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山のヌシ  作者: つぶつぶみかん
5.最終章
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24/28

最終話.決着

 黒い狼が、岩を蹴った。


 かつてなら。


 その姿を目で追うことすらできなかった。


 だが、今は違う。


 四本の脚が、地面を通じてヌシの動きを伝えてくる。


 空気の流れ。


 爪が岩を削る音。


 白い霧の揺れ。


 白尾から受け継いだ身体が、黒い狼の動きを知っていた。


 俺は前へ出た。


 逃げるのではない。


 襲いかかるヌシへ、正面から走る。


『愚かな!』


 巨大な前脚が振り下ろされた。


 身体を沈める。


 爪の内側へ潜り込む。


 黒い毛が頭上を通過する。


 そのまま肩へ噛みついた。


 強靭な顎。


 蟻として身につけ。


 何度もの生へ持ち越した力。


 狼の牙へ形を変えたそれが、ヌシの厚い皮膚を貫いた。


 黒い血が口へ流れ込む。


 ヌシが身体を捻った。


 俺は噛みついたまま、四本の脚で踏ん張る。


 以前なら、簡単に振り飛ばされていただろう。


 だが。


 白尾の脚。


 カブトムシとして得た力。


 猿として山を駆けた経験。


 すべてが、今の身体へつながっている。


『離せ!』


 ヌシが岩壁へ身体を向けた。


 俺を叩きつけるつもりだ。


 直前に牙を離す。


 背中を蹴る。


 高く跳ぶ。


 カラスとして空を飛んだ感覚が、落ちる位置を教えてくれる。


 空中で身体を捻り。


 ヌシの反対側へ着地する。


 黒い狼が振り返る。


 その顔へ。


 上空から石が落ちた。


     ◇


 カラスたちが、小さな石を掴んでいる。


 一羽ずつが運べる重さ。


 それを何十羽もが、同時に落とす。


 目。


 鼻。


 耳。


 硬い頭蓋ではなく。


 ヌシが嫌がる場所へ。


 息子のカラスが、短く二度鳴いた。


 次の一団が降下する。


 黒い翼が視界を覆う。


 ヌシが牙を振るう。


 カラスたちは一斉に散った。


 一羽も捕まらない。


 その隙に。


 猿たちが左右から縄を投げた。


 前脚。


 後脚。


 尾。


 何本もの縄が黒い身体へ絡みつく。


 大柄な雄が、岩へ縄を巻きつける。


 群れの長が声を上げる。


 猿たちが、一斉に引いた。


 ヌシの身体が傾く。


『また、このような物を!』


 白い霧が噴き上がった。


 縄を腐らせ。


 猿たちから力を奪おうとする。


 だが。


 俺は霧の中へ飛び込んだ。


 胸に宿る破邪の加護が、白い霧を押し退ける。


 俺を中心に。


 縄へまとわりついていた霧も薄くなった。


 猿たちは手を離さない。


 カラスたちも飛び続ける。


 俺はヌシの前脚へ噛みついた。


 振り上げようとしていた脚を、地面へ引き戻す。


 大柄な雄が槍を突き出した。


 傷を深くするのではない。


 前脚の動きを止める位置。


 小柄な雌が縄の付いた石を投げる。


 反対の脚へ絡みつく。


 ヌシの巨体が。


 再び岩の床へ膝をついた。


     ◇


『我はヌシだ!』


 黒い狼が咆哮する。


 洞窟の天井から石が落ちる。


『この山のすべては、我が力!』


 誰も退かなかった。


 猿たちは縄を引く。


 カラスたちは頭上を飛ぶ。


 洞窟の入口には。


 かつての眷属たちが立っている。


 クマタカ。


 熊。


 イノシシ。


 鹿。


 狐。


 蛇。


 ヌシから力を奪われた獣たち。


 今はもう、命令によって動く眷属ではない。


 それでも。


 彼らも戦いへ加わった。


 クマタカが飛ぶ。


 以前。


 何度も俺を殺した爪。


 その爪が今度は、ヌシの顔を掴んだ。


 両目ではない。


 視界を一瞬だけ塞ぐ。


 ヌシが首を振る。


 クマタカはすぐに離れた。


 熊が横から身体をぶつける。


 イノシシが反対側から牙を当てる。


 鹿が細い足で飛び込み。


 縄を踏み越えようとするヌシの進路を変える。


 一頭では勝てない。


 一匹でも。


 一羽でも。


 ヌシより弱い。


 だが。


 誰も一匹ではなかった。


     ◇


 ヌシが前へ出ようとする。


 猿が縄を引く。


 後ろへ下がれば、熊が道を塞ぐ。


 上を向けば、カラスが目へ向かう。


 顔を伏せれば、俺が脚へ噛みつく。


 白い霧で傷を癒やそうとすれば。


 破邪の加護が、その流れを遮る。


 俺の牙で付けた傷だけは。


 白い霧が触れても、すぐには閉じなかった。


 白尾から受け継いだ血。


 社の神から得た加護。


 それらが、ヌシの力を拒んでいる。


 俺は傷を増やすためだけに戦わなかった。


 右へ追い。


 左へ誘う。


 猿の縄がある場所へ。


 カラスが飛び込みやすい場所へ。


 眷属たちが待つ場所へ。


 自分より強い相手の力を利用する。


 蟻だった頃。


 じいちゃんの声に導かれ。


 初めて使った戦い方。


 ヌシが突進する。


 直前で避ける。


 黒い巨体は止まれない。


 熊とイノシシが左右へ退く。


 その先。


 猿たちが張った縄へ、ヌシの前脚が掛かった。


 巨体が前へ倒れる。


 岩が砕けた。


 俺は背中へ跳び乗った。


 首へ牙を立てる。


 クマタカが翼で顔を覆う。


 カラスたちが尾と後脚を狙う。


 猿たちが縄を締める。


 黒い狼は起き上がれない。


     ◇


『なぜだ』


 ヌシの声が震える。


『我には、山のすべての力がある』


「山の力を集めただけだ」


 牙を離す。


 黒い狼の前へ回る。


「山の命を集めたわけじゃない」


 猿。


 カラス。


 熊。


 クマタカ。


 イノシシ。


 鹿。


 狐。


 蛇。


 異なる姿。


 異なる生き方。


 それぞれが。


 自分の意思で、ここにいる。


「お前は、山の力を自分へ集めた」


「俺は」


 周囲を見る。


「山で出会った仲間に、助けられている」


『同じことだ』


「違う」


『何が違う!』


「俺は、誰にも命令していない」


 猿たちは。


 自分たちの群れを守るために来た。


 カラスたちは。


 受け継いだ群れと山を守るために来た。


 眷属たちは。


 守るべきものを、自分で選んだ。


「ここにいる誰も」


「俺の力じゃない」


「仲間だ」


 ヌシの目が揺れた。


 その身体へ巻きつく縄は。


 黒い狼を力で押さえつけるためだけのものではない。


 ヌシが捨てたもの。


 信頼。


 つながり。


 互いに足りないものを補う力。


 それらが形となって、孤独な狼を押さえ込んでいた。


     ◇


 ヌシが吠えた。


 身体から白い霧が吹き上がる。


 最後の力。


 山から集めた。


 水。


 土。


 木々。


 獣たち。


 眷属。


 白尾。


 源一郎。


 奪い。


 取り込み。


 自分のものにしてきた力。


 そのすべてを放とうとしている。


『ならば』


 縄が次々と切れる。


 猿たちが後ろへ倒れる。


 クマタカが風に押し戻される。


 熊とイノシシも踏ん張れない。


『山ごと消し飛ばしてやる!』


 洞窟が震える。


 天井へ亀裂が走る。


 岩の隙間から。


 白い霧が激しく噴き出した。


 この力を放てば。


 俺だけではない。


 猿も。


 カラスも。


 眷属も。


 洞窟の外にある森さえ。


 すべてが呑み込まれる。


 俺はヌシへ走った。


 止める。


 だが。


 ヌシの周囲へ集まった力が強すぎる。


 破邪の加護が白く輝く。


 それでも前へ進めない。


 前脚を岩へ食い込ませる。


 一歩。


 もう一歩。


 白い霧が視界を覆う。


 黒い狼の輪郭が見えなくなる。


『遅い!』


 ヌシが力を解き放とうとした。


 その瞬間。


 低い声が響いた。


「必要以上に、獲るな」


     ◇


 ヌシの動きが止まった。


 俺も足を止める。


 聞き覚えのある声。


 何度も。


 遠い記憶の中で聞いた。


 幼い自分へ。


 山の歩き方を教えた声。


「持ち帰れる分だけにしろ」


 白い霧の中。


 ヌシの胸元から、淡い光が漏れている。


「山から命をもらったなら」


「礼を返せ」


 黒い狼の身体が震えた。


『黙れ』


 ヌシが自分の胸へ向かって唸る。


『お前は、我が力となった』


「日が暮れる前に、山を下りろ」


『黙れ!』


「自分の力を過信するな」


 源一郎。


 じいちゃんの魂。


 ヌシに取り込まれ。


 長い間。


 力の一部にされていた魂。


 完全には消えていなかった。


 弱いと見下され。


 死にかけだったと笑われ。


 ヌシの中へ取り込まれても。


 じいちゃんは。


 山の掟を忘れていなかった。


「山は」


 源一郎の声が。


 洞窟全体へ響く。


「お前のものじゃない」


     ◇


『我はヌシだ』


 黒い狼が叫ぶ。


『我が救った山だ!』


「だからこそ」


 源一郎の声は静かだった。


「守る力を預かったんだろう」


『我が力だ!』


「預かった力を」


「自分のものだと思うな」


 白い霧が揺れる。


 解き放たれる寸前だった力が。


 ヌシの身体の中で行き場を失っている。


「獲りすぎるな」


「欲張るな」


「弱いものから、必要以上に奪うな」


 俺が幼い頃。


 じいちゃんから教わった言葉。


 何度生まれ変わっても。


 理由を忘れても。


 身体の奥へ残っていた掟。


 蟻として。


 カブトムシとして。


 カラスとして。


 猿として。


 俺の選択を導き続けたもの。


「山で一番強いからって」


「山より偉くなったつもりになるな」


 ヌシの目が大きく開いた。


『黙れ』


「お前は」


「山を守りたかったんじゃないのか」


 その言葉に。


 黒い狼の身体から力が抜けた。


     ◇


 白い霧の中へ。


 過去の景色が浮かぶ。


 乾いた山。


 燃える森。


 水を求める獣たち。


 一頭の黒い狼が。


 爪を剥がし。


 牙を折り。


 血を流しながら、岩の隙間を掘っている。


 その隣には。


 若い白尾。


 黒い狼を止めようとしながら。


 ともに土を掘っている。


 水が流れ出す。


 枯れていた沢へ。


 山の下へ。


 人里の田畑へ。


 黒い狼は。


 山を自分のものにするために救ったのではない。


 苦しむ命を。


 見捨てられなかった。


 だから。


 神は山を預けた。


『我は……』


 ヌシの声が小さくなる。


 さらに景色が流れる。


 最初の願い。


 迷った子どもを、麓まで導いた日。


 飢えた村へ雨を降らせた日。


 子を失った獣を。


 静かに見守った日。


 人間の欲。


 裏切り。


 感謝を忘れた者。


 山を荒らした者。


 願いを叶えても。


 さらに多くを求める者。


 長い年月。


 失望が積み重なる。


 願う者の心を見ることをやめ。


 言葉の隙を探すようになる。


 誰の声も聞かなくなり。


 白尾の忠告すら拒み。


 自分だけが山を正しく理解していると思い始めた。


 そして。


 守るために与えられた力で。


 山から命を奪った。


『我は』


 黒い狼が、枯れた森を見た。


 自分の周囲。


 白い霧。


 細くなった水。


 誰も従わなくなった眷属。


 自分へ牙を向けた山の命。


『間違っていたのか』


「ようやく気づいたか」


 源一郎が答える。


『人は、皆同じだと思った』


「人間だって」


「獣だって」


「一匹ずつ違う」


『願いは、すべて欲だと』


「大切なものを守りたい気持ちまで」


「欲の一言で捨てるな」


『我は』


 ヌシの視線が俺へ向く。


『お前の願いを』


「俺のじゃない」


 俺は答えた。


「じいちゃんの願いだ」


『源一郎の願いを』


「分かっていたはずだ」


『分かっていた』


 初めて。


 ヌシが認めた。


『人として』


『病のない身体で』


『孫に生きてほしいと願っていた』


「それを、お前は歪めた」


『ああ』


「じいちゃんの魂まで奪った」


『ああ』


 黒い狼の頭が。


 ゆっくりと下がった。


『我は』


『ヌシではなくなっていた』


     ◇


 ヌシの身体から。


 集められていた白い霧が離れていく。


 爆発ではない。


 静かに。


 地面へ。


 岩へ。


 木々へ。


 沢へ。


 山のあるべき場所へ戻っていく。


 洞窟の亀裂から外へ流れ。


 枯れた森を通り。


 乾いた土へ染み込む。


 遠くで。


 水の音がした。


 止まりかけていた沢。


 岩の隙間から。


 新しい水が湧き出している。


 ヌシは、自分へ集めていた力を山へ返した。


 巨大だった黒い身体が。


 少しずつ小さくなっていく。


 それでも。


 まだ終わっていない。


 ヌシは目を閉じた。


『源一郎』


 胸元へ残る光へ呼びかける。


『契約を解く』


 黒い身体の中心から。


 淡い光が浮かび上がる。


 人の形。


 年老いた男。


 猟師の服。


 穏やかな顔。


 源一郎。


 じいちゃん。


 ヌシへ取り込まれていた魂が。


 長い年月を経て。


 ようやく解放された。


     ◇


「じいちゃん」


 声が震えた。


 狼の喉から出た唸り。


 それでも。


 じいちゃんには伝わった。


 源一郎は俺を見た。


 灰色の狼。


 人間だった孫の面影など。


 どこにもないはずだった。


 だが。


 じいちゃんは、すぐに笑った。


「大きくなったな」


「分かるのか」


「何度、お前を山で見たと思っとる」


 じいちゃんの魂は。


 ヌシの力として取り込まれていた。


 自由に動くことはできなくても。


 俺が蟻として生まれ。


 カブトムシとなり。


 カラスとなり。


 猿として山へ戻ってくる姿を。


 どこかで感じ続けていたのかもしれない。


「人間へ戻る道を捨てた」


「ああ」


「じいちゃんが望んだ未来を」


「捨てたわけじゃない」


 源一郎は首を横へ振る。


「お前が、自分で別の未来を選んだんだ」


「人間じゃなくても?」


「姿が変わったくらいで」


「孫じゃなくなるものか」


 胸の奥が熱くなる。


 狼の目から。


 涙が落ちた。


「俺は、新しいヌシになる」


「そうか」


「山を守る」


「うん」


「人間の願いも」


「言葉だけじゃなく、心を聞く」


「そうしてくれ」


 源一郎は。


 灰色の身体を見渡した。


 四本の脚。


 牙。


 毛。


 健康な身体。


「山を走り回れる身体だな」


「皮肉だけどな」


「違う」


 じいちゃんが笑う。


「今度は」


「誰かに押しつけられた身体じゃない」


「お前が選んだ身体だ」


 その言葉に。


 ようやく。


 すべてが終わった気がした。


     ◇


『まだだ』


 弱くなったヌシの声。


 俺と源一郎が振り返る。


 黒い狼は立っていた。


 身体は、以前の半分ほどになっている。


 黒かった毛へ。


 灰色が混じり始めていた。


『最後に』


 ヌシが俺へ近づく。


 猿たちが身構える。


 カラスが翼を広げる。


 眷属たちも前へ出る。


「大丈夫だ」


 俺は仲間たちを止めた。


 ヌシから。


 もう殺意は感じなかった。


 黒い狼は、俺の前へ立つ。


 昔。


 山を救った狼。


 長い年月。


 山のヌシとして生きた存在。


『座を譲る』


 ヌシが頭を下げた。


『神より預かった力』


『山と語る権利』


『命の巡りを見守る役目』


『すべて』


『お前へ託す』


「本当にいいのか」


『お前が正しいからではない』


 ヌシの目が。


 猿。


 カラス。


 眷属たちへ向く。


『お前を、山の命が選んだからだ』


 黒い狼が、額を俺の額へ触れさせる。


     ◇


 山の音が流れ込んできた。


 水。


 風。


 土。


 木々の根。


 眠る種。


 巣の中の雛。


 母猿へ抱かれた子。


 夜の森を歩く獣。


 人里で鳴く犬。


 神社の鈴。


 すべてが。


 一つの山としてつながっている。


 力ではない。


 命令でもない。


 声。


 無数の小さな声。


 これまでのヌシは。


 いつしか、それらを聞かなくなった。


 自分の声だけを。


 山の声と思い込んでいた。


 俺は。


 一つずつを聞いた。


 すべてを同時に理解することはできない。


 それでも。


 聞こうとすることはできる。


 黒い狼から。


 最後の光が俺へ移る。


 胸の奥へ。


 白尾の血。


 これまでの命。


 神の加護。


 山の力。


 すべてが重なった。


 洞窟の外。


 神社の方向から。


 鈴の音が響いた。


『山の継承を確認しました』


 生と死を司る神の声。


『旧きヌシの退位を受理します』


『新たな山のヌシを承認します』


     ◇


 力を譲り終えた黒い狼が。


 ゆっくりと後ろへ下がった。


 足が震えている。


 黒かった毛は。


 ほとんど白くなっていた。


 身体も。


 普通の老いた狼と変わらない大きさへ戻っている。


 ヌシの力によって止められていた時間。


 何百年。


 あるいは、それ以上の老いが。


 本来の身体へ戻ってきた。


 黒い狼は。


 白尾が倒れていた場所へ歩いた。


 そこにはもう。


 身体は残っていない。


 俺の新しい命へ。


 すべてを譲ったから。


 老いた狼は。


 何もない岩の前へ伏せた。


『白尾に』


 息が浅い。


『謝る資格は、あるだろうか』


「それは」


 俺は答えた。


「次に会ったとき、自分で聞け」


 老いた狼の目が。


 わずかに細くなった。


『そうか』


 静かな声。


『ならば』


『長く待たせるわけにはいかぬな』


 老いた狼は。


 頭を前脚の上へ置いた。


『山を』


「守る」


『願いを』


「心まで聞く」


『力を』


「必要以上に集めない」


『白尾を』


「忘れない」


 狼は目を閉じた。


『ならば』


『我から言うことはない』


 呼吸が。


 ゆっくりになる。


 一度。


 もう一度。


 そして。


 二度と胸は動かなかった。


 山を救い。


 山を支配し。


 道を誤り。


 最後には過ちを認めた狼。


 旧きヌシは。


 誰かに殺されるのではなく。


 本来迎えるはずだった寿命によって。


 静かに生涯を終えた。


     ◇


 源一郎の身体が。


 淡い光へ包まれ始めた。


 神のもとへ召される時。


「もう行くのか」


「ああ」


「もっと話したい」


「お前には、これから長い時間がある」


「じいちゃんとは」


「また会える」


 白尾との約束を思い出す。


 神は。


 彼女を新しい命へ送ると約束した。


 源一郎も。


 次の生へ向かう。


「次も、じいちゃんとして生まれるのか」


「それは神様次第だな」


 源一郎が笑う。


「でも」


 光の中から。


 手が伸ばされる。


 人の手。


 俺は鼻先を近づけた。


 じいちゃんの手が。


 灰色の毛へ触れる。


 温かい。


「どんな姿になっても」


「また、お前を見つける」


「俺が見つける」


「なら競争だ」


 子どもの頃。


 山道で交わしたような言葉。


「じいちゃん」


「何だ」


「ありがとう」


 源一郎は。


 しばらく俺を見つめた。


「よく頑張ったな」


 その言葉を最後に。


 源一郎の魂は光となった。


 洞窟の外へ。


 山の麓へ。


 神社の方向へ昇っていく。


 遠くで。


 もう一度。


 鈴が鳴った。


     ◇


 洞窟に静けさが戻る。


 俺は振り返った。


 猿の群れ。


 カラスたち。


 かつての眷属。


 全員が俺を見ている。


 クマタカが最初に頭を下げた。


 熊。


 イノシシ。


 鹿。


 狐。


 蛇。


 眷属たちが続く。


 猿の群れも。


 地面へ手をつこうとした。


「やめろ」


 俺の意思が。


 山全体へ届く。


 全員が顔を上げた。


「俺は」


「お前たちの上に立つために、ヌシになったんじゃない」


 クマタカが尋ねる。


『ならば』


『我らは、あなたを何と呼べばよい』


「好きに呼べ」


 息子のカラスが。


 短く二度鳴いた。


 父。


 猿の大柄な雄が。


 胸を一度叩く。


 仲間。


 どちらも。


 今の俺を表すものだった。


「ただ」


 洞窟の外を見る。


 朝の光。


 白い霧は消え。


 枯れた森の奥から。


 水の音が聞こえている。


「山の声が聞こえたら」


「俺にも教えてくれ」


「俺が間違ったら」


「止めてくれ」


 白尾がしたように。


 眷属たちが最後にしたように。


 俺を疑い。


 俺へ逆らうことが。


 山を守ることになる日もある。


「ヌシだからといって」


「一匹で全部を決めるつもりはない」


 猿たちが声を上げる。


 カラスたちが飛ぶ。


 獣たちも。


 それぞれの声で応えた。


     ◇


 俺は洞窟の外へ出た。


 四本の脚で岩場へ立つ。


 白尾から受け継いだ身体。


 じいちゃんが願った。


 病のない。


 山を走り回れる健康な身体。


 だが、もう。


 誰かに押しつけられた呪いではない。


 自分で選んだ。


 最後の身体。


 俺は山を見渡した。


 枯れた木々。


 細い沢。


 崩れた斜面。


 傷ついた山。


 すぐに元へ戻るわけではない。


 何年。


 何十年。


 さらに長い時間が必要になるかもしれない。


 それでも。


 水は流れ始めている。


 土の下では。


 眠っていた虫が動く。


 枝には。


 逃げていた鳥が戻り始める。


 山は。


 まだ生きていた。


 胸の奥に。


 無数の声が届く。


 強い命。


 弱い命。


 人間。


 獣。


 木。


 水。


 すべてを正しく理解できるわけではない。


 願いを。


 いつも正しく叶えられるとも限らない。


 だから。


 聞く。


 決めつけない。


 分からなければ問い返す。


 誰かの言葉ではなく。


 その心を見る。


 それが。


 俺のヌシとしての掟。


 俺は頭を上げた。


 新しい山へ向かって。


 長く。


 遠くまで届く声で吠えた。


 猿たちの声が重なる。


 黒い翼が空を覆う。


 獣たちの声が。


 山のあちこちから返ってくる。


 その声に応えるように。


 沢の水が流れ。


 木々が揺れ。


 山が。


 長い眠りから、ゆっくりと息を吹き返した。


 こうして。


 幾度もの命を生きた灰色の狼は。


 山に生きるものたちから選ばれ。


 新たな山のヌシとなった。

もうちょっとだけ続くんじゃ

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