エピローグ.山のヌシ様
「この山には、ヌシ様がいるんだよ」
神社の縁側。
境内を赤く染める夕日の中で、老女は孫へ語りかけた。
かつて白と赤の装束をまとい。
一匹の猿へ果物を差し出した巫女。
長い年月を経て。
今では、白い髪を後ろで結ぶ年齢になっていた。
「ヌシ様?」
隣に座る男の子が、山を見上げる。
まだ幼い。
膝には、祖母が縫ってくれた小さな袋。
中には木の実や、拾った鳥の羽が入っている。
「お山で一番強い動物?」
「一番強いだけじゃ、ヌシ様にはなれないよ」
「じゃあ、一番大きい?」
「それも違うねえ」
老女は笑った。
「山に住むものの声を聞いて」
「人も、獣も、木も、水も」
「みんなが生きていけるように見守るのが、ヌシ様なんだよ」
「どんな姿なの?」
「灰色の狼」
「大きい?」
「とても大きいよ」
老女は両腕を広げて見せた。
「でもね」
「昔は、小さなお猿だったんだって」
「狼なのに?」
「いろいろあったのさ」
男の子は、よく分からないという顔をした。
それでも。
灰色の狼が猿だったという話が面白かったらしく、何度も聞き返してくる。
「そのお猿さんは、どうやって狼になったの?」
「大切な仲間から、命を託されたんだよ」
「仲間は、どうなったの?」
「次の命へ行った」
「また会える?」
「きっとね」
老女は山を見つめた。
あの日。
祭りの舞台へ現れた猿。
人間の作法で社へ祈り。
父から破邪守を受け取った山吉。
一座とともに山へ戻ってから、二度と人里へ姿を見せることはなかった。
だが。
あの年を境に、山は変わった。
白い霧は消え。
細くなっていた沢には水が戻った。
枯れかけていた木々は、何年もかけて新しい葉をつけた。
人里へ下りてくる獣も減っていった。
代わりに。
灰色の狼の話が、少しずつ村へ広がった。
◇
山菜採りへ入った老人が、道に迷った。
日が暮れ。
夜の山で動けなくなったとき。
大きな灰色の狼が現れたという。
襲われると思い。
老人は目を閉じた。
だが、狼は少し先まで歩き。
振り返った。
ついてこい。
そう言っているように。
老人が狼の後を追うと。
やがて、見覚えのある沢へ出た。
麓へ戻った老人は。
神社へ酒を供え、何度も頭を下げた。
◇
別の年。
長雨が続いた。
村の裏山で。
カラスの群れが、夜明け前から激しく鳴いた。
猿たちまで人里近くへ現れ。
屋根や戸を叩き。
人間たちを外へ呼び出した。
普段なら、追い払われる行い。
だが。
灰色の狼が村を見下ろす尾根へ立っているのを、誰かが見つけた。
神主は、すぐに村人を神社へ避難させた。
その日の昼。
山の斜面が崩れた。
数軒の家が土砂に呑まれたが。
亡くなる者はいなかった。
◇
冬の山で。
一人の猟師が倒木の下敷きになったこともあった。
脚が挟まり。
自分の力では抜け出せない。
雪が降り始め。
猟師は死を覚悟した。
そこへ、猿の群れが現れた。
猿たちは枝を集め。
倒木の下へ差し込み。
何匹もで体重をかけた。
木がわずかに持ち上がる。
猟師は脚を抜いた。
動けるようになるまで。
灰色の狼は雪の中に座り。
獣が近づかないよう、そばで見守っていた。
村へ帰った猟師は。
それ以降、必要な数以上の獲物を決して撃たなくなった。
◇
人々は、灰色の狼を新しい山のヌシと呼んだ。
願いを叶える山のヌシ。
だが。
昔のように、願いを持って山の奥へ入ろうとする者はいなくなった。
新しいヌシが。
何でも願いを叶えるわけではないと分かったからだ。
病を治してほしいと願った者には。
薬草の生える場所まで、鳥が道を示した。
金が欲しいと願った者には。
何も起こらなかった。
飢えた村が食べ物を願ったときには。
山菜と木の実の豊かな場所を、猿たちが教えた。
ただし。
持ち帰れる分以上を採ろうとした者は。
何度歩いても、同じ木の前へ戻された。
家族の無事を願った者には。
山へ入る前に家族と話し合えと。
カラスが家の戸を叩いた。
ヌシは。
人が望んだものを、そのまま与えるとは限らない。
願いの奥にあるものを聞き。
本当に必要な道だけを示す。
村では。
そう語られるようになった。
◇
「ヌシ様にお願いしたら」
男の子が尋ねる。
「ぼくも村一番の猟師になれる?」
「どうだろうねえ」
「なりたいんだ」
「どうして?」
「山のことを、何でも知ってる猟師になる」
男の子は胸を張った。
「迷った人がいたら、連れて帰る」
「怪我をした人がいたら、助ける」
「必要な分だけ獲って」
「残りは山に置いてくる」
老女は、孫の横顔を見た。
誰かから教わったわけではない。
まだ山へ入った経験も、ほとんどない。
それなのに。
ときどき、この子は。
昔から山を知っているようなことを言う。
「立派な猟師になれそうだね」
「村一番になる」
「一番になったからって、偉そうにしてはいけないよ」
「分かってる」
「山へ入るときは?」
「神様にご挨拶する」
「山では?」
「必要以上に獲らない」
「命をもらったら?」
「ちゃんと礼を返す」
「それから?」
男の子は少し考える。
「日が暮れる前に帰る」
「よくできました」
老女が頭を撫でると。
男の子は照れたように笑った。
◇
季節が巡った。
夏が過ぎ。
山が赤く色づき。
雪が積もり。
また春が来る。
老女は年々、石段を上ることが難しくなっていた。
神社の仕事の多くは。
息子夫婦と、村の若い者へ任せている。
それでも。
朝と夕方。
社へ手を合わせることだけは欠かさなかった。
ある秋の夜。
老女は、物音で目を覚ました。
木の板を。
硬いものが、静かに踏む音。
一度。
また一度。
風ではない。
猫より重い。
だが。
熊やイノシシほど乱暴でもない。
老女は布団から身体を起こした。
枕元の杖を取る。
隣の部屋では。
孫が静かに眠っている。
老女は家族を起こさなかった。
なぜか。
恐ろしいものではないと分かった。
◇
戸を開ける。
夜の境内。
月明かりが、石畳を白く照らしている。
鳥居の向こう。
大きな影が立っていた。
狼。
深い灰色の毛。
普通の狼より、遥かに大きい身体。
静かな目。
老女は、息を呑んだ。
長い年月。
村の人々から何度も話を聞いた。
遠くから姿を見たこともある。
だが。
これほど近くで会うのは初めてだった。
灰色の狼は。
老女を見つめたまま、ゆっくり歩いてくる。
一歩。
また一歩。
境内へ入る。
その首元に。
白いものが揺れていた。
赤い紐。
白い袋。
古い破邪守。
老女の手から、力が抜けそうになった。
祭りの日。
まだ若かった自分が。
一匹の猿の首へ結んだ御守。
結び目まで。
あの日のままだった。
「あなた……」
声が出かける。
だが。
老女は、その先を言わなかった。
灰色の狼も答えない。
ただ。
首元の赤い紐を前脚で押さえ。
牙を使って、ゆっくりと結び目を解いた。
猿だった頃ほど器用には動かせない。
それでも。
長い時間をかけ。
御守を首から外す。
白い袋を口へくわえ。
老女の前へ置いた。
◇
御守を返しに来た。
それだけなら。
この狼が、あの猿だと断言はできなかったかもしれない。
だが。
灰色の狼は。
御守を置いたあと。
前脚を揃え。
深く頭を下げた。
祭りの舞台で。
観客ではなく。
自分だけへ向けて頭を下げた猿。
一年前の再会を喜び。
人間の言葉を理解し。
山へ戻る前に、何度も振り返った山吉。
同じだった。
姿は変わっている。
大きな灰色の狼。
山のヌシ。
それでも。
老女には分かった。
この目。
この礼。
言葉を使わなくても。
相手へ意思を伝えようとする仕草。
あの日の猿だ。
◇
老女は何も尋ねなかった。
山で何があったのか。
なぜ猿が狼となったのか。
白い霧の主を、どうしたのか。
仲間たちは無事だったのか。
長い年月。
何をしていたのか。
聞きたいことは、いくらでもあった。
だが。
目の前にいる狼と。
蘇った山を見れば。
必要な答えは、すべて分かった。
山吉は戻った。
戦い。
山を救い。
新しいヌシとなった。
御守の役目は終わった。
だから。
返しに来た。
老女は杖を地面へ置いた。
ゆっくり膝を曲げる。
白い破邪守を、両手で拾い上げた。
布は古くなっている。
赤い紐も、ところどころ擦れていた。
それでも。
触れた瞬間。
僅かな温かさが手のひらへ伝わった。
神の加護が。
まだ御守の中に残っている。
老女は御守を胸へ抱いた。
灰色の狼へ頭を下げる。
狼も。
もう一度、頭を下げた。
言葉はなかった。
ありがとう。
無事でよかった。
山を救ってくれた。
信じてくれてありがとう。
互いに。
何を伝えたいのか。
すべて分かっていた。
◇
灰色の狼が顔を上げた。
神社に隣接する家。
孫が眠る部屋へ、視線を向ける。
窓は閉じている。
中の姿は見えない。
それでも。
狼は、何かを感じ取ったように鼻を動かした。
その目が。
わずかに細くなる。
懐かしいものを見つけたように。
老女は、その理由を知らない。
「孫がいるの」
小さな声で伝えた。
「猟師になりたいんだって」
狼の耳が動いた。
「村一番の猟師になるって」
灰色の狼は。
しばらく、孫の眠る部屋を見つめていた。
やがて。
老女へ顔を戻す。
短く息を吐く。
笑ったようにも見えた。
◇
狼は境内を離れていく。
鳥居の前で、一度だけ振り返った。
老女は御守を抱いたまま。
いつまでも立っていた。
灰色の身体が。
月明かりの下。
木々の間へ消えていく。
最後に。
誰も触れていない社の鈴が。
一度だけ鳴った。
◇
翌朝。
男の子は、祖母の手にある御守を見つけた。
「それ、なに?」
「昔、山へ帰るお友達に渡したものだよ」
「返してもらったの?」
「ああ」
「昨日?」
「そうだよ」
「誰が来たの?」
老女は、すぐには答えなかった。
窓を開ける。
朝の光。
境内。
その向こうに見える山。
「ヌシ様」
男の子の目が輝いた。
「来たの?」
「夜中にね」
「起こしてくれればよかったのに!」
「いつか、自分で会いに行きなさい」
「山の奥まで?」
「無理に探してはいけないよ」
老女は男の子へ御守を見せた。
「ヌシ様は」
「会う必要がある者の前へ、自分から現れる」
◇
その日から。
老女は、以前より多くの話を孫へ伝えるようになった。
灰色の狼に導かれ。
山から帰ってきた者。
猿とカラスに助けられた村。
水を取り戻した沢。
必要以上に山菜を採り。
何度も同じ場所へ戻された男。
山へ感謝を返すことで。
再び獲物を得られるようになった猟師。
そして。
山へ入る者が守らなければならない掟。
「必要以上に獲ってはいけない」
「はい」
「持ち帰れる分だけにする」
「はい」
「山から命をもらったら」
「礼を返す」
「日が暮れる前に」
「山を下りる」
「山が急に静かになったら」
「立ち止まって、周りを見る」
「自分の力を」
「過信しない」
男の子は。
一つずつ覚えていった。
教えられる前から知っていた言葉もあった。
初めて聞いたはずなのに。
懐かしいと感じる掟もあった。
「ばあちゃん」
「何だい」
「ぼく、絶対に猟師になる」
「そうかい」
「山の命を無駄にしない猟師になる」
「ああ」
「迷った人を、必ず連れて帰る」
「うん」
「それから」
男の子は山を見上げた。
「ヌシ様と友達になる」
老女は笑った。
「それは、難しいかもしれないねえ」
「大丈夫」
男の子は自信たっぷりに答えた。
「会ったら、きっと分かるから」
◇
少年自身は。
まだ知らない。
なぜ山の掟を聞くたびに。
胸の奥が温かくなるのか。
なぜ猟銃を担いで山を歩く姿を思い浮かべると。
ひどく懐かしい気持ちになるのか。
なぜ灰色の狼の話を聞くと。
ずっと昔に交わした約束を思い出しそうになるのか。
その小さな身体に宿る魂は。
かつて。
一人の孫を救うため。
自らの命を差し出し。
山の奥へ消えた猟師。
源一郎のものだった。
神は約束を守った。
源一郎の魂を。
健康な身体へ。
愛する家族のもとへ。
誰の力にも縛られない、新たな生へ送り出した。
◇
山の尾根。
灰色の狼が、神社を見下ろしていた。
境内では。
老女と男の子が並んでいる。
少年は木の枝を猟銃に見立て。
山へ向かって構えていた。
すぐに老女から叱られ。
慌てて枝を下ろす。
灰色の狼は。
喉の奥で、静かに笑った。
「どんな姿になっても」
「また、お前を見つける」
源一郎が最後に残した言葉。
「俺が見つける」
自分が返した言葉。
約束どおり。
二人は。
同じ山で、再び出会っていた。
今度は。
病に苦しむ孫と。
その命を救おうとする祖父としてではない。
山を守るヌシと。
いつか山の掟を受け継ぐ猟師として。
灰色の狼は立ち上がった。
風が吹く。
山の木々が揺れる。
遠くでカラスが鳴き。
猿たちの声が返ってくる。
新しい命。
古い約束。
受け継がれていく掟。
そのすべてを見守りながら。
山のヌシは。
今日も静かに、山を歩き始めた。




