4-7.最後の転生
『特殊進化条件を達成しました』
神の声が響いた。
白い光が、俺と白尾を包み込む。
岩の床。
流れ続ける血。
仲間たちの声。
頭上を飛ぶカラスの羽音。
こちらへ近づいてくるヌシの足音。
すべてが遠ざかっていく。
『何だ』
ヌシの声だけが、かすかに聞こえた。
『また、あの神か』
黒い前脚が振り下ろされる。
だが、その爪が届くより早く。
視界が白く染まった。
◇
痛みが消えていた。
胸から腹へ走っていた傷も。
血が喉へ上がる感覚もない。
身体を起こす。
そこは、何度も訪れた暗闇ではなかった。
白い空間。
地面も。
空も。
境目がない。
ただ淡い光が広がっている。
自分の身体を見る。
ニホンザルの姿。
胸の傷は残っている。
だが、血は流れていない。
痛みもない。
生きている身体そのものではない。
魂だけが、一時的にここへ呼ばれている。
隣に。
白尾が横たわっていた。
「白尾」
今度は声になった。
猿の鳴き声ではない。
人間だった頃の言葉。
白尾がゆっくりと目を開く。
光を失っていたはずの瞳に、わずかな輝きが戻っている。
『ここは……』
「死後の場所に似ている」
だが、いつもの空間とは違う。
死亡の記録も。
これまでの生の集計も表示されない。
俺も白尾も、まだ完全には死んでいない。
生と死の境目。
そのさらに手前。
最後の選択をするために作られた場所。
俺たちの前へ、光が集まった。
人の形。
顔は見えない。
男でも。
女でもない。
老いても。
若くも見える。
神社で感じた気配。
死後の暗闇で、何度も俺へ道を示してきた存在。
生と死の境を司る神。
『二名の魂を、一時的に隔離しました』
いつもと変わらない声。
だが。
今は、その言葉の奥にある感情が分かる。
急いでいる。
そして。
俺たちの選択を重く受け止めている。
「ヌシはどうなっている」
『現世の時間は、ほぼ停止しています』
『完全に止めることはできません』
『選択に使える時間は限られています』
「仲間たちは」
『現在、生存しています』
「白尾は?」
神は、すぐに答えなかった。
白尾が小さく息を吐く。
『私は、自分の身体のことくらい分かる』
岩へ叩きつけられた傷。
奪われた力。
本来なら、とうに尽きていた寿命。
現世へ戻っても。
白尾が長く生きられないことは明らかだった。
『説明します』
神が手を上げる。
白い空間へ、二つの光景が浮かんだ。
一つは。
岩の床へ倒れた俺。
胸から腹へ、深い傷。
その先へ伸ばされた左手。
もう一つは。
白尾。
白く変わった毛。
動かない身体。
二匹の間に。
血が広がっていた。
俺の赤い血。
白尾の身体から流れた、黒みを帯びた血。
二つが岩の窪みで触れ。
ゆっくりと混ざっていく。
『あなたが白尾へ到達したとき』
『二つの血が交わりました』
「それが、進化条件なのか」
『血だけではありません』
文字が空間へ浮かぶ。
――――――――――
【特殊進化条件】
山のヌシと同系統の血を持つ個体との接触
ヌシの力を長期間宿した生命からの自発的継承
山の掟に基づく複数生の達成
山に生きる複数種族からの支持
現ヌシへの正式な座の要求
社の神による破邪の加護
進化対象者と継承者、双方の瀕死状態
――――――――――
白尾は、長い間ヌシの番だった。
ヌシとなる前から。
同じ山を走り。
同じ獲物を追い。
同じ場所で生きた狼。
ヌシが力を得たあとも。
その一部を分け与えられていた。
『白尾の肉体には』
『現ヌシと同じ狼としての血と』
『山の力へ適応した性質が残っています』
「その血を使えば」
『あなたは、現ヌシと同じ系統の狼へ転生できます』
白い文字が切り替わる。
――――――――――
【特殊進化先】
山狼
【進化形態】
生体転生
【必要条件】
白尾からの全生命力の譲渡
現在の肉体の放棄
人間への転生権の放棄
――――――――――
「生体転生?」
『死亡後に次の生を始める通常転生とは異なります』
『現在の魂を』
『白尾の残された生命と血を器として再構成し』
『戦場へ新たな身体で戻します』
「今すぐ、狼になるのか」
『はい』
ヌシと同じ身体。
牙。
爪。
四本の脚。
山を駆けるための力。
猿の身体では届かなかった相手へ。
同じ狼として挑める。
神は続けた。
『ただし』
白尾を見る。
『この進化を実行した場合』
『白尾の現世での死が確定します』
白尾は反応しなかった。
すでに覚悟していたように。
静かに神を見ている。
「進化しなくても、白尾を助けられないのか」
『現世へ戻ったあと』
『治療を施す時間は残されていません』
『しかし』
『特殊進化を行わなければ、魂を完全な形で回収できる可能性があります』
「どういう意味だ」
『白尾に残された生命を使わなければ』
『肉体の死後、通常の輪廻へ送れます』
『特殊進化へすべてを譲渡した場合』
『白尾の魂にも、大きな負担が生じます』
「魂まで消えるのか」
『消滅はさせません』
神の声が、わずかに強くなる。
『そのために、私がここにいます』
『ただし、転生までに長い休息が必要になります』
『記憶や力の一部を失う可能性もあります』
白尾が、ゆっくりと身体を起こした。
年老いた狼。
この空間でも、その姿は変わらない。
白くなった毛。
痩せた身体。
それでも。
瞳だけは穏やかだった。
『迷う必要はない』
「白尾」
『私の身体は、もう終わっている』
「でも、進化しなければ――」
『少し早く終わるか』
『少し遅く終わるかの違いだ』
白尾は神へ向き直る。
『私に残るすべてを、この者へ譲る』
即答だった。
『拒否権を確認します』
『これは、現ヌシから与えられた力だけではありません』
『あなた自身の生命』
『長く生きた経験』
『狼としての血』
『次の生へ持ち越せる魂の力の一部も含まれます』
『理解していますか』
『理解している』
『後悔する可能性は』
『ない』
神の問いへ。
白尾は迷わず答えた。
『私は、長く生きすぎた』
『本来なら、とうに土へ返っていた命だ』
『あれの隣へ残り』
『いつか昔の姿へ戻ると信じ』
『変わり続ける山を見ていた』
白尾の視線が遠くへ向く。
白い空間の中に。
かつての山が見えているのかもしれない。
黒い狼と並び。
若い身体で森を走った日々。
『私は、止められなかった』
「白尾のせいじゃない」
『それでも』
『番として』
『山に生きた狼として』
『最後まで見届ける責任がある』
白尾は俺を見る。
『お前は、あれを倒すためだけに来たのではない』
『山を生かすために来た』
『だから、お前へ譲る』
「俺が勝てるとは限らない」
『知っている』
「狼になっても、ヌシのほうが強いかもしれない」
『それも知っている』
「それでも?」
『それでも』
白尾が目を細める。
『お前は、一匹ではない』
猿の仲間。
カラスの息子と孫たち。
力を失っても道を譲った眷属。
神社の巫女。
神主。
猿廻しの一座。
じいちゃん。
何度もの生で出会ったもの。
すべてが。
今の俺を作っている。
『あれは、すべてを自分へ集めた』
『お前は、出会ったものを自分の中へ残した』
『同じ狼になっても』
『お前たちは、同じにはならぬ』
◇
「もう一つの条件は何だ」
俺は神へ尋ねた。
「人間への転生権を放棄するというのは」
神の周囲へ、淡い光が集まる。
一人の少年の姿。
病院のベッドではない。
健康な身体。
二本の脚。
人間の手。
外を走っている。
『源一郎と交わした約束は、まだ失われていません』
『現ヌシの呪いを破り』
『あなたの魂を回収できれば』
『健康な人間として転生させる道が残されています』
じいちゃんが神へ願ったもの。
人間だった俺が。
病のない身体で。
もう一度、自分の人生を生きる未来。
ニホンザルの生を終え。
ヌシの呪いを解いたあと。
人間へ戻ることができる。
『しかし』
『山狼への特殊進化は』
『あなたの魂を、山の命と深く結びつけます』
『一度実行すれば』
『人間として輪廻する道へは戻れません』
「一時的に狼になるわけじゃないのか」
『違います』
『次が、あなたにとって最後の転生です』
蟻。
カブトムシ。
ハシブトガラス。
ニホンザル。
その先。
山狼。
狼として死んだあとも。
人間へ戻ることはない。
『山狼としての生を終えた場合』
『あなたの魂は、山の巡りへ定着します』
『再び通常の輪廻へ戻すことはできません』
「ヌシを倒したあとも?」
『はい』
「新しいヌシにならなかったとしても?」
『山との結びつきは残ります』
人間へ戻る未来。
じいちゃんが望んだ未来。
神が与えようとしてくれた未来。
それを。
自分の意思で捨てなければならない。
◇
健康な人間の姿が、目の前に浮かんでいる。
名前は思い出せない。
だが。
人間として生きた16年があった。
じいちゃんと暮らした家。
食卓。
山へ続く道。
病院の窓から見た空。
走りたかった。
山を。
自分の脚で。
息切れを恐れず。
倒れる心配もなく。
じいちゃんの後ろを追いかけたかった。
その願いは。
まだ消えていない。
人間として生まれ変われば。
今度こそできるかもしれない。
家族を持ち。
長い時間を生き。
山へ遊びに来ることもできる。
じいちゃんが望んだ。
普通の人生。
目の前にある選択は。
その未来を、自分から手放すことだった。
『選択を急がせるつもりはありません』
神の声。
だが、現世の時間は止まっていない。
ヌシの爪が。
仲間たちへ届こうとしている。
長く迷うことはできない。
「特殊進化を選ばなければ、どうなる」
『あなたの現在の肉体は、間もなく死亡します』
『魂を回収し』
『現ヌシの呪いから切り離すことを試みます』
「成功すれば、人間へ戻れる」
『はい』
「仲間たちは」
神は答えない。
答えるまでもなかった。
俺と白尾が死ぬ。
ヌシは残る。
猿の群れ。
カラスたち。
眷属。
全員が、力を集約したヌシの前にいる。
逃げられる者もいるだろう。
だが。
多くは殺される。
山の力は、さらに奪われる。
白い霧が広がり。
山は死ぬ。
そのあと。
俺だけが健康な人間として、新しい場所に生まれる。
じいちゃんは。
それを望むだろうか。
自分を救うために戦った者たちを置き去りにし。
山が死ぬことを知りながら。
人間へ戻ることを。
『源一郎は』
神が静かに言う。
『あなたへ選択を強いることを望まないでしょう』
「分かっている」
『人間へ戻ることを選んでも』
『彼は、あなたを責めません』
「それも分かっている」
じいちゃんは。
俺に山を救えとは言わない。
自分の魂を取り戻せとも。
復讐しろとも言わない。
健康に。
幸せに。
自分の人生を生きろ。
きっと、そう言う。
だからこそ。
最後に決めるのは、俺自身だった。
◇
「白尾」
『何だ』
「本当に、後悔しないのか」
『しない』
「俺にすべてを渡せば、次の生がどうなるか分からない」
『それでも構わぬ』
「俺は構う」
白尾が目を開く。
俺は神へ向き直った。
「約束してほしい」
『内容を確認します』
「白尾の魂を消さないこと」
『約束します』
「長く苦しませないこと」
『転生までの休息中、苦痛はありません』
「次は、誰かの力に縛られない命へ送ること」
ヌシの番として。
分け与えられた力に支えられ。
その力を最後には奪われた。
次の生では。
誰かの所有物でも。
眷属でも。
番としての責任へ縛られる必要もない。
『約束します』
「健康な身体で」
『はい』
「愛されて」
白尾の耳が、わずかに動いた。
「独りにならない生を」
神は、しばらく沈黙した。
『他者の心を、私が完全に決めることはできません』
「分かっている」
『ですが』
光の中へ、小さな狼の子が浮かんだ。
母狼の腹へ寄り添い。
兄弟と身体を重ね。
温かな巣の中で眠っている。
『健康な身体』
『安全な生まれ』
『家族とともに育つ機会』
『誰の力にも縛られない魂』
『それらを、私の名において約束します』
「山は?」
『あなたが山を救うなら』
『白尾の次なる生を』
『蘇った山へ戻すこともできます』
白尾が小さく息を吐いた。
『十分だ』
「白尾が決めていい」
『決めている』
白尾は俺へ近づいた。
鼻先を、俺の額へ触れさせる。
狼と猿。
本来なら、獲物と捕食者。
それでも。
俺たちは同じ山を救おうとしている。
『私の次の生を気にする前に』
『自分が生き残ることを考えろ』
「善処する」
『それでは足りぬ』
白尾の目が細くなる。
『新たなヌシになるのだろう』
「まだ決めたとは言ってない」
『もう顔に出ている』
猿の顔で。
どこまで分かるのか。
そう思った。
だが、白尾には分かっていた。
俺が何を選ぶのか。
おそらく。
神へ約束を求めた時点から。
◇
俺は、健康な少年の姿を見た。
じいちゃんが望んだ未来。
手を伸ばせば。
まだ選べる。
人間へ戻り。
病のない身体で。
普通の人生を生きる。
それは。
何度も転生した始まりにある願いだった。
だが。
今の俺には。
それだけではないものがある。
蟻として生きた巣。
ともにムカデへ挑んだ仲間。
カブトムシとして見た空。
命をつないだ子。
ハシブトガラスとして飛んだ山。
妹。
弟。
番。
息子。
孫たち。
集団ねぐら。
ニホンザルの群れ。
6匹の仲間。
猿廻しの一座。
巫女。
神主。
白尾。
それらを捨てて。
自分だけが、人間としてやり直すことはできなかった。
人間だった頃の俺だけが。
本当の俺ではない。
蟻も。
カブトムシも。
カラスも。
猿も。
すべてが俺だった。
その命で得たものを。
なかったことにはしない。
「神様」
『はい』
「源一郎との約束を、守ろうとしてくれてありがとう」
光の人影が、わずかに揺れた。
「健康な人間として生まれ変わる未来は」
一度。
深く息を吸う。
「ここで手放す」
健康な少年の姿が、淡い光となって消えていく。
寂しくないわけではない。
未練がないわけでもない。
走りたかった。
人間の脚で。
じいちゃんと。
だが。
今は。
山を走るための別の身体を選ぶ。
「白尾の残されたすべてを受け取る」
「山狼へ転生する」
『最終確認を行います』
――――――――――
【特殊進化転生】
進化先:山狼
転生方式:生体転生
【代償】
現在のニホンザルとしての生の終了
白尾の現世での死
白尾の全生命力および適応因子の継承
人間への転生権の永久放棄
通常輪廻からの離脱
【継承】
全保有技能
複数生の記憶
白尾の狼としての身体記憶
山の力への適応
――――――――――
『実行後の撤回はできません』
「分かっている」
『山狼として生きたのち』
『人間へ戻ることはできません』
「戻らない」
『白尾の現世での生命は終了します』
俺は白尾を見る。
白尾は、静かに頷いた。
『すべて譲る』
その声に。
恐れはなかった。
『あれを止めろ』
『山を救え』
『そして』
白尾の瞳に。
若い頃の黒い狼が映ったように見えた。
『できることなら』
『あれが、山を救った狼だったことまで』
『忘れないでやってくれ』
「忘れない」
今のヌシは、間違っている。
許せないことをした。
じいちゃんの願いを歪め。
魂を奪い。
山を死なせようとしている。
それでも。
最初から悪だったわけではない。
かつては、命を懸けて山を救った。
だからこそ。
今の姿を終わらせなければならない。
◇
『最後に』
神が尋ねる。
『山狼の力を得たのち』
『あなたは何を望みますか』
「ヌシを倒す」
『その後は』
「じいちゃんの魂を取り戻す」
『その後は』
俺は考えた。
戦うこと。
勝つこと。
復讐すること。
それだけではない。
山は、ヌシを失ったあとも続く。
水を戻し。
枯れた木々を育て。
獣が子を産める場所へ戻す。
人里との境界を守る。
願いを持って来る者がいれば。
言葉の隙ではなく。
その心を聞く。
「俺が、新しいヌシになる」
白い空間へ。
自分の声が響く。
「力を自分のために集めない」
「山に生きるものの声を聞く」
「人間の願いも」
「獣の恐れも」
「弱い命も」
「強い命も」
「全部を見たうえで」
「山を守る」
『それは』
神の声が、静かに問う。
『人間として生きる未来よりも』
『あなたが望む生ですか』
「違う」
人間へ戻ることを。
望まなかったわけではない。
「でも」
俺は白尾を見る。
その向こうに。
現世で待つ仲間たちを思う。
「今の俺が、選ぶ生だ」
神の人影が。
初めて。
微笑んだように見えた。
『選択を受理しました』
◇
白尾の身体から、淡い光が浮かび上がる。
白い。
だが、ヌシに力を奪われたときの光とは違う。
温かい。
静かな光。
白尾は自分の意思で、それを差し出している。
光の中へ。
若い狼の姿が見えた。
黒い狼の隣を走る白尾。
山の沢を越え。
雪の中で身を寄せ。
獲物を分け。
子どものように転げ回る。
ヌシになる前の。
二匹の記憶。
『私の血を』
『私の脚を』
『私の牙を』
『私が見てきた山を』
光が俺へ流れ込む。
『すべて、お前へ譲る』
身体の形が変わり始める。
猿の腕。
5本の指。
物を掴んだ手。
それらが光へ溶ける。
四本の脚。
地面を蹴る爪。
長い鼻先。
鋭い牙。
全身を覆う毛。
白尾が山を走った記憶が。
自分のもののように魂へ刻まれていく。
同時に。
これまでの生も失われない。
蟻の顎。
カブトムシの脚。
カラスの翼。
猿の手。
身体は変わっても。
得た技能は、狼の形へ作り替えられる。
――――――――――
【技能適応】
強靭な顎 山狼の牙へ適応
脚力強化 四肢へ再構成
飛行 空間把握・跳躍制御へ一部変換
道具使用 口・前脚による操作へ制限適応
観察眼 継承
危険察知 継承
統率連携 継承
――――――――――
白尾の姿が薄くなる。
「白尾」
『そんな顔をするな』
「どんな顔だ」
『群れの仲間を失う顔だ』
「仲間だからな」
『ならば』
白尾は最後に。
俺の額へ鼻先を触れた。
『次に会ったときも』
『仲間に入れてくれ』
「もちろんだ」
『約束だ』
「ああ」
白尾の身体が、光へ変わる。
完全に消える直前。
その声が届いた。
『行け』
『新しいヌシよ』
◇
『白尾の生命譲渡を確認しました』
『山狼への特殊進化を開始します』
『人間への転生権を放棄しました』
『通常輪廻から離脱します』
『今回が、最後の転生となります』
白い空間が崩れていく。
神の姿も遠ざかる。
「白尾を頼む」
『約束は守ります』
「じいちゃんの魂は、俺が取り戻す」
『はい』
「山も」
『あなたへ委ねます』
神の声が、最後に響いた。
『どうか』
『今度こそ』
『あなた自身が選んだ生を』
光が弾ける。
◇
時間が動き出す。
ヌシの爪が振り下ろされる。
猿の群れが叫ぶ。
カラスが飛ぶ。
岩の床へ倒れていたニホンザルと白尾の身体を。
白い光が飲み込んだ。
爪が光へ触れる。
弾かれる。
『何だ』
ヌシが後退した。
二匹の血が混ざった岩の上。
白い光が形を変えていく。
猿の身体が消える。
白尾の身体も。
二つの命が。
一つの新しい器へ集まる。
前脚が岩へ触れた。
鋭い爪。
次に後脚。
長い尾。
全身を覆う毛。
白でも。
黒でもない。
山の土と。
木々の影と。
夜明け前の空を混ぜたような、深い灰色。
四本の脚で立つ。
身体は、今のヌシより小さい。
だが。
猿だった頃とは比べものにならない力が、全身を巡っている。
山の匂いが分かる。
水。
土。
枯れた木。
猿。
カラス。
眷属。
そして。
目の前の黒い狼。
牙を見せる。
喉の奥から、低い唸りが漏れた。
人間の言葉ではない。
それでも、意思は山全体へ届いた。
「お前を倒す」
ヌシの目が大きく開く。
俺の中に。
白尾の血を感じたのだろう。
『白尾……』
「白尾は、俺に託した」
黒い狼へ、一歩近づく。
もう。
身体は重くない。
傷もない。
四本の脚には。
山を走るための力が満ちている。
「じいちゃんの魂を返せ」
「山へ力を返せ」
「そして」
灰色の毛が逆立つ。
猿とカラスの群れが。
新たに現れた狼を見つめている。
息子のカラスが。
短く二度鳴いた。
俺は、その声へ耳を動かした。
大柄な猿が胸を叩く。
応えるように。
俺も前脚で地面を踏みしめた。
「ここから退け」
「次に山を守るのは」
黒いヌシを正面から見据える。
「俺だ」
蟻として始まった、幾度もの転生。
病のない身体を与えるという名の呪いは、もう俺を縛っていない。
人間へ戻る道も。
次の命へ逃れる道も。
自分の意思で手放した。
この灰色の狼が。
俺にとって、最後の身体。
白尾から託された血と。
これまで生きたすべての命を宿した身体だ。
最後の転生は、ここに完了した。
残るのは。
山を死なせる古きヌシを倒し。
自らが新たなヌシとなること。
黒い狼が牙を剥く。
俺も低く身体を沈めた。
二頭の狼の間で、白い霧が渦を巻く。
山の未来を決める、最後の戦いが始まった。
次が最終章になります




