4-6.群れは忘れない
黒い狼の脚が、岩を砕いた。
巨体が消える。
そう見えるほどの速さだった。
ヌシがいた場所から、白い霧と石の欠片だけが弾け飛ぶ。
危険察知が、頭の奥で叫んだ。
考えるより先に、俺は横へ跳んだ。
直後。
巨大な爪が、先ほどまで立っていた場所を薙ぎ払う。
岩の床へ、4本の深い溝が刻まれた。
槍を突き出す。
ヌシは首をわずかに動かしただけで、穂先を避けた。
黒い牙が迫る。
槍を横にして受け止める。
噛みつかれた木が、大きく軋んだ。
両手で押す。
脚へ力を込める。
それでも、ヌシの顔をわずかにも遠ざけられない。
『軽い』
牙の間から声が響いた。
ヌシが首を振る。
槍ごと身体を持ち上げられた。
手を離す。
宙へ投げ出される。
身体を丸める。
岩の床へ背中から落ちる直前、右手をついた。
脚を振り下ろす。
どうにか足から着地する。
だが、衝撃を殺し切れない。
右肩から床を転がった。
ヌシが追ってくる。
立ち上がる時間はない。
腰の石斧を抜く。
低い姿勢のまま、ヌシの前脚へ振り抜いた。
石の刃が黒い毛を切る。
皮膚へ届く。
浅い。
血が一筋、流れた。
次の瞬間。
白い霧が傷へ集まる。
裂けた皮膚が閉じた。
『それで終わりか』
前脚が振るわれる。
石斧を構えた腕へ直撃した。
骨までは折れていない。
だが、指から斧が飛ぶ。
身体も洞窟の壁へ叩きつけられた。
肺から空気が抜ける。
視界が白くなる。
胸元の破邪守が強く熱を持っていた。
白い霧は俺の中へ入れない。
力を奪うことも。
思考を曇らせることもできない。
だが。
ヌシの爪。
牙。
巨体。
山から奪った力による速さ。
それらまで消してくれるわけではなかった。
白尾が言っていた。
破邪守があっても。
爪と牙までは消えない。
◇
ヌシが、ゆっくり近づいてくる。
急ぐ必要がないとでも言うように。
俺は壁へ手をつき、立ち上がった。
右腕が痺れている。
槍はヌシの後方。
石斧も床へ転がっている。
残っているのは、腰の縄と石の刃。
ヌシは無傷。
こちらは、最初の攻防だけで呼吸が乱れている。
『その程度で、我が座を求めたか』
「まだ始まったばかりだ」
『強がりを』
白い霧が、ヌシの脚へまとわりつく。
また来る。
俺は壁から離れた。
ヌシが飛び込む。
正面には立たない。
左へ走る。
爪を避け。
黒い身体の下へ潜り込む。
腹。
脚の付け根。
巨体ゆえに、顔と爪が届きにくい場所。
石の刃を抜く。
両手で握る。
腹部へ突き立てた。
硬い毛。
その下の皮膚も厚い。
それでも、刃の半分が入る。
ヌシの身体が震えた。
すぐに石の刃を抜く。
同じ場所へ、もう一度。
だが。
ヌシが身体を沈めた。
押し潰される。
横へ転がる。
背中を黒い腹が掠めた。
さらに、後脚が飛んでくる。
両腕で受ける。
衝撃。
身体が床を滑った。
手首が痛む。
石の刃を落とした。
ヌシの腹へ付けた傷から、血が流れている。
白い霧が集まり。
また塞いでいく。
境界の外では現れなかった回復。
ここはヌシの洞窟。
山から集めた力の中心。
破邪守は、俺自身を守れる。
だが、ヌシが自分へ使う力までは止められない。
傷を負わせても。
深く届かなければ、すぐに治る。
カラスだった頃と同じ。
いや。
あのクマタカ以上だった。
◇
俺は落ちていた槍へ走った。
ヌシが追う。
槍を拾う。
振り向かず、石の柱を回り込む。
牙が肩の横を通り過ぎた。
黒い毛が触れただけで、皮膚が裂ける。
柱を挟む。
ヌシが右へ動けば左へ。
左へ動けば右へ。
巨体では、狭い隙間をすぐには抜けられない。
『逃げ回るだけか』
「お前より小さいからな」
ヌシの前脚が柱へ振り下ろされた。
岩が砕ける。
逃げ道がなくなる。
崩れる岩へ向かって跳ぶ。
一つを踏み台にする。
高く跳び上がる。
強化された脚。
ニホンザルの身体。
ヌシの背中へ着地した。
槍を逆手へ持ち替える。
両手で。
黒い首の付け根へ突き立てる。
穂先が毛を割り。
皮を抜け。
肉へ入る。
ヌシが咆哮した。
身体を激しく振る。
槍から手を離さない。
さらに体重をかける。
深く。
もっと深く。
ヌシの前脚が、背中まで届こうとする。
爪が俺の脇腹を掠めた。
皮膚が裂ける。
血が流れる。
それでも槍を押す。
白い霧が傷へ集まろうとする。
槍が刺さったままでは塞がらない。
俺は腰の縄を抜いた。
ヌシの首へ回す。
槍の柄と結ぶ。
引き抜けないよう固定する。
『小賢しい!』
ヌシが壁へ身体を向けた。
何をする。
理解したときには遅かった。
黒い背中が、岩壁へ叩きつけられる。
俺の身体が挟まれた。
骨が軋む。
息が止まる。
もう一度。
壁。
黒い毛。
衝撃。
指から力が抜けた。
ヌシの背中から落ちる。
床へ転がる。
槍は首へ残っている。
だが、ヌシが前脚で柄を折った。
短く残った木を、牙で引き抜く。
血が噴き出す。
白い霧が渦を巻き。
開いた傷へ吸い込まれる。
肉が盛り上がる。
傷が閉じていく。
ヌシは首を振り。
折れた槍を、俺の前へ投げ捨てた。
『道具』
『群れ』
『神の加護』
『それらがなければ、何もできぬ』
俺は脇腹を押さえた。
手の隙間から血がにじむ。
「ヌシは、一匹ですべてをしなければならないのか」
『我は山そのもの』
「違う」
息を吸う。
肋骨が痛む。
折れているかもしれない。
「お前は、誰の力も信じられなくなっただけだ」
ヌシの目が光る。
「眷属を従わせ」
「白尾の声を捨て」
「山から力を奪い」
「全部、自分のものにした」
「だから一匹になった」
『黙れ』
「俺が弱いのは認める」
折れた槍を拾う。
短い。
石の穂先も欠けている。
それでも武器にはなる。
「でも、弱いから仲間と生きた」
「足りないものを、互いに補った」
「それが悪いことだとは思わない」
『ならば』
ヌシが牙を見せる。
『その仲間とやらは、どこにいる』
白い霧の向こう。
洞窟。
外の山。
6匹の仲間は、境界の手前へ残った。
霧の中では動けない。
俺が一匹で進むしかなかった。
『誰も来ぬ』
ヌシが一歩近づく。
『結局、お前も一匹だ』
◇
ヌシの爪が迫った。
折れた槍で受ける。
木が砕ける。
穂先だけが手に残った。
次の爪。
身体を沈める。
頭上を通る。
牙。
後ろへ跳ぶ。
着地した場所へ、尾が振るわれた。
避けられない。
腹へ直撃する。
身体が浮く。
床へ落ちる。
喉から血が込み上げた。
咳とともに吐き出す。
立て。
頭では分かっている。
腕へ力を入れる。
身体が動かない。
ヌシの前脚が、胸の上へ置かれた。
重い。
岩に押し潰されたように、呼吸ができない。
破邪守が胸と爪の間で軋む。
『終わりだ』
ヌシの顔が近づく。
『神の加護があろうと』
『お前の身体は、ただの猿』
牙が開く。
『魂を砕き』
『今度こそ、蟻の群れへ溶かしてやる』
右手を動かす。
腰。
袋。
何か残っていないか。
縄。
小さな石。
刺激の強い草の種。
細身の雌が用意した袋。
指先が触れる。
掴む。
ヌシの顔へ投げつけた。
袋が鼻先へ当たり。
中身が弾けた。
乾いた粉。
種。
細かな土。
ヌシの目と鼻へ入る。
巨体が顔を振った。
前脚の力がわずかに緩む。
身体を横へ抜く。
牙が閉じる。
肩の毛を噛み切られた。
転がる。
立ち上がる。
ヌシが目を閉じたまま唸る。
白い霧が顔へ集まった。
粉を洗い流し。
痛みまで消していく。
使えるのは、一度だけ。
次は通用しない。
俺は距離を取った。
呼吸を整える時間が欲しい。
だが、ヌシはすぐに目を開けた。
『仲間の道具か』
「そうだ」
『その者たちは、お前を救えぬ』
ヌシが身体を低くする。
次で終わらせるつもりだ。
俺も石の穂先を構えた。
短い。
これでヌシの心臓まで届くとは思えない。
それでも、目。
喉。
狙える場所はある。
ヌシが地面を蹴ようとした。
その瞬間。
洞窟の外から、大きな音が聞こえた。
石と石がぶつかる音。
一つではない。
次々に。
ヌシが顔を上げる。
俺も入口を見る。
白い霧の向こうから。
何かが飛んできた。
拳ほどの石。
ヌシの側頭部へ直撃する。
◇
続けて、石が飛ぶ。
肩。
背中。
前脚。
ヌシの身体へ次々と当たる。
致命傷にはならない。
それでも、飛びかかろうとした動きを止めた。
洞窟の入口。
白い霧の中から、大柄な雄が現れた。
両手には、太い槍。
その後ろに。
小柄な雌。
細身の雌。
片耳の雄。
残る2匹。
6匹の仲間。
さらに後ろ。
何十匹ものニホンザルが続いている。
子を抱いた雌。
若い雄。
年老いた猿。
群れの長まで。
以前。
「ヌシ様に逆らってはならぬ」
そう言って、俺の頼みを拒んだ長。
その長が。
白い霧の境界を越え。
洞窟の前へ立っている。
「どうして」
声にならない。
白い霧は。
仲間たちの身体へまとわりついていない。
正確には。
洞窟の周囲にあった霧そのものが薄くなっている。
ヌシが戦うために。
山全体へ広げていた力を、自分の身体へ集めた。
霧の境界が弱まった。
仲間たちは、それを見逃さなかった。
片耳の雄が山の変化を見張り。
霧が引いたことへ最初に気づいた。
6匹が境界を越えた。
そして。
6匹だけではなく。
群れ全体を連れてきた。
大柄な雄が、太い槍を地面へ打ちつける。
俺を見る。
遅くなった。
そう言うように、胸を叩いた。
◇
『猿の群れが』
ヌシの唸りが洞窟へ響く。
猿たちは怯んだ。
子どもを抱く雌が後退する。
若い猿の中には、逃げようとする者もいる。
群れの長が、地面を強く叩いた。
一度。
低く、長い声を上げる。
逃げるな。
群れを保て。
長の合図。
大柄な雄が前へ出る。
6匹の仲間も並ぶ。
俺が人里へいる間。
彼らは群れへ伝え続けたのだろう。
白い霧が広がっていること。
山が死に始めていること。
眷属を罠へ捕らえたこと。
俺が破邪守を求め、人里へ向かったこと。
以前は恐怖を選んだ長も。
一年の間に変わっていく山を見た。
何もしなければ。
群れが生きる場所そのものを失うと理解した。
だから、来た。
俺を助けるためだけではない。
自分たちの山を取り戻すために。
『我へ逆らえば』
ヌシが牙を見せる。
『群れごと滅ぼす』
長は、ヌシを見た。
身体は震えている。
恐怖がないわけではない。
それでも。
地面へ両手をつき。
強く吠え返した。
群れの猿たちが、一斉に声を上げる。
洞窟が震える。
一匹の声ではない。
何十匹もの声。
ヌシの命令へ。
群れの意思がぶつかった。
◇
猿たちは、無秩序に飛びかからなかった。
6匹の仲間が先頭へ立つ。
一年間、準備した役割。
大柄な雄と若い雄たちが、正面から槍を構える。
小柄な雌たちは、縄の付いた石を振る。
細身の雌が、刺激の強い粉を配る。
片耳の雄は、岩の上へ登り。
全体を見渡す。
長が、群れへ合図を出す。
俺が一匹で戦っていたときにはなかった。
複数の方向。
複数の目。
ヌシの一つの動きへ。
何匹もの猿が、それぞれ違う場所から対応する。
最初に、大柄な雄が突進した。
槍。
ヌシの顔ではなく、前脚を狙う。
ヌシが爪を振るう。
大柄な雄は受けない。
直前で身を伏せる。
後ろから投げられた縄が、ヌシの脚へ巻きついた。
左右の猿が引く。
ヌシの動きが、一瞬止まる。
俺は走った。
黒い身体の側面。
白い霧が集まりきっていない場所。
欠けた石の穂先を、以前付けた腹の傷へ突き立てる。
同じ場所。
再生した皮膚。
深く。
ヌシが吠える。
身体を捻る。
俺はすぐに離れる。
別の方向から石が飛ぶ。
目。
鼻。
耳。
猿たちは、硬い身体へ無意味に投げない。
弱い場所を狙っている。
ヌシが顔を伏せる。
その隙に、槍が脚へ刺さる。
縄が尾へ絡む。
巨体が動くたび。
別の方向から攻撃が来る。
『小賢しい!』
白い霧が爆発した。
近くの猿たちが吹き飛ばされる。
だが。
霧そのものが身体へ入り込む力は弱い。
ヌシが自らへ集めすぎたため。
以前のように、触れた者の力をすぐには奪えない。
飛ばされた猿が立ち上がる。
別の猿が前へ出る。
倒れた者を後方へ運ぶ。
戦う者。
石を集める者。
怪我人を助ける者。
群れ全体が、一つの生き物のように動いた。
統率連携。
俺がカラスとして学び。
猿として使ってきた力。
俺が直接合図を出さなくても。
6匹が動き。
長が群れをまとめる。
俺は、ヌシだけを見て戦える。
◇
ヌシの前脚が、大柄な雄へ振り下ろされる。
俺は横から飛びついた。
黒い手首へ石の刃を突き立てる。
爪の軌道がずれる。
大柄な雄の肩を掠め。
岩を砕いた。
雄が俺を見る。
俺は短く二度、声を上げた。
集合。
カラスだった頃から使っている合図。
猿の仲間へも教えた声。
左右から3匹ずつ集まる。
ヌシの前脚へ縄を掛ける。
大柄な雄が正面から引き。
別の猿たちが岩へ縄を巻く。
ヌシが脚を持ち上げる。
何匹もの身体が宙へ浮く。
それでも離さない。
俺は反対側へ回る。
後脚。
関節。
槍を拾う。
刺す。
ヌシの身体が沈んだ。
初めて。
黒い巨体の片膝が、地面へついた。
猿たちの声が上がる。
ヌシが咆哮する。
白い霧が傷へ集まる。
だが。
槍。
縄。
石。
次々と攻撃が続く。
再生が追いつかない。
傷を治している間に。
別の傷が増える。
ヌシが、確実に押され始めた。
◇
洞窟の外。
高い空。
黒い鳥が一羽、岩壁の上を旋回していた。
年老いたハシブトガラス。
片方の羽が、わずかに欠けている。
俺がカラスだった生で。
最後までそばに残り。
群れを任せた息子。
あれから年月が過ぎている。
羽毛には艶がなく。
飛び方も若い頃ほど強くない。
それでも生きていた。
集団ねぐらを守り。
子どもを育て。
さらに、その子どもたちも成長している。
息子は、山の異変を感じていた。
白い霧。
枯れる木々。
減っていく餌。
深部から聞こえるヌシの咆哮。
何羽ものカラスを連れ。
安全な空から、戦いの様子を見ていた。
猿の群れ。
巨大な黒い狼。
その中を動く、一匹のニホンザル。
息子にとって。
俺は知らない猿のはずだった。
姿も。
匂いも。
鳴き声も違う。
それでも。
俺が短く二度鳴いたとき。
息子の翼が止まった。
◇
大柄な雄を呼び。
左右へ役割を分け。
危険な個体を中央から下げる。
敵の力へ正面から対抗せず。
勢いを利用し。
隙を作り。
誰かが遅れれば、自分が最後へ残る。
息子は、その動きを知っていた。
若い頃。
先頭を飛んでいた父。
安全な道を選ぶ叔母と。
変化を見つける叔父をまとめ。
群れを導いていた一羽。
年老いてからは、息子である自分の指示へ従った父。
身体は違う。
翼もない。
それでも。
群れの中での立ち位置が同じだった。
仲間へ出す合図。
危険を見る目。
自分より若い者を守る動き。
息子は。
ニホンザルの中に。
死んだ父の姿を見た。
あり得ない。
そう思ったかもしれない。
だが、この山では。
白い霧が道を変え。
眷属が言葉を送り。
ヌシが長い時を生きている。
あり得ないと、切り捨てることはできなかった。
年老いたカラスが、鋭く鳴いた。
三度。
退避ではない。
集団ねぐらに、後から加わった新しい合図。
敵を囲め。
若いカラスたちが応える。
息子の子。
その子ども。
俺にとっての孫たち。
黒い翼が、一斉に洞窟へ向かって降下した。
◇
ヌシが縄を引きちぎった。
前脚が自由になる。
猿の群れへ爪を振るう。
その目の前を。
黒い影が横切った。
クマタカではない。
何十羽ものハシブトガラス。
ヌシの顔の周囲へ集まる。
鳴く。
翼で視界を塞ぐ。
嘴で耳を突く。
背後から尾の付け根を狙う。
ヌシが顔を振る。
『鳥まで!』
一羽を噛もうとする。
カラスは直前で散る。
別の一団が、反対側から入る。
一羽では弱い。
爪も。
嘴も。
ヌシの皮膚へ深い傷を付けられない。
それでも、目を開けさせない。
注意を上へ向ける。
猿たちが動く時間を作る。
カラスだった俺が。
群れとともに猛禽を追い払ったときと同じ。
息子が、俺の頭上を通った。
一瞬だけ。
目が合う。
年老いたカラス。
右目の上に、見覚えのある古い傷。
俺の息子。
言葉が出ない。
猿の声では、カラスだった頃の呼びかけを完全には再現できない。
それでも。
俺は片手を上げた。
右へ。
次に左。
最後に、自分の胸へ。
群れを動かすとき。
息子へ役割を譲った日。
最後に交わした合図。
息子の翼が大きく開いた。
鳴き声。
短く。
二度。
応える声。
父。
そう呼ばれた気がした。
◇
胸の奥へ熱いものが込み上げる。
死んでも。
身体が変わっても。
俺が群れへ残したものは消えていなかった。
息子。
孫たち。
彼らが今。
別の身体となった俺のために飛んでいる。
いや。
俺だけのためではない。
自分たちが生きる山を守るため。
カラスの群れとして。
戦いへ加わった。
猿たちが地上から。
カラスたちが空から。
ヌシへ攻撃する。
俺は中央。
全体を見る。
観察眼。
危険察知。
統率連携。
これまで得たすべての技能が、一つにつながる。
ヌシの右目が、カラスへ向く。
左前脚が、猿の縄に取られている。
後脚へ槍が刺さっている。
尾は別の縄で岩へ固定。
首の傷だけ、白い霧が集中して治している。
今。
俺は落ちていた大柄な雄の石槍を拾った。
走る。
猿たちがヌシの左側へ石を投げる。
カラスが右目を覆う。
ヌシの注意が分かれる。
正面へ。
岩を踏む。
高く跳ぶ。
槍を両手で持ち。
黒い狼の胸へ向ける。
ヌシが俺へ気づいた。
遅い。
石の穂先が、胸へ入った。
硬い皮膚を抜ける。
骨へ当たる。
角度を変える。
肋骨の間。
さらに押し込む。
ヌシの咆哮。
槍の先が、深く沈んだ。
心臓へ届いたかは分からない。
だが。
これまでで最も深い傷。
黒い血が噴き出す。
俺の身体へ降りかかる。
ヌシが後ろへよろめいた。
一歩。
二歩。
巨大な身体が、洞窟の奥へ下がる。
猿たちが声を上げる。
カラスたちも鳴く。
ヌシが。
初めて明確に追い詰められた。
◇
『なぜだ』
ヌシの声が震える。
『なぜ、我が押される』
胸へ刺さった槍。
脚を縛る縄。
身体中の傷。
白い霧は回復へ回っている。
だが、傷の数が多すぎる。
再生が追いつかない。
『我は山のヌシ』
『山のすべては、我に従う』
誰も答えない。
猿たちは槍を構える。
カラスたちは上空を回る。
眷属たちは、洞窟の外から見ている。
誰も。
ヌシの命令へ従っていない。
「山のすべてがお前に従っていたんじゃない」
俺は槍を握ったまま、ヌシを見た。
「従わせていただけだ」
「力を与え」
「逆らえば奪い」
「山そのものだと思わせた」
「でも」
周囲を見る。
猿。
カラス。
白尾。
眷属たち。
「山に生きるものは」
「お前の身体の一部じゃない」
ヌシの目が、激しく揺れた。
『我が』
『我が救った山だ』
「昔のお前が救った」
「だから神は、お前を信じた」
「白尾も」
「眷属も」
「山の獣たちも」
「でも、今のお前を信じてはいない」
『黙れ』
「座を譲れ」
俺はもう一度告げた。
「今なら」
「まだ、お前を殺さずに終わらせられる」
◇
ヌシの身体が止まった。
荒い呼吸。
胸から流れる血。
白い霧。
洞窟の外から入る光。
その目が。
ゆっくり、白尾へ向いた。
白尾は洞窟の入口へ立っている。
猿たちの後ろ。
カラスの影の下。
かつての番を。
悲しそうに見つめていた。
『お前も』
ヌシが白尾へ呼びかける。
『我より、あの猿を選ぶのか』
白尾はしばらく答えなかった。
やがて。
一歩、洞窟へ入る。
『私は、今でも』
静かな声。
『山を救った頃のお前を覚えている』
ヌシの耳が動く。
『水を求める獣へ道を示し』
『火の中へ戻り』
『爪が剥がれても土を掘ったお前を』
『ならば』
『だからこそ』
白尾は首を横へ振った。
『今のお前を、ヌシとは認められぬ』
ヌシの目から。
最後に残っていた何かが消えた。
怒り。
失望。
孤独。
それらが、黒い光へ変わる。
『そうか』
低い声。
『お前まで』
白尾の身体が、突然強張った。
◇
白尾の淡く光っていた目が、強く輝く。
次の瞬間。
白い光が、身体の内側から引き抜かれた。
霧。
細い糸。
黒い狼の胸へ向かって流れていく。
『何を――』
白尾が膝をついた。
尾の先の白い毛から、色が失われる。
灰色の毛が。
一気に白く変わっていく。
身体が痩せる。
背中が沈む。
長い年月。
ヌシの番として分けられていた力。
淡く光る目。
老いを遅らせ。
普通の狼より長く生きることを可能にしていたもの。
ヌシが、それを吸収している。
「やめろ!」
俺は胸の槍をさらに押し込もうとした。
ヌシの前脚が動く。
槍の柄が折れた。
白尾から吸い上げた力が。
ヌシの傷へ流れ込む。
胸の穴が塞がる。
脚の傷。
腹。
首。
猿とカラスが付けた無数の傷が、次々に閉じていく。
白い霧とは違う。
白尾の命そのものを使った回復。
『あれへ与えた力も』
ヌシが立ち上がる。
『元は我のもの』
白尾が床へ倒れた。
呼吸はある。
だが、弱い。
力を吸われただけではない。
年老いた身体へ。
長い年月の重みが、一度に戻ってきている。
「白尾!」
俺はヌシへ背を向けた。
白尾へ走る。
『戦いの最中に』
背後から声。
『我へ背を向けるか』
危険察知。
振り返る。
ヌシが目の前にいた。
先ほどまでとは比べものにならない速さ。
白尾から奪った力。
眷属から吸収した力。
山の力。
すべてが黒い巨体へ集約されている。
爪。
避ける。
間に合わない。
胸から腹へ。
斜めに引き裂かれた。
◇
熱い。
遅れて痛みが来る。
身体が宙へ舞う。
血が散る。
床へ落ちる。
胸元の破邪守は切れていない。
白い霧も入ってこない。
だが。
肉体そのものが深く裂かれている。
手で傷を押さえる。
指の間から血が溢れる。
立ち上がろうとする。
脚へ力が入らない。
猿たちが叫ぶ。
カラスの群れがヌシへ向かう。
『退け!』
ヌシの咆哮とともに、衝撃が広がった。
猿たちが吹き飛ぶ。
カラスも空中で姿勢を崩す。
白尾から奪った力によって。
ヌシは先ほど以上に強くなっている。
大柄な雄が、俺の前へ出ようとする。
ヌシの尾が振るわれる。
雄が岩へ叩きつけられた。
息子のカラスが、ヌシの目へ向かう。
牙が閉じる直前に逃れる。
それでも羽が数枚、宙へ舞った。
「やめろ」
声が出ない。
血が喉へ上がる。
仲間たちへ退けと伝えたい。
今のヌシへ、無闇に近づけば殺される。
だが。
猿も。
カラスも。
逃げなかった。
俺と白尾を囲むように集まる。
◇
白尾が、わずかに顔を上げた。
目の光は消えている。
ただの年老いた狼の目。
それでも。
俺を見つけた。
『逃げろ』
「白尾こそ」
『私は、もう長くない』
白尾の声は弱い。
頭へ届く意思も、途切れかけている。
『あれから力を受けた日から』
『本来の寿命を、遥かに越えて生きた』
「まだ終わってない」
『お前は、生きろ』
ヌシが近づいてくる。
猿たちが槍を構える。
カラスが低く飛ぶ。
傷ついても。
力の差を見せつけられても。
群れは道を開けない。
『どけ』
ヌシが命じる。
誰も従わない。
『ならば』
黒い前脚が上がる。
『すべてまとめて、山へ返してやる』
白尾が立とうとした。
脚が震える。
一度、崩れる。
それでも。
俺と仲間たちの前へ出た。
「白尾、駄目だ」
『あれを止めるために』
白尾はヌシを見た。
『私は、ここまで生きた』
ヌシの爪が振り下ろされる。
白尾が飛び出した。
力を失った身体。
それでも。
かつて番として、隣を走った狼。
ヌシの動きを知っている。
爪の内側へ潜る。
黒い首へ噛みつく。
牙が毛を抜け。
皮膚へ入った。
ヌシが吠える。
身体を捻る。
白尾を振り払う。
白い身体が、岩壁へ叩きつけられた。
鈍い音。
床へ落ちる。
動かない。
「白尾!」
俺は血に濡れた手で、床を掴んだ。
身体を引く。
一歩にもならない。
這う。
じいちゃんが、折れた脚でヌシのもとへ進んだように。
白尾へ向かう。
その前へ。
ヌシの黒い脚が下りた。
◇
『終わりだ』
ヌシの胸には、白尾が噛みついた傷が残っている。
だが、それも白い霧に覆われ、ゆっくりと塞がり始めていた。
俺の傷は塞がらない。
胸から腹へ。
深く引き裂かれている。
息を吸うたび、身体の内側から血が溢れた。
これは、致命傷だ。
人間だった頃。
病院で命が失われていく感覚とは違う。
蟻。
カブトムシ。
カラス。
何度も死を迎えてきた。
だから分かる。
今の身体は、もう長く持たない。
白尾も動かない。
岩壁の下に横たわり、胸がかすかに上下しているだけだった。
ヌシから与えられていた力を奪われ。
本来ならとうに迎えていたはずの老いが、一度に身体へ押し寄せた。
さらに、岩へ叩きつけられた傷。
白尾もまた、命の終わりに近づいている。
ヌシは、俺たち二匹を見下ろしていた。
背後には猿の群れ。
上空にはカラスたち。
洞窟の外には、力を奪われた眷属たち。
それでも。
今のヌシを止められる者はいない。
『群れを得た』
『過去の命まで、お前を助けに来た』
『それで、我へ勝ったつもりになったか』
ヌシの声が遠く聞こえる。
『力とは』
『最後に立っている者が持つものだ』
違う。
そう伝えたい。
ただ最後まで立っていたからといって。
誰も信じず。
誰からも信じられず。
一匹で残っただけのものを。
山のヌシとは呼べない。
だが、声が出なかった。
喉へ血が上がる。
意識が薄れていく。
大柄な雄が、俺へ手を伸ばしている。
小柄な雌が鳴いている。
息子のカラスが頭上を飛び。
短く。
二度。
何度も同じ声を上げる。
帰ってこい。
カラスだった頃に使っていた合図。
白尾の前脚が、わずかに動いた。
まだ生きている。
俺も。
まだ息をしている。
ならば。
まだ終わってはいない。
俺は血に濡れた右手を床へついた。
指に力を入れる。
身体を引く。
ほんの少しだけ、前へ進む。
胸の傷が開く。
血が岩へ落ちる。
もう一度。
地面を掴む。
身体を引く。
一歩にも満たない。
それでも、白尾へ近づく。
『無駄だ』
ヌシの脚音が背後から響く。
『その身体では、何もできぬ』
分かっている。
戦う力は残っていない。
槍を持つことも。
立ち上がることもできない。
それでも。
白尾を一匹で死なせたくなかった。
じいちゃんは、一人でこの洞窟へたどり着いた。
願いを歪められ。
魂を奪われた。
白尾もまた。
長い年月をヌシの隣で過ごし。
山を救おうとし。
最後には力を奪われた。
もう誰も。
一匹だけで終わらせない。
猿たちがヌシの前へ立つ。
槍を構える。
カラスたちが顔の周囲へ集まる。
力では勝てない。
それでも。
俺が白尾へたどり着くまでの時間を作ろうとしている。
統率連携。
俺が指示を出しているわけではない。
誰かが命じたわけでもない。
猿も。
カラスも。
眷属たちも。
それぞれの意思で動いている。
俺は、もう一度地面を掴んだ。
身体を引く。
白尾まで、あと少し。
左手を伸ばす。
届かない。
指先が、白い毛の手前で床へ落ちた。
意識が暗くなる。
駄目だ。
ここで眠れば。
もう届かない。
俺は残っている力をすべて右腕へ込めた。
身体を前へ押す。
胸と腹が岩を擦る。
傷から血が流れる。
それでも。
左手を、もう一度伸ばした。
指先へ。
柔らかな毛が触れた。
白尾の前脚。
冷たい。
だが、まだわずかに温かい。
俺はその毛を掴んだ。
「白尾」
声にはならない。
白尾の瞼が、ほんの少しだけ開いた。
光を失った目が。
確かに俺を見た。
その瞬間。
胸元の破邪守が、強く輝いた。
白い光が俺と白尾を包む。
ヌシの霧ではない。
傷を癒やす光でもない。
死後の暗闇で。
何度も俺へ道を示してきた存在。
神社に祀られた神の声。
これまで、命を終えたあとにしか聞こえなかった声が。
まだ生きている俺の魂へ、はっきりと降りてきた。
『特殊進化条件を達成しました』




