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山のヌシ  作者: つぶつぶみかん
4.手を持つ獣
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21/28

4-5.ヌシの座

 黒い裂け目の奥で、二つの目が開いた。


 淡い光。


 クマタカや白尾の目に宿っていたものよりも強い。


 光そのものが、暗闇を押し退けている。


 洞窟の中から、冷たい風が吹いた。


 白い霧が足元を這う。


 だが、胸元の破邪守が温かくなり、霧は俺の身体を避けて左右へ分かれた。


 俺は槍を構えたまま、洞窟へ入る。


 一歩。


 また一歩。


 外の光が遠ざかる。


 岩の天井は高い。


 奥へ進むほど洞窟は広がり、やがて巨大な空間へ出た。


 中央に、一頭の狼が伏せている。


 黒い。


 ただ毛が黒いのではない。


 夜。


 穴の底。


 光の届かない影。


 それらを固めて、獣の形へしたような黒さだった。


 伏せた姿勢でも、俺の背丈を越えている。


 四本の脚は太く。


 爪は岩へ深く食い込んでいる。


 尾は地面を這い、洞窟の奥まで続いているように見えた。


 身体の周囲には白い霧が集まり。


 毛の間へ入り。


 また外へ流れ出している。


 山の水。


 土。


 木々。


 獣たちから奪われた力。


 すべてが、目の前の狼へ流れ込んでいた。


 山のヌシ。


 じいちゃんが命を懸けて会いに来た存在。


 俺の願いを歪め。


 魂を呪いへ縛りつけたもの。


 黒い狼は、ゆっくりと頭を上げた。


『来たか』


 声が頭の中へ響く。


 洞窟。


 岩。


 白い霧。


 山全体が、同じ言葉を発したように震えた。


『源一郎の孫よ』


 じいちゃんの名を聞いた瞬間、槍を握る手へ力が入った。


「俺を知っているのか」


『知っているとも』


 黒い狼の口元が、わずかに歪む。


 獣の笑み。


『お前が山へ落ちたときから』


『一度目の蟻として、土の中を這ったときから』


『すべて見ていた』


「なら、俺がここへ来ることも分かっていたのか」


『まさか』


 ヌシの目が細くなる。


『蟻が、猿となって我が前へ立つとは思わなかった』


 侮蔑。


 驚き。


 苛立ち。


 それらが、ヌシの声へ混じっている。


『あの神も、随分と余計なことをした』


 胸元の破邪守へ、ヌシの視線が向いた。


 白い袋。


 赤い紐。


 社の神から与えられた加護。


『我へ山を預けておきながら』


『今さら、我を退ける力を与えるとは』


「神は、お前を一方的に殺そうとはしていない」


『当然だ』


 ヌシは鼻を鳴らした。


『あれには、その権利がない』


『この山は我が救った』


『我が爪で土を掘り』


『我が牙を砕き』


『我が血を流して、水を戻した』


『あれは後から現れ、力を与えたにすぎぬ』


「だから、何をしても許されると思っているのか」


 ヌシの目が鋭くなる。


 白い霧が揺れた。


『話を急ぐな』


 黒い狼は立ち上がらない。


 襲いかかることもない。


 俺を殺す前に。


 何かを見せつけようとしている。


『せっかく、ここまで来たのだ』


『お前が知りたがっていたことを、先に教えてやろう』


     ◇


『源一郎は、この場所まで来た』


 ヌシの声とともに、洞窟の床へ白い霧が集まる。


 霧の中へ、過去の景色が浮かび上がった。


 折れた左脚。


 血に濡れた脇腹。


 裂けた掌。


 両腕と片脚だけで、岩場を這ってきたじいちゃん。


 源一郎。


 第三片の続き。


 記憶の中で途切れた場所。


 じいちゃんは洞窟の入口へ倒れ込んでいた。


 息は浅い。


 身体の下に、血が広がっている。


 それでも顔を上げた。


 目の前には、今と同じ黒い狼。


 当時のヌシ。


『そこまでして、何を求める』


 じいちゃんは震える腕で、胸元へ手を入れた。


 写真を取り出す。


 病院のベッドにいる、16歳の俺。


「孫を、助けてほしい」


 声が掠れている。


「病のない身体を」


「山を走り回れる、健康な身体を」


 ヌシの目が光る。


『対価は』


「わしの命を」


 じいちゃんは迷わなかった。


「魂でも」


「残りの命でも」


「何でも持っていけ」


「孫を助けてくれ」


 胸が締めつけられる。


 知っていた。


 じいちゃんが命を差し出したことは。


 それでも。


 実際に言葉として聞くと、息が苦しくなった。


『源一郎は、自ら契約を求めた』


 現在のヌシの声が重なる。


『我は強いておらぬ』


『脅してもいない』


『己の意思で、魂を差し出した』


「それで、お前は何をした」


『願いを叶えた』


「違う」


『違わぬ』


 霧の中の過去が動く。


 ヌシが立ち上がる。


 じいちゃんへ近づく。


 巨大な鼻先が、倒れた身体の前へ来る。


『病のない身体』


『山を走り回れる身体』


『確かに与えた』


 白い霧が、じいちゃんの身体へ巻きついた。


「では、孫は助かるのか」


『死を避けるとは言っておらぬ』


 じいちゃんの表情が止まった。


『その生を、人間として続けさせるとも』


「何を……」


『病に侵された人の身体では、願いを満たせぬ』


『ならば』


『死後、病のない身体へ移せばよい』


 じいちゃんが顔を上げる。


「健康な人間として、生まれ変わらせてくれるのか」


 ヌシは答えなかった。


 沈黙。


 じいちゃんは、それを肯定だと思った。


 いや。


 思いたかったのかもしれない。


 もう身体は限界だった。


 引き返せない。


 孫を救える可能性が、目の前に一つしかない。


「それで、いい」


 じいちゃんは写真を胸へ抱いた。


「次の生でも」


「あの子が笑って」


「自分の足で走れるなら」


「それでいい」


 ヌシの口元が歪む。


『契約は成った』


 霧がじいちゃんを包む。


 身体から、淡い光が引き抜かれていく。


 源一郎の魂。


 神の記憶で見たものと同じ。


 人の形を残した光。


 それがヌシの口へ吸い込まれた。


 じいちゃんの身体から力が抜ける。


 写真を抱えたまま。


 目を閉じる。


「頼むぞ」


 最後の言葉。


「孫を……」


 源一郎の命が途切れた。


     ◇


 霧の景色が消える。


 目の前には、現在のヌシがいる。


 その黒い身体の奥に。


 じいちゃんの魂が取り込まれている。


「返せ」


 自分でも驚くほど低い声が、喉から出た。


 猿の鳴き声。


 だが、意思は明確にヌシへ届く。


「じいちゃんの魂を返せ」


『対価として受け取ったものだ』


「お前は願いを正しく叶えなかった」


『願いは言葉通りに叶えた』


「地面を走る蟻にしたことがか」


 ヌシが牙を見せる。


『蟻は病を持たぬ』


『地を走る』


『山の中を、生涯動き回る』


『源一郎が求めた条件を、すべて満たしている』


「じいちゃんが望んだのは、そんなことじゃない!」


 洞窟へ声が響く。


 白い霧が揺れる。


 ヌシは動じない。


『願う者が、言葉を選び損ねた』


『それだけだ』


「分かっていたはずだ」


『何を』


「じいちゃんが、人間として健康になった俺を望んでいたことを」


『口にされていないものを、我が汲む必要はない』


「それが、ヌシのすることか」


 ヌシの目が細くなる。


「山を守るヌシは」


「願いを利用して、命を奪うものなのか」


『人は、我を利用しようとする』


 ヌシの声へ怒りが混じる。


『病を治せ』


『金を寄越せ』


『子を与えろ』


『長く生かせ』


『自ら山へ何も返さず』


『対価を惜しみ』


『願いだけを投げつける』


『ならば我も、言葉の分だけを返す』


「源一郎は違った」


『違わぬ』


「じいちゃんは、山の掟を守っていた」


『それでも、願った』


「俺を救うためだ!」


『願いは願いだ』


 ヌシの声が強くなる。


『欲に違いはない』


『己の大切なものを失いたくない』


『そのために、山の力を求めた』


「大切なものを守りたいと思うことが、全部同じ欲なのか」


『同じだ』


 迷いのない答え。


 ヌシは、もう人の願いの違いを見ようとしていない。


 金を求める者も。


 子を救いたい者も。


 すべて同じ。


 願うという行為そのものを、欲として見下している。


 白尾が言った。


 願いの心ではなく。


 言葉の隙を探すようになった。


 目の前のヌシは。


 願う者を裁くことに、喜びさえ感じていた。


     ◇


「じいちゃんの魂は、どうなった」


『我が力となった』


 ヌシは自らの胸へ視線を落とす。


『契約によって差し出された魂は』


『我が霧となり』


『我が血となり』


『我が山を動かす力となる』


「まだ、じいちゃんとして残っているのか」


『形は薄れた』


「消えたのか」


『完全には』


 その言葉だけで、身体が前へ出そうになる。


 槍を構える。


 だが、まだ聞かなければならない。


「どうすれば戻せる」


『我を裂き』


『我が力をすべて散らせば』


『欠片くらいは拾えるかもしれぬ』


 ヌシが笑う。


『だが、源一郎の魂は長く我が中にあった』


『どれが人としての記憶で』


『どれが我が力となった部分か』


『お前に見分けられるか』


「やってみなければ分からない」


『愚かな』


 ヌシは再び身体を伏せた。


 まだ、戦うつもりはない。


 俺がどれほど怒るか。


 どれほど絶望するか。


 それを見ている。


『お前の魂も同じだった』


「何が」


『源一郎の魂だけでは、足りなかった』


 ヌシの声が低くなる。


『あの男は、すでに死にかけていた』


『血を失い』


『身体は壊れ』


『魂も弱っていた』


『我が力へ取り込んでも、得られるものは僅か』


「だから、願いを歪めたのか」


『対価に見合う形へした』


 怒りで視界が狭くなる。


 死にかけの魂。


 力にならない。


 だから、孫の願いを正しく叶えない。


 じいちゃんが差し出したすべてを。


 ヌシは価値が足りないと切り捨てた。


『源一郎の魂だけでは』


『健康な人として、新たな生を作るほどの力にはならぬ』


『ならば、安い身体でよい』


『山に無数にいる』


『小さく』


『弱く』


『短く生きる命』


「蟻……」


『そうだ』


 ヌシの目が楽しそうに細まる。


『病のない身体』


『地面を走り回る身体』


『山に生きる身体』


『源一郎の願いへ、最も安く応えられる器だった』


 蟻として目覚めた暗い巣。


 6本の脚。


 働くことだけを求める本能。


 自分が誰だったかも分からない。


 あれが。


 ヌシの考えた、願いの答え。


     ◇


「一度だけじゃなかった」


『当然だ』


「俺は、死んでもまた蟻になった」


『健康な身体を与え続ける契約だからな』


 ヌシの声には、歪んだ満足があった。


『死ねば、また病のない蟻へ』


『また死ねば、次の蟻へ』


『山を走り回ることができる』


『何度でも』


「魂が擦り切れるまで」


 神の記憶で見えた黒い鎖。


 俺の魂へ巻きついていた呪い。


『そうだ』


 ヌシは隠そうともしなかった。


『小さな命を繰り返せば』


『人であった記憶は薄れ』


『自我も消え』


『やがて魂は、蟻の群れへ溶ける』


『源一郎の孫だったものは消え』


『健康な身体だけが、山を走り続ける』


「それが、願いを叶えた結果だと言うのか」


『言葉に偽りはない』


 俺は槍を握った。


 木が軋む。


 指へ食い込む。


 今すぐ飛びかかりたい。


 だが。


 神の声が、ここまで道を作った理由。


 じいちゃんの願い。


 山の掟。


 白尾。


 仲間。


 すべてを思い出す。


 怒りだけで戦えば。


 目の前のヌシと同じになる。


 力で相手をねじ伏せ。


 自分の正しさだけを押しつける。


 俺は一度、息を吐いた。


「神が、俺を助けた」


『あれが介入しなければ』


『お前は数度の生で消えていた』


「技能を残した」


『小細工だ』


「進化する道を開いた」


『我が契約の隙を使っただけ』


「山の記憶を見せた」


『源一郎への同情だろう』


「その結果、俺はここへ来た」


 ヌシの笑みが消えた。


 蟻として消えるはずだった魂。


 何度も死に。


 技能を得て。


 種族を越え。


 群れを作り。


 手を持ち。


 人間と関わり。


 破邪の加護を受け。


 今。


 ヌシの前へ立っている。


「お前の呪いだけなら、俺は消えていた」


「神の助けだけでも、ここまでは来られなかった」


「俺は、生きるたびに選んだ」


「戦うか」


「逃げるか」


「進化するか」


「同じ種族でもう一度生きるか」


「一匹で進むか」


「仲間と生きるか」


 蟻。


 カブトムシ。


 カラス。


 ニホンザル。


 それぞれの生で得たもの。


「お前は、じいちゃんの願いを言葉だけで裁いた」


「俺の魂を、安い器へ押し込めた」


「でも」


「その小さな命の一つ一つが」


「俺をここまで連れてきた」


     ◇


『それで、何を望む』


 ヌシが初めて、わずかに身体を起こした。


「じいちゃんの魂を返せ」


『断る』


「俺の呪いを解け」


『それも断る』


「山から集めた力を返せ」


『これは我が山だ』


「違う」


 白い霧が大きく揺れた。


 洞窟の壁が震える。


 ヌシの目に怒りが宿る。


「山は、お前の身体じゃない」


「水も」


「木も」


「獣も」


「お前が好きに使っていいものじゃない」


『我はヌシだ』


「ヌシだからこそだ」


 俺は槍の先を下げた。


 戦いを避けるためではない。


 言葉を届けるため。


「ヌシは、山より上に立つものじゃない」


「山の命をつなぎ」


「強いものが、弱いものを必要以上に奪わないようにし」


「人が山へ入るなら、山の掟を守らせ」


「山と人の間を保つものだ」


 白尾の言葉。


 じいちゃんの教え。


 俺が何度もの生で学んだこと。


「必要以上に奪わない」


「無用な争いを避ける」


「命を得たなら、無駄にしない」


「弱い命を、理由なく傷つけない」


「次の命へつなぐ」


「自分だけで決めず」


「仲間の声を聞く」


 カブトムシとして。


 カラスとして。


 ニホンザルとして。


 生きる中で評価された山の掟。


「お前は、その全部を忘れた」


『黙れ』


「山の力を奪い」


「願う者を見下し」


「言葉の隙を探し」


「眷属には忠誠だけを求め」


「番だった白尾の声さえ聞かなかった」


『黙れ!』


 ヌシが立ち上がった。


 巨大な身体。


 背中が洞窟の天井へ届きそうになる。


 白い霧が渦を巻く。


 岩が鳴る。


 それでも、俺は下がらなかった。


「神は、俺へ破邪の加護を与えた」


 胸元の守りへ触れる。


「お前の力を退けるために」


「山の掟を守ってきた俺へ」


「ここまで進む道を開いた」


『あれが何を与えようと』


『我こそがヌシだ』


「なら、証明してみろ」


 ヌシの牙が見える。


「神に認められ」


「山を救ったから」


「お前はヌシになった」


「今のお前は」


「神の加護を受けた者を恐れ」


「山を枯らし」


「眷属からさえ疑われている」


 ヌシの目が大きく開く。


「俺は、小さな命として山を知った」


「空から山を見た」


「群れを作った」


「人の社会も見た」


「山の掟を守り」


「神の加護を受け」


「力を自分だけのために使わず」


「仲間とここまで来た」


 槍を地面へ立てる。


 両手を空ける。


 武器ではなく。


 自分自身の意思として伝える。


「今の山に必要なのは、お前じゃない」


「ヌシの座を、俺へ譲れ」


     ◇


 洞窟の空気が止まった。


 白い霧。


 風。


 岩の震え。


 すべてが、一瞬だけ消える。


 ヌシは俺を見下ろしている。


 驚き。


 理解できないという戸惑い。


 そして。


 それ以上に激しい怒り。


『猿が』


 低い声。


『我が座を求めるか』


「種族は関係ない」


『蟻であった魂が』


「その蟻から、ここまで来た」


『人の願いに縛られた呪われたものが』


「その呪いを越えて、ここにいる」


『山のヌシを名乗ると』


「まだ名乗っていない」


 俺はヌシの目を見る。


「お前が譲れば」


「戦わずに済む」


「山へ力を返し」


「じいちゃんの魂を解放し」


「自分の過ちを認めろ」


「そのうえで」


「俺が、山を立て直す」


 ヌシの口元が震える。


 笑っているのか。


 怒りで牙が鳴っているのか。


 分からない。


 やがて。


 黒い狼が、天井へ向かって咆哮した。


     ◇


 洞窟が揺れる。


 外の山まで届く声。


 白い霧が一斉に吹き上がる。


 破邪守が強く光り。


 俺の周囲だけ、霧が切り裂かれた。


『眷属よ!』


 ヌシの声が山全体へ響く。


『侵入者を排除せよ!』


 洞窟の外。


 翼の音。


 獣の足音。


 岩を這う鱗。


 先ほど道を譲った眷属たち。


 クマタカ。


 イノシシ。


 蛇。


 鹿。


 狐。


 熊。


 次々と洞窟の入口へ現れる。


 白尾も、斜面の下から身構えた。


 俺は槍を持ち上げる。


 眷属たちが来ることは分かっていた。


 道を譲ったことを後悔し。


 ヌシの命令へ従うかもしれない。


 最初に、クマタカが洞窟へ入った。


 大きな翼。


 淡く光る目。


 俺の頭上を旋回する。


『殺せ!』


 ヌシが命じる。


『その猿を引き裂け!』


 クマタカは翼を広げた。


 だが。


 襲ってこない。


 洞窟の中央へ降りることもなく。


 入口近くの岩へ止まった。


『何をしている!』


 ヌシの怒声。


 クマタカは、俺ではなくヌシを見ている。


『ヌシ様』


 声には苦しみがあった。


『社の神は』


『この者を認められました』


『だからどうした』


『あの神が、ヌシ様へ山を預けられた』


『そして今』


『この者へ、ヌシ様の力を退ける加護を与えた』


『それは、我への試練だ!』


 ヌシが吠える。


『神は我を試している』


『この猿を殺し』


『我こそが山のヌシであると示せと言っている!』


 クマタカは動かなかった。


『本当に、そうなのでしょうか』


 洞窟の中が静まる。


 ヌシの目が、信じられないものを見るようにクマタカへ向く。


『お前まで、我を疑うのか』


『私は』


 クマタカの爪が、岩へ食い込む。


『ヌシ様の翼です』


『それは変わりません』


『ならば殺せ!』


『ですが』


 クマタカは、洞窟の外へ視線を向けた。


 枯れた木々。


 細くなった沢。


 白い霧。


『私が守っていた山は』


『今も、生きているのでしょうか』


     ◇


『裏切るのか!』


 ヌシの咆哮。


 洞窟の天井から小石が落ちる。


 クマタカは翼を広げた。


 戦う姿勢。


 だが、その身体は俺へ向いていない。


『私は、ヌシ様へ牙を向けません』


『ならば命令へ従え』


『この者へも、爪を向けません』


 クマタカは頭を下げた。


『私には、どちらが正しいのか分かりません』


『故に』


『この戦いへは加われません』


 クマタカが翼を動かす。


 洞窟の入口から外へ出る。


 逃げたのではない。


 戦いから退いた。


『戻れ!』


 ヌシの命令は届かない。


 次に、イノシシが前へ出た。


 長い牙。


 巨大な身体。


 地面を蹴れば、俺など簡単に跳ね飛ばせる。


 だが、イノシシも俺を見たあと。


 ヌシを見る。


『我が命令を聞け』


 ヌシが低く唸る。


 イノシシは頭を下げた。


 従う姿勢。


 そのまま。


 ゆっくりと後ろへ下がった。


 鹿も。


 狐も。


 蛇も。


 熊も。


 誰も、俺へ襲いかからない。


 白尾の言葉。


 山の姿。


 神の加護。


 すべてを見て。


 眷属たちも、ヌシが間違っている可能性を考えてしまった。


 命令だからと。


 疑いを捨てて従うことが、できなくなった。


『我が与えた力を忘れたか!』


 ヌシが叫ぶ。


『傷を癒やし』


『長い命を与え』


『山の獣より強い身体を与えたのは我だ!』


 蛇が身体を丸める。


『その力は』


 細い声が頭へ届いた。


『山を守るためのものではなかったのですか』


『我を守ることが山を守ることだ!』


『今の山は』


 鹿が静かに言う。


『ヌシ様だけを生かすために、死に始めております』


『黙れ』


『我らは』


 熊が続ける。


『何を守るべきか、分からなくなりました』


『黙れ!』


 ヌシの身体から、白い霧が噴き出す。


 眷属たちへ巻きつく。


 命令。


 支配。


 力を与えた者として。


 無理に従わせようとしている。


 だが、破邪守から光が広がった。


 俺を中心に。


 薄い波となって洞窟の入口へ届く。


 眷属たちへまとわりついていた霧が、わずかに薄くなる。


 クマタカだけではない。


 眷属たちは、自らの意思で後退した。


 ヌシの命令を拒んだ。


     ◇


『役立たずどもが』


 ヌシの声が低くなる。


 怒鳴るよりも。


 咆哮するよりも。


 さらに危険な声。


『我が力を受けながら』


『我を疑い』


『我が敵を見逃す』


 白い霧が、ヌシの身体へ戻っていく。


 眷属へ分けられていた力まで。


 吸い上げるように。


 クマタカの目の光が弱くなる。


 イノシシの牙を覆っていた白い光も消える。


 蛇。


 熊。


 鹿。


 眷属たちの身体から、ヌシの加護が抜けていく。


 普通の獣へ戻るわけではない。


 だが、傷を癒やし。


 山の力を借りる能力は失われた。


『力を返せ』


 ヌシが言う。


『お前たちには、相応しくなかった』


 クマタカが空中で身体を揺らす。


 それでも落ちない。


 自分の翼で飛び続ける。


 白尾が洞窟の入口へ進み出た。


『ついに』


 悲しみを含んだ声。


『眷属まで、道具として捨てるのか』


 ヌシは白尾を見た。


 かつての番。


 隣を走った雌狼。


『お前が、すべてを惑わせた』


『違う』


『お前が山を裏切り』


『猿を導き』


『我が眷属へ疑いを植えつけた』


『疑いは、私が植えたものではない』


 白尾は枯れた森を振り返る。


『あれらが、自分の目で山を見た結果だ』


『黙れ』


『お前も見よ』


『黙れ!』


『昔のお前なら』


 白尾の声が震える。


『山の声を聞いた』


『弱い獣の声も』


『人の願いも』


『今は、自分の声しか聞いていない』


     ◇


 ヌシがゆっくりと俺へ顔を向けた。


 もう、眷属へ命じない。


 白尾へ言葉を返さない。


 山の状態も。


 神の加護も。


 誰の声も聞こうとしない。


 残っているのは。


 自分の座を奪おうとする俺への怒りだけ。


『よかろう』


 黒い狼が、一歩前へ出た。


 岩が砕ける。


 洞窟全体が沈むように揺れた。


『神の加護を得た』


『山の掟を知った』


『群れを率いた』


『それだけで』


『我よりヌシに相応しいと言うのなら』


 さらに一歩。


 白い霧が、巨大な身体へ集まる。


 山から奪ったすべての力。


 眷属から取り戻した力。


 そして。


 じいちゃんの魂を取り込んだ力。


 ヌシの身体が、さらに大きく見えた。


『我が自ら、確かめてやる』


 爪が岩を削る。


 牙の間から、白い霧が漏れる。


 俺は地面へ立てていた槍を抜いた。


 両手で構える。


 ヌシの座を譲れと伝えた。


 言葉で終わる可能性は、最初から低かった。


 それでも話した。


 何が間違っているのか。


 なぜ自分が座を求めるのか。


 すべて伝えた。


 ヌシは拒んだ。


 眷属たちの声も。


 白尾の声も。


 山の声も。


 拒んだ。


 ならば。


 あとは力で止めるしかない。


『源一郎の孫よ』


 ヌシが身体を低くする。


 飛びかかる姿勢。


『お前を砕き』


『魂が擦り切れるまで』


『再び蟻として山へ落としてやろう』


 胸元の破邪守が、強く輝いた。


 神の声は聞こえない。


 助けも求めない。


 ここから先は。


 自分で選び。


 自分の力で戦う。


「俺は、もうお前の願いの中では生きない」


 槍の先を、ヌシへ向ける。


「この生で」


「お前の呪いを終わらせる」


 黒い狼の脚が地面を蹴った。


 岩が爆ぜる。


 白い霧を引き裂きながら。


 山のヌシが、俺へ襲いかかった。

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