1-5.初めての進化
第4生は、これまでの蟻生とは少し違っていた。
自分が以前にも働き蟻として生きていたことを、その働き蟻は知らない。
蟻地獄に捕らえられたことも。
仲間とともにムカデを倒したことも。
死後の暗闇で、カブトムシを目指すと決めたことも。
何一つ覚えていなかった。
それでも、その小さな身体には、これまでの生で積み重ねた力が残されていた。
強靭な顎。
脚力強化。
硬く固まった土へ顎を立てれば、他の働き蟻よりも深く削ることができた。
太い虫の脚へ噛みつけば、硬い殻ごと切断できた。
仲間たちと同時に走り出せば、すぐに列の先頭へ追いついた。
6本の足は地面を強く蹴り、小石や草の根を軽々と越えていく。
強い顎と速い足。
二つの力を持つ自分は、巣の中でも外でもよく働いた。
崩れかけた通路を掘り直した。
硬く固まった土を砕いた。
遠くの餌場を見つけ、巣へ続く匂いの道を残した。
大きな食料を切り分け、他の働き蟻が一度往復する間に何度も巣へ運んだ。
仲間たちは、自分を特別扱いしなかった。
名前を付けることもない。
功績を褒めることもない。
ただ、硬い物があれば自分を呼び、遠くに食料があれば自分を送り出した。
働け。
運べ。
巣を広げろ。
その匂いに従い、自分は顎と足を動かした。
それで十分だった。
◇
ある日、自分は食料を探して、巣から遠く離れた場所まで進んでいた。
仲間が残した匂いは薄い。
周囲には背の低い草がまばらに生え、地面の一部は細かな砂に覆われている。
風に混じる匂いを触角で探りながら、小石の間を進んでいく。
前方に、すり鉢状に窪んだ場所があった。
その縁へ足を踏み入れた瞬間、砂が崩れた。
身体が中央へ向かって滑り始める。
危険。
本能が警告を発した。
6本の足が、強く砂を蹴った。
身体が斜面の上へ跳ねる。
踏み込んだ場所から砂が流れ落ちていく。
それでも、自分の身体は崩れる砂よりも速く上へ進んだ。
背後から、無数の砂粒が飛んできた。
身体のすぐ後ろへ砂が降り注ぐ。
もう一度、地面を蹴る。
自分は窪みの外へ飛び出した。
硬い地面へ着地する。
すぐに身体の向きを変えた。
すり鉢の中央で、砂が動いている。
やがて、その下から内側へ曲がった巨大な顎が現れた。
蟻地獄。
その名前が頭の中へ浮かんだ。
なぜ知っているのかは分からない。
生まれてから一度も見たことがないはずなのに、その窪みが小さな虫を捕らえる罠であることを知っていた。
砂の底に潜む生き物が、自分を餌として狙っていたことも理解できた。
だが、すでに大顎が届く場所からは離れている。
蟻地獄はしばらく砂の底で顎を動かしていた。
やがて獲物を捕らえられないと判断したのか、再び砂の下へ姿を消した。
自分は窪みへ近づかなかった。
その周囲を大きく回り込み、別の方向へ歩き始める。
危険は去った。
食料を探す仕事は、まだ終わっていない。
以前の生で、同じ罠に捕らえられたことを、その働き蟻は知らない。
強い顎だけでは逃げられず、砂の底へ引きずり込まれたことも覚えていない。
ただ、積み重ねた脚の力だけが、同じ死を遠ざけていた。
◇
強い力を持っていても、自分から大きな敵へ挑むことはなかった。
敵を倒すことは、働き蟻の目的ではない。
食料を探す。
巣へ運ぶ。
巣へ近づく危険を排除する。
必要がなければ戦わない。
それが小さな身体で生き残るための方法だった。
大きな蜘蛛と出会ったことがある。
蜘蛛は地面の上で長い脚を広げ、こちらを見下ろしていた。
一匹で戦えば、勝ち目はない。
自分は顎を大きく開き、腹を地面へ近づけた。
強い警戒の匂いを放つ。
近くにいた仲間たちも、その匂いを受け取った。
数匹。
十数匹。
やがて多くの仲間が集まり、蜘蛛を囲むように顎を開いた。
自分は蜘蛛の正面へ走った。
噛みつく直前で方向を変える。
蜘蛛の前脚が地面へ振り下ろされた。
その攻撃を避け、すぐに距離を取る。
別の方向から仲間たちが近づいた。
蜘蛛が身体の向きを変える。
今度は、反対側にいる蟻たちが前へ出る。
噛みつかない。
近づいては離れる。
顎を見せる。
警戒の匂いを撒き散らす。
どこから近づいても、無数の蟻がいる。
そう見せつける。
蜘蛛はしばらく前脚を持ち上げ、こちらを威嚇していた。
だが、やがて身体の向きを変え、草の奥へ去っていった。
追いかける者はいなかった。
敵は去った。
仲間は生きている。
それで十分だった。
別の日には、大きな甲虫と餌場が重なった。
甲虫の身体は硬い殻に覆われている。
今の自分の顎でも、正面から深い傷を与えることは難しい。
だが、甲虫もまた、食料のために大勢の蟻と戦うつもりはなかった。
自分たちは顎を開き、脚の周囲を走り回った。
一匹が近づく。
甲虫が脚を振る。
その間に別の一匹が反対側へ回る。
甲虫が向きを変えれば、さらに別の仲間が近づく。
自分は速い足で正面へ回り込み、顎を大きく開いた。
甲虫の触角がこちらへ向く。
一歩近づく。
甲虫が身を引く。
さらに仲間たちが集まり、強い警戒の匂いを放った。
やがて甲虫は餌から離れ、別の場所へ歩いていった。
戦わずに済んだ。
自分も仲間も、大きな傷を負わなかった。
食料も手に入った。
それは、敵を倒すよりも価値のある結果だった。
だが、蟻たちは喜ばない。
餌を切り分け、巣へ運ぶ。
次の仕事へ移る。
ただ、それだけだった。
◇
季節が巡った。
暖かな季節には、多くの食料を運んだ。
雨が降れば、速い足で高い場所へ逃れた。
水に流されかけた仲間の身体へ噛みつき、安全な場所まで引きずったこともある。
暑い日には、陽の当たる地面を素早く駆け抜けた。
大きな食料を顎で切り分け、何度も巣へ運んだ。
別の群れと餌場が重なれば、仲間とともに顎を開いた。
戦いになったとしても、相手の攻撃を避け、脚の付け根や触角へ噛みついた。
深追いはしない。
相手が退けば、自分たちも餌場へ戻った。
空気が冷たくなると、巣の外へ出る回数は減った。
自分たちは地上へ続く通路を狭め、巣の奥へ集まった。
仲間同士で身体を寄せ合い、長い寒さを耐えた。
そして、再び土が暖かくなった。
自分は巣の外へ出た。
草が伸びている。
花の匂いがする。
小さな虫たちが動き始めている。
世界は以前と変わらなかった。
だが、自分の身体は少しずつ変わっていた。
足が重い。
顎へ力を込めるまでに時間がかかる。
以前ならば何度も往復できた距離を、一度歩くだけで身体が疲れた。
敵に傷つけられたわけではない。
病にかかったわけでもない。
ただ、身体が古くなっていた。
寿命が近づいている。
そのことが本能で分かった。
それでも、自分は働いた。
動けるのなら動く。
運べるのなら運ぶ。
巣のために使える力が残っているなら、最後まで使う。
ある日、自分は巣の近くで、小さな木の実の欠片を運んでいた。
若い頃ならば、もっと大きな欠片を難なく持ち上げられた。
今は、小さな欠片でさえ重い。
一歩ずつ、巣穴へ近づいていく。
後ろから来た仲間たちが、自分を追い越していった。
それでも焦ることはなかった。
食料は顎から落ちていない。
巣穴も見えている。
あと少し進めば、役目を果たせる。
巣穴の入口までたどり着く。
中から出てきた若い働き蟻が、触角で身体へ触れた。
食料。
運搬。
引き継ぐ。
若い蟻が、木の実の欠片へ顎をかけた。
自分はゆっくりと顎を開く。
食料は、若い蟻へ渡った。
仲間はそのまま、暗い巣穴の奥へ進んでいった。
役目は終わった。
自分は入口のそばで身体を伏せた。
陽の光が背中を温めている。
風が草を揺らす。
仲間たちは、途切れることなく巣へ出入りしていた。
自分が動けなくなっても、巣は働き続ける。
一匹が死んでも、別の一匹が役目を引き継ぐ。
それでいい。
身体から、少しずつ力が抜けていく。
痛みはない。
恐怖もない。
ただ眠りに落ちるように、感覚が薄れていった。
最後に頭へ浮かんだのは、山を歩く大きな背中だった。
節くれ立った手。
猟銃の油と、土が混ざった匂い。
その誰かは、幼い自分を背負って歩いていた。
――歩けるさ。
――いつかな。
低く、優しい声が聞こえた。
その意味を思い出すより先に、すべての感覚が消えた。
◇
『個体の死亡を確認しました』
感情のない声が響いた。
その声とともに、失われていた記憶が戻ってくる。
人間として16歳で死んだこと。
これまでに4度、働き蟻として生きたこと。
蟻地獄に捕らえられたこと。
仲間とムカデを倒したこと。
そして、あと1EPを得ればカブトムシへ進化できると知ったこと。
「今度は、生き切ったのか」
大きな敵を倒したわけではない。
特別な場所へ到達したわけでもない。
ただ働き蟻として生き、その寿命を迎えた。
暗闇の中に、白い文字が浮かび上がる。
――――――――――
【第4生 集計結果】
種族:蟻
役割:働き蟻
生存期間:372日
死亡原因:寿命
獲得EP:1
獲得SP:6
――――――――――
【現在の保有値】
EP:12
SP:6
――――――――――
EPが1増えている。
前の生で手に入れた11と合わせて、合計は12。
カブトムシへ進化するために必要な数へ、ようやく届いた。
SPも6増えていた。
強靭な顎と脚力強化を使い、巣のために働いた。
多くの食料を運んだ。
危険から逃れた。
仲間を助けた。
大きな敵と無理に戦うことなく、巣の活動を支え続けた。
目立つ戦果はなくても、その積み重ねが技能点として認められたらしい。
『次の生を選択してください』
白い文字が切り替わった。
――――――――――
【同一種族への転生】
働き蟻
保有SPを使用して技能を取得できます。
【種族進化】
蜘蛛 必要EP:8
ムカデ 必要EP:10
カブトムシ 必要EP:12
――――――――――
再び働き蟻として生まれることもできる。
保有しているSPは6。
以前、取得を見送った感覚器官強化も、今なら手に入れられる。
匂いや振動をより正確に捉えられれば、危険へ足を踏み入れる可能性は減る。
強靭な顎。
脚力強化。
感覚器官強化。
三つの技能を持つ働き蟻になれば、これまで以上に巣へ貢献できるだろう。
さらに経験を積み、もっと多くのEPを得られるかもしれない。
だが、自分の意識は一つの選択肢から動かなかった。
カブトムシ。
硬い甲殻。
大きな身体。
強い力。
蟻として生きた4度の生で、何度も小さな身体の限界を見てきた。
鳥にさらわれる仲間。
雨に流される仲間。
大きな虫の一歩で踏み潰される仲間。
群れでなければ、大きな敵へ立ち向かうこともできない。
働き蟻として生きることが嫌だったわけではない。
巣のために働く日々には、確かな充足があった。
仲間とともに生き、役目を果たし、寿命を迎えた。
それも一つの完成した生き方なのだと思う。
だが、自分は先へ進まなければならない。
なぜ転生を繰り返しているのか。
じいちゃんは、なぜ山へ入ったまま帰ってこなかったのか。
山の奥には何がいるのか。
その答えを知るためには、蟻とは違う生き物になる必要がある。
『種族進化を選択した場合、保有EPを消費します』
『未使用のSPは失われます』
せっかく手に入れたSPは6。
感覚器官強化を取得できるだけの技能点がある。
だが、カブトムシを選べば、そのSPは失われる。
また0から始めることになる。
少しだけ迷った。
あと一度、蟻として生きてもいい。
感覚を強化し、さらに多くの経験を積んでから進化しても遅くはない。
だが、次も無事に寿命を迎えられる保証はない。
鳥に食べられるかもしれない。
雨に流されるかもしれない。
再び蟻地獄へ落ちるかもしれない。
大きな敵と戦い、命を落とすかもしれない。
必要なEPは、今ここに揃っている。
進めるときに、先へ進む。
それもまた、山で生きるために必要な判断だった。
「カブトムシに進化する」
『確認します』
――――――――――
【進化先】
カブトムシ
【消費EP】
12
【失効SP】
6
【継承技能】
強靭な顎 Lv.2
脚力強化 Lv.1
――――――――――
『カブトムシへの種族進化を実行しますか』
「実行する」
返事に迷いはなかった。
『EPを12消費します』
『未使用SPを破棄します』
――――――――――
【現在の保有値】
EP:0
SP:0
――――――――――
積み重ねてきたEPが消えた。
せっかく得たSPも0になった。
それでも、後悔はなかった。
これまでとは違う身体。
違う生き方。
蟻ではたどり着けなかった場所へ進むための、新たな一歩だった。
『種族進化の条件を満たしました』
『進化先――カブトムシ』
『初回の種族進化を確認』
感情のない声が、そこでわずかに間を置いた。
『山の記憶を解放します』
「山の、記憶?」
問い返した直後、暗闇が消えた。
◇
冷たい風が吹いていた。
湿った土の匂い。
風に揺れる木々の音。
遠くから聞こえる、低い獣の鳴き声。
目の前に広がっていたのは、山の入口だった。
まだ陽は落ちていない。
だが、山道の奥にはすでに薄暗い影が満ちている。
道の脇には古びた石碑が立ち、その表面を苔が覆っていた。
自分は、その光景をどこか高い場所から眺めていた。
身体はない。
声を出すこともできない。
ただ、かつて起きた出来事を見せられている。
山道の手前に、三人の男が立っていた。
全員が猟師の格好をしている。
使い込まれた猟銃。
腰に下げた鉈。
泥に汚れた長靴。
その中の一人を見た瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。
大きな背中。
節くれ立った手。
猟銃の油と、土の混じった匂い。
顔は見えているはずなのに、霧がかかったようにはっきりしない。
それでも分かった。
「じいちゃん……」
声は届かない。
じいちゃんは猟銃を背負い直し、山道へ足を向けていた。
「本気で行くつもりか」
仲間の猟師が、その肩をつかんだ。
「もう夕方になる。今から入ったら、戻る頃には真っ暗だぞ」
「戻るつもりはねえ」
じいちゃんは静かに答えた。
仲間の手が止まる。
「何を言っとる」
「言ったとおりだ。俺一人で行く」
「一人でって、お前……ヌシ様のところまで行くつもりか」
その言葉を聞いた瞬間、周囲の空気が変わった。
もう一人の猟師が、慌てて周囲を見回す。
「馬鹿。山の前で、その名を軽々しく口にするな」
「だが、こいつは本気だぞ」
二人の視線が、じいちゃんへ向けられる。
じいちゃんは何も言わなかった。
沈黙が、答えになっていた。
「やめておけ」
年嵩の猟師が、低い声で言った。
「あれは昔話だ。山の奥に願いを叶えるヌシ様がいるなんて、子どもに聞かせる話だろう」
「お前だって、山で長く生きてきた人間だ。分かっとるはずだ」
じいちゃんが答えた。
「あの話が、ただの昔話じゃないことくらい」
「だからこそ、やめろと言っとる」
年嵩の猟師は、じいちゃんの前へ立ち塞がった。
「願いを叶えてもらったなんて話は、一つも残っとらん」
「山へ入ったまま帰ってこんかった者の話なら、いくらでもある」
「何を要求されるかも分からんのだぞ」
じいちゃんは、しばらく黙って山の奥を見つめていた。
木々の隙間から吹いてきた風が、白くなった髪を揺らす。
「孫がな」
やがて、じいちゃんが口を開いた。
「もう長くないそうだ」
誰も言葉を返さなかった。
風の音だけが、山道を通り抜けていく。
「あんなに小さい頃から、ずっと病院と家の往復だ」
「山へ連れてきてやっても、自分の足じゃほとんど歩けん」
「それでも、山が好きだと言うんだ」
じいちゃんの手が、強く握られた。
「元気になったら、俺と一緒に山を走り回るんだとな」
胸の奥に、何かが突き刺さった。
自分は、その言葉を知っている。
病の身体で布団に横たわりながら、何度も願った。
じいちゃんと一緒に歩きたい。
もっと山の奥へ行ってみたい。
自分の足で走ってみたい。
「医者が無理だと言ったからって、諦められるか」
じいちゃんは山へ向き直った。
「他に方法がないなら、昔話でも化け物でも、何にだってすがる」
「待て」
仲間の猟師が、再び腕をつかむ。
「だったら俺たちも行く」
「駄目だ」
じいちゃんは、すぐにその手を振り払った。
「これは俺の願いだ」
「お前たちの命まで巻き込むわけにはいかん」
「一人で行けば、途中で何かあっても助けられんぞ」
「この山で、俺より長く歩ける奴がいるか」
じいちゃんは笑った。
いつも自分へ向けていた、穏やかな笑い方だった。
だが、その顔には深い疲れが刻まれていた。
「それに、帰ってこられんと決まったわけじゃない」
「帰るつもりはないと、さっき言っただろうが」
「帰ることより、大事なものがあるという意味だ」
じいちゃんは、肩にかけた猟銃の位置を直した。
腰には鉈。
背中には小さな荷物。
その姿は、普段の猟へ向かうときと何も変わらない。
だが、仲間たちは誰も道を譲ろうとしなかった。
「どうしても行くのか」
「ああ」
「孫のために、命まで捨てるつもりか」
じいちゃんは答えなかった。
ただ、山道の奥を見つめた。
その沈黙を前に、猟師たちは少しずつ道を開けた。
年嵩の猟師が、懐から小さな包みを取り出す。
「持っていけ」
「塩と火口だ。山の奥じゃ、何があるか分からん」
「悪いな」
「礼なんかいらん」
包みを受け取ったじいちゃんの腕を、男は強くつかんだ。
「必ず戻れ」
じいちゃんは少しだけ目を伏せた。
それから、男の手へ自分の手を重ねる。
「孫を、頼む」
「自分で面倒を見ろ」
「……そうだな」
じいちゃんは笑った。
今度の笑顔は、先ほどよりも寂しそうに見えた。
そして、一人で山道を歩き始めた。
「おい!」
背後から声が飛ぶ。
じいちゃんは立ち止まったが、振り返らなかった。
「ヌシ様に会えたとしても、言葉には気をつけろ!」
「山のものは、人の願いを人の思うようには聞かんぞ!」
風が強く吹いた。
木々が大きく揺れ、枝葉の音が言葉の続きをかき消す。
じいちゃんは片手を上げた。
分かっている。
そう伝えるような仕草だった。
やがて、その背中は木々の間へ消えていった。
誰も追わなかった。
猟師たちは、じいちゃんが消えた暗い山道を見つめ続けていた。
それが、仲間たちが見たじいちゃんの最後の姿だった。
◇
景色が砕けた。
山も。
猟師たちも。
木々の間へ消えたじいちゃんの背中も。
無数の光の欠片となり、暗闇へ溶けていく。
「待ってくれ」
じいちゃんが山へ入った。
自分のために。
ヌシへ願うために。
その先で何が起きたのか。
願いは叶ったのか。
じいちゃんは、どうなったのか。
「続きを見せてくれ!」
声は何も答えなかった。
『山の記憶――第一片の再生を終了しました』
「第一片……?」
『種族進化を継続します』
「まだ、続きがあるんだな」
『回答できません』
「じいちゃんは、ヌシに会えたのか」
『回答できません』
「俺が転生していることと、関係があるのか」
『回答できません』
感情のない返答だけが繰り返される。
だが、もう偶然だとは思えなかった。
じいちゃんは、自分の病を治すために山へ入った。
自分は人間として死に、その後、何度も健康な身体へ転生している。
そこには、何かつながりがある。
けれど、その答えへ手を伸ばすより先に、白い光が暗闇へ広がり始めた。
『種族進化を開始します』
『進化先――カブトムシ』
光が意識を包み込む。
人間だった記憶。
蟻として過ごした4度の生。
カブトムシを選んだ理由。
そして、今見たじいちゃんの最後の背中。
そのすべてが、少しずつ遠ざかっていく。
「忘れたくない」
必死に記憶へしがみつく。
だが、この場所で思い出したことは、次の生へ持ち越せない。
じいちゃんが自分のために山へ入ったという事実も、光の中へ飲み込まれていく。
最後まで残ったのは、木々の間へ消えていく大きな背中だった。
追いかけなければならない。
なぜか、そう思った。
その理由さえ失われ、意識が途切れた。
◇
暗い。
だが、蟻の巣の暗闇とは違う。
身体を包んでいるのは、湿った土と、腐りかけた木の匂いだった。
身体が重い。
長い。
そして、柔らかい。
動こうとすると、太く短い足が土を掻いた。
自分が何者なのか、その生き物はまだ知らない。
硬い角もない。
黒く輝く甲殻もない。
今の身体は白く、丸く、地中で朽木を食べるだけの幼虫だった。
それでも、土の奥から伝わってくる遠い振動へ、なぜか懐かしさを覚えた。
誰かの足音。
木々の間を遠ざかっていく、大きな背中。
それが何なのかは分からない。
幼虫は土を掻き、目の前の朽木へ顎を立てた。
蟻ではない。
カブトムシとしての、最初の生が始まった。
ここまでが第1章になります。
第2章はカブトムシとして主人公が何を学ぶのかご期待ください。




