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山のヌシ  作者: つぶつぶみかん
4.手を持つ獣
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20/28

4-4.神の手から零れた魂

 山へ戻った俺を、最初に見つけたのは片耳の雄だった。


 人里に近い尾根。


 高い木の上から周囲を見張っていた彼は、枝を渡る俺の姿を見つけると、鋭い声を上げた。


 一度。


 もう一度。


 以前、仲間同士で決めた帰還の合図。


 その声が、山の中腹へ伝わっていく。


 遠くから返事が聞こえた。


 一匹。


 また一匹。


 木々の間から、仲間たちが現れる。


 大柄な雄。


 小柄な雌。


 細身の雌。


 残る若い雄と雌。


 6匹とも無事だった。


 俺の姿を確かめると、一斉に近づいてくる。


 大柄な雄が、最初に俺の肩を掴んだ。


 強い力。


 怒っている。


 一年も戻らなかった俺を責めているらしい。


 次の瞬間、その太い腕が俺の背中へ回った。


 押し潰すように抱き締められる。


 ほかの仲間たちも集まってきた。


 腕。


 手。


 毛。


 声。


 何匹もの身体に囲まれる。


 生きて戻ったことを喜んでいる。


 俺は、一匹ずつの顔を見た。


「待たせた」


 人間の言葉では届かない。


 それでも、俺の声と表情から、意味は伝わった。


 首元に下げた白い袋へ、小柄な雌が手を伸ばす。


 破邪守。


 神主の手から正式に授けられた、社の神の加護。


 彼女の指が触れる前に、守りから淡い温かさが広がった。


 小柄な雌が驚き、手を引く。


 ほかの仲間も白い袋を見つめる。


 ただの人間の道具ではない。


 猿たちにも、それが分かるらしい。


 俺は守りを胸へ当てた。


 次に山の深部を指す。


 準備は整った。


 ヌシのもとへ向かう。


 大柄な雄が歯を見せた。


 待ち続けた一年を取り戻すように、力強く地面を叩く。


     ◇


 仲間たちも、ただ俺の帰りを待っていたわけではなかった。


 以前使った山小屋へ戻る。


 崩れかけた壁の内側には、集められた道具が並べられていた。


 太い縄。


 細い紐。


 針金。


 加工した木の棒。


 石の刃。


 乾かした獣の皮。


 小さく折り畳める網。


 木の実と乾燥させた果実。


 薬草。


 傷口を縛るための清潔な布。


 竹を削って作った水筒。


 俺が人里へ向かう前に頼んだものだけではない。


 仲間たちは、自分たちで考え。


 必要だと思う物を増やしていた。


 大柄な雄は、以前より太い棒を用意している。


 先端には石の刃。


 刃が抜けないよう、皮と針金で何重にも固定されていた。


 槍。


 人間が作るものほど正確ではない。


 だが、クマタカの羽毛や獣の皮を貫くには十分だった。


 細身の雌は、複数の小さな袋を見せた。


 中には石。


 乾いた土。


 砕いた木の実。


 刺激の強い草の種。


 目へ入れれば、相手の視界を奪える。


 小柄な雌は、縄の先へ石を付けた道具を作っていた。


 振り回す。


 投げる。


 脚へ絡める。


 カラスだった頃に考えた投石と捕縛を、猿の手で一つにしたもの。


 片耳の雄は、山の境界を描いた地図を地面へ広げた。


 木の皮へ傷を付け。


 沢。


 岩。


 白い苔。


 青白い石。


 一年間で変化した場所を記録している。


 白い霧の境界は、以前よりも外へ広がっていた。


 群れが使っていた餌場の一部も、すでに霧の中にある。


 仲間たちの準備を見ながら、胸が熱くなった。


 俺がいない間も。


 6匹は考え。


 動き。


 ヌシのもとへ進む日に備えていた。


 この一年は、失われていない。


     ◇


 夕方。


 山小屋の外へ、一頭の狼が現れた。


 白尾。


 尾の先だけが白い、年老いた雌狼。


 俺の姿を見つけると、静かに歩み寄ってくる。


『戻ったか』


「遅くなった」


『一年は、山にとって短い』


 白尾の声には、再会を喜ぶ温かさがあった。


 だが、その奥に深い疲れが混じっている。


『だが、今の山にとっては長すぎた』


 白尾は深部へ顔を向けた。


『あれの暴走は、さらに激しくなっている』


「何があった」


『白い霧が二度、大きく山を下った』


 深部だけに留まっていた霧。


 それが沢を伝い、中腹近くまで広がった。


 霧に包まれた木々は葉を落とした。


 実を付けるはずの木も枯れた。


 巣を作っていた鳥は逃げ。


 動けなかった雛は死んだ。


 小さな獣の中には、霧を吸い込んだまま目を覚まさなくなったものもいる。


『あれは山の力を、内へ集め始めている』


「内へ?」


『水』


『土』


『木々の命』


『山に生きる獣の力』


『すべてを、己のもとへ引き寄せている』


 ヌシ自身を強くするため。


 あるいは、近づく俺を迎え撃つため。


 クマタカは、すべてをヌシへ伝えると言っていた。


 俺が破邪守を求めて人里へ向かったこと。


 白尾が協力していること。


 ヌシはすでに知っているのだろう。


「俺を待っているのか」


『おそらく』


 白尾は俺の首元を見る。


『守りは得られたのだな』


「神主から受け取った」


『社の神は、お前を認めたか』


 俺は頷いた。


 祭りの日。


 誰も触れていない鈴が鳴った。


 死後の暗闇と同じ声が聞こえた。


 願いを確認した。


 破邪の加護を付与する。


 あの声が、社の神なら。


 俺を何度も転生させてきた存在は、最初からこの戦いを見ている。


「白尾」


『何だ』


「社の神は、どうして俺を助ける」


 白尾は答えなかった。


 知らないのか。


 それとも、今は話すべきではないと思っているのか。


『その答えは、私が語るものではない』


 クマタカと似た言葉。


 だが、拒絶ではなかった。


『お前自身が、まもなく聞くことになる』


     ◇


 時間がない。


 白尾の言葉。


 広がり続ける霧。


 枯れ始めた山。


 これ以上準備を続けても、その間に守るべき山が失われていく。


 俺は、ヌシとの決着をつけることにした。


 仲間たちへ意思を伝える。


 明日の朝。


 山の深部へ進む。


 大柄な雄は、すぐに槍を持ち上げた。


 ほかの仲間も、自分の道具を確認する。


 迷う者はいなかった。


「ヌシは強い」


 地面へ、大きな狼の形を描く。


 その周囲へ、白い霧。


 クマタカ。


 ほかの眷属。


 山そのもの。


「全員が帰れるとは限らない」


 7匹の印を並べる。


 そのいくつかを、手で消す。


 小柄な雌が、消された印をすぐに描き直した。


 細身の雌も。


 片耳の雄も。


 全員分。


 誰も欠けない。


 そう言っている。


 俺は、強く頷くことができなかった。


 戦いに絶対はない。


 強い意志だけで、生きて帰れるわけでもない。


 それでも。


 仲間たちの覚悟を拒むこともできなかった。


 白尾は、少し離れた場所から俺たちを見ている。


『あれのもとへ行けば、戻れぬかもしれぬ』


「分かっている」


『それでも行くか』


「このために、何度も生きた」


 蟻として。


 カブトムシとして。


 カラスとして。


 ニホンザルとして。


 何度も死に。


 何度も戻った。


 じいちゃんの願いを確かめるため。


 自分が転生を繰り返す理由を知るため。


 そして今は。


 山を救うため。


「行く」


 白尾は目を閉じた。


 しばらくして開く。


『ならば、私も行こう』


     ◇


 翌朝。


 俺たちは山小屋を出た。


 俺を含む7匹のニホンザル。


 白尾。


 仲間たちは、それぞれ道具を持っている。


 俺は背中へ、皮と布で作った荷袋を背負った。


 中には縄。


 石の刃。


 薬草。


 食料。


 火を起こす道具。


 人間の町で覚えた結び方を使い、身体へ固定している。


 腰には短い石斧。


 手には、真っ直ぐな木を削って作った槍。


 カラスだった頃に比べれば。


 ようやく、自分の考えへ身体と道具が追いついた。


 胸元には、白い破邪守。


 赤い紐が首へ結ばれている。


 巫女の手で結ばれたもの。


 神主から授けられ。


 社の神が認めた加護。


 白尾が先頭を歩く。


 俺たち7匹が続く。


 最初のうちは、いつもの山だった。


 鳥の声。


 虫。


 沢。


 木の実。


 だが、深部へ近づくにつれて、生き物の気配が減っていく。


 以前よりも早い。


 カラスだった頃は、野営跡を越えてから静かになった。


 今は、その手前から森が沈黙している。


 木々の葉も薄い。


 地面に落ちた実は小さく。


 虫に食われてもいない。


 虫そのものがいないからだ。


「本当に、山が死に始めている」


 言葉にした声は、猿の鳴き声にしかならない。


 白尾だけは、意味を受け取った。


『あれは、自分が山そのものだと思っている』


『山が弱れば、その力をさらに奪い』


『自らを強くすれば山も救われると信じている』


「逆なのに」


『今のあれには、違いが分からぬ』


     ◇


 最初の白い苔が見えた。


 古い杉の根元。


 岩の割れ目。


 そこから霧が湧き出している。


 以前より濃い。


 地面を這うだけではなく、腰の高さまで広がっている。


 仲間たちが立ち止まった。


 霧へ入れば、身体から力を奪われる。


 クマタカと戦ったとき。


 飛ぶ力を失った。


 猿の身体でも同じだろう。


 俺は胸の破邪守へ手を触れた。


 温かい。


 一歩。


 霧の中へ足を入れる。


 何も起きない。


 身体は重くならない。


 呼吸も苦しくない。


 白い霧は俺へ触れる直前に薄くなり。


 身体の周囲を避けるように流れた。


 守りから淡い光が広がる。


 目に見えるほど強くはない。


 それでも、霧との間へ薄い壁ができている。


 もう一歩。


 さらに進む。


 問題ない。


 振り返る。


 仲間たちも霧へ入ろうとした。


 だが、先頭の大柄な雄が膝をついた。


 槍を地面へ刺し、身体を支える。


 白い霧が毛へまとわりついている。


 俺はすぐに引き戻した。


 境界の外へ出ると、大柄な雄の呼吸が戻る。


 破邪の加護は、俺一匹にしか働かない。


 仲間へ触れれば守れるのか。


 手を握り、もう一度霧へ入る。


 大柄な雄の身体がすぐに重くなった。


 俺の守りは、他者まで覆わない。


「ここからは、一匹で行く」


 仲間たちが一斉に騒いだ。


 大柄な雄は首を横へ振る。


 小柄な雌も、俺の腕を掴む。


 一年待った。


 装備も整えた。


 ともにヌシへ挑むために。


 ここで残れと言われても、受け入れられない。


 だが、霧の中へ無理に入れば。


 戦う前に動けなくなる。


 俺は地面へ線を引いた。


 白い霧の境界。


 こちら側に6匹。


 向こう側に俺。


 背後には、山の外へ続く道。


 仲間たちの役割は、ここを守ること。


 俺が戻ったとき。


 ヌシの眷属が追ってきたとき。


 白い霧がさらに広がったとき。


 退路を作る。


 一年前、人里へ行くときにも。


 俺は仲間へ待つ役割を頼んだ。


 離れた場所で。


 それぞれが必要なことをする。


 それも連携。


 今度も同じだった。


 大柄な雄は、長い間俺を見ていた。


 やがて、持っていた槍を差し出す。


 自分が作った最も強い武器。


 俺は受け取らなかった。


 彼らがここを守るために必要だ。


 代わりに、槍を握る雄の手へ自分の手を重ねた。


「必ず戻る」


 今度は、守れないかもしれない約束。


 それでも、伝えずにはいられなかった。


 大柄な雄が、俺の胸を一度叩く。


 俺も同じように返す。


 白尾が境界へ足を入れた。


 霧は彼女の身体へまとわりつかない。


「白尾は平気なのか」


『長くあれの力へ触れていた』


『完全ではないが、この程度なら進める』


 白尾は俺とともに来る。


 仲間たちは境界へ残る。


 俺は6匹へ背を向けた。


 一度でも振り返れば、進めなくなる気がした。


     ◇


 白い霧の中を歩く。


 破邪守が温かい。


 霧は左右へ分かれ。


 俺の身体へ入り込むことができない。


 以前は敵だった風も、今は進路を曲げなかった。


 枝が道を塞ぐこともない。


 山そのものが、俺を拒む力を失っている。


 白尾が先を進む。


 じいちゃんを導いたときと同じ道。


 だが、今の白尾の足取りは重い。


『あれは気づいている』


「俺が来たことに?」


『守りの力へ』


 森の奥から、複数の気配が近づいてくる。


 木々が揺れる。


 地面が震える。


 上空では、大きな翼の音。


 俺は槍を構えた。


 白尾も牙を見せる。


     ◇


 最初に現れたのは、クマタカだった。


 以前、罠で捕らえた眷属。


 胸には、骨を突き刺した痕も。


 網で傷つけた痕も残っていない。


 白い霧によって、すべて治されている。


 その背後。


 木々の間から、大きなイノシシが現れる。


 牙は普通の個体より長く。


 目が淡く光っている。


 岩の上には、太い蛇。


 白い霧を身体へまとい。


 舌を出してこちらを見ている。


 さらに奥。


 鹿。


 狐。


 熊。


 ヌシの力を分けられた眷属たち。


 空。


 地上。


 木々。


 逃げ道を囲むように姿を現した。


『止まれ』


 クマタカの声が、頭へ響く。


 俺は槍を下ろさなかった。


『その先はヌシ様の御前』


「だから来た」


『人の社の印を身につけて』


 クマタカの目が、胸元の守りへ向く。


 怒り。


 だが、以前とは違う。


 その中に迷いがある。


『なぜ、その加護がお前に与えられた』


「社の神が認めたからだ」


 クマタカが翼を大きく広げた。


『あり得ぬ』


『あの神は、山のことへ干渉せぬ』


『ヌシ様へ山を預けて以来』


『一度も』


 イノシシが低く唸る。


 蛇は、守りから視線を離さない。


 眷属たちも知っている。


 この山のヌシが、社の神から力を預けられた存在であることを。


 その神が今。


 ヌシへ挑もうとする俺へ、破邪の加護を与えた。


 それが何を意味するのか。


 眷属たちの間へ、困惑が広がっていく。


『まさか』


 鹿の眷属から、弱い意思が漏れた。


『神は、ヌシ様を……』


『黙れ!』


 クマタカが叫ぶ。


 だが、否定の声にも以前ほどの確信がない。


『ヌシ様は、神より山を預けられた』


『今も山を守っておられる』


 白尾が前へ出た。


『ならば、山を見よ』


 クマタカが白尾を睨む。


『裏切り者』


『森は枯れ』


『水は細り』


『子を産む獣すら減った』


『それでも、あれが山を守っていると言うのか』


『ヌシ様は、山を立て直すために力を集めている』


『山を殺しながらか』


 眷属たちが動かない。


 以前なら。


 白尾がヌシを批判しただけで、襲いかかっていただろう。


 だが、今は俺の胸に破邪守がある。


 社の神が認めた証。


 ヌシをヌシにした存在が。


 ヌシの力を退ける加護を、挑戦者へ与えた。


 眷属たちの信じていた形が揺らいでいる。


「道を開けてくれ」


 俺は槍を下ろした。


 戦うために来た。


 だが、戦わずに済むなら、そのほうがいい。


「ヌシが正しいなら」


「俺はあいつの前で負ける」


「神がヌシを見限っていないなら」


「この守りも意味を失うはずだ」


 クマタカは俺を見つめた。


 淡く光る目。


 何度も殺し合った相手。


 ヌシへの忠誠は、今も消えていない。


『お前を通せば』


『我らはヌシ様へ背くことになる』


「止めれば」


 白尾が続ける。


『社の神へ背くことになる』


 眷属たちの視線が揺れる。


 熊が一歩下がった。


 蛇が岩の上で身体を緩める。


 鹿も、進路から離れた。


 最後まで動かなかったのはクマタカだった。


『我は、ヌシ様の翼』


「知っている」


『お前を通したことを、悔いるかもしれぬ』


「それでも進む」


 長い沈黙。


 やがて。


 クマタカが翼を畳んだ。


 道の脇へ移る。


『行け』


 悔しさを押し殺した声。


『社の神が何を望んでいるのか』


『ヌシ様へ確かめるがいい』


 眷属たちが、左右へ分かれた。


 山の深部へ続く道が開く。


 俺はクマタカの横を通り過ぎた。


 襲われることはなかった。


 白尾も続く。


 背後で、クマタカの声が聞こえる。


『もし、神がヌシ様を見限られたのなら』


 俺は足を止めなかった。


『我らは、何を守っていたのだ』


     ◇


 眷属たちを越える。


 森はさらに暗くなった。


 木々の間に、生きた葉はほとんど残っていない。


 白い霧だけが濃く。


 地面を覆い。


 岩へまとわりついている。


 やがて、森が終わった。


 岩の多い斜面。


 じいちゃんが落石へ巻き込まれた場所。


 崩れた岩。


 土。


 長い年月が経っている。


 それでも、地形は神の記憶で見たものと似ていた。


 斜面の先。


 巨大な岩壁。


 中央に、黒い裂け目がある。


 ヌシの洞窟。


 じいちゃんが、折れた脚を引きずり。


 両手で這ってたどり着いた場所。


 胸が強く鳴る。


 あの奥にいる。


 ヌシが。


 じいちゃんの願いを歪めた存在が。


 白尾が立ち止まった。


『私は、ここまでだ』


「一緒には来ないのか」


『あれの前へ立てば』


 白尾の視線が黒い裂け目へ向く。


『私は、昔のあれを思い出す』


『牙を向ける覚悟が鈍るかもしれぬ』


「それでも――」


『最初に話すべきなのは、お前だ』


 じいちゃんの願い。


 俺の呪い。


 ヌシと俺の間にあるもの。


 白尾が先に立てば。


 ヌシは、かつての番との争いへ目を向ける。


 俺が確かめるべきことが、後回しになる。


『私は、逃げぬ』


 白尾は斜面の下へ腰を下ろした。


『必要になれば呼べ』


「分かった」


 俺は一匹で斜面を登る。


 一歩。


 また一歩。


 じいちゃんが這った場所。


 転がる石。


 割れた岩。


 どこかに、折れた猟銃の欠片が残っているかもしれない。


 洞窟へ近づくほど、破邪守が熱を持つ。


 白い霧が濃くなる。


 それでも身体へは入ってこない。


 黒い裂け目まで、あとわずか。


 そのとき。


 胸元の守りから、澄んだ鈴の音が響いた。


     ◇


『記録開示条件を満たしました』


 足が止まる。


 周囲の景色が薄くなる。


 岩。


 霧。


 洞窟。


 すべてが白い光へ溶けていく。


 死後の暗闇で聞いてきた声。


 神社で願いを認めた声。


「お前なんだな」


『はい』


 初めて。


 問いへ、迷いなく答えが返った。


「俺を転生させてきたのは」


『私です』


「神社に祀られている神」


『その認識で相違ありません』


「どうして、俺を助けた」


 白い光の中へ、景色が浮かび上がる。


『説明の前に』


『私の記憶を開示します』


 山の記憶ではない。


 じいちゃんの目を通した景色でもない。


 生と死の境に立つ神が見ていたもの。


『神の記憶を再生します』


     ◇


 石の鳥居。


 まだ新しい注連縄。


 今よりも若い杉。


 何十年も前の神社。


 一人の男が、石段を上ってくる。


 源一郎。


 今より若い。


 背筋は真っ直ぐで。


 髪も黒い。


 肩には猟銃。


 腰には鉈。


 背中には荷物。


 山へ入る装備を整えている。


 源一郎は社の前へ立った。


 賽銭を入れる。


 鈴を鳴らす。


 深く頭を下げる。


「今日も、山へ入らせていただきます」


 神へ何かを求める祈りではなかった。


「必要な分だけ、いただきます」


「日が暮れる前に、必ず下ります」


 山の掟。


 俺の中へ残り続けた言葉。


 源一郎は、山へ入る前に必ずこの神社へ来ていた。


 帰ってきたあとも。


 獲物を得た日には、その一部を供え。


 何も得なかった日には、無事に戻れたことへ礼をした。


「今日は、山に入らせてもらっただけでした」


「それで十分です」


 源一郎は、祈るだけの人間ではなかった。


 山から得たものを、自分の力だけで手に入れたと思わない。


 神へ。


 山へ。


 命へ。


 礼を返す人間だった。


 姿の見えない神は、長い年月。


 源一郎を見ていた。


     ◇


 季節が流れる。


 源一郎の髪へ白いものが増える。


 猟銃を持つ手には皺が刻まれる。


 それでも、山へ入る前には必ず参った。


 ある日。


 源一郎は、小さな男の子を連れてきた。


 俺。


 人間だった頃の自分。


 まだ病に倒れる前。


 源一郎の手を握り、石段を上っている。


「じいちゃん、ここに神様いるの?」


「おるぞ」


「見えないよ」


「見えんからおらんとは限らん」


 源一郎が笑う。


「山も同じだ」


「見えるものだけ見て歩くと、痛い目を見る」


 子どもの俺は、よく分かっていない。


 それでも源一郎の真似をし。


 小さな手を合わせ。


 頭を下げた。


「孫を連れてまいりました」


 源一郎が社へ告げる。


「山の掟を、この子にも教えます」


 神は、二人を見ていた。


 声を掛けることはない。


 人の生へ、簡単に手を出すこともしない。


 ただ。


 生まれ。


 生き。


 死んでいく命を見守っていた。


     ◇


 景色が変わる。


 雨。


 源一郎が、一人で石段を上ってくる。


 傘も差していない。


 服が濡れている。


 以前より、背中が小さく見えた。


 社の前へ膝をつく。


 いつものように賽銭を入れない。


 鈴も鳴らさない。


 ただ、両手を地面へついた。


「孫を、助けてください」


 神へ頼み事をしなかった男。


 必要なものは自分で得て。


 山から受け取った分へ礼をしてきた男。


 その源一郎が、初めて願った。


「まだ16です」


「山を走ることも」


「海を見ることも」


「何一つできておらん」


 雨が、源一郎の背中を打つ。


「わしの命なら、いくらでも持っていってください」


「孫を助けてください」


 神は、その願いを聞いていた。


 だが。


 叶えることはできなかった。


     ◇


『私は、生と死の境を司る存在です』


 景色の外から、声が響く。


『死者の魂を導き』


『次の生へ送ることはできます』


『しかし』


『生きている者の肉体を作り替え』


『定められた病を消す権能はありません』


 病を治す神ではない。


 命を延ばす神でもない。


 生きた肉体へ直接手を入れれば。


 別の命。


 別の巡り。


 世界の均衡へ影響する。


 神であっても、できることには限りがあった。


『源一郎の願いへ、応えることができませんでした』


 源一郎には、神の声が聞こえない。


 返事がない。


 鈴も鳴らない。


 奇跡も起きない。


 それでも、源一郎は何度も神社へ来た。


 季節が変わるたび。


 孫の病が悪化するたび。


 同じ願いを繰り返した。


 神は見ていることしかできなかった。


     ◇


 最後の日。


 源一郎は猟師の装備で神社へ来た。


 猟銃。


 鉈。


 食料。


 塩。


 火を起こす道具。


 戻るためではなく。


 山の奥へ進むための装備。


 社の前へ立つ。


「神様」


 声は静かだった。


「これが最後のお願いになるかもしれません」


 胸元から写真を取り出す。


 病院のベッドにいる孫。


「わしは、山のヌシへ会いに行きます」


「願いを叶えるという話が、本当か確かめます」


 神は止めようとした。


 風を起こす。


 鈴を鳴らす。


 山へ入るなと伝えようとする。


 だが、源一郎には意味が届かない。


 源一郎は、鈴の音を別の意味に受け取った。


「背中を押してくださるのですか」


 違う。


 行くな。


 そのヌシは、かつて神が山を預けた存在。


 だが今は。


 長い時間と力の中で、願いの心を見失い始めている。


 神は知っていた。


 それでも。


 人間へ直接言葉を届けることはできなかった。


「孫を頼みます」


 源一郎は深く頭を下げた。


「わしが戻らなかったら」


「せめて、あの子が迷わずに逝けるよう」


「次は、元気な身体へ生まれられるよう」


 源一郎の最後の願い。


 病を治すことはできない。


 今の生を延ばすこともできない。


 だが。


 死後。


 魂を受け取り。


 次の生へ送ることならできる。


『私は、その願いを受けました』


 神の声。


『生きた彼を救うことはできない』


『それでも』


『死後、健康な人間として生まれ変わらせることはできる』


 神は、源一郎へ返事を届けられないまま。


 約束した。


 孫が死を迎えたとき。


 その魂を迷わせず。


 病のない。


 健康な人間の身体へ。


 新しい生を与えると。


 源一郎は最後の礼をし。


 石段を下り。


 山へ入っていった。


     ◇


 時間が流れる。


 病院。


 白い部屋。


 16歳の少年。


 痩せた身体。


 呼吸。


 機械の音。


 家族の声。


 俺が死んだ日。


 少年の胸が動かなくなる。


 人間の身体から、淡い光が浮かび上がった。


 魂。


 形は少年のまま。


 だが、病による傷はない。


 苦しそうな呼吸も。


 痛みもない。


 生と死の境へ立つ神が、手を伸ばす。


 源一郎との約束。


 この魂を受け取り。


 健康な人間の生へ送る。


『こちらへ』


 少年は声の方向を見た。


 自分が死んだことを、まだ理解していない。


 名前。


 家族。


 源一郎。


 記憶が、少しずつ魂から離れていく。


 神の手が、少年へ届く。


 その直前。


 山の方向から、白い霧が流れ込んだ。


     ◇


 病院の壁を越え。


 町を越え。


 距離など存在しないように。


 白い霧が、生と死の境へ侵入する。


 霧の中には。


 黒いものが混じっていた。


 狼の爪。


 牙。


 山の根。


 源一郎の血。


 差し出された命。


 交わされた願い。


 それらが絡み合い、一本の鎖となっている。


『その魂は、すでに山のもの』


 低い声が響く。


 ヌシ。


 神の記憶の中でも、その姿は見えない。


 巨大な黒い狼の目だけが。


 白い霧の向こうで光っている。


『源一郎の願いは、我が受けた』


『対価も得た』


『願いは、すでに叶えている』


「何をした」


 神の声に、初めて明確な怒りが混じった。


『願いの通りだ』


 ヌシの声。


 だが、続く言葉は霧に遮られた。


 聞こえる。


 聞こえない。


 健康な身体。


 死。


 山。


 何度でも。


 言葉の断片だけが流れる。


 少年の魂へ、黒い鎖が巻きついた。


 神は手を伸ばす。


 魂を掴む。


 温かい光。


 細い腕。


 指先。


 確かに一度は触れた。


 だが。


 源一郎は、自らの意思で命を差し出した。


 ヌシの前で。


 願いの対価として。


 その契約が、少年の魂へつながっている。


 神は源一郎との約束を持つ。


 ヌシは源一郎との契約を持つ。


 生と死の境で。


 二つの力が、一つの魂を引いた。


『放しなさい』


『この魂は、次の生へ送るべきものです』


『すでに次の生は与えた』


 黒い鎖が強く引かれる。


 少年の魂が、神の手から滑る。


 指先が離れる。


「待って」


 少年には声が届かない。


 記憶を失い。


 名前を失い。


 何が起きているかも分からないまま。


 白い霧へ呑み込まれる。


『待ちなさい!』


 神が手を伸ばす。


 あと少し。


 届かない。


 魂が。


 その手から零れ落ちた。


     ◇


 暗い土の中。


 卵。


 幼虫。


 無数の小さな命。


 少年の魂は、山の蟻へ落ちた。


 6本の足。


 強い本能。


 人間の自我を保てる知能はない。


 源一郎の孫だった記憶も失われる。


 神は、山の中へ直接手を伸ばすことができなかった。


 山は、ヌシへ預けた領域。


 その内側で生きる命へ。


 神が勝手に干渉すれば、山を預けた約束そのものを破ることになる。


 生まれた蟻は。


 自分が人間だったことも知らず。


 巣の中で働き始めた。


『私は、あなたを救えませんでした』


 神の声。


『源一郎との約束を守れませんでした』


 働き蟻として。


 367日。


 初めての生を終える。


 小さな魂が、死と生の境へ戻ってくる。


 その一瞬。


 神は再び手を伸ばした。


 今度は、魂を山から奪おうとはしなかった。


 ヌシの契約が続いている。


 無理に引けば、また零れ落ちる。


 代わりに。


 次の生を選ぶための力を与える。


 経験を数える。


 命として得たものを、魂へ残す。


 進化する道を開く。


 次の身体へ、技能を継がせる。


 少しずつ。


 ヌシの呪いの中で。


 自分自身の意思を取り戻せるように。


――――――――――


【第1生 集計結果】


 種族:蟻


 役割:働き蟻


 生存期間:367日


――――――――――


 白い文字。


 感情のないように聞こえる声。


 それは神が、魂へ確実に情報を届けるために作った形だった。


『私は、あなたを人間として生まれ変わらせることができなかった』


『ならば』


『あなた自身が、呪いを越える力を得るまで』


『何度でも道を示そうと決めました』


 蟻。


 カブトムシ。


 カラス。


 ニホンザル。


 命を重ねるたび。


 魂は強くなった。


 記憶を取り戻し。


 道具を得て。


 群れを知り。


 人間と関わり。


 ついに。


 自らの意思で、破邪守を求めた。


『源一郎の願いは』


『あなたを、何度も死なせることではありませんでした』


『病のない身体で』


『あなた自身として』


『もう一度、生きることでした』


     ◇


 白い光が消える。


 岩場。


 白い霧。


 黒い裂け目。


 現実へ戻る。


 俺は、その場へ膝をついていた。


 両手が震えている。


 じいちゃん。


 源一郎。


 名前を思い出した。


 山へ入る前に、必ず神社へ参った男。


 山の命へ礼を返した猟師。


 俺を救うため。


 自分の命を差し出した人。


 神も。


 俺を見捨てていたわけではない。


 病を治せなかった。


 源一郎を止められなかった。


 死後、健康な人間へ転生させようとした。


 だが。


 ヌシの呪いが、俺の魂を奪った。


 俺の転生は。


 ヌシの願いだけで続いていたのではない。


 魂が完全に呪いへ呑まれないよう。


 社の神が、死ぬたびに手を差し伸べていた。


 EP。


 SP。


 技能。


 進化。


 山の記憶。


 すべて。


 呪いを越え。


 ここまで来るための道だった。


「どうして、今まで話さなかった」


『あなたの魂が、記憶へ耐えられなかったためです』


 蟻。


 カブトムシ。


 小さな身体。


 低い知能。


 人間だった頃のすべてを戻せば。


 生き物としての本能と。


 人間の自我が衝突する。


 魂そのものが壊れる可能性があった。


『そして』


『真実を知るだけでは』


『呪いを越えることはできません』


 力。


 身体。


 知識。


 仲間。


 自ら選んだ意志。


 そのすべてが必要だった。


「お前は、ヌシを止められないのか」


『私が直接、山のヌシを討つことはできません』


「自分で選んだヌシなのに」


『だからこそです』


 神は黒い狼へ山を預けた。


 山を救った功績。


 命を守る意思。


 それを信じ。


 ヌシの力を与えた。


『山を預けた私が』


『都合が悪くなったからと、一方的に命を奪えば』


『ヌシの願いを歪めた行いと変わりません』


「なら、どうする」


『選択は、山に生きた者へ委ねます』


 俺。


 白尾。


 眷属。


 猿の仲間。


 カラスの群れ。


 この山で生きてきた命。


『正すか』


『力を手放させるか』


『新たなヌシを選ぶか』


『それを決めるのは、あなたたちです』


 神は道を作る。


 加護を与える。


 だが、答えまでは決めない。


 それが。


 生と死の巡りを見守る神の立場だった。


「源一郎は」


 声が震えた。


「じいちゃんは、どこにいる」


 しばらく返事がなかった。


『その答えは』


『この先にいます』


 黒い裂け目。


 ヌシの洞窟。


 じいちゃんが願いを伝えた場所。


 源一郎の命。


 願い。


 魂。


 その結末を知る存在がいる。


「分かった」


 俺は立ち上がった。


 槍を握る。


 胸元の破邪守へ触れる。


 温かい。


 じいちゃんが神へ託した願い。


 神が守れなかった約束。


 ヌシが歪めた願い。


 俺が何度も生きた理由。


 すべてを知った今。


 もう、引き返すことはできない。


『最後に』


 神の声が響く。


『源一郎は』


『あなたが自分を救うために戦うことを、望んではいないでしょう』


「分かっている」


 じいちゃんが望んだのは。


 俺が健康な身体で。


 自分の人生を生きること。


 復讐のために命を捨てることではない。


「だから、生きて帰る」


 ヌシを止める。


 山を救う。


 呪いを終わらせる。


 そのうえで。


 自分の生を選ぶ。


 俺は黒い裂け目へ向かった。


 洞窟の奥。


 暗闇の中で。


 二つの大きな目が、ゆっくりと開いた。

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