番外編.とある記者の記録
少子高齢化。
人口減少。
限界集落。
地方を取材していると、嫌というほど耳にする言葉である。
若者は都市へ流れ。
残された住民は歳を重ね。
学校は統廃合され。
商店は閉まり。
役場の窓口さえ、隣の自治体へ集約されていく。
そうした地域が珍しくない昨今。
全国の流れに逆らうように、人口を増やし続けている場所がある。
山の麓にあった、一つの小さな村。
かつては田畑と数軒の商店しかなかったその村は。
この84年の間に、人口を増やした。
新しい住宅地が造られ。
診療所や学校が整備され。
商店街も広がり。
ついには、村から町へと変わった。
特に目を引くのが。
全国平均を大きく上回る出生率である。
なぜ。
この町では、これほど多くの子どもが生まれているのか。
その理由を調べるため。
私は、町へ向かった。
◇
駅を降りて最初に驚いたのは。
平日の昼間にもかかわらず、子どもの姿が多いことだった。
公園では幼い子どもたちが走り回り。
商店街では、赤ん坊を抱いた母親同士が立ち話をしている。
町立小学校の校庭からは。
大勢の子どもたちの声が聞こえた。
地方の学校と聞いて想像していた。
空き教室ばかりの校舎とは、まるで違う。
町役場で資料を確認すると。
この地域では、若い世帯の転入も増えている。
しかし。
人口増加の中心となっているのは、移住者だけではなかった。
町で暮らす夫婦から生まれる子どもの数そのものが。
周辺地域と比べて、明らかに多い。
「この町へ来ると、子どもができる」
冗談のような言葉を。
取材中、私は何度も耳にした。
◇
「結婚してから、なかなか授からなくて」
商店街で出会った女性は。
ベビーカーを押しながら、そう話した。
「病院にも通っていたんですけど」
「ここの神社へお参りしてから、妊娠したんです」
もちろん。
参拝と妊娠の間に。
医学的な因果関係が証明されているわけではない。
女性自身も。
偶然かもしれないと笑った。
だが。
似たような話をする人は、一人ではなかった。
「一人目も、二人目も」
「神社へお願いしたあとでした」
「知り合いに聞いて、隣の県から来たんです」
「お参りした次の年に、双子を授かりまして」
「諦めかけていた頃に、夢へ黒い犬が出てきたんです」
最後の話だけは。
ほかの証言とは少し違っていた。
詳しく尋ねようとしたが。
話していた女性は、恥ずかしそうに笑うだけだった。
かつては。
山へ入る者が安全を祈るための、小さな神社だったという。
それが今では。
子宝神社として、町の外からも多くの人が訪れる。
町の観光案内にも。
子宝祈願で知られる神社として紹介されていた。
ただし。
神社自身が、参拝すれば子どもを授かると宣伝しているわけではないらしい。
子宝神社という呼び名は。
願いが叶ったと話す人々の口コミによって、自然に広がったものだった。
◇
町が発展した理由は。
子どもの多さだけではない。
田畑では。
米や野菜が豊かに実る。
町の外れには酪農家があり。
牛乳や乳製品の多くが、町の中で消費されている。
さらに。
背後に広がる山からは。
山菜。
木の実。
キノコ。
川魚。
狩猟によって得られる肉。
さまざまな恵みがもたらされる。
町役場によれば。
この地域の食料自給率は、全国的に見ても非常に高いという。
「この町じゃ、食うものには困らないよ」
畑仕事をしていた老人は。
山を見上げながら言った。
「昔は一度、山が死にかけたらしい」
「沢の水も細くなって」
「獣も、人里まで下りてきてな」
「でも」
老人は笑った。
「ヌシ様が代わってから、山は元気になった」
◇
山の恵みは。
採れたものを、そのまま消費するだけではない。
近年、町の新たな特産品として人気を集めているのが。
猟友会の販売するジビエジャーキーだった。
鹿肉と猪肉の二種類。
町の山で捕獲された獣を。
町内の加工場で食品へ変える。
駅前の土産物店や道の駅では。
山を背景にした鹿と猪の絵が描かれた袋が、目立つ場所へ並べられていた。
獣害対策として捕獲した命を。
可能な限り無駄にしない。
売り上げの一部は、罠や設備の整備。
猟師の育成。
山林の環境保全へ還元されるという。
山から命をもらったら。
必ず礼を返す。
取材した町の人々が。
何度も口にした言葉だった。
その教えは。
昔話の中だけに残っているわけではない。
今では町の産業として。
人々の暮らしの中にも受け継がれている。
◇
町には。
山の恵みとは別に、80年以上受け継がれてきた祭りがあった。
商店街を歩いていると。
軒先に同じ絵柄の旗が、何本も掲げられている。
描かれていたのは。
扇を持つ猿と。
その隣で頭を下げる、一人の芸人だった。
『山吹一座 奉納猿まわし』
町の秋祭りに合わせて。
毎年、神社の境内で行われるという。
「ずいぶん長く続いているのですか」
旗を取り付けていた商店主へ尋ねると。
老人は脚立の上から答えた。
「もう80年以上になるよ」
「山吹一座は、昔からこの町の祭りへ来てくれるんだ」
「始まりは?」
「山吉って猿らしい」
「山吉?」
「昔にな」
「一座が山で弱っとった猿を助けたそうだ」
「その猿が、たいそう賢かったらしくてな」
芸を覚え。
人の言葉を理解し。
祭りの日には、神社の前で立派な舞を披露した。
そして最後には。
首につけていた大切な御守りを神社へ返し。
一座の者たちへ頭を下げて、山へ帰っていったという。
「一座は追わなかったのですか」
「山吉が自分で決めたことだからって」
老人は、そう答えた。
「それから毎年」
「山吹一座は、この神社で猿まわしを奉納するようになった」
「山吉が山のどこかで見ていても」
「自分たちは元気にやっとると、分かるようにな」
◇
町の公民館で祭りの準備をしていた山吹一座にも。
話を聞くことができた。
現在の一座を率いるのは。
山吉と旅をした初代座長の孫にあたる、三代目だった。
幼い頃から。
祖父と父に、山吉の話を聞かされて育ったという。
「祖父は山吉を」
三代目は。
舞台道具を確認しながら語った。
「飼っていた猿としてではなく」
「一座の仲間として話していたそうです」
「山へ帰ったのも」
「逃げたのではなく」
「自分のやるべきことを見つけたからだと」
「初代は、また会えると思っていたのでしょうか」
「どうでしょう」
三代目は少し考える。
「祖父が亡くなる前に言っていたそうです」
「山吉には、もう会えなくてもいい」
「ただ」
「山吉が山で元気にしていると信じられれば、それでいいと」
芸の内容は。
時代に合わせて、少しずつ変わっている。
それでも。
舞台の最後だけは、初代の頃から同じだった。
猿が山へ向かって座り。
両手をつき。
深く頭を下げる。
続いて、一座の者たちも頭を下げる。
観客も声を出さず。
同じ山へ、一礼する。
「誰に礼を伝えているのですか」
私が尋ねると。
三代目は山を見た。
「最初は、山吉にだったそうです」
「今は?」
「山吉と」
「山吉が守ろうとしたもの、すべてに」
近くで話を聞いていた子どもが。
口を挟んだ。
「山吉は、まだ山にいるよ」
「そうなの?」
「うん」
子どもは迷いなく頷いた。
「いまは、おおきいおおかみになって」
「お山をまもってるんだって」
隣にいた母親が。
困ったように笑った。
「昔話ですよ」
そう付け加えたが。
子どもの言葉を否定はしなかった。
猿だった山吉が。
今では狼となり、山を守っている。
もちろん。
常識で考えれば、あり得ない話である。
だが。
この町では。
それをただの作り話として笑う者も、あまりいなかった。
◇
ヌシ様。
その言葉も。
町の取材中、何度も耳にした。
「山菜がよく採れるのも、ヌシ様のおかげ」
「沢の水が枯れないのも、ヌシ様のおかげ」
「大雨の前には、カラスや猿が知らせてくれる」
「山で迷うと、灰色の狼が道を教えてくれる」
昔話。
土地の伝承。
そう片づけることもできる。
だが。
町の人々は。
特別なことを語っている様子ではなかった。
天気の話をするように。
今年の作物について話すように。
ヌシ様が山を守っていると、口をそろえて言う。
不思議なのは。
誰も、ヌシ様へ願えば何でも叶うとは言わないことだった。
「お願いするだけじゃ駄目ですよ」
食堂を営む女性は言った。
「自分でできることをしたうえで」
「本当に困ったときに、山へ相談するんです」
「欲張った願いは?」
「聞いてくれません」
「罰が当たる?」
「いいえ」
女性は笑った。
「何も起きないだけです」
◇
街頭での取材を終え。
集めた資料を整理しているうちに。
一つの疑問が残った。
町の発展。
高い出生率。
豊かな食料。
山吹一座に残る、山吉の伝承。
住民たちが語る、山のヌシ様。
それらの中心にあるのが。
町外れの神社だった。
私は記事をまとめる前に。
神社へ正式な取材を申し込んだ。
返事は、すぐに届いた。
ただし。
取材に応じるのは神職ではなく。
神社に住む、一人の青年だという。
◇
約束の日。
私は、町外れの神社を訪れた。
石段を上り。
鳥居をくぐる。
そこで初めて。
境内の脇に立つ、一枚の案内板が目に入った。
そこに書かれていたのは。
子宝祈願の作法でも。
願いを叶えてもらう方法でもない。
山へ入る者が守るべき、いくつかの掟だった。
必要以上に獲らないこと。
持ち帰れる分だけにすること。
山から命をもらったら、礼を返すこと。
日が暮れる前に、山を下りること。
山が急に静かになったら、立ち止まること。
自分の力を過信しないこと。
町の人々が語っていた言葉と。
ほとんど同じものだった。
その案内板の前で。
一人の青年が、私を待っていた。
20歳を少し過ぎたほどだろうか。
若いながら。
すでに狩猟免許を持ち。
町の猟友会にも所属しているという。
青年の手には。
小分けに包装された、何袋ものジャーキーがあった。
袋に描かれているのは。
山を背にした鹿と猪。
その下には。
町猟友会の名前が印刷されている。
「それは、お供え物ですか」
私が尋ねると。
青年は一袋をこちらへ差し出した。
「町の猟友会で作っている、ジビエジャーキーです」
「鹿肉ですか?」
「これは鹿ですね。猪もあります」
青年は袋の裏側を見せる。
「町の山で獲れたものを、町内の加工場で作っています」
「道の駅と、駅前の土産物店で販売しているので」
「記事にも書いてください」
思いがけず。
取材を始める前から宣伝された。
「猟友会の商品なのですね」
「獲った命を、できるだけ無駄にしたくないので」
「肉として売れない部位も」
「加工できるものは活用しています」
「売り上げの一部は」
「罠の整備や、若い猟師の育成」
「山の環境を守る活動へ戻しています」
「味の評判は?」
「僕が言うと宣伝になりますけど」
青年は平然と答える。
「かなりいいです」
「すでに十分、宣伝していますよ」
「では、遠慮なく」
青年は猪肉の袋も差し出した。
「鹿はあっさりしていて」
「猪は脂のうまみがあります」
「両方買って、食べ比べるのがおすすめです」
山から命をもらったら。
礼を返す。
町の人々が口にしていた掟は。
昔話の中だけに残っているわけではなかった。
町の産業として。
今の暮らしの中にも受け継がれている。
「その大量の袋も、取材用の商品ですか」
「いえ」
青年は。
残った袋を抱え直した。
「山にいる相棒のおやつです」
「猟犬ですか?」
「犬ではありません」
「では、何を?」
「それは」
青年は笑った。
「本人に聞かないと、怒られそうなので」
冗談なのか。
本気なのか。
判断できなかった。
◇
青年は。
神社の縁側へ私を案内した。
奥の部屋には。
彼の祖母がいるという。
かつて、この神社の巫女を務め。
長い間。
山の掟を町の人々へ伝えてきた女性。
今では100歳に近く。
普段は寝たきりに近い生活を送り。
言葉を交わすことも少なくなった。
「祖母から、何を教わったのですか」
私が尋ねると。
青年は、一つずつ答えた。
「必要以上に獲らないこと」
「持ち帰れる分だけにすること」
「山から命をもらったら、必ず礼を返すこと」
「日が暮れる前に、山を下りること」
「山が急に静かになったら、立ち止まること」
「自分の力を過信しないこと」
どれも。
境内へ入ったときに見た案内板と、同じ教えだった。
「山吹一座の山吉についても」
「お祖母様から聞いたのですか」
「はい」
青年は頷いた。
「祖母は、山吉に会ったことがあります」
「直接?」
「ええ」
「祖母が16歳の頃です」
私は。
思わず奥の部屋へ目を向けた。
80年以上前。
神社で御守りを返し。
山へ帰っていった猿。
伝承の中だけにいると思っていた山吉を。
この家の奥で休む老女は、実際に見ている。
「どんな猿だったそうですか」
「賢くて」
「少し変わっていて」
「自分が何をすべきか、いつも考えているような猿だったと」
青年は微笑む。
「祖母は今でも」
「奉納猿まわしの日になると、車椅子で境内へ出ます」
「毎年、見ていらっしゃるのですか」
「はい」
「普段は眠っている時間が増えましたが」
「猿まわしの太鼓が鳴ると、目を開けるんです」
猿が扇を掲げれば。
祖母も、わずかに目を細める。
猿が舞台を回れば。
その姿を追うように、ゆっくりと顔を動かす。
そして。
舞台の最後。
猿と一座の者たちが山へ向かって頭を下げると。
祖母も車椅子の上で。
同じ山へ、静かに頭を下げるという。
「山吉を思い出しているのでしょうか」
「たぶん」
青年は頷いた。
「祖母だけは」
「今も、あの舞台のどこに山吉が立っていたのかを覚えています」
「今、舞台に立っている猿を見ているのではなく?」
「今の猿も、ちゃんと見ていますよ」
青年は笑った。
「ただ」
「ときどき、その向こうにいる昔の仲間も」
「一緒に見ているんだと思います」
◇
「この町が豊かなのは」
青年は山を見ながら続ける。
「ヌシ様が、何でも与えてくれるからではありません」
「人間が山のものを獲りすぎず」
「山も、人の暮らしを壊さない」
「その約束が守られているからです」
「子宝神社と呼ばれていることについては?」
「神社が子どもを授けているかは、僕には分かりません」
「ただ」
青年は。
境内の向こうにある町を見た。
「この町では」
「生まれてきた子を、町全体で育てようとします」
「食べるものがあり」
「遊ぶ山があり」
「困れば助けてくれる人がいる」
「子どもを育てやすい町だから」
「結果として、子どもが増えた部分もあると思います」
奇跡だけで。
町が発展したわけではない。
山の恵み。
人々の努力。
命を無駄にしないという掟。
それらが、長い時間をかけて今の町を作った。
青年の話には。
そうした現実的な説得力があった。
「先ほどのジビエジャーキーも、その一つですか」
「そうですね」
青年は、すぐに鹿肉の袋を持ち上げた。
「ちなみに通信販売も始めました」
「まだ記事にはしていません」
「今から書いておいてください」
「販売先の情報は?」
「あとで資料を渡します」
取材へ応じているのか。
営業へ来たのか。
分からなくなってきた。
◇
取材を終え。
私は青年へ礼を伝えた。
青年は。
ジビエジャーキーの袋を持って立ち上がる。
「これから、山へ?」
「はい」
「相棒が待っているので」
「毎日会うのですか」
「会えない日もあります」
「でも」
青年は、山へ続く道を見た。
「行けば会える気がする日は、分かるんです」
どこかで聞いたような言葉だった。
この町では。
会う必要のある者の前へ。
ヌシ様のほうから現れるという。
「相棒も、灰色の狼なのですか」
私が尋ねると。
青年は首を横へ振った。
「灰色のほうは」
「僕の相棒ではありません」
「では」
「山のヌシ様です」
青年は。
当たり前のことを答えるように言った。
◇
境内を出ようとしたとき。
石段の下から、数人の子どもたちが走ってきた。
五歳ほどの男の子と女の子。
それぞれの手には、小さな袋が握られている。
袋に描かれているのは。
先ほど青年から見せてもらったものと同じ、鹿と猪だった。
「こら、はしったらだめだよ」
「だって、おそくなっちゃう」
「くろいわんわん、おしごとにいっちゃうかもしれないよ」
子どもたちは口々に話しながら、拝殿の前へ並んだ。
小さな手を合わせ。
目を閉じる。
そのあと。
賽銭箱の横に置かれた小皿へ。
袋から取り出したジビエジャーキーを、一つずつ供え始めた。
「何をしているの?」
私が尋ねると。
一人の女の子が振り返った。
「ごはんあげるの」
「誰に?」
「くろいわんわん」
「黒い犬?」
「おっきいわんわんだよ」
「まっくろなの」
「でも、こわくないよ」
「めがやさしいもん」
子どもたちは。
誰もが同じ犬を知っているような口ぶりだった。
「どこで会ったの?」
私が尋ねると。
最初の女の子が、自分の胸へ両手を当てた。
「なんでかわかんないけど」
「すっごく、さみしいなってなったことがあるの」
「いつ?」
「ずっとまえ」
「もっと小さい頃?」
「ちがうよ」
女の子は首を横へ振る。
「うまれるまえ」
私は、思わず聞き返した。
「生まれる前?」
「うん」
「まっしろなところにいて」
「だれもいなくて」
「さみしいなっておもったら」
女の子は。
両腕で自分の身体を抱く。
「くろいわんわんが、こうやってくっついてくれたの」
「温かかった?」
「うん」
女の子は笑った。
「それで、こわくなくなった」
◇
「ぼくもあったよ」
男の子が割り込んでくる。
「ぼくはね」
「どのパパとママにしようかなって、なやんでたの」
「選べたの?」
「いっぱいいた」
男の子は、両手を大きく広げた。
「こっちのパパとママもやさしそうで」
「こっちも、ごはんがおいしそうだった」
「ごはんで選んだの?」
「えらんでないよ!」
隣の子に笑われ。
男の子は頬を膨らませる。
「ちゃんとかんがえたもん」
「くろいわんわんと、いっしょに」
「黒い犬が選んでくれたの?」
「ちがうよ」
男の子は、強く首を振った。
「じぶんでえらびなさいって」
「ずっとまっててくれた」
「ぼくが、こっちかなっていうと」
「ほんとうに? ってきくの」
「犬が話したの?」
「おくちじゃないよ」
男の子は。
自分の胸を指差した。
「ここで、わかるの」
◇
「わたしは、ずっときめられなかった」
もう一人の女の子が言った。
「どのパパとママも、よかったの?」
「ううん」
女の子は少し考え。
幼い言葉で説明しようとする。
「どこにいっても」
「ちゃんとできるかわかんなかった」
「いいこになれるかなって」
「パパとママに、すきっていってもらえるかなって」
その声だけが。
ほかの子どもたちより少し小さかった。
「くろいわんわんは、何て言ったの?」
「なんにも」
「ただ、いっしょになやんでくれた」
「決まるまで?」
「うん」
「ぜんぜん、きまらなかったけど」
女の子の顔に、笑顔が戻る。
「そのあいだ、いっしょにあそんでくれたよ」
「何をして遊んだの?」
「おいかけっこ」
「白いところで?」
「うん」
「でも、くろいわんわん、すっごくはやいの」
「ずるいよね」
「わざと、つかまってくれたよ」
子どもたちが笑う。
生まれる前の記憶を語っているはずなのに。
その会話は。
近所の犬と遊んだ思い出を話すように、あまりにも無邪気だった。
◇
「ぼくは、くろいわんわんが連れてきてくれた」
一番小さな男の子が言った。
「どこへ?」
「いまのおうち」
「自分で選ばなかったの?」
「えらんだよ」
男の子は、少し不満そうに答える。
「でも」
「どっちにいけばいいか、わかんなくなったの」
「そしたら、くろいわんわんがまえをあるいて」
「なんかいも、こっち? ってふりかえった」
「それについていったら」
男の子は、うれしそうに笑った。
「ママのおなかにいた」
「お母さんは、その話を知っているの?」
「しってるよ」
「ぼくが、おはなしできるようになってから、おしえた」
「信じてくれた?」
「うん」
「ママも、くろいわんわんにあったことあるから」
◇
「お母さんも?」
「ママはね」
男の子は声を潜める。
秘密を教えるように。
「ぼくがこなくて、ずっとないてたんだって」
「そしたら、ゆめにくろいわんわんがきて」
「まだなやんでるから、まっててっていったの」
「黒い犬が?」
「うん」
「それで、ママがおまいりして」
「もうちょっと、まつねっていったら」
男の子は、自分の胸を叩いた。
「ぼくがきた」
「だから」
小皿に供えたジビエジャーキーを指差す。
「おれい」
◇
「みんな、同じ黒い犬を見たの?」
私が尋ねると。
子どもたちは顔を見合わせた。
「おんなじだよ」
「おっきい」
「まっくろ」
「でも、めはやさしい」
「ちょっとかなしいかおしてる」
「なでると、よろこぶよ」
「くろいわんわんは、何をしているの?」
子どもたちは。
また顔を見合わせる。
その中の一人が。
少しだけ考えてから言った。
「さみしいこを、ひとりにしないおしごと」
「パパとママを、いっしょにさがすおしごと」
「きめられないこを、まつおしごと」
「まいごになったら、つれていくおしごと」
次々と答えが重なる。
最後に。
一番小さな男の子が胸を張った。
「だから、くろいわんわんは」
「いいわんわんなの」
◇
「それは、生まれる前の話なんだね」
私が確かめると。
子どもたちは頷いた。
「今は、もう会えないの?」
「会えるよ」
最初の女の子が。
不思議そうに首を傾げた。
「ゆめにくるもん」
「夢の中へ?」
「うん」
「いつもじゃないけど」
「さみしいときとか」
「おはなししたいときに、きてくれるよ」
「昨日も会ったの?」
「会ったよ」
隣の男の子が。
鹿肉の袋を見せながら言った。
「きょう、これもっていくねって、おしえたの」
「前にも持ってきたことがあるの?」
「あるよ」
「しかと、いのしし」
「どちらが好きなの?」
「しか!」
「いのししもすきだよ」
別の子が、すぐに訂正した。
「きのうのゆめでね」
「まえにあげた、いのししのこと、おしえてくれたの」
そこで女の子は。
急に背筋を伸ばした。
「やはり、やまのめぐみは、ありがたい」
舌足らずな幼い声で紡がれたのは。
五歳ほどの子どもの口から出るには。
あまりにも不釣り合いな言葉だった。
「黒い犬が、そう言ったの?」
「うん」
答えた途端。
女の子は、いつもの幼い調子へ戻る。
「おいしかったんだって」
「そんな話し方をするの?」
「おくちでは、いわないよ」
男の子が自分の胸を指差した。
「ここで、わかるの」
「思ったことが伝わってくるの?」
「そう」
「くろいわんわんのきもちが、はいってくるの」
「ほかには、何か言っていた?」
「えっとね」
女の子は。
記憶を探すように首を傾げた。
そして再び。
誰かの言葉を、そのまま読み上げるような調子で言った。
「これほど、やまのめぐみがあるのであれば」
「あやつは、よいヌシなのだろうな」
「あやつ?」
「はいいろのおおかみ」
「山のヌシ様のこと?」
「うん」
子どもたちは、そろって頷いた。
「お山に、おいしいものがいっぱいあるから」
「ちゃんとまもってるんだって」
「くろいわんわんは、ヌシ様を知っているの?」
「しってるよ」
「むかし、あったことあるって」
「仲がいいの?」
「うーん」
子どもたちは顔を見合わせた。
「むかしは、けんかしたのかも」
「でも、いまはけんかしないよ」
「くろいわんわん、おしごといそがしいから」
「ヌシ様も、お山のおしごとがあるしね」
かつて何があったのかなど。
子どもたちは知らない。
ただ。
二人が今は別々の場所で、それぞれの仕事をしている。
それだけを、当然のこととして受け入れているようだった。
◇
一番小さな男の子が。
猪肉のジャーキーを小皿へ置いた。
「いのししも、うまいって」
「うまい?」
「くろいわんわん、そういうの」
隣の女の子は。
鹿肉のジャーキーを持ち上げた。
「でもね」
また、不意に口調が変わる。
「いのししもうまいが」
「わがあるじは、しかをこのむ」
舌足らずな声で語られた古風な言葉に。
私は、思わず子どもの顔を見つめた。
「わがあるじ?」
「くろいわんわんにも、飼い主がいるの?」
「かってないよ」
男の子が。
少し怒ったように言った。
「えらいかみさま」
「くろいわんわんに、おしごとおしえてるの」
「黒い犬は、神様のところで働いているの?」
「うん」
「さみしいこを、みつけるおしごと」
「まいごのこを、つれていくおしごと」
「神様は、鹿が好きなの?」
「そうみたい」
「だから、しかをいっぱいおくの」
「でも、くろいわんわんは、いのししもすきだよ」
「じゃあ、鹿は神様に。猪は黒い犬に?」
「わけるの」
「おんなじかずにしないと、かわいそうだから」
「かみさまは、そんなことでおこらないよ」
「でも、くろいわんわんが、しかをぜんぶたべちゃうかもしれない」
「そんなことしないよ」
女の子が、きっぱりと否定した。
「くろいわんわん」
「ひつようなぶんだけ、っていうもん」
必要な分だけ。
それ以上は取らない。
境内の案内板に書かれていた山の掟を。
子どもたちは別の場所で、黒い犬からも教わっているらしい。
鹿肉と猪肉。
子どもたちは相談しながら。
小皿の上へ、同じ数ずつ並べた。
「くろいわんわん」
「かみさまと、なかよくたべてね」
「ヌシ様にも、ありがとうっていってね」
「お山のおにく、おいしかったって」
「でも、ぜんぶたべちゃだめだよ」
「ほかのこにも、のこしてね」
黒い犬が。
神様のもとへ供え物を持ち帰り。
山を守る灰色の狼へ、感謝を伝える。
子どもたちは。
それを疑うことなく信じていた。
◇
別の女の子が。
空になった袋をこちらへ向けた。
「これ、えきのまえでもかえるよ」
「おじいちゃんのおみせにもある」
「おみやげに、かってね」
青年だけではなく。
子どもたちまで宣伝へ加わった。
「君たちも、猟友会の人なの?」
「ちがうよ」
「でも、おいしいから」
「パパもおつまみにしてる」
「こどもも、たべていいんだよ」
「ちょっとかたいけど」
「しかは、やわらかいよ」
「いのししも、おいしいよ」
どうやら。
町全体で売る気らしい。
◇
子どもたちは。
もう一度、拝殿へ手を合わせた。
「またあそんでね」
「ジャーキー、かみさまとわけてね」
「こんども、しかといのしし、りょうほうもってくる」
「でも、いっぱいたべたら、おなかいたくなるよ」
「くろいわんわんは、おっきいからだいじょうぶ」
「かみさまも、おっきいの?」
「しらない」
「のどにつまらせたら、たいへんだよ」
「おみずも、おいておく?」
好き勝手なことを言いながら。
子どもたちは立ち上がった。
そのうちの一人が。
私の服の裾を引いた。
「せんせいも、くろいわんわんのこと、しってるよ」
「先生も?」
「うん」
「ほいくえんに、えもいっぱいあるの」
「ねんどのくろいわんわんもいるよ」
「わたしがつくったのもある」
「ぼくのもあるよ」
「先生が、黒い犬の話を教えてくれるの?」
「ちがうよ」
「ぼくたちがおしえてあげるの」
どうやら。
黒い犬の話は、この子どもたちだけのものではないらしい。
私は保育園の名前を聞き。
翌日の取材を申し込むことにした。
子どもたちは。
今度こそ石段を駆け下りていった。
誰一人として。
自分たちが不思議な話をしたとは思っていない。
黒い犬に寄り添われ。
家族を選び。
この町へ生まれてきた。
それは彼らにとって。
昨日、公園で遊んだことと同じくらい。
確かな記憶なのだ。
◇
子どもたちが去ったあと。
私は、拝殿の前へ近づいた。
ジビエジャーキーが置かれた小皿の隣に。
黒い犬をかたどった、小さな木彫りがあった。
座った姿をした、素朴な彫り物。
古くからある神社の拝殿に置かれたものとしては。
正式な祭具というより。
子どもが持ってきた玩具のようにも見える。
誰が作ったものなのか。
神社の由緒にも。
町の観光案内にも書かれていない。
名前を示す札もなく。
正式な祭神として祀られている様子もなかった。
それでも。
木彫りの頭だけは。
何人もの小さな手で、何度も撫でられたように。
滑らかになっていた。
足元には。
乾いた花。
小さな木の実。
色の薄くなった折り紙。
丸い石。
子どもたちが置いたらしいものが、いくつも並んでいる。
どれも。
価値のあるものではない。
けれど。
どれも、その子にとっては大切なものだったのだろう。
黒い犬の木彫りは。
それらを守るように。
小皿の隣へ静かに座っていた。
◇
私は。
皿の上に置かれたジビエジャーキーを見た。
この町で語られる山のヌシ様は。
灰色の狼だったはずだ。
では。
子どもたちが語る黒い犬は、何者なのか。
山で迷った者を導くのではない。
生まれる前の子どもへ寄り添い。
家族を選ぶまで待ち。
決められないときには、ともに悩む。
生まれたあとも。
夢の中へ現れ。
ときには山の恵みへ感謝し。
灰色のヌシを認め。
自らの主である神について語る。
まるで。
命が次の場所へ向かうのを手伝う存在のようだった。
青年へ尋ねようと振り返る。
彼は。
子どもたちが消えた石段を、静かに見つめていた。
「今の話を」
「あなたは信じていますか」
青年は。
すぐには答えなかった。
やがて。
手にしたジビエジャーキーの袋を持ち上げる。
「子どもは」
「大人になると忘れてしまうことを」
「まだ覚えているのかもしれません」
「黒い犬の正体を知っている?」
「さあ」
青年は笑った。
「僕が知っているのは」
「寂しい子を、独りにしないこと」
「その子が自分で決めるまで、待ってくれること」
「そして」
拝殿の横に置かれた小皿を見る。
「猟友会の鹿肉ジャーキーが好きらしいことだけです」
「猪肉ではなく?」
「黒い犬自身は、どちらも好きなのでしょう」
青年は真面目な顔で続けた。
「ただし、偉い神様は鹿がお好みらしいので」
「記事には鹿肉を先に書いてください」
「そこまで指定するのですか」
「大切なことです」
それ以上。
青年は黒い犬について何も話さなかった。
◇
青年は。
ジビエジャーキーの袋を持ち直し。
山へ続く道へ向かった。
「相棒が待っているので」
そう言って歩き出した背中を。
私は、しばらく見送った。
山の入口で。
青年が足を止める。
木々の間から。
一頭の狼が姿を現した。
尾の先だけが白い。
雌の狼。
青年を見ると。
警戒する様子もなく近づき。
鼻先で、手にした袋を押した。
「これは、山へ入ってから」
青年が袋を高く持ち上げる。
狼は不満そうに鼻を鳴らした。
「ちなみに」
青年は私を振り返った。
「今持っているのは、鹿肉のほうです」
「猪肉も評判がいいので」
「記事には両方書いてください」
最後まで宣伝を忘れない青年に。
私は思わず笑った。
青年も笑い。
狼の頭を軽く撫でる。
二人は並び。
山の奥へ消えていった。
◇
私は、境内へ視線を戻した。
拝殿の横にある皿。
子どもたちが供えたジビエジャーキーは。
まだ、そこにある。
その隣では。
名もない黒い犬の木彫りが。
山のほうを向いて座っていた。
黒い犬が。
いつ、どこへ現れるのか。
それを知る者はいない。
寂しい子どものそばへ。
必要なときにだけ現れるのだという。
それでも。
一瞬だけ。
拝殿の奥に。
黒い狼の影が座っているように見えた。
大きな身体。
優しい目。
どこか寂しそうな顔。
黒い狼は。
供えられたジャーキーではなく。
木々の向こうにそびえる、山の峰を見上げていた。
その先にいる誰かへ。
遠くから礼を伝えているようにも見えた。
瞬きをしたときには。
影は消えていた。
◇
神社での取材を終えた翌日。
私は。
昨日、境内で出会った子どもたちが通っているという。
町立保育園を訪ねた。
確かめたかったのは。
くろいわんわんの話が。
あの子どもたちだけで作り上げた、共通の遊びではないかということだった。
「くろいわんわん、ですか」
園長は。
その言葉を聞いても、驚かなかった。
「やはり、ご存じなのですか」
「ええ」
園長は笑った。
「この園では、昔から有名です」
◇
「保育園で教えている話なのですか」
「いいえ」
園長は首を横へ振った。
「私たちから話したことはありません」
「でも」
「毎年、新しく入ってくる子の誰かが」
「必ず、くろいわんわんの話を始めるんです」
「毎年ですか?」
「ええ」
「全員ではありません」
「一人だけの年もあれば」
「何人もの子が、同じ時期に話し始める年もあります」
「どんな話を?」
「少しずつ違います」
園長は。
古い記録をまとめたファイルを持ってきた。
保育中に聞いた不思議な発言を。
歴代の保育士たちが書き留めてきたものだという。
寂しくなったとき。
黒い犬が、そばに座ってくれた。
どの家へ生まれるか。
一緒に悩んでくれた。
なかなか決められなくても。
怒らず、待ってくれた。
待っている間は。
一緒に遊んでくれた。
道が分からなくなると。
母親のおなかまで連れていってくれた。
記録された年代は違う。
話した子どもも違う。
それでも。
語られている内容は、驚くほど似ていた。
「生まれたあとの話もありますか」
「ありますよ」
「夢の中で会った」
「神社へおやつを持っていった」
「お山の狼と昔は喧嘩した」
「今は神様のお手伝いをしている」
園長は、苦笑した。
「最近では」
「鹿と猪のどちらがおいしいか、という話も増えました」
「猟友会のジャーキーですね」
「ええ」
「子どもたちは、よく知っていますから」
古い記録に。
新しい町の特産品が加わっていく。
伝承は昔の形を守るだけではなく。
今の暮らしを取り込みながら、続いているらしい。
「子どもたちは、そのことをずっと覚えているのですか」
「いいえ」
園長は、少し寂しそうに笑った。
「大きくなるにつれて、忘れてしまいます」
「年長になる頃には」
「そんなこと言ったかな、と笑う子も多いです」
「小学校へ上がる頃には」
「ほとんど話さなくなります」
「では、なぜ今まで残っているのでしょう」
「私たちが覚えているからです」
◇
「話だけではないんですよ」
園長はそう言って。
保育室の棚から、大きな画用紙の束を取り出した。
どれも。
子どもたちが自由に描いた絵だという。
家族の絵。
遠足の絵。
園庭で遊ぶ友だちの絵。
その中に。
何枚もの、黒い犬の絵が混じっていた。
「これも、くろいわんわんですか」
「ええ」
園長は。
一枚ずつ机の上へ並べていく。
画用紙いっぱいに描かれた、大きな黒い犬。
白い場所で。
子どもと寄り添う犬。
何軒もの家の前に立ち。
振り返って子どもを待つ犬。
父親と母親らしい二人のもとへ。
小さな子どもを連れていく犬。
真っ黒に塗られた身体の中で。
目だけが、やさしく描かれているものもあった。
最近描かれた一枚には。
黒い犬の前に、茶色い棒のようなものが何本も並んでいた。
「これは?」
「ジビエジャーキーだそうです」
園長は絵の裏を確認する。
「鹿と猪を、神様と分けて食べるところだと」
子どもの絵の中でも。
町の新しい特産品は。
黒い犬の物語へ、すっかり組み込まれていた。
「全部、同じ子の絵ではないのですね」
「別の子です」
「描かれた年も違います」
「古いものでは」
「私がこの園へ来る前の絵も残っています」
犬の形そのものは。
子どもによって少しずつ違っていた。
耳が尖っているもの。
丸い耳をしたもの。
尾が長いもの。
身体よりも大きな尾を持つもの。
四本より多く足を描かれたものまである。
けれど。
不思議なほど共通していることがあった。
どの絵の黒い犬も。
必ず、子どもの近くにいる。
先へ進みながら振り返っているか。
身体を寄せて座っているか。
少し離れた場所から、静かに見守っている。
子どもを脅かしたり。
追いかけたりする絵は、一枚もなかった。
「先生方が、黒い犬を描くように言っているわけでは?」
「もちろんありません」
園長は苦笑した。
「自由帳へ急に描き始める子もいますし」
「お絵かきの時間に」
「くろいわんわんをかく、と言い出す子もいます」
「多いのは、何歳くらいですか」
「年少から年中ですね」
「入園してすぐ描く子もいます」
「年長になると?」
「だんだん描かなくなります」
◇
園長は。
少し色の薄くなった一枚を手に取った。
大きな黒い犬の腹へ。
小さな子どもが抱きついている絵だった。
「この絵を描いた子も」
「卒園前に見せたら」
「これ、だれ? って笑っていました」
「自分で描いたのに?」
「ええ」
「でも、その子は入園したばかりの頃」
「さみしくなったら、くろいわんわんがくっついてくれたの、と話していたんです」
子どもの記憶からは消えても。
絵だけは、あの日のことを覚えている。
そのように思えた。
◇
さらに園長は。
棚の上から、大きな箱を下ろした。
中に入っていたのは。
子どもたちが作った工作だった。
紙粘土で作られた犬。
黒い折り紙を貼り重ねた犬。
木の実を耳にした犬。
短い脚で、不格好に立っている犬。
細長い身体を持ち。
横になった子どもを包むように作られた犬もある。
「これも全部?」
「くろいわんわんです」
「犬を作るように指定した工作ではないのですよね」
「違います」
「好きなものを作りましょう、という時間に」
「なぜか黒い犬を作る子が、毎年いるんです」
作品の裏には。
子どもの名前と、作られた年が記されている。
何年も離れた子どもたちが。
同じ名前を口にして。
同じような黒い犬を残していた。
その中の一頭は。
前脚の間に、小さな茶色い塊を抱えていた。
「これもジャーキーですか」
「その子の話では」
園長は笑った。
「神様へ持って帰る途中なので、食べてはいけないそうです」
「先生方の間では」
園長は、作品の一つを撫でた。
「また今年も来てくれたね、と話します」
「くろいわんわんが?」
「いえ」
園長は笑った。
「その子の記憶が、です」
◇
子どもたちは。
やがて忘れてしまう。
話さなくなり。
描かなくなり。
自分で作った黒い犬を見ても。
なぜ作ったのか分からなくなる。
それでも。
絵と工作は園に残る。
翌年。
新しく入園してきた子どもが。
また同じ話を始める。
そのたびに保育士たちは。
これまでに聞いた、何人もの子どもの言葉を思い出す。
「私が新人だった頃にも」
園長は言った。
「先輩の先生から教えられました」
「子どもが黒い犬の話をしても」
「怖がらせたり」
「嘘だと決めつけたりしないように、と」
「その先生も?」
「自分が勤め始めた頃から」
「ずっと同じだったと言っていました」
子どもから保育士へ。
保育士から、新しく勤める保育士へ。
そしてまた。
新しく入園した子どもから。
同じ話が語られる。
親から子へ聞かせる昔話とは違う。
語り継いでいるはずの大人よりも。
新しく生まれてきた子どものほうが。
先に話を知っているのだ。
「だから私たちは」
園長は言った。
「くろいわんわんの話を」
「ただの昔話とは思っていません」
「では、本当にいると?」
「分かりません」
園長は穏やかに笑った。
「ただ」
「毎年、初めて話すような顔で教えてくれる子どもたちに」
「それは作り話でしょうとは、言えません」
◇
そのとき。
園庭で遊んでいた女の子が転んだ。
膝を押さえ。
大きな声で泣き始める。
保育士が駆け寄るより先に。
近くにいた子どもたちが集まった。
「だいじょうぶ?」
「いたい?」
一人の子が。
泣いている女の子の隣へ座る。
「くろいわんわんみたいに」
「くっついてあげる」
肩と肩を寄せる。
もう一人の子も。
反対側へ座った。
「ひとりじゃないよ」
「いっしょにいるよ」
泣いていた女の子は。
二人に挟まれながら。
少しずつ泣きやんでいった。
園長は。
その様子を静かに見つめていた。
「子どもたちは忘れます」
「でも」
「してもらったことまで」
「全部なくなるわけではないのかもしれません」
寂しい者を。
独りにしない。
決められない者を。
急かさずに待つ。
記憶の中から。
黒い犬の姿が消えたあとも。
寄り添ってもらった温かさだけは。
その子の中に残っていく。
そして。
次に泣いている誰かを見つけたとき。
今度は自分が。
その隣へ座るのだ。
◇
今年の子どもたちも。
いつか、くろいわんわんを忘れる。
けれど。
保育園には。
語られた言葉と。
描かれた絵と。
小さな手で作られた黒い犬が残る。
そして来年も。
新しく入ってきた誰かが。
まるで自分だけの秘密を打ち明けるように。
また。
くろいわんわんの話を始めるのだという。
◇
町へ戻り。
私は取材記事をまとめた。
高い出生率。
豊かな食料。
山と人との共存。
町全体で子どもを育てる仕組み。
村から町へ発展した理由には。
数字で説明できるものが、いくつもあった。
田畑を守る人。
家畜を育てる人。
山の恵みを必要以上に獲らない猟師。
捕獲した命を無駄にせず。
新たな産業へつなげる猟友会。
山吉との約束を。
80年以上、芸として受け継いできた山吹一座。
生まれた子どもを。
家族だけに背負わせず、町全体で育てる文化。
忘れてしまう子どもたちに代わって。
くろいわんわんの話を記録し続ける保育士たち。
そうした積み重ねが。
この町の豊かさを作ったのだろう。
猟友会のジビエジャーキーについても。
青年の希望どおり。
鹿肉と猪肉の両方を記事へ掲載した。
販売店と通信販売についても。
渡された資料をもとに、目立つ囲み記事へまとめた。
後日。
猟友会から礼状とともに。
鹿肉と猪肉のジャーキーが、一箱ずつ編集部へ届いた。
添えられた手紙には。
青年の字で、こう書かれていた。
『鹿肉だけでなく、猪肉もよろしくお願いします』
◇
ただ。
すべてを書き終えたあとも。
最後の一文だけは、なかなか決まらなかった。
子宝神社。
灰色のヌシ様。
80年以上、山へ礼を送り続ける山吹一座。
青年と歩く、白い尾の狼。
生まれる前の子どもへ寄り添い。
生まれたあとも、ときどき夢へ現れる黒い犬。
名もなく。
由緒にも記されず。
ただ、子どもたちの小さな手によって。
何度も頭を撫でられてきた木彫り。
何年も保育園へ残されてきた。
黒い犬の絵と工作。
考えた末。
私は記事を、次の言葉で締めくくった。
◇
この町が栄えた理由を。
奇跡の一言で片づけるべきではない。
山を敬い。
命を無駄にせず。
受けた恩を忘れない。
誰かの願いを、勝手に決めつけない。
自分で選べるようになるまで。
ともに悩み。
待ち。
独りにしない。
人々が長い年月をかけて守り。
次の世代へ渡してきた、その姿勢こそが。
町を豊かにした最大の理由だろう。
ただし。
それを守る者たちの中に。
人間以外の存在が含まれていないと。
私には、最後まで断言することができなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
感想やレビューをいただけましたら、今後の励みになります。




