↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
山のヌシ  作者: つぶつぶみかん
5.最終章
PR
27/28

後日譚.最初の仕事

 生と死の境には。


 朝も。


 夜もない。


 季節も巡らない。


 白い光の中を、無数の魂が流れていく。


 生を終えた者。


 次の命を待つ者。


 前の生へ、強い未練を残す者。


 自分が死んだことさえ、まだ理解していない者。


 それらを見守る神の傍らに。


 一頭の黒い狼が伏せていた。


 かつて、山のすべてを支配していた巨体ではない。


 山を覆った白い霧も。


 獣へ命じる声も。


 人や獣の願いを叶える力も失っている。


 普通の狼ほどの大きさをした。


 旧き山のヌシ。


 長い年月にわたり神の力を宿したその魂は。


 すでに、普通の獣の輪廻へは戻れなかった。


『あなたには、二つの道があります』


 生と死を司る神が告げた。


『力を失った魂のまま、長い眠りにつくか』


『私のもとで学び』


『いつか、自らの神格を得る道を歩むか』


『私に』


 黒い狼は顔を上げた。


『神となる資格があるのですか』


『今はありません』


 神は迷わず答えた。


『だから、見習うのです』


『願いを言葉だけで判断せず』


『その魂が、本当に望んでいるものを聞く』


『力を与える前に』


『その先に何が起きるのかを考える』


『あなたが、長い年月の中で見失ったものです』


 神格見習い。


 権能を持たず。


 願いを叶えることも許されず。


 ただ神の傍らで。


 魂の声を聞く役目。


 いつか神格を得られるという保証はない。


 百年か。


 千年か。


 それ以上の時間を学び続けても。


 神が認めなければ、見習いのまま。


 それでも。


 黒い狼は頭を下げた。


『受け入れます』


『私が聞かなかった願いの数だけ』


『今度は、最後まで聞き続けます』


     ◇


『では』


 神が二つの光を呼び寄せた。


 一つは。


 ところどころ欠けた、人間の魂。


 猟師の姿さえ。


 まだ、はっきりとは形作れていない。


 源一郎。


 もう一つは。


 形すら定まらず。


 白い光の奥で、深い眠りについている狼の魂。


 白尾。


 黒い狼の身体が強張った。


『なぜ』


『この二つの魂を、私に』


『あなたの最初の仕事とします』


 神の声は静かだった。


『私が』


『二人の次の生を決めるのですか』


『違います』


 神の声が、わずかに厳しくなる。


『決めるのは、二人です』


『あなたは』


『二人が再び、自ら選べるようになるまで』


『その傷を癒やす手伝いをします』


『そして』


『目覚めたときに願いを聞き』


『その願いに適した道を探すのです』


『すぐに転生させることは』


『できないのですか』


『できません』


 源一郎の魂は。


 長い年月、旧きヌシの力へ取り込まれていた。


 記憶。


 感情。


 自分が何者であったかという輪郭。


 それらが少しずつ削られ。


 ヌシの力として使われていた。


『源一郎の魂を修復するには』


『現世で、幾年もの時間が必要です』


 白尾の魂は。


 さらに深く傷ついていた。


 残された生命。


 狼としての血。


 山の力へ適応した性質。


 長い生で培った身体の記憶。


 そのすべてを。


 灰色のヌシへ託した。


 神が魂の消滅だけは防いだものの。


 次の命を支えられる状態にはない。


『白尾には』


『源一郎よりも、さらに長い休息が必要です』


 黒い狼は。


 二人の魂を見つめた。


 かつての自分なら。


 強引に形を整え。


 都合のよい器へ押し込んだかもしれない。


 魂が本当に望むものも聞かず。


 願いを叶えたと称して。


 自分が考えた答えを与えたかもしれない。


『待つのです』


 神が告げる。


『二人が』


『自ら次の生を選べるようになるまで』


『どれほど長くても』


『決して急かさず』


『あなたの都合で、目覚めさせてはなりません』


 待つ。


 ただ。


 魂が回復するまで。


 答えを出さず。


 力を使わず。


 自分の罪が軽くなる時を求めず。


 二人が。


 自ら言葉を発する日を待つ。


 それが。


 神格見習いとなった黒い狼へ与えられた。


 最初の学びだった。


     ◇


 現世では。


 季節が巡った。


 白い霧の消えた山に。


 少しずつ緑が戻った。


 細くなっていた沢に、水が流れる。


 枯れていた木々が、新しい芽をつける。


 獣たちが戻り。


 巣を作り。


 子を産んだ。


 麓の人々は。


 灰色の狼を、新しい山のヌシ様として語るようになった。


 かつての巫女も。


 歳を重ねた。


 父から神社を受け継ぎ。


 家族を持ち。


 子を育てた。


 若かった髪に。


 白いものが混じり始めても。


 源一郎の魂は、まだ眠っていた。


 黒い狼は。


 焦らなかった。


 魂から失われかけた記憶を。


 一つずつ拾い集める。


 幼い孫を山へ連れていった日。


 必要以上に獲るなと教えた声。


 山へ入る前に、社へ頭を下げた日。


 病床のそばで。


 苦しむ孫の手を握った夜。


 孫を救うために。


 自分の命を差し出そうとした心。


 かつて踏みにじったものを。


 今度は。


 一つも取りこぼさぬように。


     ◇


 さらに時が流れた。


 かつての巫女が。


 孫を迎える年齢になった頃。


 ようやく。


 源一郎の魂が、長い眠りから目を覚ました。


     ◇


「また会ったな」


 源一郎は。


 目の前に伏せる黒い狼を見て、静かに言った。


 驚きはなかった。


 この狼が、かつての山のヌシであることも。


 力を失い。


 神の傍らにいることも。


 姿を見れば、おおよそ察することができた。


『源一郎』


 黒い狼は立ち上がらなかった。


 地面へ額をつけるほど。


 深く頭を下げる。


『あなたの魂を傷つけました』


『願いを歪め』


『孫へ、幾度もの苦しみを与えました』


『謝って許されることではありません』


「ああ」


 源一郎は、はっきり答えた。


「許したとは言えん」


 黒い狼の耳が伏せられる。


「お前のせいで」


「あの子は、何度も死んだ」


「わしも、孫のもとへ帰れなかった」


「白尾も」


「お前の隣で、長い間苦しんだ」


『はい』


「最後に過ちを認めたからといって」


「それまでにしたことが消えるわけじゃない」


『分かっています』


「山へ力を返し」


「あの子へヌシの座を譲ったことは、わしも見ていた」


 源一郎は。


 黒い狼が最期を迎えたときのことを思い出す。


 巨大な身体から力が抜け。


 一頭の老いた狼へ戻った姿。


 灰色の狼へ。


 山と語る権利を譲った姿。


「お前は最後に」


「自分が間違っていたと認めた」


『あまりにも遅すぎました』


「遅かったな」


 源一郎は否定しなかった。


「だが」


「認めないまま終わるよりは、ずっとよかった」


 黒い狼が。


 わずかに顔を上げる。


「勘違いするな」


「それで許されたと言っているんじゃない」


『はい』


「お前の償いは」


「死んだことで終わったわけじゃない」


『そのために』


『神格見習いとなりました』


「神になるつもりか」


『今の私に』


『その資格はありません』


『願いを言葉だけで判断せず』


『その魂が、本当に求めるものを聞く』


『私は今』


『そのための学びを始めたばかりです』


 源一郎は。


 しばらく黒い狼を見つめた。


「昔のお前なら」


「自分には資格があると言い切っただろうな」


『そうでしょう』


「山を救ったのは自分だから」


「山のすべてを決める権利があると」


『はい』


「今は違うのか」


『違うと』


 黒い狼は答えかけ。


 一度、言葉を止めた。


『自分で言い切ることも』


『まだ、恐ろしいのです』


「なぜだ」


『また』


『自分に都合のよい答えを決めてしまうかもしれない』


『私は変わったと』


『自分だけで判断してしまうかもしれない』


 源一郎は小さく息を吐いた。


「なるほど」


『だから』


『学び続けます』


『神が認めるまで』


『魂の声を聞き』


『間違えたなら、認めます』


     ◇


「それで」


 源一郎は、自分の身体を見下ろした。


 生きていた頃の猟師の姿。


 だが。


 ところどころが淡く透けている。


「わしを起こしたのも、仕事のためか」


『はい』


 黒い狼は正直に答えた。


『あなたの魂は』


『長く私の力へ取り込まれていました』


『記憶も』


『感情も』


『魂の輪郭すら、大きく傷ついていた』


『神とともに』


『長い時間をかけて修復しました』


「それがお前の償いか」


『償いの一つです』


「わしを元へ戻せば」


「お前の罪が軽くなるのか」


『なりません』


 即答だった。


『奪った時間は戻りません』


『あなたが孫と過ごせなかった年月も』


『孫が経験した死も』


『なかったことにはできません』


『それでも』


『私が傷つけた魂を』


『傷ついたまま放置することはできません』


 源一郎は頷いた。


「それならいい」


『怒らないのですか』


「怒っているさ」


 源一郎は答えた。


「だが」


「怒っていることと」


「お前が正しいことをしたと認めることは、別だ」


 黒い狼は何も言えなかった。


「山でも同じだ」


「嫌いな相手の言葉だからといって」


「全部間違っているとは限らん」


「仲間の言葉だからといって」


「全部正しいとも限らん」


「一つずつ」


「自分の頭で考えろ」


『はい』


「もっとも」


 源一郎は、わずかに笑った。


「一匹だけで考えすぎるなとも」


「教えられたばかりだろうがな」


『灰色のヌシにも』


『同じことを言われました』


「そうか」


 源一郎の顔が柔らかくなる。


「あの子らしいな」


     ◇


『源一郎』


 黒い狼は。


 ようやく本来の問いを口にした。


『次に』


『どのような生を望みますか』


「もう一度、人として生きたい」


『健康な身体であればよいのですか』


「それだけでは足りん」


 黒い狼は。


 続きを急かさなかった。


「子どもとして生まれ」


「家族に育てられ」


「笑って」


「泣いて」


「叱られて」


「自分の人生を、最初から歩きたい」


『以前の記憶は』


「なくていい」


『灰色のヌシとの約束も』


「覚えていなくていい」


『よいのですか』


「覚えていなければ会えないと」


「誰が決めた」


 源一郎は笑った。


「あの子とは」


「どんな姿になっても、また見つけると約束した」


「なら」


「記憶がなくても、きっと見つける」


『猟師へ戻ることは望みますか』


「できることならな」


『孫へ会うために』


『山へ入るのですか』


「それだけじゃない」


 源一郎は。


 懐かしそうに目を細めた。


「わしは、山が好きだった」


「木の匂いも」


「沢の音も」


「土に残った足跡を追うことも」


「朝の冷たい空気も」


「全部好きだった」


『山で命を落としたのに』


「山に殺されたわけじゃない」


「自分で選んで、奥へ入った」


「間違いもした」


「自分の命を粗末にもした」


 源一郎は。


 黒い狼を真っすぐ見る。


「だから次は」


「自分の命を大切にしながら」


「山を歩きたい」


「必要な分だけ命をもらい」


「礼を返し」


「山の掟を、次の世代へ伝えたい」


『それが』


『あなたの願いですか』


「ああ」


「誰かを救うためだけの人生じゃない」


「何かを償うためだけの人生でもない」


「今度は」


「わし自身が生きたいから、生きる」


     ◇


 黒い狼は。


 一つの未来を白い空間へ映した。


 山の麓にある神社。


 かつての巫女は歳を重ね。


 白い髪の混じる女性となっている。


 その腕に。


 生まれたばかりの男の子が抱かれていた。


『この家では』


『山の掟が語り継がれています』


『灰色のヌシのことも』


『長い年月、伝えられてきました』


 源一郎は。


 老いた巫女を見つめる。


「あの娘か」


『覚えていますか』


「もちろんだ」


「猿だったあの子へ」


「人の手で御守を渡してくれた巫女だ」


『はい』


「歳を取ったな」


『現世では』


『それだけの時が流れました』


 源一郎は。


 赤子へ視線を移す。


「この子として生まれるのか」


『決めるのは、あなたです』


『健康な身体』


『あなたを愛する家族』


『山の掟を学べる環境』


『灰色のヌシが守る山との縁』


『それらを持つ生です』


「猟師になるとは限らないな」


『はい』


『あなたの望んだ道とは』


『異なる人生を選ぶ可能性もあります』


「それでいい」


『灰色のヌシと』


『出会えない可能性もあります』


「それもいい」


 黒い狼は。


 源一郎の答えを待った。


「決められた未来を生きるために」


「生まれ変わるんじゃない」


「自分で選べる人生を」


「もう一度もらうんだろう」


『はい』


「なら」


「その子が猟師にならなくても」


「山へ入らなくても」


「あの子と会えなくても」


「それは、その子自身が選んだ人生だ」


 源一郎は赤子を見つめる。


「ただ」


「この家なら」


「山のことも」


「あの子のことも」


「きっと教えてもらえる」


『この生を望みますか』


「ああ」


 源一郎は、はっきりと頷いた。


「今度こそ」


「自分の命を生きてみたい」


     ◇


 温かな光が。


 源一郎の魂を包み始める。


『源一郎』


 黒い狼が呼び止める。


『最後に』


『私へ言い残すことはありますか』


「白尾も」


「お前が預かっているんだろう」


『はい』


『あなたよりも深く』


『今も眠っています』


「急かすな」


『決して』


「お前が楽になるために」


「都合のよい生へ送り出すな」


『はい』


「目覚めるまで待って」


「本人の願いを聞け」


『必ず』


「それから」


 源一郎は。


 黒い狼へ厳しい目を向けた。


「償い方まで」


「一匹だけで決めるな」


『どういう意味ですか』


「お前は昔から」


「何もかも自分で決めすぎる」


「山のためだと」


「他の命のためだと言いながら」


「自分の考えだけを正しいと思い込んだ」


『はい』


「自分には幸せになる資格がない」


「永遠に苦しみ続けるべきだ」


「それも」


「お前が一匹で決めることじゃない」


『私が』


『幸せを望んでもよいと?』


「今すぐ許されて」


「何もかも忘れて幸せになれとは言わん」


「償え」


「学べ」


「間違えたら認めろ」


「誰かの声を、最後まで聞け」


「その先で」


「お前を必要とする者が現れたなら」


「その声まで拒むな」


『そのような日が』


『私に来るでしょうか』


「知らん」


 源一郎は笑った。


「まだ来てもいない未来を」


「わしが勝手に決めるわけにはいかんからな」


 黒い狼は。


 深く頭を下げた。


『覚えておきます』


「ああ」


「忘れるな」


     ◇


 源一郎の魂が。


 少しずつ光へ溶けていく。


『私は』


 黒い狼が、最後に告げる。


『あなたへ何も返せていません』


「今、返してもらった」


『まだ』


『何も成し遂げていません』


「わしの願いを」


「最後まで聞いた」


 源一郎は。


 穏やかに黒い狼を見る。


「今度は、間違えなかっただろう」


 黒い狼の目から。


 一筋の光が落ちた。


 涙であることに。


 本人だけが気づいていなかった。


「またな」


『はい』


「次に会ったとき」


「お前がどんな神になっているのか、楽しみにしている」


『まだ』


『神格見習いです』


「なら、励め」


 源一郎の魂は。


 笑いながら光へ溶けた。


 山の麓へ。


 老いた巫女の孫として生まれる。


 新しい命へ向かっていく。


 黒い狼は。


 その光が見えなくなるまで。


 いつまでも頭を下げ続けていた。


     ◇


 源一郎が人として生まれたあとも。


 白尾の魂は眠り続けた。


 一年。


 また一年。


 巫女の孫は。


 家族に愛されて育った。


 歩けるようになり。


 言葉を覚え。


 祖母から山のヌシ様の話を聞いた。


「必要以上に獲ってはいけない」


「命をもらったら、礼を返す」


「日が暮れる前に、山を下りる」


 初めて聞くはずの山の掟を。


 男の子は。


 懐かしいもののように覚えていった。


 灰色のヌシが神社へ御守を返した夜も。


 まだ幼かった。


 狼の姿を直接見ることはできなかったが。


 祖母から何度も話を聞いた。


 やがて。


 少年と呼ばれる年齢になる。


 背丈が伸び。


 山道を歩く体力もついた。


 大人とともに。


 山へ入ることを許されるようになる。


 本格的に猟師を目指し。


 ともに山を歩く猟犬を求め始めた。


 近隣の猟師へ話を聞き。


 何軒ものブリーダーを回った。


 勇敢な犬。


 鼻のよい犬。


 足の速い犬。


 少年へ懐く犬もいた。


 どの犬も。


 立派な猟犬になる素質を持っていた。


 それでも。


 相棒だと思える犬とは出会えなかった。


「会えば、きっと分かる」


 少年は、そう言った。


「こいつと山へ入るんだって」


 まだ見ぬ相棒のために。


 新しい首輪だけを用意して。


 探し続けていた。


     ◇


 その頃。


 生と死の境で。


 白尾の魂が。


 ようやく目を覚ました。


『長く眠っていた』


 白尾は。


 自分の身体を確かめるように立ち上がった。


 白い尾。


 年老いた狼の姿。


 だが。


 生前のような疲労も。


 奪われた力による痛みもない。


『あなたは』


 黒い狼が答える。


『残されたすべてを、灰色のヌシへ譲った』


『新しい命を支えられるまで』


『長い時間が必要でした』


 白尾は周囲を見る。


『あれは』


『山のヌシとして生きています』


『そうか』


 それだけで。


 白尾は安心したようだった。


 黒い狼は。


 彼女の前へ深く頭を下げる。


『白尾』


『何だ』


『私は――』


『謝罪なら、あとにしろ』


 白尾は。


 黒い狼の言葉を遮った。


『今のお前は』


『私の次の生を聞くためにいるのだろう』


『はい』


『ならば、先に仕事をしろ』


 かつてと変わらぬ口調。


 黒い狼の胸に。


 遠い日の記憶が戻る。


 二人で山を走り。


 沢の水を飲み。


 雪の中で身体を寄せた頃。


 まだ。


 どちらも特別な力を持たない。


 普通の狼だった頃。


     ◇


『次に』


 黒い狼は慎重に尋ねた。


『どのような生を望みますか』


『選べるのか』


『はい』


『あなたの魂は』


『長い休息によって、輪廻へ進めるまで回復しました』


『今なら』


『再び狼として生まれる道だけではなく』


『別の獣として生きる道も』


『人間として輪廻する道も選べます』


 白尾の耳が動いた。


『私が、人間に?』


『可能です』


『人の子として生まれ』


『家族に育てられ』


『言葉を話し』


『手を使い』


『人の里で生きることができます』


『健康な身体と』


『あなたを愛する家族のもとへ』


『生まれる道も探せます』


 白尾は。


 すぐには答えなかった。


 人間としての生。


 狼にはない手。


 獣だけでは作れない道具。


 言葉によって。


 自分の考えを正確に伝えられる身体。


 長い年月。


 ヌシの力を分け与えられていた白尾には。


 人間がどのような生き物なのかを考えられるだけの知性があった。


 山を守る者。


 山を荒らす者。


 獣を助ける者。


 獣の命を奪う者。


 猿へ御守を渡した巫女。


 灰色のヌシを育てた源一郎。


 人間にも。


 さまざまな者がいることを知っている。


『人間となれば』


『あの山へ戻ることもできるのか』


『できます』


『山の麓で生まれ』


『人として、灰色のヌシと再会する道もあります』


 黒い狼は、そこで言葉を止めた。


 どの道が優れているとも言わない。


 白尾が何を選ぶべきかも示さない。


 ただ。


 選べる未来を、一つずつ伝える。


『犬として生まれる道もあります』


『人の家族と暮らし』


『一人の人間と信頼を結び』


『ともに山へ入る生です』


『狼として生まれるなら』


『人の手には属さず』


『山の中で、群れの一人として生きることになります』


『いずれの生を選んでも』


『過去の力も』


『ヌシの番としての役目も引き継ぎません』


『誰かの所有物でも』


『眷属でもありません』


『あなた自身の、新しい生です』


     ◇


 白尾は目を閉じた。


 人間として生きる未来を思う。


 温かな家。


 家族。


 言葉。


 人の手。


 道具。


 誰かに思いを伝え。


 聞き返すことのできる生。


 それは。


 決して悪いものではなかった。


 犬として。


 一人の人間と信頼を結び。


 ともに山を歩く未来もある。


 食事を与えられ。


 帰る家を持ち。


 人と獣の間に立つ生。


 どちらも。


 かつての白尾にはなかった未来だった。


 長い沈黙のあと。


 白尾は目を開いた。


『狼がいい』


『理由を聞いても?』


『私は』


 白尾は、自分の四本の脚を見る。


『もう一度』


『この脚で山を走りたい』


『土を踏み』


『風の匂いを嗅ぎ』


『沢の水を、自分の舌で飲みたい』


『人間の言葉を持たなくても』


『物を作る手がなくても』


『私は』


『狼として生きることを』


『不自由だと思ったことはない』


『長い生の終わりだけが』


『私の望んだものではなかった』


 特別な力によって引き延ばされた寿命。


 ヌシの番という立場。


 変わってしまった黒い狼を見捨てられず。


 独りで過ごした長い年月。


『今度は』


『普通の狼として生きたい』


『特別な力は要らぬ』


『長い寿命も』


『神の加護も要らぬ』


『母と兄弟のいる巣で生まれ』


『腹が減れば狩りをし』


『疲れれば眠る』


『自分の命を』


『自分のために生きてみたい』


 黒い狼は。


 白尾の言葉を遮らずに聞いた。


『灰色のヌシには』


『会いたい』


『番としてですか』


『違う』


 白尾は、すぐに否定した。


『あの者の隣に立つために』


『狼を選ぶのではない』


『次に会ったときも』


『仲間に入れてほしい』


『同じ山を走ることができれば』


『それで十分だ』


『もし』


 黒い狼は確認する。


『新しい生で』


『灰色のヌシと出会えなかったとしても?』


『それでも構わぬ』


『狼として生きること自体が』


『私の願いだ』


 再会するためだけの転生ではない。


 誰かの番になるためでも。


 過去をやり直すためでもない。


 狼として。


 新しい生を生きる。


 白尾自身が選んだ未来だった。


『あなたの願いを確認しました』


 黒い狼は頭を下げる。


『家族のもとで生まれ』


『何の力にも縛られず』


『普通の狼として』


『自らの生を歩むこと』


『それが』


『あなたの選択ですね』


『ああ』


 白尾は静かに告げた。


『私は』


『狼として、山へ帰る』


     ◇


 黒い狼は。


 蘇った山に生まれようとしている命を探した。


 強い血を持つ身体ではない。


 最も長く生きられる身体でもない。


 ヌシの近くへ生まれることを。


 第一に選ぶこともしなかった。


 白尾が望んだもの。


 普通の狼として。


 家族の中で。


 何の力にも縛られず。


 自分の生を選べる場所。


 やがて。


 山の奥で。


 一頭の母狼が、新しい命を宿しているのを見つけた。


 蘇った森。


 澄んだ沢。


 十分な獲物。


 母狼は群れに守られ。


 生まれる子には。


 複数の兄弟がいる。


 その中に。


 尾の先が白い身体があった。


『この生は』


 黒い狼は。


 未来の巣穴を白尾へ示した。


『健康な狼として生まれ』


『母と兄弟に囲まれて育ちます』


『特別な力はありません』


『寿命も』


『普通の狼と変わりません』


 白尾は。


 巣穴の未来を長く見つめた。


 母狼の腹へ寄り添う子どもたち。


 兄弟同士で身体を押し合い。


 森の匂いを覚えていく姿。


『悪くない』


『この生を望みますか』


『ああ』


 白尾は頷いた。


『同じ山には』


 黒い狼は続ける。


『人として生まれ変わった源一郎がいます』


『あの猟師も戻ったか』


『今は、少年です』


『猟師を目指し』


『ともに山へ入る相棒を探しています』


 白尾は、わずかに目を細めた。


『私を』


『あの者の猟犬にするつもりか』


『私が決めることではありません』


 黒い狼は答えた。


『あなたは』


『山に生きる狼として生まれます』


『少年と出会うか』


『相棒になるか』


『その後、どのように生きるかは』


『新しい命となった二人が決めることです』


『二人を』


『意図的に引き合わせることもしません』


 白尾は。


 しばらく黒い狼を見つめたあと。


 静かに頷いた。


『それでよい』


     ◇


 白尾の魂が。


 温かな光へ包まれ始める。


『白尾』


 黒い狼が呼びかける。


『何だ』


『すまなかった』


 白尾は。


 すぐには答えなかった。


『その言葉を』


 やがて、静かに告げる。


『次の私へ背負わせるな』


 黒い狼が顔を上げる。


『新しく生まれる私は』


『私ではあっても』


『お前が傷つけた私ではない』


『過去の償いを受け取るために』


『生まれるのではない』


『分かっています』


『ならば』


 白尾は目を細めた。


『遠くから、無事を祈れ』


『はい』


『それと』


 白尾は。


 黒い狼をまっすぐ見た。


『源一郎にも言われたのだろう』


『償い方まで』


『一匹で決めるなと』


『なぜ、それを』


『お前の顔を見れば分かる』


 白尾は小さく息を吐いた。


『昔から』


『考え込むと、同じ顔をする』


『私は』


『神格見習いとして』


『学び続けます』


『そうしろ』


『だが』


『学ぶことと』


『自分を永遠に罰し続けることを』


『同じにするな』


 黒い狼は答えられない。


『お前が何になるかは知らぬ』


『神になれるかも』


『私には分からぬ』


『だが』


『次に誰かの声を聞くときは』


『自分の声も』


『聞き落とすな』


『……覚えておきます』


『ああ』


 白尾の姿が。


 少しずつ光へ溶けていく。


『ではな』


『白尾』


『何だ』


『次の生が』


『あなた自身のものとなることを願います』


 白尾は。


 最後に、わずかに笑った。


『それでよい』


 その魂は。


 蘇った山で生まれる。


 新しい命へ向かっていった。


     ◇


 白尾の魂が山へ送られてから。


 さらに数か月が過ぎた。


 山の奥。


 深い森にある巣穴で。


 尾の先が白い雌の子狼が育っていた。


 生後数か月。


 母や兄弟とともに巣の外へ出て。


 山の匂いを覚え始める頃。


 身体はまだ小さい。


 脚も。


 身体の大きさに慣れていない。


 大人の狼についていこうとして。


 木の根につまずく。


 斜面を駆け下り。


 止まれずに兄弟へぶつかる。


 狩りもできない。


 母が運んできた肉を食べ。


 兄弟とじゃれ合い。


 疲れれば、巣穴で身体を重ねて眠る。


 特別な力はない。


 前の生の記憶もない。


 灰色のヌシとの約束も。


 黒い狼と過ごした長い年月も。


 何一つ覚えていない。


 それでよかった。


 子狼は。


 誰かの番でも。


 旧きヌシの罪を背負う者でもない。


 家族に愛されて育つ。


 一人の新しい命だった。


     ◇


 その頃。


 麓では。


 猟師を目指す少年が。


 まだ見ぬ相棒のために用意した首輪を手にしていた。


 何頭もの犬と会った。


 だが。


 少年を待っている相手は。


 ブリーダーのもとにはいなかった。


 蘇った山の中で。


 母と兄弟に守られながら。


 まだ幼い脚で。


 歩き始めたばかりだった。


 少年は。


 子狼の存在を知らない。


 子狼も。


 少年の存在を知らない。


 今すぐ出会えば。


 まだ互いに相棒とはなれないだろう。


 少年には。


 山の中で命を預かる覚悟が。


 もう少し必要だった。


 子狼には。


 母から山で生きる術を学ぶ時間が必要だった。


 だから。


 出会いは、まだ少し先。


 互いが成長し。


 自分の意思で道を選べるようになったとき。


 二人の道は。


 同じ山のどこかで。


 自然に重なるかもしれない。


     ◇


 白い空間から。


 神格見習いとなった黒い狼は。


 二つの新しい命を見守っていた。


 巫女の孫として生まれ。


 猟師を目指す少年。


 長い眠りから目覚め。


 生後数か月の子狼となった白尾。


 二人の年齢は違う。


 生まれた時も違う。


 それでよかった。


 源一郎の魂が回復したとき。


 巫女は、ようやく孫を迎える年齢になっていた。


 白尾の魂が回復したとき。


 その孫は成長し。


 山へ入る相棒を求め始めていた。


 必要な時間は。


 魂によって異なる。


 誰かの都合に合わせて。


 生まれる時を早める必要はない。


『二人を引き合わせますか』


 神が尋ねた。


 かつての黒い狼なら。


 自分が望む場所へ誘導し。


 運命と称して出会わせただろう。


 源一郎の願いを叶えたと。


 白尾との約束を守ったと。


 自分に都合のよい結果を作ったかもしれない。


 だが。


 黒い狼は首を横へ振った。


『いいえ』


『少年は』


『自分の足で相棒を探しています』


『子狼も』


『自分の脚で、山を歩き始めました』


『ならば』


『出会うかどうかも』


『出会ったあと、何を選ぶかも』


『二人に委ねます』


『その結果』


『二人が別々の道を選んだとしてもですか』


 黒い狼は。


 少しだけ間を置いた。


 少年と子狼が出会い。


 同じ山を歩く未来を。


 望んでいないわけではない。


 源一郎が。


 白尾が。


 灰色のヌシの近くで。


 新しい関係を築く姿。


 それを見たいという気持ちはある。


 だが。


 自分の望みを。


 二人の未来へ押しつけてはならない。


『はい』


『それが』


『二人の選んだ生であるなら』


 神は静かに頷いた。


『それでよいのです』


     ◇


 源一郎の傷ついた魂を癒やし。


 その願いを最後まで聞いて。


 巫女の孫としての生へ送り出したこと。


 さらに長い眠りを必要とした白尾を待ち。


 人間にも。


 犬にもなれることを伝えたうえで。


 本人が望んだ狼として。


 蘇った山へ送り返したこと。


 二人を。


 自分の都合で同時に生まれさせなかったこと。


 二人の再会を。


 自らの力で決めなかったこと。


 それらすべてが。


 旧きヌシに与えられた。


 最初の仕事だった。


 過ちが消えたわけではない。


 奪った時間が戻るわけでもない。


 源一郎と白尾が。


 彼を完全に許したわけでもない。


 それでも。


 かつて願いを歪めた狼は。


 長い年月をかけ。


 二人が自ら願いを語れる日まで待ち。


 その言葉を。


 初めて最後まで聞いた。


     ◇


 神の前へ。


 新たな魂が運ばれてくる。


 小さな鳥。


 生まれて間もなく。


 巣から落ちた命。


 まだ。


 死んだことも理解していない。


『母のところへ帰りたい』


 小さな魂が訴える。


 かつての黒い狼なら。


 母鳥のもとへ戻す方法だけを考えただろう。


 あるいは。


 死んだ者は戻れないと。


 それだけを告げたかもしれない。


 黒い狼は。


 小さな魂の前へ伏せた。


 目の高さを合わせる。


『母のもとへ戻りたいのですか』


『それとも』


『独りで次の場所へ行くことが、怖いのですか』


 小さな鳥は。


 しばらく答えなかった。


 やがて。


『怖い』


 震える声で伝えた。


 黒い狼は。


 その魂の隣へ寄り添った。


『ならば』


『次の生へ行くまで』


『私がここにいます』


 願いを叶える力はない。


 死を取り消すことも。


 失われた命を戻すこともできない。


 それでも。


 心を聞き。


 独りにしないことはできる。


 神格見習いとなった旧きヌシは。


 小さな魂の隣で。


 次の生へ向かう光が訪れるまで。


 静かに座り続けた。


 源一郎を健康な人間へ。


 白尾を自由な狼へ導いたこと。


 それは。


 奪ったものを返したことにはならない。


 犯した過ちが消えたわけでもない。


 ただ。


 永い償いの道を歩き始めた者が。


 最初に正しく聞き届けた。


 二人の願いだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。