1-3.蟻地獄
硬く固まった土へ、顎を食い込ませる。
力を込めると、乾いた音とともに土の塊へ亀裂が走った。
何匹もの働き蟻が少しずつ削っていた塊が、一度の噛みつきで大きく崩れ落ちる。
周囲の仲間たちが、一斉に触角を向けてきた。
異常なし。
運べ。
巣を広げろ。
崩れた土を顎で挟む。
他の働き蟻なら数匹で運ぶほどの大きさだったが、難なく持ち上げることができた。
6本の足で地面を踏みしめ、そのまま通路を進む。
なぜ自分の顎が、他の仲間よりも強いのかは分からない。
生まれたときから、そうだった。
硬い土を砕くことができる。
大きな食料を切り分けられる。
重い物を運ぶこともできる。
それを不思議に思うことはなかった。
足が6本あることと同じだ。
触角で匂いを感じることと同じだ。
自分にとって、この顎は初めから備わっていた身体の一部だった。
自分は働き蟻だ。
巣のために働く。
女王を守る。
幼虫を育てる。
身体が動かなくなるまで、それを続ける。
それだけでよかった。
◇
強い顎を持っていたことで、自分に与えられる仕事は、他の働き蟻とは少しずつ違うものになっていった。
初めは巣の中で、硬い土を削っていた。
他の仲間では崩せない塊へ噛みつき、新しい通路を開いた。
太い木の根が進路を塞いでいれば、その表面を何度も削った。
完全に噛み切ることはできなくても、仲間が通れるだけの隙間を作ることはできた。
巣の中で大きな石が見つかれば、その周囲の土を掘り崩し、仲間たちと協力して外へ運び出した。
やがて、自分は食料を運ぶ仕事にも加わるようになった。
仲間が見つけた虫の死骸へ顎を立てる。
硬い殻の隙間へ噛みつき、脚や羽を切り離す。
他の働き蟻では運べない大きさの肉片も、自分なら持ち上げることができた。
一度に多く運べば、それだけ早く食料を巣へ持ち帰れる。
幼虫へ与えられる食料が増える。
新しい働き蟻が育つ。
巣が大きくなる。
自分の強い顎は、確かに巣の役に立っていた。
仲間たちは、自分を特別扱いしなかった。
名前を付けることもない。
感謝を伝えることもない。
ただ、硬い物を見つければ、自分へ匂いを送った。
切り分けろ。
運べ。
道を開け。
その命令に従い、自分は顎を動かした。
それで十分だった。
巣が広がるにつれ、必要となる食料も増えていった。
巣穴の近くにある餌だけでは足りなくなった。
探索へ出る働き蟻たちは、以前より遠くまで歩くようになった。
自分も、食料を探す列へ加わった。
初めは、巣穴の周囲に広がる草むらを歩いた。
葉から落ちた小さな種。
鳥が食べ残した木の実。
死んだ芋虫。
獣の糞に残された、消化されていない欠片。
食料を見つければ、地面へ匂いを残す。
巣へ続く道を作り、仲間を呼び寄せる。
大きな獲物なら、自分が顎で切り分ける。
小さな獲物なら、そのまま持ち帰る。
自分は、他の働き蟻よりも遠くまで歩くようになった。
顎が強ければ、一度に運べる食料が多い。
大きな肉片を持ったままでも、長い距離を進むことができた。
遠い餌場へ向かったとしても、食料を巣へ持ち帰るだけの力があった。
少しずつ、活動する範囲が広がっていった。
巣穴の匂いが薄くなる場所。
仲間の足跡がほとんど残っていない場所。
見たことのない形の草が生えている場所。
初めて嗅ぐ虫の匂いが漂う場所。
知らない場所へ進むことに、恐怖はなかった。
食料を探す。
見つけたら持ち帰る。
それが役目だった。
危険な匂いを感じれば、進路を変えた。
鳥の影が地面を横切れば、葉の裏へ隠れた。
大きな獣の振動を感じれば、小石の隙間へ潜り込んだ。
別の巣の蟻と出会えば顎を開いた。
相手が一匹なら追い払った。
数が多ければ退いた。
強い顎は、戦うときにも役立った。
別の巣の蟻が食料を奪おうとしたとき、その脚へ噛みついた。
顎を閉じる。
硬い殻が割れる感触が伝わってきた。
相手は警戒の匂いを撒き散らしながら逃げていった。
追いかけることはしなかった。
敵を倒すことが役目ではない。
食料を巣へ運ぶことが役目だ。
自分は落ちていた肉片を拾い、仲間の列へ戻った。
そのようなことを、何度も繰り返した。
大きな食料を切り分けた。
仲間を襲う敵へ噛みついた。
崩れた道を顎で掘り直した。
巣から遠く離れた場所まで歩いた。
自分の強い顎は、巣の活動範囲を広げていった。
自分が歩いたあとに、匂いの道ができる。
その道を仲間たちがたどる。
仲間が食料を運ぶ。
やがて、その場所は巣の新たな餌場となった。
それでも自分は、何か特別なことを成し遂げているとは思わなかった。
ただ働いているだけだった。
◇
ある日、自分は一匹で食料を探していた。
これまで仲間がほとんど足を踏み入れていない場所だった。
巣から続く匂いは、すでに薄くなっている。
周囲に仲間の姿はない。
地面は乾いていた。
細かな砂が積もり、足を置くたびにわずかに崩れる。
草は少なく、陽の光が地面へ直接降り注いでいた。
食料の匂いはない。
それでも、自分は先へ進んだ。
もう少し歩けば、何か見つかるかもしれない。
木の実。
虫の死骸。
甘い汁。
食べられるものなら何でもいい。
小石の間を抜ける。
枯れた葉の下を探る。
砂の上に残された、わずかな匂いを追う。
前方に、すり鉢のように窪んだ場所があった。
細かな砂が円形に積もり、中央へ向かって斜面になっている。
その形を見ても、危険だとは感じなかった。
獣の匂いはしない。
鳥の影もない。
別の蟻が残した警戒の匂いもない。
ただの窪み。
そう判断した。
斜面の縁へ足を踏み入れる。
砂が足元で崩れた。
身体が傾く。
すぐに足を踏ん張った。
しかし、踏み込んだ砂はさらに崩れた。
身体が斜面を滑り始める。
6本の足を動かし、上へ向かって走った。
一歩進む。
その足元から、また砂が流れ落ちる。
身体は進んだ距離以上に、中央へ引き戻された。
危険。
登れ。
ここから出ろ。
本能が強い警告を発する。
自分は顎を開き、砂へ噛みついた。
だが、細かな粒は顎の間からこぼれ落ちる。
硬い土なら砕ける。
木の根なら削れる。
敵の殻なら傷つけられる。
しかし、形を持たない砂を噛み砕くことはできなかった。
もう一度、斜面を登る。
足を動かすたび、砂が崩れる。
少しずつ中央へ近づいていく。
突然、下から砂が飛んできた。
無数の粒が身体へぶつかる。
衝撃で足が浮き、さらに斜面を滑り落ちた。
自分はすぐに向きを変え、再び上へ走った。
また砂が飛んでくる。
今度は頭へ直撃した。
身体が転がった。
足が空を掻く。
触角へ砂がまとわりつき、周囲の匂いが分からなくなる。
何かがいる。
この窪みは、ただの地形ではない。
敵が作った罠。
そのことを理解したときには、すでに中央近くまで滑り落ちていた。
砂の底が動いた。
地面の下から、大きな顎が現れた。
自分の身体よりも、はるかに太い。
内側へ曲がった、鎌のような顎。
その奥から、平たく大きな頭が姿を見せる。
ウスバカゲロウの幼虫。
蟻地獄。
その名前が、頭の中へ浮かんだ。
なぜ知っているのかは分からない。
生まれてから、この生き物を見たことはない。
仲間から匂いで教えられたこともない。
それでも、知っていた。
砂の中に身を隠す。
すり鉢状の罠を作る。
落ちてきた蟻や小さな虫を、大きな顎で捕らえる。
自分は、餌だった。
大顎が迫る。
横へ跳んだ。
顎の先が、身体のすぐそばで閉じる。
砂が弾けた。
自分も顎を開く。
硬い土を砕き、別の蟻の殻を傷つける力。
敵の頭へ噛みつこうとする。
しかし、相手は砂の中へ身体を引いた。
自分の顎は空を切った。
すぐに斜面へ向かう。
逃げなければならない。
一歩進むたび、砂が崩れる。
後ろから、また砂を浴びせられた。
身体が中央へ押し戻される。
大顎が砂の下から伸びてきた。
今度は避けきれなかった。
身体の後ろ側を挟まれる。
硬い顎が腹へ食い込んだ。
痛みが身体を駆け抜ける。
6本の足を激しく動かす。
身体をひねる。
自分も敵の顎へ噛みついた。
力を込める。
硬い。
だが、傷つけられないほどではない。
敵の大顎の表面へ、自分の顎が食い込む。
ウスバカゲロウの幼虫の身体が動いた。
一瞬だけ、挟む力が緩んだ。
自分は身体を引き抜こうとした。
前足で砂を掻く。
斜面へ向かって進む。
あと少し。
顎から抜け出せる。
だが、次の瞬間。
敵の大顎が、さらに深く身体へ食い込んだ。
腹の殻が割れた。
足から力が抜ける。
それでも、自分の顎は敵から離れなかった。
噛め。
敵を退けろ。
生きろ。
本能に従い、残る力を顎へ込める。
敵の大顎の表面が、わずかに欠けた。
だが、それだけだった。
ウスバカゲロウの幼虫は、自分の身体を砂の中へ引きずり込んでいく。
光が遠ざかる。
細かな砂が身体を覆う。
触角が埋まり、匂いを感じられなくなった。
仲間の匂いも。
巣へ続く道も。
草や木や風の匂いも。
すべてが消えていく。
自分は食料を見つけられなかった。
巣へ帰ることもできなかった。
強い顎があっても、砂の罠から逃げることはできなかった。
これまで多くの食料を運んだ。
硬い土を崩した。
巣の新しい道を開いた。
遠くまで歩いた。
それでも最後は、誰にも知られない場所で、一匹の虫に食べられる。
特別なことではない。
外へ出た働き蟻が、巣へ戻らないことは珍しくなかった。
鳥に食べられる者。
雨に流される者。
獣に踏み潰される者。
別の蟻に殺される者。
そして、砂の底へ引きずり込まれる者。
自分も、その中の一匹になっただけだった。
身体から力が失われていく。
敵へ噛みついていた顎が、ゆっくりと開いた。
最後に頭の奥へ浮かんだのは、大きな背中だった。
誰のものかは分からない。
けれど、懐かしい。
木々の間を歩く背中。
自分を背負っていた、温かく大きな背中。
それが何なのかを思い出す前に、すべての感覚が消えた。
◇
『個体の死亡を確認しました』
感情のない声が響いた。
砂もない。
痛みもない。
身体の感覚もない。
ただ暗い空間に、自分の意識だけが浮かんでいた。
『第2生の記録を集計します』
その声を聞いた瞬間、失われていたものが戻ってきた。
自分が以前、人間だったこと。
16歳で病により死んだこと。
じいちゃんと二人で暮らしていたこと。
最初の生で、働き蟻として1年間生きたこと。
死後の世界で「強靭な顎」を選び、再び働き蟻へ転生したこと。
「そうか」
自分には身体も口もない。
それでも、声を出したように感じた。
「また死んだのか」
今度の死は寿命ではなかった。
遠くまで食料を探しに行き、蟻地獄へ落ちた。
敵の顎へ噛みついた。
だが、逃げることはできなかった。
暗闇の中に、白い文字が浮かび上がる。
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【第2生 集計結果】
種族:蟻
役割:働き蟻
生存期間:274日
死亡原因:ウスバカゲロウ幼虫による捕食
獲得EP:0
獲得SP:5
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【現在の保有値】
EP:1
SP:5
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EPは増えていなかった。
進化点を得るには、一つの生を最後まで生き抜くか、それに代わるだけの成果が必要となる。
今度の自分は、寿命を迎える前に食べられた。
遠くまで歩いた。
多くの食料を運んだ。
硬い土を崩し、新しい道を開いた。
だが、それだけでは進化へ至る経験とは認められなかったらしい。
保有しているEPは、最初の生で得た1のままだった。
代わりに、SPは5増えている。
強靭な顎を使い続けた。
硬い物を砕いた。
大きな食料を切り分けた。
敵の蟻と戦った。
これまで仲間が進んでいなかった場所まで、活動範囲を広げた。
その経験が、技能点となったのだろう。
自分は確かに、最初の生より多くのことをした。
だが、最後は蟻地獄に捕らえられた。
顎が強いだけでは、砂の斜面を登ることはできない。
危険な場所を知らなければ、どれほど強い力を持っていても意味がない。
『次の生を選択してください』
白い文字が切り替わる。
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【転生可能】
働き蟻
【進化可能】
なし
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選べるのは、また働き蟻だけだった。
今度の生では、最初より多く働いた。
活動範囲も広がった。
それでも、進化には届かなかった。
強いだけでは足りない。
長く生きるだけでも足りない。
何かを成し遂げなければならない。
だが、そのことを理解しても、次の生へ記憶は持ち越せない。
技能だけを残し、また何も知らない蟻として生まれる。
そして本能に従い、どこへ向かうのかも分からないまま働き続ける。
『技能を選択してください』
白い文字が再び切り替わった。
保有SPは5。
次の生へ持ち越せる新しい力を、一つ選ぶことができる。
強い顎だけでは、生き残れなかった。
ならば、次に必要なのは――。




