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山のヌシ  作者: つぶつぶみかん
1.働き蟻
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3/28

1-2.最初の死

 あの日からも、自分は働き続けた。


 巣の中では卵を運び、幼虫へ餌を与え、土を掘った。


 外へ出れば、仲間が残した匂いをたどって食料を探した。木の実の欠片や虫の死骸を見つければ、顎で切り分け、巣まで運んだ。


 雨が降れば、崩れた通路を直した。


 水が巣穴へ流れ込めば、卵や幼虫を咥え、より高い場所にある部屋へ移した。


 敵の匂いを感じれば顎を開き、仲間とともに立ちはだかった。


 毎日、同じことの繰り返しだった。


 働く。


 食べる。


 短く休む。


 そして、また働く。


 それを退屈だと思うことはなかった。


 働くことに理由はいらない。


 巣のため。


 女王のため。


 幼虫たちのため。


 身体の奥に刻み込まれた命令に従い、6本の足を動かし続ける。


 それが働き蟻の生き方だった。


 芋虫の死骸を巡り、別の巣の蟻と争ったあの日以来、敵の匂いを嗅ぐことは何度かあった。


 しかし、再び命を懸けて戦うことはなかった。


 餌場で別の群れと出会っても、互いに顎を開き、触角を激しく振るだけだった。


 数の少ない側が退く。


 それでも退かなければ、数匹が噛み合う。


 大抵は、それだけで終わった。


 仲間が命を落とす理由は、敵との戦いだけではなかった。


 地面へ伸びてきた鳥の嘴に、仲間が一匹さらわれた。


 突然降り出した雨に流され、何匹もの仲間が帰ってこなかった。


 地面を歩く大きな獣の足が、仲間たちの列をまとめて踏み潰したこともあった。


 それでも、巣の営みは止まらない。


 一匹が死ねば、別の一匹が仕事を引き継ぐ。


 10匹が死ねば、新しく育った10匹が巣の外へ出る。


 昨日まで触角を交わしていた仲間がいなくなっても、悲しいとは感じなかった。


 巣が残っている。


 女王が生きている。


 新しい卵が産み落とされている。


 それならば、何も問題はない。


 自分も同じだった。


 自分が死んだとしても、別の働き蟻が食料を運ぶ。


 別の働き蟻が幼虫を育てる。


 巣にとって、自分は無数にある手足の一本にすぎない。


 それでよかった。


 そのはずだった。


 けれど、ときおり頭の奥へ、蟻のものではない何かが浮かんだ。


 大きな背中。


 節くれ立った手。


 木々の間を抜けていく風。


 猟銃の油と土が混ざった匂い。


 そして、低く穏やかな声。


 ――山にはな、山の掟がある。


 誰の声なのかは分からない。


 思い出そうとすると、すぐに霧の向こうへ消えてしまう。


 顔も見えない。


 名前も分からない。


 ただ、その声が聞こえると、身体の奥に奇妙な痛みが生まれた。


 蟻の身体には、人間と同じ胸などない。


 それでも確かに、胸の辺りが締めつけられるように感じた。


 その感覚も、仲間と触角を合わせれば消えていった。


 働け。


 運べ。


 掘れ。


 育てろ。


 巣を守れ。


 匂いによる命令に従っている間は、何も考えずに済んだ。


 季節が巡った。


 初め、自分には季節というものが理解できなかった。


 巣の中に朝も夜もない。


 空を見る機会も少ない。


 けれど、土の温度や湿り気は少しずつ変わっていった。


 暖かくなると、外へ出る仲間の数が増えた。


 地上では草が伸び、花の甘い匂いが風に混じった。


 小さな虫たちも増え、食料を見つけられる機会が多くなった。


 巣の中では次々と卵が孵り、白く柔らかな幼虫が身体をくねらせた。


 自分たちは絶え間なく餌を運び続けた。


 やがて、地面を焼くような暑さが訪れた。


 陽の当たる場所では土が熱を持ち、長く歩くだけで6本の足から力が抜けた。


 大粒の雨が降る日も増えた。


 空から落ちてくる一滴の水は、蟻にとって岩のように重い。


 直撃すれば地面へ叩きつけられ、水の流れに巻き込まれれば簡単には戻れない。


 雨が降れば、地面に残した匂いの道も消えた。


 それでも自分たちは働いた。


 雨が止めば外へ出る。


 消えた道を作り直す。


 流された土を運び、壊れた巣穴を修復する。


 暑さが過ぎると、空気が冷たくなっていった。


 草の匂いが弱まり、乾いた葉が地面を覆った。


 外へ出ても、何も見つけられずに戻る日が増えた。


 食料は少なくなった。


 やがて、冷たい空気が巣の奥へまで流れ込むようになった。


 自分たちは地上へ続く通路を土で狭め、巣の深い場所へ集まった。


 動く回数は減った。


 仲間同士で身体を寄せ合い、蓄えていた食料を少しずつ分け合った。


 長い静けさが続いた。


 自分が眠っているのか、起きているのかも分からない。


 暗闇の中でじっとしていると、ときおり地上から大きな振動が伝わってきた。


 土の上を歩く獣の足音。


 風に揺れる木々。


 遠くで崩れる土。


 そのたびに、頭の奥へ声が蘇った。


 ――日暮れ前には、必ず山を降りろ。


 ――山は夜になると、人のものじゃなくなる。


 人。


 自分は、その言葉の意味を知っていた。


 2本の足で立つ、大きな生き物。


 火を使う。


 道具を使う。


 言葉を話す。


 山の外に家を作り、その中で暮らす。


 なぜ自分がそんなことを知っているのかは分からなかった。


 自分は蟻だ。


 生まれてからずっと、この巣で暮らしている。


 人間を間近で見たことなど、一度もない。


 それなのに、人間のことを知っている。


 その理由を考えようとしたが、冷え切った身体では意識を保てなかった。


 思考は途切れ、再び深い暗闇へ沈んでいった。


 次に長く身体を動かしたとき、土は暖かさを取り戻していた。


 地上へ続く通路が開かれる。


 仲間たちが外へ向かい始めた。


 再び草が伸び、花が咲き、虫たちが動き始めていた。


 自分も仲間とともに巣の外へ出た。


 世界は以前と変わらず、巨大だった。


 草は空へ向かって伸び、小石は岩のように転がっている。


 風には無数の匂いが混じり、地面には仲間たちが作った道が続いていた。


 また働ける。


 自分はそう感じた。


 しかし、身体は以前と同じではなかった。


 足が重い。


 顎へ力が入らない。


 仲間たちと同じ速さで歩いているつもりでも、少しずつ列から遅れていく。


 食料を受け取り、しばらく休んでも、力は戻らなかった。


 雨に打たれたわけではない。


 敵に傷つけられたわけでもない。


 食料が足りないわけでもない。


 ただ、身体が古くなっていた。


 終わりが近い。


 そのことが、本能で分かった。


 それでも、働くことをやめようとは思わなかった。


 動けるのなら動く。


 運べるのなら運ぶ。


 それが自分の役目だった。


 ある日、自分は小さな虫の脚を顎で挟み、巣へ向かっていた。


 以前ならば、難なく持ち上げられた重さだった。


 今では、顎を閉じているだけで力を使う。


 一歩進むたび、6本の足が震えた。


 前を歩く仲間との差が、少しずつ開いていく。


 後ろから来た仲間が追いつき、触角で身体へ触れた。


 食料。


 運搬。


 急げ。


 その匂いを受け、自分はもう一度足へ力を込めた。


 あと少し。


 巣穴はすぐそこに見えている。


 食料を巣へ運ぶ。


 幼虫たちへ届ける。


 それが終われば、少し休めばいい。


 一歩。


 もう一歩。


 巣穴の手前で、右の前足が動かなくなった。


 身体が傾いた。


 顎に挟んでいた虫の脚が、地面へ落ちる。


 立ち上がろうとした。


 しかし、残る足にも力が入らない。


 仲間たちは、自分の横を通り過ぎていった。


 一匹が落ちた食料を拾い上げ、そのまま巣の中へ運んでいく。


 それでいい。


 食料は巣へ届く。


 自分が運ぶ必要はない。


 別の仲間が、自分の身体へ触角を当てた。


 生きている。


 しかし、動けない。


 それを確認すると、仲間はすぐに離れていった。


 助けを求めようとは思わなかった。


 仲間も自分を助けようとはしなかった。


 もう働けない蟻へ食料を使うより、育っている幼虫へ与えたほうが巣のためになる。


 当たり前のことだった。


 陽の光が、動かない身体を温めていた。


 風が草を揺らしている。


 すぐそばの巣穴から、仲間たちが絶え間なく出入りしていた。


 自分が倒れていても、巣の営みは何一つ変わらない。


 その光景を眺めながら、初めて思った。


 自分は、死ぬ。


 死ぬ。


 その言葉を知っている。


 命が終わること。


 身体が動かなくなること。


 すべての感覚が消えること。


 そして、自分は以前にも――。


 何かが頭の奥から浮かびかけた。


 白い天井。


 身体を包む柔らかな布。


 息をするたびに胸へ走る痛み。


 誰かを待っていた。


 大きな手をした誰か。


 山へ向かい、帰ってこなかった誰か。


 最後に、自分はその誰かを呼んだ。


 名前は思い出せない。


 顔も見えない。


 それでも、一つの呼び方だけが形になった。


 じいちゃん。


 その瞬間、蟻の身体からすべての力が抜けた。


 光が薄れていく。


 風の匂いが遠ざかる。


 地面を伝う振動も感じなくなった。


 そして、再び暗闇が訪れた。


     ◇


『個体の死亡を確認しました』


 声が聞こえた。


 男とも女とも分からない、抑揚のない声だった。


 周囲は暗い。


 だが、先ほどまでいた土の中とは違う。


 匂いがない。


 風もない。


 地面もない。


 そもそも、自分の身体さえ感じられなかった。


『第1生の記録を集計します』


 声の意味が分かる。


 それ以前に、自分が言葉を理解していることへ、強い違和感を覚えた。


 自分。


 いや、俺。


 そうだ。


 俺は言葉を知っている。


 蟻として生まれる前から知っていた。


『種族――蟻』


『役割――働き蟻』


『生存期間――367日』


『死亡原因――寿命』


 367日。


 1年。


 俺は1年間、蟻として生きていた。


 卵を運び、幼虫を育て、食料を集めた。


 敵の蟻と戦い、冬を越し、寿命を迎えた。


 なぜ蟻として生まれたのかは分からない。


 それでも、自分がもともと蟻ではなかったことだけは理解できた。


 俺は以前、人間だった。


 名前は思い出せない。


 住んでいた家も、顔も分からない。


 だが、16歳で死んだ。


 治らない病を患っていた。


 そして、じいちゃんと二人で暮らしていた。


 すべての記憶が戻ったわけではない。


 じいちゃんの顔も声も、霧の向こうに隠れている。


 それでも、じいちゃんという存在だけは、はっきりと胸の中に残っていた。


『獲得した経験を数値化します』


 暗闇の中に、白い文字が浮かび上がった。


――――――――――


【第1生 集計結果】


 種族:蟻


 役割:働き蟻


 生存期間:367日


 死亡原因:寿命


 獲得EP:1


 獲得SP:3


 達成した特殊条件:なし


 討伐した生物:なし


 獲得した転生先:働き蟻


 獲得した進化先:なし


――――――――――


 文字を見た瞬間、それぞれの意味が頭の中へ流れ込んできた。


 EP。


 進化点。


 より上位の存在へ進化するために必要な力。


 一つの生を最後まで生き抜く。


 より強い生物を倒す。


 過酷な環境を乗り越える。


 種族ごとに定められた条件を達成する。


 そうした経験によって蓄積される。


 俺が得たEPは、1。


 働き蟻として生まれ、その寿命が尽きるまで生きた。


 特別なことは何もしていない。


 それでも、一つの命を最後まで生き抜いたこと自体が、わずかな進化の力となったらしい。


 そして、SP。


 技能点。


 生きている間に得た経験を、技能という形で次の生へ引き継ぐための力。


 特定の行動を繰り返す。


 危機を切り抜ける。


 自分の力で困難へ対処する。


 そうした経験によって得られる。


 声が詳しく説明したわけではなかった。


 ただ文字へ意識を向けただけで、その意味が以前から知っていたことのように頭へ入ってきた。


『次の生を選択してください』


 表示が切り替わった。


――――――――――


【転生】


 働き蟻


【進化】


 選択可能な進化先はありません。


 保有EP:1


――――――――――


 進化先はなかった。


 1年間生き抜いたことで、EPは手に入った。


 だが、それだけでは足りない。


 より上位の生物へ進化するには、必要なEPを蓄えるだけでなく、それぞれに定められた条件を満たさなければならない。


 強い敵を倒したわけではない。


 巣を危機から救ったわけでもない。


 誰も見つけていない土地へ到達したわけでもない。


 ただ働き、寿命まで生きただけだ。


 進化へつながるような出来事は、何も起こらなかった。


 選べる転生先も、働き蟻だけだった。


 また同じ生き物として生まれる。


 同じように巣のために働き、同じように1年を過ごし、同じように死ぬ。


 それでは、何度生まれ変わっても同じことの繰り返しになる。


『保有SPを使用し、技能を獲得できます』


 再び文字が切り替わった。


――――――――――


【獲得可能技能】


 強靭な顎 必要SP:3


――――――――――


 強靭な顎。


 文字へ意識を向けると、技能の情報が流れ込んできた。


 顎の強度と咬合力を高める技能。


 硬い物を噛み砕き、より重い物を運べるようになる。


 生物へ噛みついた際には、より深い傷を与えることができる。


 おそらく、あの戦いから生まれた技能だ。


 芋虫の死骸を巡り、別の巣の蟻と争った。


 硬い殻へ顎を立て、脚の付け根へ噛みついた。


 1年間の蟻生で、はっきりと戦ったのは、あの一度だけだった。


 保有しているSPは3。


 技能の取得に必要なSPも3。


 取得すれば、すべてのSPを失う。


 だが、残したところで次の生が変わるわけではない。


 選べる種族は、また働き蟻。


 同じ身体で生まれるのなら、少しでも強い力を持っていたほうがいい。


「強靭な顎を取得する」


 身体も口もない。


 声を出した感覚もなかった。


 それでも意思は伝わった。


『SPを3消費します』


『技能――強靭な顎を獲得しました』


――――――――――


【保有技能】


 強靭な顎 Lv.1


【保有EP】


 1


【残存SP】


 0


――――――――――


『転生先を選択してください』


 選択肢は一つしかない。


 働き蟻。


 もう一度、6本の足を持つ小さな生き物として生まれる。


 だが、今度は強靭な顎がある。


 硬い物を噛み砕ける。


 重い物を運べる。


 敵と戦うことになっても、以前より有利になる。


 その力があれば、より遠くの餌場へ向かうこともできるかもしれない。


 今まで運べなかった獲物を運び、より強い敵と戦い、新たな経験を得られるかもしれない。


 そうすれば、次こそ進化へ近づける。


「働き蟻に転生する」


『転生先――働き蟻』


『保有技能――強靭な顎を継承します』


 白い文字が消えていく。


 代わりに、最後の表示が浮かび上がった。


『転生処理を開始します』


『なお、この領域で形成された記憶および意思は、次の生へ継承されません』


 その意味を理解するまでに、わずかな間があった。


「待て」


 今ここで知ったことを忘れる。


 EPも。


 SPも。


 進化という仕組みも。


 次は違う生き方をしようと考えたことさえも。


『転生個体へ継承されるものは、獲得済みの技能に限られます』


 それでは、次の自分は何も知らない。


 また本能のまま働き、何の疑問も持たずに寿命を迎えるかもしれない。


 手に入れた力を、進化のために使おうとも思わない。


「それでは、また同じことを――」


『第2生を開始します』


 声は俺の言葉に答えなかった。


 暗闇の中に、白い光が生まれる。


 逃げ場のない光が急速に広がり、意識を飲み込んでいく。


 人間だったこと。


 蟻として1年間生きたこと。


 死後の暗闇で、進化という可能性を知ったこと。


 それらが、指の間からこぼれ落ちる砂のように失われていった。


 最後まで残っていたのは、次こそは違う生き方をしたいという、形のない願いだった。


 だが、その願いさえ光の中へ溶けて消えた。


     ◇


 暗い。


 湿った土の匂いがする。


 狭い通路の中で、6本の足が動き始める。


 自分が以前にも蟻だったことを、その働き蟻は知らなかった。


 死後の世界で何を選んだのかも、なぜ自分の顎が仲間より強いのかも知らない。


 ただ、目の前に硬い土の塊があった。


 何匹もの働き蟻が顎を立て、少しずつ削ろうとしている。


 自分も、その土へ噛みついた。


 硬いはずの塊が、乾いた音を立てて崩れた。


 周囲の仲間たちが触角を向ける。


 自分は崩れた土を顎で挟み、軽々と持ち上げた。


 働け。


 運べ。


 巣を広げろ。


 仲間の匂いに従い、6本の足が暗い通路を進んでいく。


 それが二度目の生であることを知らないまま。


 以前よりも強い顎だけを携えて。


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