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山のヌシ  作者: つぶつぶみかん
1.働き蟻
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2/28

1-1.働き蟻

 暗い。


 目を覚まして最初に感じたのは、光のない暗闇だった。


 次に感じたのは、湿った土の匂い。


 そして、自分の身体に絶え間なく触れてくる、無数の何かの気配だった。


 狭い。


 身体のすぐそばに土の壁がある。


 上にも下にも、右にも左にも、逃げ場のないほど土が迫っている。


 それなのに、不思議と息苦しさはなかった。


 怖くもない。


 むしろ、この暗さが落ち着いた。


 ここは安全だ。


 ここは自分のいるべき場所だ。


 理由を考えるより先に、そう分かっていた。


 身体を動かす。


 その瞬間、奇妙な感覚に襲われた。


 足が多い。


 右に三本。


 左に三本。


 六本の細い足が、互いに異なる方向へ伸びている。


 一つずつ動かそうとすると、どの足から前へ出せばいいのか分からない。


 それでも、動かなければならない。


 そう思った途端、身体が勝手に歩き出した。


 右の前足。


 左の中足。


 右の後ろ足。


 残る三本が、それを支える。


 考える必要などなかった。


 歩き方は、初めから身体の中に刻み込まれていた。


 目の前を、黒い影が横切った。


 自分とよく似た姿をしている。


 六本の足。


 細くくびれた身体。


 大きな顎。


 頭から伸びる二本の触角。


 相手の触角が、自分の触角に触れた。


 その瞬間、頭の中へ何かが流れ込んできた。


 仲間。


 異常なし。


 奥へ進め。


 それは声ではなかった。


 言葉でもない。


 微かな匂いと、触角を伝わる振動。


 けれど、その意味は不思議なほどはっきりと理解できた。


 仲間は自分の横を通り過ぎ、暗い通路の向こうへ消えていった。


 自分も進む。


 どこへ向かうのかは分からない。


 それでも、地面や土の壁に残された匂いが、進むべき方向を教えてくれる。


 曲がる。


 下る。


 細い穴をくぐり抜ける。


 別の通路へ合流すると、何匹もの仲間が列を作っていた。


 すれ違うたびに触角を触れ合わせる。


 食料。


 幼虫。


 異常なし。


 女王。


 さまざまな情報が、途切れることなく流れてくる。


 自分には名前がなかった。


 仲間にも名前はない。


 一匹一匹を見分ける必要もなかった。


 同じ匂いを持つ者は仲間。


 違う匂いを持つ者は敵。


 それだけで十分だった。


 通路を抜けると、少し広い空間へ出た。


 土で囲まれた部屋の中に、白い粒がいくつも積み重なっている。


 卵。


 見た瞬間に分かった。


 そのそばには、白く柔らかな身体をしたものが、ゆっくりと身をよじっている。


 幼虫。


 育てるべきもの。


 守るべきもの。


 一匹の仲間が自分へ近づき、触角を強く触れ合わせてきた。


 卵を運べ。


 命令を受けた身体が、すぐに動き出す。


 白い卵を顎で挟む。


 傷つけないよう、慎重に持ち上げる。


 小さな卵は軽かった。


 けれど、自分の身体に比べれば決して小さくない。


 足元を確かめながら、部屋の反対側へ運ぶ。


 そこでは、別の仲間たちが次々と卵を置いていた。


 自分もその隣へ、そっと卵を下ろす。


 なぜ移動させるのかは分からない。


 分からなくても、困ることはなかった。


 こちらのほうが暖かい。


 湿り気も適している。


 だから運ぶ。


 それだけだった。


 もう一度、元の場所へ戻る。


 別の卵を挟み、運ぶ。


 何度も往復した。


 卵を運び終えると、次は幼虫の世話をした。


 幼虫の身体についた汚れを舐め取る。


 身体を持ち上げ、位置を変える。


 腹を空かせて身をよじる幼虫に、食料を与える。


 近くにいた仲間が触角を寄せてきた。


 口同士を触れ合わせる。


 仲間の腹に蓄えられていた液体が、自分の口へ流れ込んできた。


 甘い。


 身体の奥に、力が満ちていく。


 すべてを飲み込むのではなく、一部を腹の中に残す。


 空腹を訴える幼虫へ近づき、今度は自分の口から食料を分け与えた。


 自分が食べる。


 仲間に渡す。


 幼虫を育てる。


 すべてがつながっている。


 一匹だけが満たされればいいのではない。


 巣全体が生きなければならない。


 そのために働く。


 休みたいとは思わなかった。


 苦しいとも思わない。


 働くことは、呼吸をすることと同じだった。


 自分は働き蟻だ。


 巣のために働く。


 女王のために働く。


 次に生まれてくる仲間たちのために働く。


 それが自分のすべてだった。


 巣の中には、朝も夜もなかった。


 明るさは変わらない。


 時計もない。


 それでも、腹が減れば食料を受け取り、仕事があれば働き、身体が動かなくなれば短く休んだ。


 どれほどの時間が過ぎたのか、分からない。


 卵を運んだ。


 幼虫を育てた。


 巣の壁を顎で削った。


 削り取った土を、別の部屋へ運んだ。


 死んだ仲間の身体を巣の外へ運ぶこともあった。


 目の前に横たわる仲間は、もう触角を動かさない。


 同じ匂いはする。


 けれど、そこには命がない。


 悲しいとは思わなかった。


 死骸を巣の中に置けば、病や虫を呼び寄せる。


 だから外へ運ぶ。


 それも、自分たちが生きるために必要な仕事だった。


 死んだ仲間の身体を顎で挟み、通路を進む。


 少しずつ、空気が変わっていった。


 土の湿った匂いに、別の匂いが混じる。


 草。


 木。


 水。


 風。


 外。


 その匂いを感じた瞬間、足が止まりかけた。


 だが、後ろから来た仲間の触角が背に触れる。


 進め。


 列を止めるな。


 身体は再び動き出した。


 通路を進むにつれ、暗闇が薄くなる。


 微かな光が見えた。


 光は徐々に強くなり、ついには目の前が真っ白になった。


 巣穴を抜けた瞬間、眩しさに身体が固まった。


 空から降り注ぐ光。


 身体を撫でる風。


 無数の匂い。


 巣の中とは比べものにならない情報が、二本の触角から一気に流れ込んでくる。


 湿った土。


 乾いた草。


 花の蜜。


 腐りかけた木。


 獣の糞。


 鳥の羽。


 名も知らない虫たち。


 世界は、匂いで埋め尽くされていた。


 足元には、岩のような小石が転がっている。


 草の茎は、自分の何十倍もの高さまで伸びていた。


 葉の上に乗った水滴は、丸く透き通った巨大な塊となって光を反射している。


 あまりにも大きな世界だった。


 自分は顎に挟んでいた仲間の死骸を、巣穴から離れた場所へ運んだ。


 すでに何匹もの死骸が、同じ場所に集められている。


 そこへ死んだ仲間を置く。


 役目は終わった。


 巣へ戻ろうと身体を反転させたとき、前方から仲間が近づいてきた。


 触角が触れる。


 食料。


 発見。


 運搬。


 仲間が来た道には、はっきりとした匂いの筋が残されていた。


 巣へ帰る道とは違う。


 食料へ続く道。


 自分の身体は迷うことなく、その匂いを追い始めた。


 草の根元を回り込み、小石を越える。


 途中で何匹もの仲間と合流した。


 全員が同じ匂いの道をたどっている。


 やがて、白く柔らかな塊が見えてきた。


 小さな芋虫の死骸だった。


 小さいといっても、蟻の身体よりはるかに大きい。


 何匹もの仲間が芋虫に群がり、顎で肉を切り取っていた。


 自分も近づき、柔らかな部分へ顎を立てる。


 噛み切る。


 引っ張る。


 一度では切れない。


 前足で身体を踏ん張り、何度も顎を動かす。


 やがて、小さな肉片が切り離された。


 それを顎で挟み、持ち上げる。


 重い。


 だが、運べないほどではない。


 仲間たちの列へ加わろうとしたとき、風向きが変わった。


 知らない匂いが触角に触れた。


 身体が止まる。


 仲間ではない。


 けれど、まったく知らない生き物の匂いでもなかった。


 自分たちによく似ている。


 よく似ているからこそ、決して見過ごしてはならない。


 敵。


 その意味が、強い警告となって身体を駆け抜けた。


 周囲の仲間たちも一斉に動きを止めた。


 肉を運んでいた者が荷を下ろし、顎を開く。


 一匹が腹を地面へ近づけ、鋭い匂いを放った。


 警戒。


 敵。


 集まれ。


 草の陰から、三匹の蟻が姿を現した。


 自分たちより、少しだけ身体が大きい。


 色も形もよく似ている。


 けれど、匂いが違う。


 別の巣。


 別の女王。


 自分たちと食料を奪い合う存在。


 敵の一匹が芋虫の死骸へ近づく。


 こちらの仲間が、その前へ立ちふさがった。


 両者は顎を開き、触角を激しく動かす。


 ここは自分たちの餌場だ。


 近づくな。


 そんな意思が、匂いと動きから伝わってくる。


 敵も退かない。


 相手の一匹が、芋虫の端へ噛みついた。


 引きずって持ち去ろうとする。


 仲間が飛びかかった。


 二匹の蟻が絡み合い、土の上を転がった。


 敵の顎が仲間の足へ噛みつく。


 仲間も相手の触角へ噛みついた。


 残る二匹の敵が動き出す。


 それを見た瞬間、自分の身体も勝手に走っていた。


 仲間を助ける。


 食料を守る。


 敵を追い払う。


 考える必要はなかった。


 これも働き蟻の仕事だった。


 敵の一匹へ横から飛びかかる。


 顎を相手の腹へ食い込ませようとしたが、硬い殻に弾かれた。


 敵が身体をひねる。


 大きく開かれた顎が、自分の頭を狙って迫ってきた。


 避ける。


 六本の足を動かし、横へ回り込む。


 だが、相手のほうがわずかに大きく、力も強い。


 身体を押され、背中が土へ近づいた。


 このまま倒されれば、首か足を噛み切られる。


 危険。


 逃げろ。


 それでも、自分の顎は相手から離れなかった。


 逃げれば、食料を奪われる。


 仲間が傷つけられる。


 だから戦う。


 相手の顎が、首元へ迫る。


 そのときだった。


 頭の奥に、何かが浮かんだ。


 ――力の強い相手と、正面から押し合うな。


 言葉。


 蟻の匂いではない。


 触角から伝わってきたものでもない。


 誰かの声だった。


 低く、落ち着いた声。


 どこか懐かしい。


 けれど、誰の声なのかは分からない。


 ――相手の力を利用しろ。


 意味を理解するより先に、身体が動いた。


 正面から押し返すのをやめる。


 相手が力を込めた瞬間、その方向へ身体を倒す。


 支えを失った敵の顎が空を切った。


 相手の身体が前へ傾く。


 自分はすぐに横へ回り込み、脚の付け根へ噛みついた。


 殻の継ぎ目。


 硬い身体の中で、わずかに柔らかい場所。


 なぜそこが弱いと分かったのかは分からない。


 ただ、知っていた。


 顎へ力を込める。


 敵の足が激しく跳ねた。


 酸っぱい警戒の匂いが広がる。


 敵は自分を振り払い、後ろへ下がった。


 別の場所で戦っていた二匹も、動きを止める。


 敵の一匹は触角の先を失い、もう一匹は足を引きずっていた。


 こちらの仲間にも、傷を負った者がいる。


 しばらく互いに顎を開き、睨み合う。


 やがて敵の一匹が後退した。


 残る二匹もそれに続き、草の陰へ消えていく。


 仲間の一匹が追おうとしたが、別の仲間が触角をぶつけて止めた。


 深追いするな。


 食料を運べ。


 敵の匂いが薄れていく。


 危険は去った。


 周囲の仲間たちは、すぐに芋虫の解体へ戻った。


 傷ついた仲間も、動ける者は肉を運び始める。


 勝ったことを喜ぶ者はいない。


 敵を憎む者もいない。


 食料を守った。


 ならば、次の仕事をする。


 ただそれだけだった。


 自分も、先ほど切り取った肉片を顎で拾い上げた。


 仲間たちの列へ加わる。


 地面に残された匂いをたどり、巣へ向かう。


 幼虫たちが待っている。


 食料を運ばなければならない。


 それが自分の役目だ。


 それでいい。


 それだけでいいはずだった。


 けれど、巣へ戻る間も、頭の奥に浮かんだ言葉が消えなかった。


 力の強い相手と、正面から押し合うな。


 相手の力を利用しろ。


 自分は、誰からそれを教わったのだろう。


 生まれてから、巣の外へ出たのは今日が初めてだった。


 別の蟻と戦ったこともない。


 それなのに、なぜ戦い方を知っていたのか。


 考えようとする。


 だが、答えは暗い霧の向こうに隠れていた。


 代わりに、ぼんやりとした光景が浮かぶ。


 大きな背中。


 節くれ立った手。


 木々の匂い。


 どこか遠くから聞こえる、低い声。


 ――山にはな、山の掟がある。


 足が止まった。


 後ろを歩く仲間の触角が、肉片を抱えた自分の腹に触れる。


 進め。


 働け。


 食料を運べ。


 その匂いを受けた瞬間、頭の中に浮かんでいた光景は消えた。


 自分の足は再び動き出す。


 暗い巣穴へ入り、仲間たちとともに奥へ進む。


 自分は働き蟻だ。


 巣のために働く。


 女王を守る。


 幼虫を育てる。


 命が尽きるまで、それを続ける。


 そのことに疑問はなかった。


 ただ、暗い通路を歩く間。


 自分でも気づかないほど小さな何かが、頭の奥で目を覚まそうとしていた。


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