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山のヌシ  作者: つぶつぶみかん
5.最終章
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26/28

後日譚.また、山で

     ◇


 それから、さらに何年かが過ぎた。


 男の子は少年となり。


 少年は、山へ入ることを許される年齢へ近づいていた。


 背丈は祖母を追い越した。


 細かった腕にも筋肉がつき。


 薪を背負って石段を上っても、途中で休まなくなった。


 学校から帰れば。


 神社の仕事を手伝い。


 罠の仕組みを学び。


 獣の足跡を見分け。


 猟師たちから山の歩き方を教わった。


 遊び半分ではない。


 本気で猟師になるつもりだった。


「まだ早い」


 周囲の大人から、何度そう言われても。


 少年の意思は変わらなかった。


「早いうちから覚えたほうがいい」


「鉄砲を持つのは、もっと先でも」


「山を見ることは、今からできる」


 祖母は止めなかった。


 ただ。


 山へ入る前には、必ず同じことを尋ねた。


「必要以上に獲らない」


「持ち帰れる分だけにする」


「命をもらったら礼を返す」


「日が暮れる前に下りる」


「山が急に静かになったら、立ち止まる」


「自分の力を過信しない」


 少年は。


 教えられた山の掟を、一つも間違えずに答えた。


     ◇


 本格的に猟師を目指すようになった少年が。


 次に求めたのは、猟犬だった。


 獲物の匂いを追い。


 人間には入れない藪へ入り。


 危険を知らせ。


 山の中で互いの命を預け合う相棒。


 犬であれば、何でもよいわけではない。


 少年は近隣の猟師へ話を聞き。


 猟犬を育てている者を紹介してもらった。


 父親に頼み。


 休日になると、遠くのブリーダーまで車で連れていってもらった。


     ◇


 最初に訪れた場所には。


 立派な紀州犬がいた。


 白い毛。


 引き締まった身体。


 人間へ媚びず。


 静かにこちらを観察する目。


「この子なら、猪にも向かっていける」


 ブリーダーは胸を張った。


 実際。


 若いながら、足取りは力強い。


 物音にも動じない。


 猟犬としての素質は十分だった。


 少年が手を差し出すと。


 犬は匂いを嗅ぎ。


 興味を失ったように顔を背けた。


 悪い犬ではない。


 相性が悪いわけでもない。


 それでも少年は。


 その場で決めることができなかった。


「気に入らなかったか?」


 父親に尋ねられ。


 少年は少し考えた。


「違う」


「いい犬だと思う」


「じゃあ、何が駄目なんだ」


「分からない」


 答えられなかった。


 ただ。


 この犬ではない。


 そんな感覚だけが残った。


     ◇


 次に会ったのは、黒い甲斐犬だった。


 虎毛の身体。


 山道を走るための強い脚。


 初めて会った人間にも怯えず。


 少年が投げた木の枝を、すぐに拾って戻ってきた。


「人を見る犬だ」


 飼い主は言った。


「自分で主人を選ぶ」


 少年の前へ座り。


 顔を見上げる。


 賢い目。


 悪くない。


 むしろ。


 これまで会った中では、一番気持ちが通じた。


 だが。


 その犬は、少年の隣にいた父親を選んだ。


 少年が呼んでも。


 父親の足元へ戻っていく。


「お前じゃなくて、俺を気に入ったらしいな」


 父親は困ったように笑った。


 少年も笑った。


 無理に自分の犬にしようとは思わなかった。


 犬にも。


 選ぶ権利がある。


     ◇


 四国犬。


 柴犬を大きくしたような雑種。


 猟師の家で生まれた兄弟犬。


 山で保護された成犬。


 少年は、何匹もの犬と会った。


 勇敢な犬。


 足の速い犬。


 鼻のよい犬。


 人の指示へ忠実な犬。


 どの犬も。


 それぞれに優れていた。


 少年へ懐く犬もいた。


 手を舐め。


 身体を寄せ。


 帰ろうとすると後を追う犬もいた。


 それでも。


 少年は決められなかった。


「理想が高すぎるんじゃないか」


 父親が言った。


「最初から完璧な猟犬なんていないぞ」


「分かってる」


「一緒に暮らして、育てていくものだ」


「それも分かってる」


「なら、何を待ってるんだ」


 少年は答えに迷った。


 強い犬が欲しいわけではない。


 命令だけを聞く犬でもない。


 猟の道具として優れた犬が欲しいわけでもない。


 一緒に山を歩き。


 自分が間違えれば止めてくれる。


 犬が危険なら、自分が助ける。


 言葉がなくても。


 互いに帰る場所を分かっている。


 そんな相棒。


「会えば分かると思うんだ」


「何が?」


「こいつと山へ行くんだって」


 父親は、呆れたように息を吐いた。


「ヌシ様と同じことを言うな」


「ヌシ様?」


「ばあちゃんが言ってただろ」


「会う必要がある者の前へは、向こうから現れるって」


 少年は黙った。


 確かに。


 自分もどこかで。


 相棒は探して選ぶものではなく。


 互いに見つけるものだと思っていた。


     ◇


 何軒目かのブリーダーから帰った夜。


 少年は神社の縁側へ座っていた。


 相棒を迎えるために用意した首輪が。


 膝の上にある。


 まだ一度も使われていない。


「今日も決まらなかったのかい」


 祖母が隣へ腰を下ろした。


「うん」


「よい犬はいなかった?」


「みんないい犬だった」


「それなら、どうして?」


 少年は首輪を握った。


「どの犬も」


「俺を待ってた気がしなかった」


 祖母は驚かなかった。


「そうかい」


「変かな」


「いいや」


 祖母は暗くなり始めた山を見た。


「待っている相手がいるなら」


「こちらが見つけるより先に」


「向こうが見つけてくれることもあるよ」


「犬が?」


「さあねえ」


 祖母は笑った。


「犬かもしれないし」


「山かもしれない」


「ヌシ様かもしれないよ」


「ヌシ様が猟犬を連れてきてくれるの?」


「お願いしてみるかい?」


 少年は少し考え。


 首を横へ振った。


「やめておく」


「どうして?」


「自分で探したい」


「それに」


 少年は山を見上げた。


「会う必要があるなら」


「そのうち会えるんだろ?」


 祖母は、満足そうに頷いた。


「ああ」


「きっとね」


     ◇


 山の尾根。


 灰色の狼が、神社の灯りを見下ろしていた。


 少年の膝にある。


 新しい首輪。


 その意味も理解している。


 猟師を目指す少年が。


 ともに山へ入る相棒を求めていることも。


 何匹もの犬と会い。


 まだ決められずにいることも。


 すべて。


 カラスや猿たちから聞いていた。


 灰色の狼は。


 山の奥へ顔を向けた。


 蘇った森。


 澄んだ沢。


 獣たちの暮らす場所。


 そのさらに奥から。


 小さな命の声が聞こえている。


 まだ弱く。


 生まれて間もない声。


 だが。


 その魂には。


 懐かしい気配があった。


「次に会ったときも」


「仲間に入れてくれ」


 最後の転生を前に。


 白尾と交わした約束。


 灰色のヌシは静かに立ち上がった。


 出会う時は。


 まだ少し先。


 相棒を求める少年も。


 新しい命を得た彼女も。


 もう少しだけ成長する必要がある。


 だから今は。


 互いに相手を知らないまま。


 それぞれの場所で待っている。


 いつか。


 同じ山を歩く日が来ることを。


 灰色の狼だけが知っていた。

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