後日譚.また、山で
◇
それから、さらに何年かが過ぎた。
男の子は少年となり。
少年は、山へ入ることを許される年齢へ近づいていた。
背丈は祖母を追い越した。
細かった腕にも筋肉がつき。
薪を背負って石段を上っても、途中で休まなくなった。
学校から帰れば。
神社の仕事を手伝い。
罠の仕組みを学び。
獣の足跡を見分け。
猟師たちから山の歩き方を教わった。
遊び半分ではない。
本気で猟師になるつもりだった。
「まだ早い」
周囲の大人から、何度そう言われても。
少年の意思は変わらなかった。
「早いうちから覚えたほうがいい」
「鉄砲を持つのは、もっと先でも」
「山を見ることは、今からできる」
祖母は止めなかった。
ただ。
山へ入る前には、必ず同じことを尋ねた。
「必要以上に獲らない」
「持ち帰れる分だけにする」
「命をもらったら礼を返す」
「日が暮れる前に下りる」
「山が急に静かになったら、立ち止まる」
「自分の力を過信しない」
少年は。
教えられた山の掟を、一つも間違えずに答えた。
◇
本格的に猟師を目指すようになった少年が。
次に求めたのは、猟犬だった。
獲物の匂いを追い。
人間には入れない藪へ入り。
危険を知らせ。
山の中で互いの命を預け合う相棒。
犬であれば、何でもよいわけではない。
少年は近隣の猟師へ話を聞き。
猟犬を育てている者を紹介してもらった。
父親に頼み。
休日になると、遠くのブリーダーまで車で連れていってもらった。
◇
最初に訪れた場所には。
立派な紀州犬がいた。
白い毛。
引き締まった身体。
人間へ媚びず。
静かにこちらを観察する目。
「この子なら、猪にも向かっていける」
ブリーダーは胸を張った。
実際。
若いながら、足取りは力強い。
物音にも動じない。
猟犬としての素質は十分だった。
少年が手を差し出すと。
犬は匂いを嗅ぎ。
興味を失ったように顔を背けた。
悪い犬ではない。
相性が悪いわけでもない。
それでも少年は。
その場で決めることができなかった。
「気に入らなかったか?」
父親に尋ねられ。
少年は少し考えた。
「違う」
「いい犬だと思う」
「じゃあ、何が駄目なんだ」
「分からない」
答えられなかった。
ただ。
この犬ではない。
そんな感覚だけが残った。
◇
次に会ったのは、黒い甲斐犬だった。
虎毛の身体。
山道を走るための強い脚。
初めて会った人間にも怯えず。
少年が投げた木の枝を、すぐに拾って戻ってきた。
「人を見る犬だ」
飼い主は言った。
「自分で主人を選ぶ」
少年の前へ座り。
顔を見上げる。
賢い目。
悪くない。
むしろ。
これまで会った中では、一番気持ちが通じた。
だが。
その犬は、少年の隣にいた父親を選んだ。
少年が呼んでも。
父親の足元へ戻っていく。
「お前じゃなくて、俺を気に入ったらしいな」
父親は困ったように笑った。
少年も笑った。
無理に自分の犬にしようとは思わなかった。
犬にも。
選ぶ権利がある。
◇
四国犬。
柴犬を大きくしたような雑種。
猟師の家で生まれた兄弟犬。
山で保護された成犬。
少年は、何匹もの犬と会った。
勇敢な犬。
足の速い犬。
鼻のよい犬。
人の指示へ忠実な犬。
どの犬も。
それぞれに優れていた。
少年へ懐く犬もいた。
手を舐め。
身体を寄せ。
帰ろうとすると後を追う犬もいた。
それでも。
少年は決められなかった。
「理想が高すぎるんじゃないか」
父親が言った。
「最初から完璧な猟犬なんていないぞ」
「分かってる」
「一緒に暮らして、育てていくものだ」
「それも分かってる」
「なら、何を待ってるんだ」
少年は答えに迷った。
強い犬が欲しいわけではない。
命令だけを聞く犬でもない。
猟の道具として優れた犬が欲しいわけでもない。
一緒に山を歩き。
自分が間違えれば止めてくれる。
犬が危険なら、自分が助ける。
言葉がなくても。
互いに帰る場所を分かっている。
そんな相棒。
「会えば分かると思うんだ」
「何が?」
「こいつと山へ行くんだって」
父親は、呆れたように息を吐いた。
「ヌシ様と同じことを言うな」
「ヌシ様?」
「ばあちゃんが言ってただろ」
「会う必要がある者の前へは、向こうから現れるって」
少年は黙った。
確かに。
自分もどこかで。
相棒は探して選ぶものではなく。
互いに見つけるものだと思っていた。
◇
何軒目かのブリーダーから帰った夜。
少年は神社の縁側へ座っていた。
相棒を迎えるために用意した首輪が。
膝の上にある。
まだ一度も使われていない。
「今日も決まらなかったのかい」
祖母が隣へ腰を下ろした。
「うん」
「よい犬はいなかった?」
「みんないい犬だった」
「それなら、どうして?」
少年は首輪を握った。
「どの犬も」
「俺を待ってた気がしなかった」
祖母は驚かなかった。
「そうかい」
「変かな」
「いいや」
祖母は暗くなり始めた山を見た。
「待っている相手がいるなら」
「こちらが見つけるより先に」
「向こうが見つけてくれることもあるよ」
「犬が?」
「さあねえ」
祖母は笑った。
「犬かもしれないし」
「山かもしれない」
「ヌシ様かもしれないよ」
「ヌシ様が猟犬を連れてきてくれるの?」
「お願いしてみるかい?」
少年は少し考え。
首を横へ振った。
「やめておく」
「どうして?」
「自分で探したい」
「それに」
少年は山を見上げた。
「会う必要があるなら」
「そのうち会えるんだろ?」
祖母は、満足そうに頷いた。
「ああ」
「きっとね」
◇
山の尾根。
灰色の狼が、神社の灯りを見下ろしていた。
少年の膝にある。
新しい首輪。
その意味も理解している。
猟師を目指す少年が。
ともに山へ入る相棒を求めていることも。
何匹もの犬と会い。
まだ決められずにいることも。
すべて。
カラスや猿たちから聞いていた。
灰色の狼は。
山の奥へ顔を向けた。
蘇った森。
澄んだ沢。
獣たちの暮らす場所。
そのさらに奥から。
小さな命の声が聞こえている。
まだ弱く。
生まれて間もない声。
だが。
その魂には。
懐かしい気配があった。
「次に会ったときも」
「仲間に入れてくれ」
最後の転生を前に。
白尾と交わした約束。
灰色のヌシは静かに立ち上がった。
出会う時は。
まだ少し先。
相棒を求める少年も。
新しい命を得た彼女も。
もう少しだけ成長する必要がある。
だから今は。
互いに相手を知らないまま。
それぞれの場所で待っている。
いつか。
同じ山を歩く日が来ることを。
灰色の狼だけが知っていた。




