身体が斜面の上へ跳ねる。


 踏み込んだ場所から砂が流れ落ちていく。


 それでも、自分の身体は崩れる砂よりも速く上へ進んだ。


 背後から、無数の砂粒が飛んできた。


 身体のすぐ後ろへ砂が降り注ぐ。


 もう一度、地面を蹴る。


 自分は窪みの外へ飛び出した。


 硬い地面へ着地する。


 すぐに身体の向きを変えた。


 すり鉢の中央で、砂が動いている。


 やがて、その下から内側へ曲がった巨大な顎が現れた。


 蟻地獄。


 その名前が頭の中へ浮かんだ。


 なぜ知っているのかは分からない。


 生まれてから一度も見たことがないはずなのに、その窪みが小さな虫を捕らえる罠であることを知っていた。


 砂の底に潜む生き物が、自分を餌として狙っていたことも理解できた。


 だが、すでに大顎が届く場所からは離れている。


 蟻地獄はしばらく砂の底で顎を動かしていた。


 やがて獲物を捕らえられないと判断したのか、再び砂の下へ姿を消した。


 自分は窪みへ近づかなかった。


 その周囲を大きく回り込み、別の方向へ歩き始める。


 危険は去った。


 食料を探す仕事は、まだ終わっていない。


 以前の生で、同じ罠に捕らえられたことを、その働き蟻は知らない。


 強い顎だけでは逃げられず、砂の底へ引きずり込まれたことも覚えていない。


 ただ、積み重ねた脚の力だけが、同じ死を遠ざけていた。


     ◇


 強い力を持っていても、自分から大きな敵へ挑むことはなかった。


 敵を倒すことは、働き蟻の目的ではない。


 食料を探す。


 巣へ運ぶ。


 巣へ近づく危険を排除する。


 必要がなければ戦わない。


 それが小さな身体で生き残るための方法だった。


 大きな蜘蛛と出会ったことがある。


 蜘蛛は地面の上で長い脚を広げ、こちらを見下ろしていた。


 一匹で戦えば、勝ち目はない。


 自分は顎を大きく開き、腹を地面へ近づけた。


 強い警戒の匂いを放つ。


 近くにいた仲間たちも、その匂いを受け取った。


 数匹。


 十数匹。


 やがて多くの仲間が集まり、蜘蛛を囲むように顎を開いた。


 自分は蜘蛛の正面へ走った。


 噛みつく直前で方向を変える。


 蜘蛛の前脚が地面へ振り下ろされた。


 その攻撃を避け、すぐに距離を取る。


 別の方向から仲間たちが近づいた。


 蜘蛛が身体の向きを変える。


 今度は、反対側にいる蟻たちが前へ出る。


 噛みつかない。


 近づいては離れる。


 顎を見せる。


 警戒の匂いを撒き散らす。


 どこから近づいても、無数の蟻がいる。


 そう見せつける。


 蜘蛛はしばらく前脚を持ち上げ、こちらを威嚇していた。


 だが、やがて身体の向きを変え、草の奥へ去っていった。


 追いかける者はいなかった。


 敵は去った。


 仲間は生きている。


 それで十分だった。


 別の日には、大きな甲虫と餌場が重なった。


 甲虫の身体は硬い殻に覆われている。


 今の自分の顎でも、正面から深い傷を与えることは難しい。


 だが、甲虫もまた、食料のために大勢の蟻と戦うつもりはなかった。


 自分たちは顎を開き、脚の周囲を走り回った。


 一匹が近づく。


 甲虫が脚を振る。


 その間に別の一匹が反対側へ回る。


 甲虫が向きを変えれば、さらに別の仲間が近づく。


 自分は速い足で正面へ回り込み、顎を大きく開いた。


 甲虫の触角がこちらへ向く。


 一歩近づく。


 甲虫が身を引く。


 さらに仲間たちが集まり、強い警戒の匂いを放った。


 やがて甲虫は餌から離れ、別の場所へ歩いていった。


 戦わずに済んだ。


 自分も仲間も、大きな傷を負わなかった。


 食料も手に入った。


 それは、敵を倒すよりも価値のある結果だった。


 だが、蟻たちは喜ばない。


 餌を切り分け、巣へ運ぶ。


 次の仕事へ移る。


 ただ、それだけだった。


     ◇


 季節が巡った。


 暖かな季節には、多くの食料を運んだ。


 雨が降れば、速い足で高い場所へ逃れた。


 水に流されかけた仲間の身体へ噛みつき、安全な場所まで引きずったこともある。


 暑い日には、陽の当たる地面を素早く駆け抜けた。


 大きな食料を顎で切り分け、何度も巣へ運んだ。


 別の群れと餌場が重なれば、仲間とともに顎を開いた。


 戦いになったとしても、相手の攻撃を避け、脚の付け根や触角へ噛みついた。


 深追いはしない。


 相手が退けば、自分たちも餌場へ戻った。


 空気が冷たくなると、巣の外へ出る回数は減った。


 自分たちは地上へ続く通路を狭め、巣の奥へ集まった。


 仲間同士で身体を寄せ合い、長い寒さを耐えた。


 そして、再び土が暖かくなった。


 自分は巣の外へ出た。


 草が伸びている。


 花の匂いがする。


 小さな虫たちが動き始めている。


 世界は以前と変わらなかった。


 だが、自分の身体は少しずつ変わっていた。


 足が重い。


 顎へ力を込めるまでに時間がかかる。


 以前ならば何度も往復できた距離を、一度歩くだけで身体が疲れた。


 敵に傷つけられたわけではない。


 病にかかったわけでもない。


 ただ、身体が古くなっていた。


 寿命が近づいている。


 そのことが本能で分かった。


 それでも、自分は働いた。


 動けるのなら動く。


 運べるのなら運ぶ。


 巣のために使える力が残っているなら、最後まで使う。


 ある日、自分は巣の近くで、小さな木の実の欠片を運んでいた。


 若い頃ならば、もっと大きな欠片を難なく持ち上げられた。


 今は、小さな欠片でさえ重い。


 一歩ずつ、巣穴へ近づいていく。


 後ろから来た仲間たちが、自分を追い越していった。


 それでも焦ることはなかった。


 食料は顎から落ちていない。


 巣穴も見えている。


 あと少し進めば、役目を果たせる。


 巣穴の入口までたどり着く。


 中から出てきた若い働き蟻が、触角で身体へ触れた。


 食料。


 運搬。


 引き継ぐ。


 若い蟻が、木の実の欠片へ顎をかけた。


 自分はゆっくりと顎を開く。


 食料は、若い蟻へ渡った。


 仲間はそのまま、暗い巣穴の奥へ進んでいった。


 役目は終わった。


 自分は入口のそばで身体を伏せた。


 陽の光が背中を温めている。


 風が草を揺らす。


 仲間たちは、途切れることなく巣へ出入りしていた。


 自分が動けなくなっても、巣は働き続ける。


 一匹が死んでも、別の一匹が役目を引き継ぐ。


 それでいい。


 身体から、少しずつ力が抜けていく。


 痛みはない。


 恐怖もない。


 ただ眠りに落ちるように、感覚が薄れていった。


 最後に頭へ浮かんだのは、山を歩く大きな背中だった。


 節くれ立った手。


 猟銃の油と、土が混ざった匂い。


 その誰かは、幼い自分を背負って歩いていた。


 ――歩けるさ。


 ――いつかな。


 低く、優しい声が聞こえた。


 その意味を思い出すより先に、すべての感覚が消えた。


     ◇


『個体の死亡を確認しました』


 感情のない声が響いた。


 その声とともに、失われていた記憶が戻ってくる。


 人間として16歳で死んだこと。


 これまでに4度、働き蟻として生きたこと。


 蟻地獄に捕らえられたこと。


 仲間とムカデを倒したこと。


 そして、あと1EPを得ればカブトムシへ進化できると知ったこと。


「今度は、生き切ったのか」


 大きな敵を倒したわけではない。


 特別な場所へ到達したわけでもない。


 ただ働き蟻として生き、その寿命を迎えた。


 暗闇の中に、白い文字が浮かび上がる。


――――――――――


【第4生 集計結果】


 種族:蟻


 役割:働き蟻


 生存期間:372日


 死亡原因:寿命


 獲得EP:1


 獲得SP:6


――――――――――


【現在の保有値】


 EP:12


 SP:6


――――――――――


 EPが1増えている。


 前の生で手に入れた11と合わせて、合計は12。


 カブトムシへ進化するために必要な数へ、ようやく届いた。


 SPも6増えていた。


 強靭な顎と脚力強化を使い、巣のために働いた。


 多くの食料を運んだ。


 危険から逃れた。


 仲間を助けた。


 大きな敵と無理に戦うことなく、巣の活動を支え続けた。


 目立つ戦果はなくても、その積み重ねが技能点として認められたらしい。


『次の生を選択してください』


 白い文字が切り替わった。


――――――――――


【同一種族への転生】


 働き蟻


 保有SPを使用して技能を取得できます。


【種族進化】


 蜘蛛    必要EP:8


 ムカデ   必要EP:10


 カブトムシ 必要EP:12


――――――――――


 再び働き蟻として生まれることもできる。


 保有しているSPは6。


 以前、取得を見送った感覚器官強化も、今なら手に入れられる。


 匂いや振動をより正確に捉えられれば、危険へ足を踏み入れる可能性は減る。


 強靭な顎。


 脚力強化。


 感覚器官強化。


 三つの技能を持つ働き蟻になれば、これまで以上に巣へ貢献できるだろう。


 さらに経験を積み、もっと多くのEPを得られるかもしれない。


 だが、自分の意識は一つの選択肢から動かなかった。


 カブトムシ。


 硬い甲殻。


 大きな身体。


 強い力。


 蟻として生きた4度の生で、何度も小さな身体の限界を見てきた。


 鳥にさらわれる仲間。


 雨に流される仲間。


 大きな虫の一歩で踏み潰される仲間。


 群れでなければ、大きな敵へ立ち向かうこともできない。


 働き蟻として生きることが嫌だったわけではない。


 巣のために働く日々には、確かな充足があった。


 仲間とともに生き、役目を果たし、寿命を迎えた。


 それも一つの完成した生き方なのだと思う。


 だが、自分は先へ進まなければならない。


 なぜ転生を繰り返しているのか。


 じいちゃんは、なぜ山へ入ったまま帰ってこなかったのか。


 山の奥には何がいるのか。


 その答えを知るためには、蟻とは違う生き物になる必要がある。


『種族進化を選択した場合、保有EPを消費します』


『未使用のSPは失われます』


 せっかく手に入れたSPは6。


 感覚器官強化を取得できるだけの技能点がある。


 だが、カブトムシを選べば、そのSPは失われる。


 また0から始めることになる。


 少しだけ迷った。


 あと一度、蟻として生きてもいい。


 感覚を強化し、さらに多くの経験を積んでから進化しても遅くはない。


 だが、次も無事に寿命を迎えられる保証はない。


 鳥に食べられるかもしれない。


 雨に流されるかもしれない。


 再び蟻地獄へ落ちるかもしれない。


 大きな敵と戦い、命を落とすかもしれない。


 必要なEPは、今ここに揃っている。


 進めるときに、先へ進む。


 それもまた、山で生きるために必要な判断だった。


「カブトムシに進化する」


『確認します』


――――――――――


【進化先】


 カブトムシ


【消費EP】


 12


【失効SP】


 6


【継承技能】


 強靭な顎 Lv.2


 脚力強化 Lv.1


――――――――――


『カブトムシへの種族進化を実行しますか』


「実行する」


 返事に迷いはなかった。


『EPを12消費します』


『未使用SPを破棄します』


――――――――――


【現在の保有値】


 EP:0


 SP:0


――――――――――


 積み重ねてきたEPが消えた。


 せっかく得たSPも0になった。


 それでも、後悔はなかった。


 これまでとは違う身体。


 違う生き方。


 蟻ではたどり着けなかった場所へ進むための、新たな一歩だった。


『種族進化の条件を満たしました』


『進化先――カブトムシ』


『初回の種族進化を確認』


 感情のない声が、そこでわずかに間を置いた。


『山の記憶を解放します』


「山の、記憶?」


 問い返した直後、暗闇が消えた。


     ◇


 冷たい風が吹いていた。


 湿った土の匂い。


 風に揺れる木々の音。


 遠くから聞こえる、低い獣の鳴き声。


 目の前に広がっていたのは、山の入口だった。


 まだ陽は落ちていない。


 だが、山道の奥にはすでに薄暗い影が満ちている。


 道の脇には古びた石碑が立ち、その表面を苔が覆っていた。


 自分は、その光景をどこか高い場所から眺めていた。


 身体はない。


 声を出すこともできない。


 ただ、かつて起きた出来事を見せられている。


 山道の手前に、三人の男が立っていた。


 全員が猟師の格好をしている。


 使い込まれた猟銃。


 腰に下げた鉈。


 泥に汚れた長靴。


 その中の一人を見た瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。


 大きな背中。


 節くれ立った手。


 猟銃の油と、土の混じった匂い。


 顔は見えているはずなのに、霧がかかったようにはっきりしない。


 それでも分かった。


「じいちゃん……」


 声は届かない。


 じいちゃんは猟銃を背負い直し、山道へ足を向けていた。


「本気で行くつもりか」


 仲間の猟師が、その肩をつかんだ。


「もう夕方になる。今から入ったら、戻る頃には真っ暗だぞ」


「戻るつもりはねえ」


 じいちゃんは静かに答えた。


 仲間の手が止まる。


「何を言っとる」


「言ったとおりだ。俺一人で行く」


「一人でって、お前……ヌシ様のところまで行くつもりか」


 その言葉を聞いた瞬間、周囲の空気が変わった。


 もう一人の猟師が、慌てて周囲を見回す。


「馬鹿。山の前で、その名を軽々しく口にするな」


「だが、こいつは本気だぞ」


 二人の視線が、じいちゃんへ向けられる。


 じいちゃんは何も言わなかった。


 沈黙が、答えになっていた。


「やめておけ」


 年嵩の猟師が、低い声で言った。


「あれは昔話だ。山の奥に願いを叶えるヌシ様がいるなんて、子どもに聞かせる話だろう」


「お前だって、山で長く生きてきた人間だ。分かっとるはずだ」


 じいちゃんが答えた。


「あの話が、ただの昔話じゃないことくらい」


「だからこそ、やめろと言っとる」


 年嵩の猟師は、じいちゃんの前へ立ち塞がった。


「願いを叶えてもらったなんて話は、一つも残っとらん」


「山へ入ったまま帰ってこんかった者の話なら、いくらでもある」


「何を要求されるかも分からんのだぞ」


 じいちゃんは、しばらく黙って山の奥を見つめていた。


 木々の隙間から吹いてきた風が、白くなった髪を揺らす。


「孫がな」


 やがて、じいちゃんが口を開いた。


「もう長くないそうだ」


 誰も言葉を返さなかった。


 風の音だけが、山道を通り抜けていく。


「あんなに小さい頃から、ずっと病院と家の往復だ」


「山へ連れてきてやっても、自分の足じゃほとんど歩けん」


「それでも、山が好きだと言うんだ」


 じいちゃんの手が、強く握られた。


「元気になったら、俺と一緒に山を走り回るんだとな」


 胸の奥に、何かが突き刺さった。


 自分は、その言葉を知っている。


 病の身体で布団に横たわりながら、何度も願った。


 じいちゃんと一緒に歩きたい。


 もっと山の奥へ行ってみたい。


 自分の足で走ってみたい。


「医者が無理だと言ったからって、諦められるか」


 じいちゃんは山へ向き直った。


「他に方法がないなら、昔話でも化け物でも、何にだってすがる」


「待て」


 仲間の猟師が、再び腕をつかむ。


「だったら俺たちも行く」


「駄目だ」


 じいちゃんは、すぐにその手を振り払った。


「これは俺の願いだ」


「お前たちの命まで巻き込むわけにはいかん」


「一人で行けば、途中で何かあっても助けられんぞ」


「この山で、俺より長く歩ける奴がいるか」


 じいちゃんは笑った。


 いつも自分へ向けていた、穏やかな笑い方だった。


 だが、その顔には深い疲れが刻まれていた。


「それに、帰ってこられんと決まったわけじゃない」


「帰るつもりはないと、さっき言っただろうが」


「帰ることより、大事なものがあるという意味だ」


 じいちゃんは、肩にかけた猟銃の位置を直した。


 腰には鉈。


 背中には小さな荷物。


 その姿は、普段の猟へ向かうときと何も変わらない。


 だが、仲間たちは誰も道を譲ろうとしなかった。


「どうしても行くのか」


「ああ」


「孫のために、命まで捨てるつもりか」


 じいちゃんは答えなかった。


 ただ、山道の奥を見つめた。


 その沈黙を前に、猟師たちは少しずつ道を開けた。


 年嵩の猟師が、懐から小さな包みを取り出す。


「持っていけ」


「塩と火口だ。山の奥じゃ、何があるか分からん」


「悪いな」


「礼なんかいらん」


 包みを受け取ったじいちゃんの腕を、男は強くつかんだ。


「必ず戻れ」


 じいちゃんは少しだけ目を伏せた。


 それから、男の手へ自分の手を重ねる。


「孫を、頼む」


「自分で面倒を見ろ」


「……そうだな」


 じいちゃんは笑った。


 今度の笑顔は、先ほどよりも寂しそうに見えた。


 そして、一人で山道を歩き始めた。


「おい!」


 背後から声が飛ぶ。


 じいちゃんは立ち止まったが、振り返らなかった。


「ヌシ様に会えたとしても、言葉には気をつけろ!」


「山のものは、人の願いを人の思うようには聞かんぞ!」


 風が強く吹いた。


 木々が大きく揺れ、枝葉の音が言葉の続きをかき消す。


 じいちゃんは片手を上げた。


 分かっている。


 そう伝えるような仕草だった。


 やがて、その背中は木々の間へ消えていった。


 誰も追わなかった。


 猟師たちは、じいちゃんが消えた暗い山道を見つめ続けていた。


 それが、仲間たちが見たじいちゃんの最後の姿だった。


     ◇


 景色が砕けた。


 山も。


 猟師たちも。


 木々の間へ消えたじいちゃんの背中も。


 無数の光の欠片となり、暗闇へ溶けていく。


「待ってくれ」


 じいちゃんが山へ入った。


 自分のために。


 ヌシへ願うために。


 その先で何が起きたのか。


 願いは叶ったのか。


 じいちゃんは、どうなったのか。


「続きを見せてくれ!」


 声は何も答えなかった。


『山の記憶――第一片の再生を終了しました』


「第一片……?」


『種族進化を継続します』


「まだ、続きがあるんだな」


『回答できません』


「じいちゃんは、ヌシに会えたのか」


『回答できません』


「俺が転生していることと、関係があるのか」


『回答できません』


 感情のない返答だけが繰り返される。


 だが、もう偶然だとは思えなかった。


 じいちゃんは、自分の病を治すために山へ入った。


 自分は人間として死に、その後、何度も健康な身体へ転生している。


 そこには、何かつながりがある。


 けれど、その答えへ手を伸ばすより先に、白い光が暗闇へ広がり始めた。


『種族進化を開始します』


『進化先――カブトムシ』


 光が意識を包み込む。


 人間だった記憶。


 蟻として過ごした4度の生。


 カブトムシを選んだ理由。


 そして、今見たじいちゃんの最後の背中。


 そのすべてが、少しずつ遠ざかっていく。


「忘れたくない」


 必死に記憶へしがみつく。


 だが、この場所で思い出したことは、次の生へ持ち越せない。


 じいちゃんが自分のために山へ入ったという事実も、光の中へ飲み込まれていく。


 最後まで残ったのは、木々の間へ消えていく大きな背中だった。


 追いかけなければならない。


 なぜか、そう思った。


 その理由さえ失われ、意識が途切れた。


     ◇


 暗い。


 だが、蟻の巣の暗闇とは違う。


 身体を包んでいるのは、湿った土と、腐りかけた木の匂いだった。


 身体が重い。


 長い。


 そして、柔らかい。


 動こうとすると、太く短い足が土を掻いた。


 自分が何者なのか、その生き物はまだ知らない。


 硬い角もない。


 黒く輝く甲殻もない。


 今の身体は白く、丸く、地中で朽木を食べるだけの幼虫だった。


 それでも、土の奥から伝わってくる遠い振動へ、なぜか懐かしさを覚えた。


 誰かの足音。


 木々の間を遠ざかっていく、大きな背中。


 それが何なのかは分からない。


 幼虫は土を掻き、目の前の朽木へ顎を立てた。


 蟻ではない。


 カブトムシとしての、最初の生が始まった。


ここまでが第1章になります。

第2章はカブトムシとして主人公が何を学ぶのかご期待ください。

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