1-2.最初の死
あの日からも、自分は働き続けた。
巣の中では卵を運び、幼虫へ餌を与え、土を掘った。
外へ出れば、仲間が残した匂いをたどって食料を探した。木の実の欠片や虫の死骸を見つければ、顎で切り分け、巣まで運んだ。
雨が降れば、崩れた通路を直した。
水が巣穴へ流れ込めば、卵や幼虫を咥え、より高い場所にある部屋へ移した。
敵の匂いを感じれば顎を開き、仲間とともに立ちはだかった。
毎日、同じことの繰り返しだった。
働く。
食べる。
短く休む。
そして、また働く。
それを退屈だと思うことはなかった。
働くことに理由はいらない。
巣のため。
女王のため。
幼虫たちのため。
身体の奥に刻み込まれた命令に従い、6本の足を動かし続ける。
それが働き蟻の生き方だった。
芋虫の死骸を巡り、別の巣の蟻と争ったあの日以来、敵の匂いを嗅ぐことは何度かあった。
しかし、再び命を懸けて戦うことはなかった。
餌場で別の群れと出会っても、互いに顎を開き、触角を激しく振るだけだった。
数の少ない側が退く。
それでも退かなければ、数匹が噛み合う。
大抵は、それだけで終わった。
仲間が命を落とす理由は、敵との戦いだけではなかった。
地面へ伸びてきた鳥の嘴に、仲間が一匹さらわれた。
突然降り出した雨に流され、何匹もの仲間が帰ってこなかった。
地面を歩く大きな獣の足が、仲間たちの列をまとめて踏み潰したこともあった。
それでも、巣の営みは止まらない。
一匹が死ねば、別の一匹が仕事を引き継ぐ。
10匹が死ねば、新しく育った10匹が巣の外へ出る。
昨日まで触角を交わしていた仲間がいなくなっても、悲しいとは感じなかった。
巣が残っている。
女王が生きている。
新しい卵が産み落とされている。
それならば、何も問題はない。
自分も同じだった。
自分が死んだとしても、別の働き蟻が食料を運ぶ。
別の働き蟻が幼虫を育てる。
巣にとって、自分は無数にある手足の一本にすぎない。
それでよかった。
そのはずだった。
けれど、ときおり頭の奥へ、蟻のものではない何かが浮かんだ。
大きな背中。
節くれ立った手。
木々の間を抜けていく風。
猟銃の油と土が混ざった匂い。
そして、低く穏やかな声。
――山にはな、山の掟がある。
誰の声なのかは分からない。
思い出そうとすると、すぐに霧の向こうへ消えてしまう。
顔も見えない。
名前も分からない。
ただ、その声が聞こえると、身体の奥に奇妙な痛みが生まれた。
蟻の身体には、人間と同じ胸などない。
それでも確かに、胸の辺りが締めつけられるように感じた。
その感覚も、仲間と触角を合わせれば消えていった。
働け。
運べ。
掘れ。
育てろ。
巣を守れ。
匂いによる命令に従っている間は、何も考えずに済んだ。
季節が巡った。
初め、自分には季節というものが理解できなかった。
巣の中に朝も夜もない。
空を見る機会も少ない。
けれど、土の温度や湿り気は少しずつ変わっていった。
暖かくなると、外へ出る仲間の数が増えた。
地上では草が伸び、花の甘い匂いが風に混じった。
小さな虫たちも増え、食料を見つけられる機会が多くなった。
巣の中では次々と卵が孵り、白く柔らかな幼虫が身体をくねらせた。
自分たちは絶え間なく餌を運び続けた。
やがて、地面を焼くような暑さが訪れた。
陽の当たる場所では土が熱を持ち、長く歩くだけで6本の足から力が抜けた。
大粒の雨が降る日も増えた。
空から落ちてくる一滴の水は、蟻にとって岩のように重い。
直撃すれば地面へ叩きつけられ、水の流れに巻き込まれれば簡単には戻れない。
雨が降れば、地面に残した匂いの道も消えた。
それでも自分たちは働いた。
雨が止めば外へ出る。
消えた道を作り直す。
流された土を運び、壊れた巣穴を修復する。
暑さが過ぎると、空気が冷たくなっていった。
草の匂いが弱まり、乾いた葉が地面を覆った。
外へ出ても、何も見つけられずに戻る日が増えた。
食料は少なくなった。
やがて、冷たい空気が巣の奥へまで流れ込むようになった。
自分たちは地上へ続く通路を土で狭め、巣の深い場所へ集まった。
動く回数は減った。
仲間同士で身体を寄せ合い、蓄えていた食料を少しずつ分け合った。
長い静けさが続いた。
自分が眠っているのか、起きているのかも分からない。
暗闇の中でじっとしていると、ときおり地上から大きな振動が伝わってきた。
土の上を歩く獣の足音。
風に揺れる木々。
遠くで崩れる土。
そのたびに、頭の奥へ声が蘇った。
――日暮れ前には、必ず山を降りろ。
――山は夜になると、人のものじゃなくなる。
人。
自分は、その言葉の意味を知っていた。
2本の足で立つ、大きな生き物。
火を使う。
道具を使う。
言葉を話す。
山の外に家を作り、その中で暮らす。
なぜ自分がそんなことを知っているのかは分からなかった。
自分は蟻だ。
生まれてからずっと、この巣で暮らしている。
人間を間近で見たことなど、一度もない。
それなのに、人間のことを知っている。
その理由を考えようとしたが、冷え切った身体では意識を保てなかった。
思考は途切れ、再び深い暗闇へ沈んでいった。
次に長く身体を動かしたとき、土は暖かさを取り戻していた。
地上へ続く通路が開かれる。
仲間たちが外へ向かい始めた。
再び草が伸び、花が咲き、虫たちが動き始めていた。
自分も仲間とともに巣の外へ出た。
世界は以前と変わらず、巨大だった。
草は空へ向かって伸び、小石は岩のように転がっている。
風には無数の匂いが混じり、地面には仲間たちが作った道が続いていた。
また働ける。
自分はそう感じた。
しかし、身体は以前と同じではなかった。
足が重い。
顎へ力が入らない。
仲間たちと同じ速さで歩いているつもりでも、少しずつ列から遅れていく。
食料を受け取り、しばらく休んでも、力は戻らなかった。
雨に打たれたわけではない。
敵に傷つけられたわけでもない。
食料が足りないわけでもない。
ただ、身体が古くなっていた。
終わりが近い。
そのことが、本能で分かった。
それでも、働くことをやめようとは思わなかった。
動けるのなら動く。
運べるのなら運ぶ。
それが自分の役目だった。
ある日、自分は小さな虫の脚を顎で挟み、巣へ向かっていた。
以前ならば、難なく持ち上げられた重さだった。
今では、顎を閉じているだけで力を使う。
一歩進むたび、6本の足が震えた。
前を歩く仲間との差が、少しずつ開いていく。
後ろから来た仲間が追いつき、触角で身体へ触れた。
食料。
運搬。
急げ。
その匂いを受け、自分はもう一度足へ力を込めた。
あと少し。
巣穴はすぐそこに見えている。
食料を巣へ運ぶ。
幼虫たちへ届ける。
それが終われば、少し休めばいい。
一歩。
もう一歩。
巣穴の手前で、右の前足が動かなくなった。
身体が傾いた。
顎に挟んでいた虫の脚が、地面へ落ちる。
立ち上がろうとした。
しかし、残る足にも力が入らない。
仲間たちは、自分の横を通り過ぎていった。
一匹が落ちた食料を拾い上げ、そのまま巣の中へ運んでいく。
それでいい。
食料は巣へ届く。
自分が運ぶ必要はない。
別の仲間が、自分の身体へ触角を当てた。
生きている。
しかし、動けない。
それを確認すると、仲間はすぐに離れていった。
助けを求めようとは思わなかった。
仲間も自分を助けようとはしなかった。
もう働けない蟻へ食料を使うより、育っている幼虫へ与えたほうが巣のためになる。
当たり前のことだった。
陽の光が、動かない身体を温めていた。
風が草を揺らしている。
すぐそばの巣穴から、仲間たちが絶え間なく出入りしていた。
自分が倒れていても、巣の営みは何一つ変わらない。
その光景を眺めながら、初めて思った。
自分は、死ぬ。
死ぬ。
その言葉を知っている。
命が終わること。
身体が動かなくなること。
すべての感覚が消えること。
そして、自分は以前にも――。
何かが頭の奥から浮かびかけた。
白い天井。
身体を包む柔らかな布。
息をするたびに胸へ走る痛み。
誰かを待っていた。
大きな手をした誰か。
山へ向かい、帰ってこなかった誰か。
最後に、自分はその誰かを呼んだ。
名前は思い出せない。
顔も見えない。
それでも、一つの呼び方だけが形になった。
じいちゃん。
その瞬間、蟻の身体からすべての力が抜けた。
光が薄れていく。
風の匂いが遠ざかる。
地面を伝う振動も感じなくなった。
そして、再び暗闇が訪れた。
◇
『個体の死亡を確認しました』
声が聞こえた。
男とも女とも分からない、抑揚のない声だった。
周囲は暗い。
だが、先ほどまでいた土の中とは違う。
匂いがない。
風もない。
地面もない。
そもそも、自分の身体さえ感じられなかった。
『第1生の記録を集計します』
声の意味が分かる。
それ以前に、自分が言葉を理解していることへ、強い違和感を覚えた。
自分。
いや、俺。
そうだ。
俺は言葉を知っている。
蟻として生まれる前から知っていた。
『種族――蟻』
『役割――働き蟻』
『生存期間――367日』
『死亡原因――寿命』
367日。
1年。
俺は1年間、蟻として生きていた。
卵を運び、幼虫を育て、食料を集めた。
敵の蟻と戦い、冬を越し、寿命を迎えた。
なぜ蟻として生まれたのかは分からない。
それでも、自分がもともと蟻ではなかったことだけは理解できた。
俺は以前、人間だった。
名前は思い出せない。
住んでいた家も、顔も分からない。
だが、16歳で死んだ。
治らない病を患っていた。
そして、じいちゃんと二人で暮らしていた。
すべての記憶が戻ったわけではない。
じいちゃんの顔も声も、霧の向こうに隠れている。
それでも、じいちゃんという存在だけは、はっきりと胸の中に残っていた。
『獲得した経験を数値化します』
暗闇の中に、白い文字が浮かび上がった。
――――――――――
【第1生 集計結果】
種族:蟻
役割:働き蟻
生存期間:367日
死亡原因:寿命
獲得EP:1
獲得SP:3
達成した特殊条件:なし
討伐した生物:なし
獲得した転生先:働き蟻
獲得した進化先:なし
――――――――――
文字を見た瞬間、それぞれの意味が頭の中へ流れ込んできた。
EP。
進化点。
より上位の存在へ進化するために必要な力。
一つの生を最後まで生き抜く。
より強い生物を倒す。
過酷な環境を乗り越える。
種族ごとに定められた条件を達成する。
そうした経験によって蓄積される。
俺が得たEPは、1。
働き蟻として生まれ、その寿命が尽きるまで生きた。
特別なことは何もしていない。
それでも、一つの命を最後まで生き抜いたこと自体が、わずかな進化の力となったらしい。
そして、SP。
技能点。
生きている間に得た経験を、技能という形で次の生へ引き継ぐための力。
特定の行動を繰り返す。
危機を切り抜ける。
自分の力で困難へ対処する。
そうした経験によって得られる。
声が詳しく説明したわけではなかった。
ただ文字へ意識を向けただけで、その意味が以前から知っていたことのように頭へ入ってきた。
『次の生を選択してください』
表示が切り替わった。
――――――――――
【転生】
働き蟻
【進化】
選択可能な進化先はありません。
保有EP:1
――――――――――
進化先はなかった。
1年間生き抜いたことで、EPは手に入った。
だが、それだけでは足りない。
より上位の生物へ進化するには、必要なEPを蓄えるだけでなく、それぞれに定められた条件を満たさなければならない。
強い敵を倒したわけではない。
巣を危機から救ったわけでもない。
誰も見つけていない土地へ到達したわけでもない。
ただ働き、寿命まで生きただけだ。
進化へつながるような出来事は、何も起こらなかった。
選べる転生先も、働き蟻だけだった。
また同じ生き物として生まれる。
同じように巣のために働き、同じように1年を過ごし、同じように死ぬ。
それでは、何度生まれ変わっても同じことの繰り返しになる。
『保有SPを使用し、技能を獲得できます』
再び文字が切り替わった。
――――――――――
【獲得可能技能】
強靭な顎 必要SP:3
――――――――――
強靭な顎。
文字へ意識を向けると、技能の情報が流れ込んできた。
顎の強度と咬合力を高める技能。
硬い物を噛み砕き、より重い物を運べるようになる。
生物へ噛みついた際には、より深い傷を与えることができる。
おそらく、あの戦いから生まれた技能だ。
芋虫の死骸を巡り、別の巣の蟻と争った。
硬い殻へ顎を立て、脚の付け根へ噛みついた。
1年間の蟻生で、はっきりと戦ったのは、あの一度だけだった。
保有しているSPは3。
技能の取得に必要なSPも3。
取得すれば、すべてのSPを失う。
だが、残したところで次の生が変わるわけではない。
選べる種族は、また働き蟻。
同じ身体で生まれるのなら、少しでも強い力を持っていたほうがいい。
「強靭な顎を取得する」
身体も口もない。
声を出した感覚もなかった。
それでも意思は伝わった。
『SPを3消費します』
『技能――強靭な顎を獲得しました』
――――――――――
【保有技能】
強靭な顎 Lv.1
【保有EP】
1
【残存SP】
0
――――――――――
『転生先を選択してください』
選択肢は一つしかない。
働き蟻。
もう一度、6本の足を持つ小さな生き物として生まれる。
だが、今度は強靭な顎がある。
硬い物を噛み砕ける。
重い物を運べる。
敵と戦うことになっても、以前より有利になる。
その力があれば、より遠くの餌場へ向かうこともできるかもしれない。
今まで運べなかった獲物を運び、より強い敵と戦い、新たな経験を得られるかもしれない。
そうすれば、次こそ進化へ近づける。
「働き蟻に転生する」
『転生先――働き蟻』
『保有技能――強靭な顎を継承します』
白い文字が消えていく。
代わりに、最後の表示が浮かび上がった。
『転生処理を開始します』
『なお、この領域で形成された記憶および意思は、次の生へ継承されません』
その意味を理解するまでに、わずかな間があった。
「待て」
今ここで知ったことを忘れる。
EPも。
SPも。
進化という仕組みも。
次は違う生き方をしようと考えたことさえも。
『転生個体へ継承されるものは、獲得済みの技能に限られます』
それでは、次の自分は何も知らない。
また本能のまま働き、何の疑問も持たずに寿命を迎えるかもしれない。
手に入れた力を、進化のために使おうとも思わない。
「それでは、また同じことを――」
『第2生を開始します』
声は俺の言葉に答えなかった。
暗闇の中に、白い光が生まれる。
逃げ場のない光が急速に広がり、意識を飲み込んでいく。
人間だったこと。
蟻として1年間生きたこと。
死後の暗闇で、進化という可能性を知ったこと。
それらが、指の間からこぼれ落ちる砂のように失われていった。
最後まで残っていたのは、次こそは違う生き方をしたいという、形のない願いだった。
だが、その願いさえ光の中へ溶けて消えた。
◇
暗い。
湿った土の匂いがする。
狭い通路の中で、6本の足が動き始める。
自分が以前にも蟻だったことを、その働き蟻は知らなかった。
死後の世界で何を選んだのかも、なぜ自分の顎が仲間より強いのかも知らない。
ただ、目の前に硬い土の塊があった。
何匹もの働き蟻が顎を立て、少しずつ削ろうとしている。
自分も、その土へ噛みついた。
硬いはずの塊が、乾いた音を立てて崩れた。
周囲の仲間たちが触角を向ける。
自分は崩れた土を顎で挟み、軽々と持ち上げた。
働け。
運べ。
巣を広げろ。
仲間の匂いに従い、6本の足が暗い通路を進んでいく。
それが二度目の生であることを知らないまま。
以前よりも強い顎だけを携えて。




