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山のヌシ  作者: つぶつぶみかん
5.最終章
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28/28

番外編.とある記者の記録

 少子高齢化。


 人口減少。


 限界集落。


 地方を取材していると、嫌というほど耳にする言葉である。


 若者は都市へ流れ。


 残された住民は歳を重ね。


 学校は統廃合され。


 商店は閉まり。


 役場の窓口さえ、隣の自治体へ集約されていく。


 そうした地域が珍しくない昨今。


 全国の流れに逆らうように、人口を増やし続けている場所がある。


 山の麓にあった、一つの小さな村。


 かつては田畑と数軒の商店しかなかったその村は。


 この84年の間に、人口を増やした。


 新しい住宅地が造られ。


 診療所や学校が整備され。


 商店街も広がり。


 ついには、村から町へと変わった。


 特に目を引くのが。


 全国平均を大きく上回る出生率である。


 なぜ。


 この町では、これほど多くの子どもが生まれているのか。


 その理由を調べるため。


 私は、町へ向かった。


     ◇


 駅を降りて最初に驚いたのは。


 平日の昼間にもかかわらず、子どもの姿が多いことだった。


 公園では幼い子どもたちが走り回り。


 商店街では、赤ん坊を抱いた母親同士が立ち話をしている。


 町立小学校の校庭からは。


 大勢の子どもたちの声が聞こえた。


 地方の学校と聞いて想像していた。


 空き教室ばかりの校舎とは、まるで違う。


 町役場で資料を確認すると。


 この地域では、若い世帯の転入も増えている。


 しかし。


 人口増加の中心となっているのは、移住者だけではなかった。


 町で暮らす夫婦から生まれる子どもの数そのものが。


 周辺地域と比べて、明らかに多い。


「この町へ来ると、子どもができる」


 冗談のような言葉を。


 取材中、私は何度も耳にした。


     ◇


「結婚してから、なかなか授からなくて」


 商店街で出会った女性は。


 ベビーカーを押しながら、そう話した。


「病院にも通っていたんですけど」


「ここの神社へお参りしてから、妊娠したんです」


 もちろん。


 参拝と妊娠の間に。


 医学的な因果関係が証明されているわけではない。


 女性自身も。


 偶然かもしれないと笑った。


 だが。


 似たような話をする人は、一人ではなかった。


「一人目も、二人目も」


「神社へお願いしたあとでした」


「知り合いに聞いて、隣の県から来たんです」


「お参りした次の年に、双子を授かりまして」


「諦めかけていた頃に、夢へ黒い犬が出てきたんです」


 最後の話だけは。


 ほかの証言とは少し違っていた。


 詳しく尋ねようとしたが。


 話していた女性は、恥ずかしそうに笑うだけだった。


 かつては。


 山へ入る者が安全を祈るための、小さな神社だったという。


 それが今では。


 子宝神社として、町の外からも多くの人が訪れる。


 町の観光案内にも。


 子宝祈願で知られる神社として紹介されていた。


 ただし。


 神社自身が、参拝すれば子どもを授かると宣伝しているわけではないらしい。


 子宝神社という呼び名は。


 願いが叶ったと話す人々の口コミによって、自然に広がったものだった。


     ◇


 町が発展した理由は。


 子どもの多さだけではない。


 田畑では。


 米や野菜が豊かに実る。


 町の外れには酪農家があり。


 牛乳や乳製品の多くが、町の中で消費されている。


 さらに。


 背後に広がる山からは。


 山菜。


 木の実。


 キノコ。


 川魚。


 狩猟によって得られる肉。


 さまざまな恵みがもたらされる。


 町役場によれば。


 この地域の食料自給率は、全国的に見ても非常に高いという。


「この町じゃ、食うものには困らないよ」


 畑仕事をしていた老人は。


 山を見上げながら言った。


「昔は一度、山が死にかけたらしい」


「沢の水も細くなって」


「獣も、人里まで下りてきてな」


「でも」


 老人は笑った。


「ヌシ様が代わってから、山は元気になった」


     ◇


 山の恵みは。


 採れたものを、そのまま消費するだけではない。


 近年、町の新たな特産品として人気を集めているのが。


 猟友会の販売するジビエジャーキーだった。


 鹿肉と猪肉の二種類。


 町の山で捕獲された獣を。


 町内の加工場で食品へ変える。


 駅前の土産物店や道の駅では。


 山を背景にした鹿と猪の絵が描かれた袋が、目立つ場所へ並べられていた。


 獣害対策として捕獲した命を。


 可能な限り無駄にしない。


 売り上げの一部は、罠や設備の整備。


 猟師の育成。


 山林の環境保全へ還元されるという。


 山から命をもらったら。


 必ず礼を返す。


 取材した町の人々が。


 何度も口にした言葉だった。


 その教えは。


 昔話の中だけに残っているわけではない。


 今では町の産業として。


 人々の暮らしの中にも受け継がれている。


     ◇


 町には。


 山の恵みとは別に、80年以上受け継がれてきた祭りがあった。


 商店街を歩いていると。


 軒先に同じ絵柄の旗が、何本も掲げられている。


 描かれていたのは。


 扇を持つ猿と。


 その隣で頭を下げる、一人の芸人だった。


『山吹一座 奉納猿まわし』


 町の秋祭りに合わせて。


 毎年、神社の境内で行われるという。


「ずいぶん長く続いているのですか」


 旗を取り付けていた商店主へ尋ねると。


 老人は脚立の上から答えた。


「もう80年以上になるよ」


「山吹一座は、昔からこの町の祭りへ来てくれるんだ」


「始まりは?」


「山吉って猿らしい」


「山吉?」


「昔にな」


「一座が山で弱っとった猿を助けたそうだ」


「その猿が、たいそう賢かったらしくてな」


 芸を覚え。


 人の言葉を理解し。


 祭りの日には、神社の前で立派な舞を披露した。


 そして最後には。


 首につけていた大切な御守りを神社へ返し。


 一座の者たちへ頭を下げて、山へ帰っていったという。


「一座は追わなかったのですか」


「山吉が自分で決めたことだからって」


 老人は、そう答えた。


「それから毎年」


「山吹一座は、この神社で猿まわしを奉納するようになった」


「山吉が山のどこかで見ていても」


「自分たちは元気にやっとると、分かるようにな」


     ◇


 町の公民館で祭りの準備をしていた山吹一座にも。


 話を聞くことができた。


 現在の一座を率いるのは。


 山吉と旅をした初代座長の孫にあたる、三代目だった。


 幼い頃から。


 祖父と父に、山吉の話を聞かされて育ったという。


「祖父は山吉を」


 三代目は。


 舞台道具を確認しながら語った。


「飼っていた猿としてではなく」


「一座の仲間として話していたそうです」


「山へ帰ったのも」


「逃げたのではなく」


「自分のやるべきことを見つけたからだと」


「初代は、また会えると思っていたのでしょうか」


「どうでしょう」


 三代目は少し考える。


「祖父が亡くなる前に言っていたそうです」


「山吉には、もう会えなくてもいい」


「ただ」


「山吉が山で元気にしていると信じられれば、それでいいと」


 芸の内容は。


 時代に合わせて、少しずつ変わっている。


 それでも。


 舞台の最後だけは、初代の頃から同じだった。


 猿が山へ向かって座り。


 両手をつき。


 深く頭を下げる。


 続いて、一座の者たちも頭を下げる。


 観客も声を出さず。


 同じ山へ、一礼する。


「誰に礼を伝えているのですか」


 私が尋ねると。


 三代目は山を見た。


「最初は、山吉にだったそうです」


「今は?」


「山吉と」


「山吉が守ろうとしたもの、すべてに」


 近くで話を聞いていた子どもが。


 口を挟んだ。


「山吉は、まだ山にいるよ」


「そうなの?」


「うん」


 子どもは迷いなく頷いた。


「いまは、おおきいおおかみになって」


「お山をまもってるんだって」


 隣にいた母親が。


 困ったように笑った。


「昔話ですよ」


 そう付け加えたが。


 子どもの言葉を否定はしなかった。


 猿だった山吉が。


 今では狼となり、山を守っている。


 もちろん。


 常識で考えれば、あり得ない話である。


 だが。


 この町では。


 それをただの作り話として笑う者も、あまりいなかった。


     ◇


 ヌシ様。


 その言葉も。


 町の取材中、何度も耳にした。


「山菜がよく採れるのも、ヌシ様のおかげ」


「沢の水が枯れないのも、ヌシ様のおかげ」


「大雨の前には、カラスや猿が知らせてくれる」


「山で迷うと、灰色の狼が道を教えてくれる」


 昔話。


 土地の伝承。


 そう片づけることもできる。


 だが。


 町の人々は。


 特別なことを語っている様子ではなかった。


 天気の話をするように。


 今年の作物について話すように。


 ヌシ様が山を守っていると、口をそろえて言う。


 不思議なのは。


 誰も、ヌシ様へ願えば何でも叶うとは言わないことだった。


「お願いするだけじゃ駄目ですよ」


 食堂を営む女性は言った。


「自分でできることをしたうえで」


「本当に困ったときに、山へ相談するんです」


「欲張った願いは?」


「聞いてくれません」


「罰が当たる?」


「いいえ」


 女性は笑った。


「何も起きないだけです」


     ◇


 街頭での取材を終え。


 集めた資料を整理しているうちに。


 一つの疑問が残った。


 町の発展。


 高い出生率。


 豊かな食料。


 山吹一座に残る、山吉の伝承。


 住民たちが語る、山のヌシ様。


 それらの中心にあるのが。


 町外れの神社だった。


 私は記事をまとめる前に。


 神社へ正式な取材を申し込んだ。


 返事は、すぐに届いた。


 ただし。


 取材に応じるのは神職ではなく。


 神社に住む、一人の青年だという。


     ◇


 約束の日。


 私は、町外れの神社を訪れた。


 石段を上り。


 鳥居をくぐる。


 そこで初めて。


 境内の脇に立つ、一枚の案内板が目に入った。


 そこに書かれていたのは。


 子宝祈願の作法でも。


 願いを叶えてもらう方法でもない。


 山へ入る者が守るべき、いくつかの掟だった。


 必要以上に獲らないこと。


 持ち帰れる分だけにすること。


 山から命をもらったら、礼を返すこと。


 日が暮れる前に、山を下りること。


 山が急に静かになったら、立ち止まること。


 自分の力を過信しないこと。


 町の人々が語っていた言葉と。


 ほとんど同じものだった。


 その案内板の前で。


 一人の青年が、私を待っていた。


 20歳を少し過ぎたほどだろうか。


 若いながら。


 すでに狩猟免許を持ち。


 町の猟友会にも所属しているという。


 青年の手には。


 小分けに包装された、何袋ものジャーキーがあった。


 袋に描かれているのは。


 山を背にした鹿と猪。


 その下には。


 町猟友会の名前が印刷されている。


「それは、お供え物ですか」


 私が尋ねると。


 青年は一袋をこちらへ差し出した。


「町の猟友会で作っている、ジビエジャーキーです」


「鹿肉ですか?」


「これは鹿ですね。猪もあります」


 青年は袋の裏側を見せる。


「町の山で獲れたものを、町内の加工場で作っています」


「道の駅と、駅前の土産物店で販売しているので」


「記事にも書いてください」


 思いがけず。


 取材を始める前から宣伝された。


「猟友会の商品なのですね」


「獲った命を、できるだけ無駄にしたくないので」


「肉として売れない部位も」


「加工できるものは活用しています」


「売り上げの一部は」


「罠の整備や、若い猟師の育成」


「山の環境を守る活動へ戻しています」


「味の評判は?」


「僕が言うと宣伝になりますけど」


 青年は平然と答える。


「かなりいいです」


「すでに十分、宣伝していますよ」


「では、遠慮なく」


 青年は猪肉の袋も差し出した。


「鹿はあっさりしていて」


「猪は脂のうまみがあります」


「両方買って、食べ比べるのがおすすめです」


 山から命をもらったら。


 礼を返す。


 町の人々が口にしていた掟は。


 昔話の中だけに残っているわけではなかった。


 町の産業として。


 今の暮らしの中にも受け継がれている。


「その大量の袋も、取材用の商品ですか」


「いえ」


 青年は。


 残った袋を抱え直した。


「山にいる相棒のおやつです」


「猟犬ですか?」


「犬ではありません」


「では、何を?」


「それは」


 青年は笑った。


「本人に聞かないと、怒られそうなので」


 冗談なのか。


 本気なのか。


 判断できなかった。


     ◇


 青年は。


 神社の縁側へ私を案内した。


 奥の部屋には。


 彼の祖母がいるという。


 かつて、この神社の巫女を務め。


 長い間。


 山の掟を町の人々へ伝えてきた女性。


 今では100歳に近く。


 普段は寝たきりに近い生活を送り。


 言葉を交わすことも少なくなった。


「祖母から、何を教わったのですか」


 私が尋ねると。


 青年は、一つずつ答えた。


「必要以上に獲らないこと」


「持ち帰れる分だけにすること」


「山から命をもらったら、必ず礼を返すこと」


「日が暮れる前に、山を下りること」


「山が急に静かになったら、立ち止まること」


「自分の力を過信しないこと」


 どれも。


 境内へ入ったときに見た案内板と、同じ教えだった。


「山吹一座の山吉についても」


「お祖母様から聞いたのですか」


「はい」


 青年は頷いた。


「祖母は、山吉に会ったことがあります」


「直接?」


「ええ」


「祖母が16歳の頃です」


 私は。


 思わず奥の部屋へ目を向けた。


 80年以上前。


 神社で御守りを返し。


 山へ帰っていった猿。


 伝承の中だけにいると思っていた山吉を。


 この家の奥で休む老女は、実際に見ている。


「どんな猿だったそうですか」


「賢くて」


「少し変わっていて」


「自分が何をすべきか、いつも考えているような猿だったと」


 青年は微笑む。


「祖母は今でも」


「奉納猿まわしの日になると、車椅子で境内へ出ます」


「毎年、見ていらっしゃるのですか」


「はい」


「普段は眠っている時間が増えましたが」


「猿まわしの太鼓が鳴ると、目を開けるんです」


 猿が扇を掲げれば。


 祖母も、わずかに目を細める。


 猿が舞台を回れば。


 その姿を追うように、ゆっくりと顔を動かす。


 そして。


 舞台の最後。


 猿と一座の者たちが山へ向かって頭を下げると。


 祖母も車椅子の上で。


 同じ山へ、静かに頭を下げるという。


「山吉を思い出しているのでしょうか」


「たぶん」


 青年は頷いた。


「祖母だけは」


「今も、あの舞台のどこに山吉が立っていたのかを覚えています」


「今、舞台に立っている猿を見ているのではなく?」


「今の猿も、ちゃんと見ていますよ」


 青年は笑った。


「ただ」


「ときどき、その向こうにいる昔の仲間も」


「一緒に見ているんだと思います」


     ◇


「この町が豊かなのは」


 青年は山を見ながら続ける。


「ヌシ様が、何でも与えてくれるからではありません」


「人間が山のものを獲りすぎず」


「山も、人の暮らしを壊さない」


「その約束が守られているからです」


「子宝神社と呼ばれていることについては?」


「神社が子どもを授けているかは、僕には分かりません」


「ただ」


 青年は。


 境内の向こうにある町を見た。


「この町では」


「生まれてきた子を、町全体で育てようとします」


「食べるものがあり」


「遊ぶ山があり」


「困れば助けてくれる人がいる」


「子どもを育てやすい町だから」


「結果として、子どもが増えた部分もあると思います」


 奇跡だけで。


 町が発展したわけではない。


 山の恵み。


 人々の努力。


 命を無駄にしないという掟。


 それらが、長い時間をかけて今の町を作った。


 青年の話には。


 そうした現実的な説得力があった。


「先ほどのジビエジャーキーも、その一つですか」


「そうですね」


 青年は、すぐに鹿肉の袋を持ち上げた。


「ちなみに通信販売も始めました」


「まだ記事にはしていません」


「今から書いておいてください」


「販売先の情報は?」


「あとで資料を渡します」


 取材へ応じているのか。


 営業へ来たのか。


 分からなくなってきた。


     ◇


 取材を終え。


 私は青年へ礼を伝えた。


 青年は。


 ジビエジャーキーの袋を持って立ち上がる。


「これから、山へ?」


「はい」


「相棒が待っているので」


「毎日会うのですか」


「会えない日もあります」


「でも」


 青年は、山へ続く道を見た。


「行けば会える気がする日は、分かるんです」


 どこかで聞いたような言葉だった。


 この町では。


 会う必要のある者の前へ。


 ヌシ様のほうから現れるという。


「相棒も、灰色の狼なのですか」


 私が尋ねると。


 青年は首を横へ振った。


「灰色のほうは」


「僕の相棒ではありません」


「では」


「山のヌシ様です」


 青年は。


 当たり前のことを答えるように言った。


     ◇


 境内を出ようとしたとき。


 石段の下から、数人の子どもたちが走ってきた。


 五歳ほどの男の子と女の子。


 それぞれの手には、小さな袋が握られている。


 袋に描かれているのは。


 先ほど青年から見せてもらったものと同じ、鹿と猪だった。


「こら、はしったらだめだよ」


「だって、おそくなっちゃう」


「くろいわんわん、おしごとにいっちゃうかもしれないよ」


 子どもたちは口々に話しながら、拝殿の前へ並んだ。


 小さな手を合わせ。


 目を閉じる。


 そのあと。


 賽銭箱の横に置かれた小皿へ。


 袋から取り出したジビエジャーキーを、一つずつ供え始めた。


「何をしているの?」


 私が尋ねると。


 一人の女の子が振り返った。


「ごはんあげるの」


「誰に?」


「くろいわんわん」


「黒い犬?」


「おっきいわんわんだよ」


「まっくろなの」


「でも、こわくないよ」


「めがやさしいもん」


 子どもたちは。


 誰もが同じ犬を知っているような口ぶりだった。


「どこで会ったの?」


 私が尋ねると。


 最初の女の子が、自分の胸へ両手を当てた。


「なんでかわかんないけど」


「すっごく、さみしいなってなったことがあるの」


「いつ?」


「ずっとまえ」


「もっと小さい頃?」


「ちがうよ」


 女の子は首を横へ振る。


「うまれるまえ」


 私は、思わず聞き返した。


「生まれる前?」


「うん」


「まっしろなところにいて」


「だれもいなくて」


「さみしいなっておもったら」


 女の子は。


 両腕で自分の身体を抱く。


「くろいわんわんが、こうやってくっついてくれたの」


「温かかった?」


「うん」


 女の子は笑った。


「それで、こわくなくなった」


     ◇


「ぼくもあったよ」


 男の子が割り込んでくる。


「ぼくはね」


「どのパパとママにしようかなって、なやんでたの」


「選べたの?」


「いっぱいいた」


 男の子は、両手を大きく広げた。


「こっちのパパとママもやさしそうで」


「こっちも、ごはんがおいしそうだった」


「ごはんで選んだの?」


「えらんでないよ!」


 隣の子に笑われ。


 男の子は頬を膨らませる。


「ちゃんとかんがえたもん」


「くろいわんわんと、いっしょに」


「黒い犬が選んでくれたの?」


「ちがうよ」


 男の子は、強く首を振った。


「じぶんでえらびなさいって」


「ずっとまっててくれた」


「ぼくが、こっちかなっていうと」


「ほんとうに? ってきくの」


「犬が話したの?」


「おくちじゃないよ」


 男の子は。


 自分の胸を指差した。


「ここで、わかるの」


     ◇


「わたしは、ずっときめられなかった」


 もう一人の女の子が言った。


「どのパパとママも、よかったの?」


「ううん」


 女の子は少し考え。


 幼い言葉で説明しようとする。


「どこにいっても」


「ちゃんとできるかわかんなかった」


「いいこになれるかなって」


「パパとママに、すきっていってもらえるかなって」


 その声だけが。


 ほかの子どもたちより少し小さかった。


「くろいわんわんは、何て言ったの?」


「なんにも」


「ただ、いっしょになやんでくれた」


「決まるまで?」


「うん」


「ぜんぜん、きまらなかったけど」


 女の子の顔に、笑顔が戻る。


「そのあいだ、いっしょにあそんでくれたよ」


「何をして遊んだの?」


「おいかけっこ」


「白いところで?」


「うん」


「でも、くろいわんわん、すっごくはやいの」


「ずるいよね」


「わざと、つかまってくれたよ」


 子どもたちが笑う。


 生まれる前の記憶を語っているはずなのに。


 その会話は。


 近所の犬と遊んだ思い出を話すように、あまりにも無邪気だった。


     ◇


「ぼくは、くろいわんわんが連れてきてくれた」


 一番小さな男の子が言った。


「どこへ?」


「いまのおうち」


「自分で選ばなかったの?」


「えらんだよ」


 男の子は、少し不満そうに答える。


「でも」


「どっちにいけばいいか、わかんなくなったの」


「そしたら、くろいわんわんがまえをあるいて」


「なんかいも、こっち? ってふりかえった」


「それについていったら」


 男の子は、うれしそうに笑った。


「ママのおなかにいた」


「お母さんは、その話を知っているの?」


「しってるよ」


「ぼくが、おはなしできるようになってから、おしえた」


「信じてくれた?」


「うん」


「ママも、くろいわんわんにあったことあるから」


     ◇


「お母さんも?」


「ママはね」


 男の子は声を潜める。


 秘密を教えるように。


「ぼくがこなくて、ずっとないてたんだって」


「そしたら、ゆめにくろいわんわんがきて」


「まだなやんでるから、まっててっていったの」


「黒い犬が?」


「うん」


「それで、ママがおまいりして」


「もうちょっと、まつねっていったら」


 男の子は、自分の胸を叩いた。


「ぼくがきた」


「だから」


 小皿に供えたジビエジャーキーを指差す。


「おれい」


     ◇


「みんな、同じ黒い犬を見たの?」


 私が尋ねると。


 子どもたちは顔を見合わせた。


「おんなじだよ」


「おっきい」


「まっくろ」


「でも、めはやさしい」


「ちょっとかなしいかおしてる」


「なでると、よろこぶよ」


「くろいわんわんは、何をしているの?」


 子どもたちは。


 また顔を見合わせる。


 その中の一人が。


 少しだけ考えてから言った。


「さみしいこを、ひとりにしないおしごと」


「パパとママを、いっしょにさがすおしごと」


「きめられないこを、まつおしごと」


「まいごになったら、つれていくおしごと」


 次々と答えが重なる。


 最後に。


 一番小さな男の子が胸を張った。


「だから、くろいわんわんは」


「いいわんわんなの」


     ◇


「それは、生まれる前の話なんだね」


 私が確かめると。


 子どもたちは頷いた。


「今は、もう会えないの?」


「会えるよ」


 最初の女の子が。


 不思議そうに首を傾げた。


「ゆめにくるもん」


「夢の中へ?」


「うん」


「いつもじゃないけど」


「さみしいときとか」


「おはなししたいときに、きてくれるよ」


「昨日も会ったの?」


「会ったよ」


 隣の男の子が。


 鹿肉の袋を見せながら言った。


「きょう、これもっていくねって、おしえたの」


「前にも持ってきたことがあるの?」


「あるよ」


「しかと、いのしし」


「どちらが好きなの?」


「しか!」


「いのししもすきだよ」


 別の子が、すぐに訂正した。


「きのうのゆめでね」


「まえにあげた、いのししのこと、おしえてくれたの」


 そこで女の子は。


 急に背筋を伸ばした。


「やはり、やまのめぐみは、ありがたい」


 舌足らずな幼い声で紡がれたのは。


 五歳ほどの子どもの口から出るには。


 あまりにも不釣り合いな言葉だった。


「黒い犬が、そう言ったの?」


「うん」


 答えた途端。


 女の子は、いつもの幼い調子へ戻る。


「おいしかったんだって」


「そんな話し方をするの?」


「おくちでは、いわないよ」


 男の子が自分の胸を指差した。


「ここで、わかるの」


「思ったことが伝わってくるの?」


「そう」


「くろいわんわんのきもちが、はいってくるの」


「ほかには、何か言っていた?」


「えっとね」


 女の子は。


 記憶を探すように首を傾げた。


 そして再び。


 誰かの言葉を、そのまま読み上げるような調子で言った。


「これほど、やまのめぐみがあるのであれば」


「あやつは、よいヌシなのだろうな」


「あやつ?」


「はいいろのおおかみ」


「山のヌシ様のこと?」


「うん」


 子どもたちは、そろって頷いた。


「お山に、おいしいものがいっぱいあるから」


「ちゃんとまもってるんだって」


「くろいわんわんは、ヌシ様を知っているの?」


「しってるよ」


「むかし、あったことあるって」


「仲がいいの?」


「うーん」


 子どもたちは顔を見合わせた。


「むかしは、けんかしたのかも」


「でも、いまはけんかしないよ」


「くろいわんわん、おしごといそがしいから」


「ヌシ様も、お山のおしごとがあるしね」


 かつて何があったのかなど。


 子どもたちは知らない。


 ただ。


 二人が今は別々の場所で、それぞれの仕事をしている。


 それだけを、当然のこととして受け入れているようだった。


     ◇


 一番小さな男の子が。


 猪肉のジャーキーを小皿へ置いた。


「いのししも、うまいって」


「うまい?」


「くろいわんわん、そういうの」


 隣の女の子は。


 鹿肉のジャーキーを持ち上げた。


「でもね」


 また、不意に口調が変わる。


「いのししもうまいが」


「わがあるじは、しかをこのむ」


 舌足らずな声で語られた古風な言葉に。


 私は、思わず子どもの顔を見つめた。


「わがあるじ?」


「くろいわんわんにも、飼い主がいるの?」


「かってないよ」


 男の子が。


 少し怒ったように言った。


「えらいかみさま」


「くろいわんわんに、おしごとおしえてるの」


「黒い犬は、神様のところで働いているの?」


「うん」


「さみしいこを、みつけるおしごと」


「まいごのこを、つれていくおしごと」


「神様は、鹿が好きなの?」


「そうみたい」


「だから、しかをいっぱいおくの」


「でも、くろいわんわんは、いのししもすきだよ」


「じゃあ、鹿は神様に。猪は黒い犬に?」


「わけるの」


「おんなじかずにしないと、かわいそうだから」


「かみさまは、そんなことでおこらないよ」


「でも、くろいわんわんが、しかをぜんぶたべちゃうかもしれない」


「そんなことしないよ」


 女の子が、きっぱりと否定した。


「くろいわんわん」


「ひつようなぶんだけ、っていうもん」


 必要な分だけ。


 それ以上は取らない。


 境内の案内板に書かれていた山の掟を。


 子どもたちは別の場所で、黒い犬からも教わっているらしい。


 鹿肉と猪肉。


 子どもたちは相談しながら。


 小皿の上へ、同じ数ずつ並べた。


「くろいわんわん」


「かみさまと、なかよくたべてね」


「ヌシ様にも、ありがとうっていってね」


「お山のおにく、おいしかったって」


「でも、ぜんぶたべちゃだめだよ」


「ほかのこにも、のこしてね」


 黒い犬が。


 神様のもとへ供え物を持ち帰り。


 山を守る灰色の狼へ、感謝を伝える。


 子どもたちは。


 それを疑うことなく信じていた。


     ◇


 別の女の子が。


 空になった袋をこちらへ向けた。


「これ、えきのまえでもかえるよ」


「おじいちゃんのおみせにもある」


「おみやげに、かってね」


 青年だけではなく。


 子どもたちまで宣伝へ加わった。


「君たちも、猟友会の人なの?」


「ちがうよ」


「でも、おいしいから」


「パパもおつまみにしてる」


「こどもも、たべていいんだよ」


「ちょっとかたいけど」


「しかは、やわらかいよ」


「いのししも、おいしいよ」


 どうやら。


 町全体で売る気らしい。


     ◇


 子どもたちは。


 もう一度、拝殿へ手を合わせた。


「またあそんでね」


「ジャーキー、かみさまとわけてね」


「こんども、しかといのしし、りょうほうもってくる」


「でも、いっぱいたべたら、おなかいたくなるよ」


「くろいわんわんは、おっきいからだいじょうぶ」


「かみさまも、おっきいの?」


「しらない」


「のどにつまらせたら、たいへんだよ」


「おみずも、おいておく?」


 好き勝手なことを言いながら。


 子どもたちは立ち上がった。


 そのうちの一人が。


 私の服の裾を引いた。


「せんせいも、くろいわんわんのこと、しってるよ」


「先生も?」


「うん」


「ほいくえんに、えもいっぱいあるの」


「ねんどのくろいわんわんもいるよ」


「わたしがつくったのもある」


「ぼくのもあるよ」


「先生が、黒い犬の話を教えてくれるの?」


「ちがうよ」


「ぼくたちがおしえてあげるの」


 どうやら。


 黒い犬の話は、この子どもたちだけのものではないらしい。


 私は保育園の名前を聞き。


 翌日の取材を申し込むことにした。


 子どもたちは。


 今度こそ石段を駆け下りていった。


 誰一人として。


 自分たちが不思議な話をしたとは思っていない。


 黒い犬に寄り添われ。


 家族を選び。


 この町へ生まれてきた。


 それは彼らにとって。


 昨日、公園で遊んだことと同じくらい。


 確かな記憶なのだ。


     ◇


 子どもたちが去ったあと。


 私は、拝殿の前へ近づいた。


 ジビエジャーキーが置かれた小皿の隣に。


 黒い犬をかたどった、小さな木彫りがあった。


 座った姿をした、素朴な彫り物。


 古くからある神社の拝殿に置かれたものとしては。


 正式な祭具というより。


 子どもが持ってきた玩具のようにも見える。


 誰が作ったものなのか。


 神社の由緒にも。


 町の観光案内にも書かれていない。


 名前を示す札もなく。


 正式な祭神として祀られている様子もなかった。


 それでも。


 木彫りの頭だけは。


 何人もの小さな手で、何度も撫でられたように。


 滑らかになっていた。


 足元には。


 乾いた花。


 小さな木の実。


 色の薄くなった折り紙。


 丸い石。


 子どもたちが置いたらしいものが、いくつも並んでいる。


 どれも。


 価値のあるものではない。


 けれど。


 どれも、その子にとっては大切なものだったのだろう。


 黒い犬の木彫りは。


 それらを守るように。


 小皿の隣へ静かに座っていた。


     ◇


 私は。


 皿の上に置かれたジビエジャーキーを見た。


 この町で語られる山のヌシ様は。


 灰色の狼だったはずだ。


 では。


 子どもたちが語る黒い犬は、何者なのか。


 山で迷った者を導くのではない。


 生まれる前の子どもへ寄り添い。


 家族を選ぶまで待ち。


 決められないときには、ともに悩む。


 生まれたあとも。


 夢の中へ現れ。


 ときには山の恵みへ感謝し。


 灰色のヌシを認め。


 自らの主である神について語る。


 まるで。


 命が次の場所へ向かうのを手伝う存在のようだった。


 青年へ尋ねようと振り返る。


 彼は。


 子どもたちが消えた石段を、静かに見つめていた。


「今の話を」


「あなたは信じていますか」


 青年は。


 すぐには答えなかった。


 やがて。


 手にしたジビエジャーキーの袋を持ち上げる。


「子どもは」


「大人になると忘れてしまうことを」


「まだ覚えているのかもしれません」


「黒い犬の正体を知っている?」


「さあ」


 青年は笑った。


「僕が知っているのは」


「寂しい子を、独りにしないこと」


「その子が自分で決めるまで、待ってくれること」


「そして」


 拝殿の横に置かれた小皿を見る。


「猟友会の鹿肉ジャーキーが好きらしいことだけです」


「猪肉ではなく?」


「黒い犬自身は、どちらも好きなのでしょう」


 青年は真面目な顔で続けた。


「ただし、偉い神様は鹿がお好みらしいので」


「記事には鹿肉を先に書いてください」


「そこまで指定するのですか」


「大切なことです」


 それ以上。


 青年は黒い犬について何も話さなかった。


     ◇


 青年は。


 ジビエジャーキーの袋を持ち直し。


 山へ続く道へ向かった。


「相棒が待っているので」


 そう言って歩き出した背中を。


 私は、しばらく見送った。


 山の入口で。


 青年が足を止める。


 木々の間から。


 一頭の狼が姿を現した。


 尾の先だけが白い。


 雌の狼。


 青年を見ると。


 警戒する様子もなく近づき。


 鼻先で、手にした袋を押した。


「これは、山へ入ってから」


 青年が袋を高く持ち上げる。


 狼は不満そうに鼻を鳴らした。


「ちなみに」


 青年は私を振り返った。


「今持っているのは、鹿肉のほうです」


「猪肉も評判がいいので」


「記事には両方書いてください」


 最後まで宣伝を忘れない青年に。


 私は思わず笑った。


 青年も笑い。


 狼の頭を軽く撫でる。


 二人は並び。


 山の奥へ消えていった。


     ◇


 私は、境内へ視線を戻した。


 拝殿の横にある皿。


 子どもたちが供えたジビエジャーキーは。


 まだ、そこにある。


 その隣では。


 名もない黒い犬の木彫りが。


 山のほうを向いて座っていた。


 黒い犬が。


 いつ、どこへ現れるのか。


 それを知る者はいない。


 寂しい子どものそばへ。


 必要なときにだけ現れるのだという。


 それでも。


 一瞬だけ。


 拝殿の奥に。


 黒い狼の影が座っているように見えた。


 大きな身体。


 優しい目。


 どこか寂しそうな顔。


 黒い狼は。


 供えられたジャーキーではなく。


 木々の向こうにそびえる、山の峰を見上げていた。


 その先にいる誰かへ。


 遠くから礼を伝えているようにも見えた。


 瞬きをしたときには。


 影は消えていた。


     ◇


 神社での取材を終えた翌日。


 私は。


 昨日、境内で出会った子どもたちが通っているという。


 町立保育園を訪ねた。


 確かめたかったのは。


 くろいわんわんの話が。


 あの子どもたちだけで作り上げた、共通の遊びではないかということだった。


「くろいわんわん、ですか」


 園長は。


 その言葉を聞いても、驚かなかった。


「やはり、ご存じなのですか」


「ええ」


 園長は笑った。


「この園では、昔から有名です」


     ◇


「保育園で教えている話なのですか」


「いいえ」


 園長は首を横へ振った。


「私たちから話したことはありません」


「でも」


「毎年、新しく入ってくる子の誰かが」


「必ず、くろいわんわんの話を始めるんです」


「毎年ですか?」


「ええ」


「全員ではありません」


「一人だけの年もあれば」


「何人もの子が、同じ時期に話し始める年もあります」


「どんな話を?」


「少しずつ違います」


 園長は。


 古い記録をまとめたファイルを持ってきた。


 保育中に聞いた不思議な発言を。


 歴代の保育士たちが書き留めてきたものだという。


 寂しくなったとき。


 黒い犬が、そばに座ってくれた。


 どの家へ生まれるか。


 一緒に悩んでくれた。


 なかなか決められなくても。


 怒らず、待ってくれた。


 待っている間は。


 一緒に遊んでくれた。


 道が分からなくなると。


 母親のおなかまで連れていってくれた。


 記録された年代は違う。


 話した子どもも違う。


 それでも。


 語られている内容は、驚くほど似ていた。


「生まれたあとの話もありますか」


「ありますよ」


「夢の中で会った」


「神社へおやつを持っていった」


「お山の狼と昔は喧嘩した」


「今は神様のお手伝いをしている」


 園長は、苦笑した。


「最近では」


「鹿と猪のどちらがおいしいか、という話も増えました」


「猟友会のジャーキーですね」


「ええ」


「子どもたちは、よく知っていますから」


 古い記録に。


 新しい町の特産品が加わっていく。


 伝承は昔の形を守るだけではなく。


 今の暮らしを取り込みながら、続いているらしい。


「子どもたちは、そのことをずっと覚えているのですか」


「いいえ」


 園長は、少し寂しそうに笑った。


「大きくなるにつれて、忘れてしまいます」


「年長になる頃には」


「そんなこと言ったかな、と笑う子も多いです」


「小学校へ上がる頃には」


「ほとんど話さなくなります」


「では、なぜ今まで残っているのでしょう」


「私たちが覚えているからです」


     ◇


「話だけではないんですよ」


 園長はそう言って。


 保育室の棚から、大きな画用紙の束を取り出した。


 どれも。


 子どもたちが自由に描いた絵だという。


 家族の絵。


 遠足の絵。


 園庭で遊ぶ友だちの絵。


 その中に。


 何枚もの、黒い犬の絵が混じっていた。


「これも、くろいわんわんですか」


「ええ」


 園長は。


 一枚ずつ机の上へ並べていく。


 画用紙いっぱいに描かれた、大きな黒い犬。


 白い場所で。


 子どもと寄り添う犬。


 何軒もの家の前に立ち。


 振り返って子どもを待つ犬。


 父親と母親らしい二人のもとへ。


 小さな子どもを連れていく犬。


 真っ黒に塗られた身体の中で。


 目だけが、やさしく描かれているものもあった。


 最近描かれた一枚には。


 黒い犬の前に、茶色い棒のようなものが何本も並んでいた。


「これは?」


「ジビエジャーキーだそうです」


 園長は絵の裏を確認する。


「鹿と猪を、神様と分けて食べるところだと」


 子どもの絵の中でも。


 町の新しい特産品は。


 黒い犬の物語へ、すっかり組み込まれていた。


「全部、同じ子の絵ではないのですね」


「別の子です」


「描かれた年も違います」


「古いものでは」


「私がこの園へ来る前の絵も残っています」


 犬の形そのものは。


 子どもによって少しずつ違っていた。


 耳が尖っているもの。


 丸い耳をしたもの。


 尾が長いもの。


 身体よりも大きな尾を持つもの。


 四本より多く足を描かれたものまである。


 けれど。


 不思議なほど共通していることがあった。


 どの絵の黒い犬も。


 必ず、子どもの近くにいる。


 先へ進みながら振り返っているか。


 身体を寄せて座っているか。


 少し離れた場所から、静かに見守っている。


 子どもを脅かしたり。


 追いかけたりする絵は、一枚もなかった。


「先生方が、黒い犬を描くように言っているわけでは?」


「もちろんありません」


 園長は苦笑した。


「自由帳へ急に描き始める子もいますし」


「お絵かきの時間に」


「くろいわんわんをかく、と言い出す子もいます」


「多いのは、何歳くらいですか」


「年少から年中ですね」


「入園してすぐ描く子もいます」


「年長になると?」


「だんだん描かなくなります」


     ◇


 園長は。


 少し色の薄くなった一枚を手に取った。


 大きな黒い犬の腹へ。


 小さな子どもが抱きついている絵だった。


「この絵を描いた子も」


「卒園前に見せたら」


「これ、だれ? って笑っていました」


「自分で描いたのに?」


「ええ」


「でも、その子は入園したばかりの頃」


「さみしくなったら、くろいわんわんがくっついてくれたの、と話していたんです」


 子どもの記憶からは消えても。


 絵だけは、あの日のことを覚えている。


 そのように思えた。


     ◇


 さらに園長は。


 棚の上から、大きな箱を下ろした。


 中に入っていたのは。


 子どもたちが作った工作だった。


 紙粘土で作られた犬。


 黒い折り紙を貼り重ねた犬。


 木の実を耳にした犬。


 短い脚で、不格好に立っている犬。


 細長い身体を持ち。


 横になった子どもを包むように作られた犬もある。


「これも全部?」


「くろいわんわんです」


「犬を作るように指定した工作ではないのですよね」


「違います」


「好きなものを作りましょう、という時間に」


「なぜか黒い犬を作る子が、毎年いるんです」


 作品の裏には。


 子どもの名前と、作られた年が記されている。


 何年も離れた子どもたちが。


 同じ名前を口にして。


 同じような黒い犬を残していた。


 その中の一頭は。


 前脚の間に、小さな茶色い塊を抱えていた。


「これもジャーキーですか」


「その子の話では」


 園長は笑った。


「神様へ持って帰る途中なので、食べてはいけないそうです」


「先生方の間では」


 園長は、作品の一つを撫でた。


「また今年も来てくれたね、と話します」


「くろいわんわんが?」


「いえ」


 園長は笑った。


「その子の記憶が、です」


     ◇


 子どもたちは。


 やがて忘れてしまう。


 話さなくなり。


 描かなくなり。


 自分で作った黒い犬を見ても。


 なぜ作ったのか分からなくなる。


 それでも。


 絵と工作は園に残る。


 翌年。


 新しく入園してきた子どもが。


 また同じ話を始める。


 そのたびに保育士たちは。


 これまでに聞いた、何人もの子どもの言葉を思い出す。


「私が新人だった頃にも」


 園長は言った。


「先輩の先生から教えられました」


「子どもが黒い犬の話をしても」


「怖がらせたり」


「嘘だと決めつけたりしないように、と」


「その先生も?」


「自分が勤め始めた頃から」


「ずっと同じだったと言っていました」


 子どもから保育士へ。


 保育士から、新しく勤める保育士へ。


 そしてまた。


 新しく入園した子どもから。


 同じ話が語られる。


 親から子へ聞かせる昔話とは違う。


 語り継いでいるはずの大人よりも。


 新しく生まれてきた子どものほうが。


 先に話を知っているのだ。


「だから私たちは」


 園長は言った。


「くろいわんわんの話を」


「ただの昔話とは思っていません」


「では、本当にいると?」


「分かりません」


 園長は穏やかに笑った。


「ただ」


「毎年、初めて話すような顔で教えてくれる子どもたちに」


「それは作り話でしょうとは、言えません」


     ◇


 そのとき。


 園庭で遊んでいた女の子が転んだ。


 膝を押さえ。


 大きな声で泣き始める。


 保育士が駆け寄るより先に。


 近くにいた子どもたちが集まった。


「だいじょうぶ?」


「いたい?」


 一人の子が。


 泣いている女の子の隣へ座る。


「くろいわんわんみたいに」


「くっついてあげる」


 肩と肩を寄せる。


 もう一人の子も。


 反対側へ座った。


「ひとりじゃないよ」


「いっしょにいるよ」


 泣いていた女の子は。


 二人に挟まれながら。


 少しずつ泣きやんでいった。


 園長は。


 その様子を静かに見つめていた。


「子どもたちは忘れます」


「でも」


「してもらったことまで」


「全部なくなるわけではないのかもしれません」


 寂しい者を。


 独りにしない。


 決められない者を。


 急かさずに待つ。


 記憶の中から。


 黒い犬の姿が消えたあとも。


 寄り添ってもらった温かさだけは。


 その子の中に残っていく。


 そして。


 次に泣いている誰かを見つけたとき。


 今度は自分が。


 その隣へ座るのだ。


     ◇


 今年の子どもたちも。


 いつか、くろいわんわんを忘れる。


 けれど。


 保育園には。


 語られた言葉と。


 描かれた絵と。


 小さな手で作られた黒い犬が残る。


 そして来年も。


 新しく入ってきた誰かが。


 まるで自分だけの秘密を打ち明けるように。


 また。


 くろいわんわんの話を始めるのだという。


     ◇


 町へ戻り。


 私は取材記事をまとめた。


 高い出生率。


 豊かな食料。


 山と人との共存。


 町全体で子どもを育てる仕組み。


 村から町へ発展した理由には。


 数字で説明できるものが、いくつもあった。


 田畑を守る人。


 家畜を育てる人。


 山の恵みを必要以上に獲らない猟師。


 捕獲した命を無駄にせず。


 新たな産業へつなげる猟友会。


 山吉との約束を。


 80年以上、芸として受け継いできた山吹一座。


 生まれた子どもを。


 家族だけに背負わせず、町全体で育てる文化。


 忘れてしまう子どもたちに代わって。


 くろいわんわんの話を記録し続ける保育士たち。


 そうした積み重ねが。


 この町の豊かさを作ったのだろう。


 猟友会のジビエジャーキーについても。


 青年の希望どおり。


 鹿肉と猪肉の両方を記事へ掲載した。


 販売店と通信販売についても。


 渡された資料をもとに、目立つ囲み記事へまとめた。


 後日。


 猟友会から礼状とともに。


 鹿肉と猪肉のジャーキーが、一箱ずつ編集部へ届いた。


 添えられた手紙には。


 青年の字で、こう書かれていた。


『鹿肉だけでなく、猪肉もよろしくお願いします』


     ◇


 ただ。


 すべてを書き終えたあとも。


 最後の一文だけは、なかなか決まらなかった。


 子宝神社。


 灰色のヌシ様。


 80年以上、山へ礼を送り続ける山吹一座。


 青年と歩く、白い尾の狼。


 生まれる前の子どもへ寄り添い。


 生まれたあとも、ときどき夢へ現れる黒い犬。


 名もなく。


 由緒にも記されず。


 ただ、子どもたちの小さな手によって。


 何度も頭を撫でられてきた木彫り。


 何年も保育園へ残されてきた。


 黒い犬の絵と工作。


 考えた末。


 私は記事を、次の言葉で締めくくった。


     ◇


 この町が栄えた理由を。


 奇跡の一言で片づけるべきではない。


 山を敬い。


 命を無駄にせず。


 受けた恩を忘れない。


 誰かの願いを、勝手に決めつけない。


 自分で選べるようになるまで。


 ともに悩み。


 待ち。


 独りにしない。


 人々が長い年月をかけて守り。


 次の世代へ渡してきた、その姿勢こそが。


 町を豊かにした最大の理由だろう。


 ただし。


 それを守る者たちの中に。


 人間以外の存在が含まれていないと。


 私には、最後まで断言することができなかった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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