最終話.決着
黒い狼が、岩を蹴った。
かつてなら。
その姿を目で追うことすらできなかった。
だが、今は違う。
四本の脚が、地面を通じてヌシの動きを伝えてくる。
空気の流れ。
爪が岩を削る音。
白い霧の揺れ。
白尾から受け継いだ身体が、黒い狼の動きを知っていた。
俺は前へ出た。
逃げるのではない。
襲いかかるヌシへ、正面から走る。
『愚かな!』
巨大な前脚が振り下ろされた。
身体を沈める。
爪の内側へ潜り込む。
黒い毛が頭上を通過する。
そのまま肩へ噛みついた。
強靭な顎。
蟻として身につけ。
何度もの生へ持ち越した力。
狼の牙へ形を変えたそれが、ヌシの厚い皮膚を貫いた。
黒い血が口へ流れ込む。
ヌシが身体を捻った。
俺は噛みついたまま、四本の脚で踏ん張る。
以前なら、簡単に振り飛ばされていただろう。
だが。
白尾の脚。
カブトムシとして得た力。
猿として山を駆けた経験。
すべてが、今の身体へつながっている。
『離せ!』
ヌシが岩壁へ身体を向けた。
俺を叩きつけるつもりだ。
直前に牙を離す。
背中を蹴る。
高く跳ぶ。
カラスとして空を飛んだ感覚が、落ちる位置を教えてくれる。
空中で身体を捻り。
ヌシの反対側へ着地する。
黒い狼が振り返る。
その顔へ。
上空から石が落ちた。
◇
カラスたちが、小さな石を掴んでいる。
一羽ずつが運べる重さ。
それを何十羽もが、同時に落とす。
目。
鼻。
耳。
硬い頭蓋ではなく。
ヌシが嫌がる場所へ。
息子のカラスが、短く二度鳴いた。
次の一団が降下する。
黒い翼が視界を覆う。
ヌシが牙を振るう。
カラスたちは一斉に散った。
一羽も捕まらない。
その隙に。
猿たちが左右から縄を投げた。
前脚。
後脚。
尾。
何本もの縄が黒い身体へ絡みつく。
大柄な雄が、岩へ縄を巻きつける。
群れの長が声を上げる。
猿たちが、一斉に引いた。
ヌシの身体が傾く。
『また、このような物を!』
白い霧が噴き上がった。
縄を腐らせ。
猿たちから力を奪おうとする。
だが。
俺は霧の中へ飛び込んだ。
胸に宿る破邪の加護が、白い霧を押し退ける。
俺を中心に。
縄へまとわりついていた霧も薄くなった。
猿たちは手を離さない。
カラスたちも飛び続ける。
俺はヌシの前脚へ噛みついた。
振り上げようとしていた脚を、地面へ引き戻す。
大柄な雄が槍を突き出した。
傷を深くするのではない。
前脚の動きを止める位置。
小柄な雌が縄の付いた石を投げる。
反対の脚へ絡みつく。
ヌシの巨体が。
再び岩の床へ膝をついた。
◇
『我はヌシだ!』
黒い狼が咆哮する。
洞窟の天井から石が落ちる。
『この山のすべては、我が力!』
誰も退かなかった。
猿たちは縄を引く。
カラスたちは頭上を飛ぶ。
洞窟の入口には。
かつての眷属たちが立っている。
クマタカ。
熊。
イノシシ。
鹿。
狐。
蛇。
ヌシから力を奪われた獣たち。
今はもう、命令によって動く眷属ではない。
それでも。
彼らも戦いへ加わった。
クマタカが飛ぶ。
以前。
何度も俺を殺した爪。
その爪が今度は、ヌシの顔を掴んだ。
両目ではない。
視界を一瞬だけ塞ぐ。
ヌシが首を振る。
クマタカはすぐに離れた。
熊が横から身体をぶつける。
イノシシが反対側から牙を当てる。
鹿が細い足で飛び込み。
縄を踏み越えようとするヌシの進路を変える。
一頭では勝てない。
一匹でも。
一羽でも。
ヌシより弱い。
だが。
誰も一匹ではなかった。
◇
ヌシが前へ出ようとする。
猿が縄を引く。
後ろへ下がれば、熊が道を塞ぐ。
上を向けば、カラスが目へ向かう。
顔を伏せれば、俺が脚へ噛みつく。
白い霧で傷を癒やそうとすれば。
破邪の加護が、その流れを遮る。
俺の牙で付けた傷だけは。
白い霧が触れても、すぐには閉じなかった。
白尾から受け継いだ血。
社の神から得た加護。
それらが、ヌシの力を拒んでいる。
俺は傷を増やすためだけに戦わなかった。
右へ追い。
左へ誘う。
猿の縄がある場所へ。
カラスが飛び込みやすい場所へ。
眷属たちが待つ場所へ。
自分より強い相手の力を利用する。
蟻だった頃。
じいちゃんの声に導かれ。
初めて使った戦い方。
ヌシが突進する。
直前で避ける。
黒い巨体は止まれない。
熊とイノシシが左右へ退く。
その先。
猿たちが張った縄へ、ヌシの前脚が掛かった。
巨体が前へ倒れる。
岩が砕けた。
俺は背中へ跳び乗った。
首へ牙を立てる。
クマタカが翼で顔を覆う。
カラスたちが尾と後脚を狙う。
猿たちが縄を締める。
黒い狼は起き上がれない。
◇
『なぜだ』
ヌシの声が震える。
『我には、山のすべての力がある』
「山の力を集めただけだ」
牙を離す。
黒い狼の前へ回る。
「山の命を集めたわけじゃない」
猿。
カラス。
熊。
クマタカ。
イノシシ。
鹿。
狐。
蛇。
異なる姿。
異なる生き方。
それぞれが。
自分の意思で、ここにいる。
「お前は、山の力を自分へ集めた」
「俺は」
周囲を見る。
「山で出会った仲間に、助けられている」
『同じことだ』
「違う」
『何が違う!』
「俺は、誰にも命令していない」
猿たちは。
自分たちの群れを守るために来た。
カラスたちは。
受け継いだ群れと山を守るために来た。
眷属たちは。
守るべきものを、自分で選んだ。
「ここにいる誰も」
「俺の力じゃない」
「仲間だ」
ヌシの目が揺れた。
その身体へ巻きつく縄は。
黒い狼を力で押さえつけるためだけのものではない。
ヌシが捨てたもの。
信頼。
つながり。
互いに足りないものを補う力。
それらが形となって、孤独な狼を押さえ込んでいた。
◇
ヌシが吠えた。
身体から白い霧が吹き上がる。
最後の力。
山から集めた。
水。
土。
木々。
獣たち。
眷属。
白尾。
源一郎。
奪い。
取り込み。
自分のものにしてきた力。
そのすべてを放とうとしている。
『ならば』
縄が次々と切れる。
猿たちが後ろへ倒れる。
クマタカが風に押し戻される。
熊とイノシシも踏ん張れない。
『山ごと消し飛ばしてやる!』
洞窟が震える。
天井へ亀裂が走る。
岩の隙間から。
白い霧が激しく噴き出した。
この力を放てば。
俺だけではない。
猿も。
カラスも。
眷属も。
洞窟の外にある森さえ。
すべてが呑み込まれる。
俺はヌシへ走った。
止める。
だが。
ヌシの周囲へ集まった力が強すぎる。
破邪の加護が白く輝く。
それでも前へ進めない。
前脚を岩へ食い込ませる。
一歩。
もう一歩。
白い霧が視界を覆う。
黒い狼の輪郭が見えなくなる。
『遅い!』
ヌシが力を解き放とうとした。
その瞬間。
低い声が響いた。
「必要以上に、獲るな」
◇
ヌシの動きが止まった。
俺も足を止める。
聞き覚えのある声。
何度も。
遠い記憶の中で聞いた。
幼い自分へ。
山の歩き方を教えた声。
「持ち帰れる分だけにしろ」
白い霧の中。
ヌシの胸元から、淡い光が漏れている。
「山から命をもらったなら」
「礼を返せ」
黒い狼の身体が震えた。
『黙れ』
ヌシが自分の胸へ向かって唸る。
『お前は、我が力となった』
「日が暮れる前に、山を下りろ」
『黙れ!』
「自分の力を過信するな」
源一郎。
じいちゃんの魂。
ヌシに取り込まれ。
長い間。
力の一部にされていた魂。
完全には消えていなかった。
弱いと見下され。
死にかけだったと笑われ。
ヌシの中へ取り込まれても。
じいちゃんは。
山の掟を忘れていなかった。
「山は」
源一郎の声が。
洞窟全体へ響く。
「お前のものじゃない」
◇
『我はヌシだ』
黒い狼が叫ぶ。
『我が救った山だ!』
「だからこそ」
源一郎の声は静かだった。
「守る力を預かったんだろう」
『我が力だ!』
「預かった力を」
「自分のものだと思うな」
白い霧が揺れる。
解き放たれる寸前だった力が。
ヌシの身体の中で行き場を失っている。
「獲りすぎるな」
「欲張るな」
「弱いものから、必要以上に奪うな」
俺が幼い頃。
じいちゃんから教わった言葉。
何度生まれ変わっても。
理由を忘れても。
身体の奥へ残っていた掟。
蟻として。
カブトムシとして。
カラスとして。
猿として。
俺の選択を導き続けたもの。
「山で一番強いからって」
「山より偉くなったつもりになるな」
ヌシの目が大きく開いた。
『黙れ』
「お前は」
「山を守りたかったんじゃないのか」
その言葉に。
黒い狼の身体から力が抜けた。
◇
白い霧の中へ。
過去の景色が浮かぶ。
乾いた山。
燃える森。
水を求める獣たち。
一頭の黒い狼が。
爪を剥がし。
牙を折り。
血を流しながら、岩の隙間を掘っている。
その隣には。
若い白尾。
黒い狼を止めようとしながら。
ともに土を掘っている。
水が流れ出す。
枯れていた沢へ。
山の下へ。
人里の田畑へ。
黒い狼は。
山を自分のものにするために救ったのではない。
苦しむ命を。
見捨てられなかった。
だから。
神は山を預けた。
『我は……』
ヌシの声が小さくなる。
さらに景色が流れる。
最初の願い。
迷った子どもを、麓まで導いた日。
飢えた村へ雨を降らせた日。
子を失った獣を。
静かに見守った日。
人間の欲。
裏切り。
感謝を忘れた者。
山を荒らした者。
願いを叶えても。
さらに多くを求める者。
長い年月。
失望が積み重なる。
願う者の心を見ることをやめ。
言葉の隙を探すようになる。
誰の声も聞かなくなり。
白尾の忠告すら拒み。
自分だけが山を正しく理解していると思い始めた。
そして。
守るために与えられた力で。
山から命を奪った。
『我は』
黒い狼が、枯れた森を見た。
自分の周囲。
白い霧。
細くなった水。
誰も従わなくなった眷属。
自分へ牙を向けた山の命。
『間違っていたのか』
「ようやく気づいたか」
源一郎が答える。
『人は、皆同じだと思った』
「人間だって」
「獣だって」
「一匹ずつ違う」
『願いは、すべて欲だと』
「大切なものを守りたい気持ちまで」
「欲の一言で捨てるな」
『我は』
ヌシの視線が俺へ向く。
『お前の願いを』
「俺のじゃない」
俺は答えた。
「じいちゃんの願いだ」
『源一郎の願いを』
「分かっていたはずだ」
『分かっていた』
初めて。
ヌシが認めた。
『人として』
『病のない身体で』
『孫に生きてほしいと願っていた』
「それを、お前は歪めた」
『ああ』
「じいちゃんの魂まで奪った」
『ああ』
黒い狼の頭が。
ゆっくりと下がった。
『我は』
『ヌシではなくなっていた』
◇
ヌシの身体から。
集められていた白い霧が離れていく。
爆発ではない。
静かに。
地面へ。
岩へ。
木々へ。
沢へ。
山のあるべき場所へ戻っていく。
洞窟の亀裂から外へ流れ。
枯れた森を通り。
乾いた土へ染み込む。
遠くで。
水の音がした。
止まりかけていた沢。
岩の隙間から。
新しい水が湧き出している。
ヌシは、自分へ集めていた力を山へ返した。
巨大だった黒い身体が。
少しずつ小さくなっていく。
それでも。
まだ終わっていない。
ヌシは目を閉じた。
『源一郎』
胸元へ残る光へ呼びかける。
『契約を解く』
黒い身体の中心から。
淡い光が浮かび上がる。
人の形。
年老いた男。
猟師の服。
穏やかな顔。
源一郎。
じいちゃん。
ヌシへ取り込まれていた魂が。
長い年月を経て。
ようやく解放された。
◇
「じいちゃん」
声が震えた。
狼の喉から出た唸り。
それでも。
じいちゃんには伝わった。
源一郎は俺を見た。
灰色の狼。
人間だった孫の面影など。
どこにもないはずだった。
だが。
じいちゃんは、すぐに笑った。
「大きくなったな」
「分かるのか」
「何度、お前を山で見たと思っとる」
じいちゃんの魂は。
ヌシの力として取り込まれていた。
自由に動くことはできなくても。
俺が蟻として生まれ。
カブトムシとなり。
カラスとなり。
猿として山へ戻ってくる姿を。
どこかで感じ続けていたのかもしれない。
「人間へ戻る道を捨てた」
「ああ」
「じいちゃんが望んだ未来を」
「捨てたわけじゃない」
源一郎は首を横へ振る。
「お前が、自分で別の未来を選んだんだ」
「人間じゃなくても?」
「姿が変わったくらいで」
「孫じゃなくなるものか」
胸の奥が熱くなる。
狼の目から。
涙が落ちた。
「俺は、新しいヌシになる」
「そうか」
「山を守る」
「うん」
「人間の願いも」
「言葉だけじゃなく、心を聞く」
「そうしてくれ」
源一郎は。
灰色の身体を見渡した。
四本の脚。
牙。
毛。
健康な身体。
「山を走り回れる身体だな」
「皮肉だけどな」
「違う」
じいちゃんが笑う。
「今度は」
「誰かに押しつけられた身体じゃない」
「お前が選んだ身体だ」
その言葉に。
ようやく。
すべてが終わった気がした。
◇
『まだだ』
弱くなったヌシの声。
俺と源一郎が振り返る。
黒い狼は立っていた。
身体は、以前の半分ほどになっている。
黒かった毛へ。
灰色が混じり始めていた。
『最後に』
ヌシが俺へ近づく。
猿たちが身構える。
カラスが翼を広げる。
眷属たちも前へ出る。
「大丈夫だ」
俺は仲間たちを止めた。
ヌシから。
もう殺意は感じなかった。
黒い狼は、俺の前へ立つ。
昔。
山を救った狼。
長い年月。
山のヌシとして生きた存在。
『座を譲る』
ヌシが頭を下げた。
『神より預かった力』
『山と語る権利』
『命の巡りを見守る役目』
『すべて』
『お前へ託す』
「本当にいいのか」
『お前が正しいからではない』
ヌシの目が。
猿。
カラス。
眷属たちへ向く。
『お前を、山の命が選んだからだ』
黒い狼が、額を俺の額へ触れさせる。
◇
山の音が流れ込んできた。
水。
風。
土。
木々の根。
眠る種。
巣の中の雛。
母猿へ抱かれた子。
夜の森を歩く獣。
人里で鳴く犬。
神社の鈴。
すべてが。
一つの山としてつながっている。
力ではない。
命令でもない。
声。
無数の小さな声。
これまでのヌシは。
いつしか、それらを聞かなくなった。
自分の声だけを。
山の声と思い込んでいた。
俺は。
一つずつを聞いた。
すべてを同時に理解することはできない。
それでも。
聞こうとすることはできる。
黒い狼から。
最後の光が俺へ移る。
胸の奥へ。
白尾の血。
これまでの命。
神の加護。
山の力。
すべてが重なった。
洞窟の外。
神社の方向から。
鈴の音が響いた。
『山の継承を確認しました』
生と死を司る神の声。
『旧きヌシの退位を受理します』
『新たな山のヌシを承認します』
◇
力を譲り終えた黒い狼が。
ゆっくりと後ろへ下がった。
足が震えている。
黒かった毛は。
ほとんど白くなっていた。
身体も。
普通の老いた狼と変わらない大きさへ戻っている。
ヌシの力によって止められていた時間。
何百年。
あるいは、それ以上の老いが。
本来の身体へ戻ってきた。
黒い狼は。
白尾が倒れていた場所へ歩いた。
そこにはもう。
身体は残っていない。
俺の新しい命へ。
すべてを譲ったから。
老いた狼は。
何もない岩の前へ伏せた。
『白尾に』
息が浅い。
『謝る資格は、あるだろうか』
「それは」
俺は答えた。
「次に会ったとき、自分で聞け」
老いた狼の目が。
わずかに細くなった。
『そうか』
静かな声。
『ならば』
『長く待たせるわけにはいかぬな』
老いた狼は。
頭を前脚の上へ置いた。
『山を』
「守る」
『願いを』
「心まで聞く」
『力を』
「必要以上に集めない」
『白尾を』
「忘れない」
狼は目を閉じた。
『ならば』
『我から言うことはない』
呼吸が。
ゆっくりになる。
一度。
もう一度。
そして。
二度と胸は動かなかった。
山を救い。
山を支配し。
道を誤り。
最後には過ちを認めた狼。
旧きヌシは。
誰かに殺されるのではなく。
本来迎えるはずだった寿命によって。
静かに生涯を終えた。
◇
源一郎の身体が。
淡い光へ包まれ始めた。
神のもとへ召される時。
「もう行くのか」
「ああ」
「もっと話したい」
「お前には、これから長い時間がある」
「じいちゃんとは」
「また会える」
白尾との約束を思い出す。
神は。
彼女を新しい命へ送ると約束した。
源一郎も。
次の生へ向かう。
「次も、じいちゃんとして生まれるのか」
「それは神様次第だな」
源一郎が笑う。
「でも」
光の中から。
手が伸ばされる。
人の手。
俺は鼻先を近づけた。
じいちゃんの手が。
灰色の毛へ触れる。
温かい。
「どんな姿になっても」
「また、お前を見つける」
「俺が見つける」
「なら競争だ」
子どもの頃。
山道で交わしたような言葉。
「じいちゃん」
「何だ」
「ありがとう」
源一郎は。
しばらく俺を見つめた。
「よく頑張ったな」
その言葉を最後に。
源一郎の魂は光となった。
洞窟の外へ。
山の麓へ。
神社の方向へ昇っていく。
遠くで。
もう一度。
鈴が鳴った。
◇
洞窟に静けさが戻る。
俺は振り返った。
猿の群れ。
カラスたち。
かつての眷属。
全員が俺を見ている。
クマタカが最初に頭を下げた。
熊。
イノシシ。
鹿。
狐。
蛇。
眷属たちが続く。
猿の群れも。
地面へ手をつこうとした。
「やめろ」
俺の意思が。
山全体へ届く。
全員が顔を上げた。
「俺は」
「お前たちの上に立つために、ヌシになったんじゃない」
クマタカが尋ねる。
『ならば』
『我らは、あなたを何と呼べばよい』
「好きに呼べ」
息子のカラスが。
短く二度鳴いた。
父。
猿の大柄な雄が。
胸を一度叩く。
仲間。
どちらも。
今の俺を表すものだった。
「ただ」
洞窟の外を見る。
朝の光。
白い霧は消え。
枯れた森の奥から。
水の音が聞こえている。
「山の声が聞こえたら」
「俺にも教えてくれ」
「俺が間違ったら」
「止めてくれ」
白尾がしたように。
眷属たちが最後にしたように。
俺を疑い。
俺へ逆らうことが。
山を守ることになる日もある。
「ヌシだからといって」
「一匹で全部を決めるつもりはない」
猿たちが声を上げる。
カラスたちが飛ぶ。
獣たちも。
それぞれの声で応えた。
◇
俺は洞窟の外へ出た。
四本の脚で岩場へ立つ。
白尾から受け継いだ身体。
じいちゃんが願った。
病のない。
山を走り回れる健康な身体。
だが、もう。
誰かに押しつけられた呪いではない。
自分で選んだ。
最後の身体。
俺は山を見渡した。
枯れた木々。
細い沢。
崩れた斜面。
傷ついた山。
すぐに元へ戻るわけではない。
何年。
何十年。
さらに長い時間が必要になるかもしれない。
それでも。
水は流れ始めている。
土の下では。
眠っていた虫が動く。
枝には。
逃げていた鳥が戻り始める。
山は。
まだ生きていた。
胸の奥に。
無数の声が届く。
強い命。
弱い命。
人間。
獣。
木。
水。
すべてを正しく理解できるわけではない。
願いを。
いつも正しく叶えられるとも限らない。
だから。
聞く。
決めつけない。
分からなければ問い返す。
誰かの言葉ではなく。
その心を見る。
それが。
俺のヌシとしての掟。
俺は頭を上げた。
新しい山へ向かって。
長く。
遠くまで届く声で吠えた。
猿たちの声が重なる。
黒い翼が空を覆う。
獣たちの声が。
山のあちこちから返ってくる。
その声に応えるように。
沢の水が流れ。
木々が揺れ。
山が。
長い眠りから、ゆっくりと息を吹き返した。
こうして。
幾度もの命を生きた灰色の狼は。
山に生きるものたちから選ばれ。
新たな山のヌシとなった。
もうちょっとだけ続くんじゃ




