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山のヌシ  作者: つぶつぶみかん
プロローグ
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プロローグ.山のヌシ様

 じいちゃんと二人で暮らす家は、山のふもとにあった。


 物心がついたときには、すでに両親はいなかった。


 どうしていないのか、幼い彼には分からなかった。だから彼にとって「家族」といえば、いつも猟銃の油の匂いをまとっている、無口でいて優しいじいちゃんだけだった。


 じいちゃんは猟師だった。


 冬になると山へ入り、ときおり獲物を背負って帰ってくる。


 まだ幼かった彼が「一緒に行きたい」とせがむと、じいちゃんは決まって困ったような顔をした。それでも最後には根負けして、小さな彼を背負い、山へ連れて行ってくれた。


 山へ入るとき、じいちゃんは必ず同じことを言った。


「いいか。山にはな、山の掟がある」


 それは子供だった彼にとって、ほとんど呪文のようなものだった。


 ――必要以上に獲るな。獲った命は、ひとつたりとも無駄にするな。


 ――日暮れ前には、必ず山を降りろ。山は夜になると、人のものじゃなくなる。


 ――道に迷っても、慌てて走るな。風を読み、水の流れる音を探せ。


 ――山の中で名を呼ばれても、決して振り返るな。


 ――山に不平を言うな。山を悪く言った者から順に、山は道を隠す。


 意味も分からないまま頭に叩き込んだそれらの掟を、彼はなぜか一度も忘れたことがなかった。


 山には、人の暮らす場所とは違う決まりがある。


 弱い者には弱い者の生き方があり、強い者にも決して逆らってはならない相手がいる。


 足跡を見れば、どんな獣が通ったのか分かる。


 鳥たちが突然鳴きやんだなら、近くに危険なものがいる。


 赤い実がすべて食べられるとは限らず、澄んだ水がすべて安全とも限らない。


 じいちゃんは、山を歩くたびに一つずつ教えてくれた。


 自分がいなくなっても、彼が生きていけるように。


 けれど彼は、じいちゃんのように山を歩くことができなかった。


 幼い頃から身体が弱く、長い道を歩けばすぐに息を切らした。じいちゃんと山へ入るときも、ほとんどはその広い背中に負ぶわれていた。


 夜になると、二人は囲炉裏の火を挟んで座った。


 ぱちぱちと薪が爆ぜる音を聞きながら、じいちゃんはよく一つの話を聞かせてくれた。


「この山のずっと奥にはな、山のヌシ様がいる」


 姿を見た者は、ほとんどいない。


 獣よりも強く、人よりも賢く、山に生きるすべての命を見守る存在。


 本当に困り果てた者が、たった一人で命を懸け、山の最も深い場所へたどり着いたとき、ヌシ様はその願いを一つだけ叶えてくれるのだという。


「どんな願いでも?」


 幼い彼が尋ねると、じいちゃんは火の向こうで目を細めた。


「ああ。どんな願いでもだ」


「じゃあ、空を飛びたいって願っても?」


「叶えてくれるかもしれんな」


「じいちゃんより強くなりたいって願っても?」


「そいつは難しいかもしれん」


 じいちゃんは口元を緩め、彼の頭を大きな手で撫でた。


 けれど、その話をするとき、じいちゃんは必ず最後にこう付け加えた。


「ただし、タダじゃあねえ。願いには、それに見合うだけの覚悟がいる」


「覚悟って?」


「おまえには、まだ早い」


 じいちゃんはいつも、そこで話を切り上げた。


 彼がその「覚悟」の重さを知ることになるのは、もっと後のことだった。


 自分の身体に、決して治らない病が見つかってからのことだ。


 最初は、ただの風邪だと思っていた。


 熱が下がらず、身体のだるさも消えなかった。


 そのうち、少し歩くだけで息が苦しくなった。朝、寝床から起き上がることさえつらくなった。


 町の病院へ連れて行かれ、もっと大きな病院へ回された。


 何度も血を採られ、見たことのない機械の中へ入れられた。


 難しい言葉を使う医者たちの話を、彼はほとんど理解できなかった。


 ただ一つ、覚えていることがある。


 医者の話を聞いたあと、じいちゃんが一言も喋らなくなった日があった。


 帰り道、じいちゃんは彼の手を強く握っていた。


 痛いほど強く。


 その日から、じいちゃんが山へ入る回数は増えていった。


 以前よりも長く。


 以前よりも深く。


 帰ってくるたびに服は汚れ、顔には新しい傷が増えていた。


「どこまで行ってきたの?」


 彼が尋ねても、じいちゃんは答えなかった。


 ただ、いつものように困った顔で笑い、彼の頭を撫でるだけだった。


 病は少しずつ彼の身体を蝕んでいった。


 学校へ通えなくなった。


 家の外へ出られなくなった。


 やがて、山を眺めるために窓辺へ移動することさえできなくなった。


 十六歳になった年の冬。


 彼がもうほとんど寝床から起き上がれなくなった頃、じいちゃんは珍しく枕元に座り、長いこと黙っていた。


 窓の外では、白い雪が静かに降り続いていた。


 じいちゃんのそばには、山へ入るときに使う大きな背負い袋が置かれていた。


「じいちゃん。また山に行くの?」


 彼が尋ねると、じいちゃんはしばらく答えなかった。


 やがて、深く息を吐き、ぽつりと言った。


「――ヌシ様に、会いに行ってくる」


 彼はじいちゃんの顔を見つめた。


 冗談を言っているようには見えなかった。


「ヌシ様って、本当にいるの?」


「さあな」


「いなかったら?」


「いるところまで探す」


「帰ってくる?」


 じいちゃんは答えなかった。


 代わりに、布団の上に出ていた彼の手を、大きな両手で包んだ。


「なに、心配すんな」


 その手は、山の木の皮のように硬く、囲炉裏の火のように温かかった。


「おまえには、山の掟は叩き込んである」


「でも、俺は山を歩けないよ」


「歩けるさ」


 じいちゃんは、迷いなく言った。


「いつかな」


 そして、いつものように少し困った顔で笑い、彼の頭を撫でた。


 それが、じいちゃんを見た最後になった。


 三日たっても、じいちゃんは帰らなかった。


 一週間たっても、帰らなかった。


 雪がやんでから、村の男たちが山へ入った。


 猟師仲間や消防の人間まで加わり、何日も山中を捜してくれた。


 けれど、じいちゃんの姿は見つからなかった。


 猟銃も。


 背負っていた荷物も。


 着ていた服の切れ端さえも。


 じいちゃんが残した足跡は、山の奥へ進む途中で、まるで最初から何もなかったかのように途切れていた。


 彼はその話を、病室の白い天井を見上げながら聞いた。


 誰かが何度も話しかけていた。


 気の毒に。


 残念だった。


 きっと吹雪で道に迷ったのだ。


 もう生きてはいないだろう。


 けれど彼の耳には、ほとんど届かなかった。


 じいちゃんは、どこへ行ったのだろう。


 ヌシ様に会えたのだろうか。


 願いは叶ったのだろうか。


 そもそも、山のヌシ様など本当にいるのだろうか。


 何も分からないまま、彼の身体は日に日に重くなっていった。


 息をするたびに胸が痛んだ。


 目を開けている時間も、少しずつ短くなった。


 それでも彼は、じいちゃんが帰ってくるのを待ち続けた。


 もしかしたら明日、病室の扉を開けて入ってくるかもしれない。


 いつものように猟銃の油と土の匂いをさせながら、困ったように笑うかもしれない。


 ヌシ様に会えたぞ。


 もう大丈夫だ。


 そう言って、大きな手で頭を撫でてくれるかもしれない。


 けれど、じいちゃんは戻らなかった。


 そして彼の身体も、じいちゃんを待ってはくれなかった。


 最後の夜。


 痛みさえ遠くなり、周囲の音が少しずつ薄れていく中で、彼は一度だけ、声にならない声で呼んだ。


「じいちゃん――」


 返事はなかった。


 代わりに訪れたのは、痛みも音もない、ただ静かな暗闇だった。


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